二幕─2
現行犯がお縄にかかる時の気分というのは、こんな感じなのでしょうか。
か弱い
………あら、いけません。
わたしとしたことが、あまりの舞台劇のような展開に思考が現実逃避したようです。つい先日、叔母に延々と読まされた恋愛小説の一場面と重ね合わせてしまいました。意外と毒されていたのでしょうか。
「アイリーン………まさか本当に、エリアーナさまがきみを?」
「わ、私………」
可哀想なほどふるえたアイリーンさまが口を開きかけて、新たな主役が登場しました。いえ、この場合はヒーローと言うべきでしょうか。
「───なんの騒ぎか」
めずらしくどこか苛立った気配をただよわせた、それでも麗々しさは失われないクリストファー殿下のお出ましです。
そのお名前を呼ぶのは、ヒロインと相場が決まっています。
「クリスさま………!」
涙を浮かべて喜色を表わすアイリーンさまとは反対に、わたしの心は冷えて沈みました。
これがたとえ仕組まれた茶番劇だとしても、則って筋書き通りに進めるのがわたしに与えられた役割でしょうか。殿下との取り引きには、これも規約内だったでしょうか。
殿下は冷静にその場の状況を見て取ると、アイリーンさまのそばに片膝を付かれました。
怪我の具合を確かめられる殿下に、アイリーンさまは悲劇のヒロインらしく涙ながらに取りすがっておられます。
そして現状を質す凛々しいお声に、おびえながら意を決したように答えられました。
「わ、私………、クリスさまの、殿下とのことは誤解ですと、ただそうエリアーナさまに申し上げたのです。で、でも、エリアーナさまは私が………私が、すべて悪いのだと。突然、階段から私を突き落とされて………!」
ワッと顔を覆って嘆き悲しまれる様子は、それは痛々しく他者の目に映りました。殿下はそんなアイリーンさまを優しく、いたわるようになぐさめられています。
「アイリーン。誤解だなんて、なぜそんなことを?エリアーナは他にもなにか、きみにしていたのかい?」
「は、はい………。クリスさま。私、ずっと言えなくて」
「もうなにも心配いらないよ。すべての罪を明らかにするために、きみの口から証言してくれるかい?」
涙をこぼしたアイリーンさまの眸とクリストファー殿下のそれが重なり合いました。
涙がこぼれ落ちる軌跡までもが、一枚の絵のようです。
………なんでしょう。背中がぞわぞわします。
わたしは以前にも、こんな殿下を見た覚えがある気がします。
獲物を手に入れる前の、それはきらきらしく、屠る肉食性をきれいに覆い隠した、悪魔のほほ笑みを。
アイリーンさまは、それは切々と訴えられました。
曰く。後宮に行儀見習いとして上がってからのそれは辛い日々。下級貴族と罵られ、下女のような扱いを受けたり食事を抜かれたり、はては馬小屋に寝床を追いやられ、下級兵士に乱暴されそうになって危うく難を逃れたこと。
それらのすべては、後宮の将来の主であるエリアーナ侯爵令嬢の指図であったこと。
「そ、それに………」
グレンさまやアレクセイさま、クリストファー殿下と知り合うようになってから、さらに嫌がらせがひどくなったこと。
「───エリアーナさまに庭園の薔薇が欲しいと言われて行きましたら、放水の日で水浸しになった私を笑われたり、頼まれた本を借りに行った書庫室では梯子に細工がされてあったようで、危うく転げ落ちるところをテオドールさまに救われたり………。先日はエリアーナさまからの差し入れのお菓子に、む、虫が………!」
はて。「虫かぶり姫」のわたしはずいぶんと行動的だったようです。それに、前半はともかく、後半はなんだか聞き覚えのあるお話です。
一人考え込むわたしの前で、延々と続きそうな嫌がらせのオンパレードを殿下が労わりの声で止められていました。
「それは大変だったね、アイリーン」
なぐさめながら、それで、とやさしくうながされます。
「きみは思いあまって、エリアーナに直談判を?」
「は、はい。でもまさか、私を突き落とされるなんて………!」
「うん。確かに、エリィがきみを突き落としたんだね?」
「はい!間違いありませ……………」
