春を待つ虫─4
場を移された方々と離れて、わたしは従僕のジャンと二人、回廊をいつもの場所へと向かっていました。
セオデンおじいさまと黒翼騎士団は予定外の到着に調整が整わなかった国王陛下と王妃さまとの対談へ向かい、殿下は着替えを強制しに来た侍従の方に引っ張って行かれました。
二老人とも別れて物思いに沈みながら、ふと思い付いたことを後ろの従僕にたずねていました。
「……ジャンは、セディおじいさまが苦手なの?」
「は? なんッスか、いきなり」
「昔から、セディおじいさまがやって来ると、どこかに消えちゃうじゃない。なにか、厳しいことでも言われたの?」
あー、とジャンはひょろりとした背丈で頭を掻き、眠たそうな目をさらに細めました。
「ベルンシュタインの領には相応しくない奴だ、とか思われたんじゃないッスかね。なんか、いやに経歴を問い質されたことがあったッスね」
「ジャンの経歴?」
思わず目をみはると、はあ、と気の抜けた相づちが打たれます。ふしぎな思いでわたしは彼を見返しました。
「ジャンは……だって、お隣のグランサム伯爵家の紹介でうちに来たのでしょう。グランサム領の出身なのじゃないの?」
「そッスね」
やはり気のない返事にわたしはしげしげと付き合いの長い従僕を見やり、ふと思い当たった事実に足を止めていました。思わず真剣な面持ちで、ひょろりとした従僕に向き合います。
「ジャン──」
わたしの様子に、ジャンはいつも通り胡散臭そうに身構えます。わたしはこの従僕がベルンシュタイン領に移動してきた理由に、真剣に向き合っていました。
「──どこの甘味屋で食べ逃げをしたの?」
「はあ!?」
素っ頓狂な声を上げるジャンに、わたしは真面目に問い質しました。
「セディおじいさまがジャンの経歴を気にしていたのなら、なにか、グランサム領にはいられなくなることをしでかしてしまったのでしょう? 今からでも遅くないわ、ジャン。わたしも一緒に謝りに行ってあげる」
「それで、なんでオレが食い逃げしたって犯歴に結び付くんッスか!」
だって、とわたしは至って真剣に事実を告げました。
「ジャンは、甘いものが好きじゃない」
昔から、この従僕はわたしがお茶会に招かれて手土産に持たされたお菓子を、さしてうれしそうな顔も見せずにぺろりと平らげていたのです。──イチオ、毒見ッス、とふしぎな言葉で。
それとも、とわたしは次にとてもありそうな事実を問い質しました。
「仕事をさぼって昼寝していたのを見つかって、首になってしまったの?」
アレクセイさま並の頭痛を覚えた顔で、ジャンはこめかみを押さえました。
「オレの経歴には、食い逃げか解雇かの選択肢しかないんッスか。……だいたいッスね、人の経歴をどうこう言う前に、お嬢はどうなんッスか。オレは覚えてますよ。領地にいた頃、町の本屋を図書館と思い込んで通い詰めて、そこにある本、ほとんど読み倒したことがあったッスよね。あの本屋はお嬢のせいでつぶれたという噂が立ったりなかったり……」
まあ、とわたしもさすがにこれには反論します。
「セバスじいの本屋は、跡を継ぐ者がいなくて閉鎖になってしまったのよ。残っていた本も図書館で買い上げたし……昔ながらの本を取り扱っている、ああいう本屋こそが稀少だったのに」
「その本屋で延々と立ち読みを続けたのは、お嬢ッスよね」
むむ、とわたしはかすかに頬を染めて従僕をにらみ上げます。本屋という存在は知っていましたが、わたし以外の客を見かけない寂れた場所が、古書を取り扱う図書館の別館だと思い込んでいたのは事実です。
人の好い店主の老爺もわたしの好きなように過ごさせてくれましたし、……それが領主の娘であるわたしに対しての遠慮があったのだろう世知は、今になってわかることですが。
フンと鼻を鳴らすジャンにムッとしたわたしは、さらなる反撃に出ました。
「ジャンだって、昔つまみ食いをして侍女頭のセルマにしぼられてたことあったじゃない」
ぎょっとした顔で、ジャンはわたしが予想した以上の反応を返します。
「なに言ってんッスか! あれはお嬢とアルフレッド坊の古代料理再現実験だったじゃないッスか! しかも被害者は自分だけ! オレはセルマさんに『愚か者』と叱られたんッスよ!」
「食べ物で実験なんかしないわ。わたしと兄さまは、ちゃんと料理長にお願いして作ってもらったんだから。腹痛になったのも、ジャンだけよ」
「それは、間違えてつまみ食いしたのが自分だけだったからッスよ! お嬢だってセルマさんに、古代料理は再現禁止って叱られてたじゃないッスか!」
ムッとわたしが押し黙ると、息切れしそうな剣幕で反論していた従僕は、再び疲れたため息を吐きました。
「古代人の胃袋と、現代人の胃を一緒にしないでくださいよ……」
ドングリっぽい実とか小麦っぽい粉とか……っぽいってなんッスか、っぽいって、と嘆く様子はとても悲しげで、この従僕はやはり食べ物にこだわる性質なのだとわたしは理解しました。
そうして再度、ジャンは心の底からのようなため息を吐きだします。
「もうホント……お嬢は人の経歴より、全神経を集中してとあるお方に気を配ったほうが、よっぽど世の中は平穏に満ちて幸せだってなもんッスよ」
そもそも、お嬢の近くにいてあのお方だけ被害に遭わないのっておかしくないッスか、とブツブツ一人つぶやく従僕に、わたしの眸の色も変わりました。
……この従僕はもしかして、オーフェン老の研究会で
わたしは研究員の方々にお伝えしなければ、とじっと従僕の様子をながめていました。
書庫室に入って書物のにおいに惹かれるように歩みだすわたしの背後で、ジャンはあくびと共に寝場所を探しに行きます。
いつものことだと、わたしは一人、目当ての本を探しに先人たちの知識が眠る海に漂い出ました。
静かにひっそりと、知識をたくわえながら、それがひも解かれる時を待っているかのような、静かに凪いだ海。
その中には、世界を奔流の渦に巻き込むかのような大波が眠っているのかも知れなくて……。
想像すると胸がはずんで仕方ない大海を進んで、誘いかけてくる書物の誘惑に動く指先を、自分でもしぜんと口角を上げながら押さえていました。
すると、書棚の角からひそやかな声が聞こえてきます。
「……も、そのように?」
静かな問いに、ええ、と答える声は女性のもので、そのどちらにも聞き覚えがあります。
「……父からの手紙には、緊張がうかがえました。彼の国の密偵の報告がかんばしくないようで、私にも王都を動くなと。……王都を動くな、というのは、我が領に危険が迫っているということでしょうか」
思い詰めたように問う声に、やわらかになだめる声がかけられます。アンナ嬢、と聡い者にはそれとわかる、想いが込められた声で。
やわらかな声は続けて理性的に諭すように話します。
「マルドゥラ国からの使節団は、内海を通って西のケルク港から入国する予定です。イーディア辺境領が神経質になるのは心情的にわかるけれど、過敏になる必要はないですよ」
重ねるように、もう一人の低くて深みのある声が続きました。
「マルドゥラの使節団がやって来るのは、友好の道を探るためだ。辺境伯があなたに王都にとどまるよう伝えてきたのは、娘のあなたの目でそれを見届けてほしいからではないかな」
二人からなだめられて、ようよう、女性の声も騒ぐ胸中を抑えるように返されました。
「……はい。いたずらに騒ぎ立てて、申し訳ありません」