ようやく殿下からわたしのほうを糾弾するように見上げられたアイリーンさまの眸が、これでもかと見開き絶句されました。
………申し訳ありません。せっかくの一世一大の舞台を喜劇にしてしまったようです。令嬢らしからぬ光景も謝罪いたしましょう。
観客の皆さま、世の令嬢すべてがこの腕力なわけではございません。
わたしの両腕には、大人の親指ほども太さがある本が五冊ずつ抱えられ、本を落とさぬ歯止めのように両手の先に大きな地図の巻物が二巻、一番上には紙の書類束と羊皮紙の書簡が絶妙なバランスで乗っています。
平均身長のわたしですが、それでもようやく顔の上半分がのぞく程度です。書庫整理で鍛えた腕力は先から小揺るぎもしていませんが、それでも人一人を突き落とそうとなると、これを崩さずに成し遂げるのは至難の技です。
………わたしはあいにくと、軽業師に弟子入りした覚えはないのですが。
クリストファー殿下は小さく、慣れたため息をつかれました。
それにわたしはちょっと、ビクリとします。叔母や家人からも嘆かれるため息です。『お願いですから、外見に反した腕力を見せつけるのはおやめ下さい』と。
しかし、書物のためなら、なよなよした腕力は不要なのです。時には本数冊を抱えて梯子を登る膂力が書物好きには求められるのですから。
立ち上がられた殿下は「あ、あの、クリスさま……」とすがるようなお声のアイリーンさまをふりかえることもなく、その場から足を踏み出しました。
無言で周囲を圧する足取りで階上へ上がって来られると、わたしの腕から太い地図の巻物二つと本を半分取り上げられます。
わたしが断る隙もありません。小脇に抱えられる程度なのは殿方ならではでしょうが、なにやら不機嫌そうにぶつぶつとつぶやかれています。
「アレクのやつ……まったく。加減しろといつもあれほど」
「クリスさま………!信じて下さい。本当にエリアーナさまがわたしを突き落とされたのです。それに、いままでの嫌がらせの数々も………!どうか公明正大なご判断を、殿下!」
ヒロイン役に酔っていたアイリーンさまですが、周囲の白々しい空気にようやく気が付かれたようで、涙ながらに訴えられました。
殿下は静かにその訴えに耳を傾けられます。
「そう。ではまず、実際にその現場を目撃した者はいるか?」
「アランが………!」
起死回生のチャンス、とばかりにアイリーンさまに目を向けられた蜂蜜色の青年は、にこりと無垢な笑みを返しました。
「はい。アイリーン・パルカス令嬢が階段から転がり落ちるところを目撃しました」
「エリアーナに突き落とされたという事実は?」
「うーん。まあ、だれが見ても不可能ですね。あれだけの本を抱えていたんじゃ。ボクも楽器を演奏しながら人を突き落とす曲芸は持ち合わせていませんねえ」
それに顔を真っ赤にして睨みつけたのは、アイリーンさまでした。
「アラン、あなた………!」
それに対して青年はやわらかな微笑で返しています。
「たとえボクの証言があっても、一目瞭然でしょう。それに、宮廷楽師の耳から付け加えさせてもらうなら、アイリーン嬢の悲鳴が上がった後に、転がり落ちる音がした。───すごいね。まるで襲われるのがわかっていたみたいだ」
サッと、アイリーンさまの面から血の気が引きました。
アラン青年はそれに少し物足りなさそうな表情を見せます。まるで、もう終わり?とでも言うように。
かるく肩をすくめると、背後の野次馬の方へ注意をうながしました。
「最後はちょっとお粗末だったね、アイリーン。きみは賢く立ち回っていたつもりかも知れないけれど、すべて殿下達の手のひらの上だったよ。特に今日、決定打を狙ったのは父子共々、破滅への行進曲だったね」
野次馬が割れた先にいたのは、背の低い小太りの中年男性でした。
貴族の出らしい身形にも関わらず顔色を失くし自失状態のようなのは、兵士に拘束されているからでしょうか。
アイリーンさまが驚きの声で叫ばれます。
「お父さま………!?」と。
わたしの隣から、それはにこやかな、けれど底冷えのするお声が響き渡りました。
「───では、終幕といこうか」