「いや──。アンナ嬢のように、城内にも不安と緊張を抱えている者が多くいるのは、私も理解している。戦の処理以外でマルドゥラから使節団がやって来るのは、今までにないことだからね」
落ち着いた深みのある声は、次いでわたしの知らない事実と、耳にした者へ語りかけるように紡がれました。
「実は、マルドゥラ国から打診があったのは、聖夜の祝宴前からだ。おそらく──という推察でしかないが、狩猟祭の時に友好を探る動きがあったから、春を迎える前に一度、公的に訪問したい意向があちらにもあるのだろう」
ああ、とやわらかな声がそれに同意します。
「そうですね。殿下とエリィの成婚の儀に公的に訪れるのなら、一度繋がりがあるほうが説得力もある。……友好は否むものではありませんが、どうにも、あちらの思惑に都合よく運ばれている感が否めませんね」
クク、と低い声の主はそれに油断のならなさそうな笑いを見せました。
「それを利用して有利な条約を結ぼうと、宰相どのと案を練っているのだろう? 財務室もどこの利権が動くかでどれだけ搾り上げようかと──失敬。税率を上げようかと、算術係が毎日数字とにらめっこと聞く。サウズリンドの王宮もなかなかに曲者ぞろいだな」
だから、と声の主は書棚の角にいたわたしに語りかけてきました。
「きみは、きみの公務に集中しなさい。エリアーナ嬢」
ハッとたじろぐわたしのほうへ注意が向けられる気配に、ばつの悪い思いで進み出ました。
そこにいたのは予想通り、三人の人影です。エリィ、と微笑で手を差し伸べてくれる兄のアルフレッドと、立ち聞きという無作法に不快な様子も見せず、やさしく会釈を返してくれるアンナ・ヘイドン辺境伯令嬢。
そして、この王宮書庫室の責任者である、テオドール王弟殿下。群青色の眸に濃い金褐色の髪の持ち主の、落ち着いた雰囲気とひそむ遊び心が魅力的な、女性に人気の殿方です。
歩み寄って立ち聞きを謝罪するわたしに、テオドールさまは微笑でかるく首をふりました。
「いや、こういうところで話をしていたのは私たちだ。かまわないよ。……エリィが薬学室から引っ張り出されたということは、もしかしてバクラ将軍がご到着されたのかな」
「……はい」
そうか、とつぶやくテオドールさまは、なにかを思案する風情です。わたしが覚えた疑問を口にするより早く、兄のやわらかな笑いが出ました。
「さすがに……クリストファー殿下は、ここぞという時に切り札を使ってくるのが上手いね」
見つめ返したわたしに、兄の灰色の眸がやわらかに笑み返します。
「ベルンシュタイン家は、父が軍部から快く思われていないからね。そこへマルドゥラからの使節団がやって来るとなったら、すわ軍部が勢い付く。この機に父の失脚をもくろんだり……もしかしたら、王太子婚約者のエリィを追い落とす動きに繋がる可能性もある。けれど、軍部にいまだ絶大な影響力を持つセディおじいさまがエリィの後ろ盾に付いているとなると──」
「軍部も下手な手は打てませんね」
感心したようにうなずいたのは、アンナさまでした。
「父も──辺境伯も、殿下とエリアーナさまの成婚の儀には参加する意志表明を出しています。西と東の軍力がお二方を支持し、なにより、サウズリンドの民が支持をしている。……そうですね。クリストファー殿下は、さすがに盤石な態勢を整えられますね」
冷静に状況を分析するアンナさまは、歴史編纂部署に務める文官なだけはあるのでしょう。しかし、今はどこか武力に拠ることで、自身の心に兆した不安を解消しているようにも見受けられました。
アンナさまは続けて、バクラ将軍と旧知の仲とは知りませんでした、と驚きを込めて口にされます。それに兄が気安く、祖父同士が古くからの知り合いなのだと答え、苦笑を浮かべました。
「アンナ嬢のように驚く者が多いだろうね。エリィは王太子婚約者として上がってから、武力に頼らない姿勢を取ってきた。そのエリィの後ろにバクラ将軍がいるとはじめから知られていたら、エリィの主張も頑張りもすべて無意味になる」
武力に拠らない国を守る方法を主張しながら、その後見に武力によって国を守護した将軍がいるのならば、その主張も意義もすべてが意味を為さなくなる。
だから、と兄の言葉は続きます。その手が伸ばされて、考え込んでいたわたしの髪をかき上げ、安心させるあたたかさを伝えてきました。
「殿下はこれまで、軍部から手厳しい批判を受けてもセディおじいさまの名を出さなかったんだと思うよ。……祖父たちとの取り決めのせいもあったろうけど。エリィの後ろ盾はバクラ将軍ではなく、サウズリンドの民だと皆に根付かせるまで、公にはしなかった。その殿下が今、セディおじいさまを呼び寄せたのは、軍部を黙らせる目的以外にも、なにより、エリィに絶対的な護衛を付けたいからだと思う。たぶん──自分がそばにいられない分、なおさらね」
「…………」
言葉に詰まって、わたしも小さくうなずき返しました。わたしはいつでも、殿下に守られている──。
やさしく笑んだ兄がほほ笑ましそうにわたしの頭をなで、アンナさまは失念していたようにその事実を口にしました。
「エリアーナさまは、公務でラルシェン地方へ赴かれるのでしたね」
「はい。公務もありますが……一番の目的は、バーナードさまのお見舞いです。マルドゥラ国の使節団とは、入れ違いになると思います」
友好を口にした張本人であるわたしがその場に立ち会えないことが、わたしの気懸りでもあり、不安の元でもありました。
そこでテオドールさまの静かな苦笑がはさまれます。
「本来なら、バーナードさまの見舞いには王家の人間が赴くのが筋なのにな。王太子婚約者のエリィには、負担をかけるね」
いいえ、とわたしは首をふりました。
バーナードさまは先代国王陛下の弟君にあたり、テオドールさまには叔父、クリストファー殿下には大叔父にあたる方です。先王陛下も王太后さまもすでに身罷られていますので、王家のご存命の方の中では、最高齢にあたる方でした。
テオドールさまのおっしゃる通り、当初はクリストファー殿下が慰問に向かわれる予定だったのですが、マルドゥラ国の使節団を迎えるにあたって、殿下はそちらの対応に、慰問のお役目はわたしへ振られることになりました。
いわば、殿下の名代という立場です。マルドゥラ国の件とはまた別に緊張を覚えるお役目でしたが、胸にある決意とともにテオドールさまへ答えました。
「わたしも、春には王家の一員となる身です。バーナードさまのお見舞いに伺うのは、王家の一員として当然のことだと思っています」
群青色の眸が瞬くと、フッと魅惑的な微笑が浮かびました。
「……女性は瞬く間に、
少しとまどったわたしの前で、テオドールさまの微笑はいつもの人をからかういたずらっぽさを含みます。
「羽化した瞬間を横から奪う楽しみもありそうだが……まあ、一応私も我が身が惜しい」
クスリと小さく笑ったテオドールさまは、次いでエリィ、といつもの親しみやすい言葉遣いでわたしに告げます。
「きみが不在でも、きみが訴えてきた非戦と友好の道は宮廷内に根付きはじめている。この書庫室などには、特にね。きみがクリスの婚約者に上がってから築いてきた、文明国のあるべき姿は、今は私たちの理想でもある。──マルドゥラ国との友好の道は、必ず繋げてみせるよ」
やさしく力強い眼差しと微笑が深くわたしの胸にも沁み入り、あたたかい安心感を与えてくれる兄の手と、うなずくアンナさまの眼差しにはげまされ、わたしも心からの笑みで返すことができました。
この方たちがいれば、サウズリンドの王宮はなにも心配はいらないのだと。