春を待つ虫─2
「ひどい目に遭ったッス……」
顔色悪くお腹をさすって愚痴る従僕を背後に、わたしとオーフェン老、ハーヴェイ医師は飛び込んで来た近衛騎士に連れられて、薬学研究室を後にしていました。
クリストファー殿下付きの近衛隊の副隊長である彼とはわたしも顔見知りでしたが、お名前を思い出そうとする前に、
「──ザックです。すみません。自分の名前は後回しでいいので……エリアーナさま。非礼は承知ですが、ご足労いただけないでしょうか」
急き立てられる気配に瞬くと、三賢者のご老人がそれぞれの口調で理由を問い質し、事態が判明しました。
どうやら──わたしの公務にも関わりある人物が予定よりも早く到着し、その方の性質もあって彼ら近衛隊が駆り出されているようです。
それは理解できましたが、なぜわたしが……? と首をかしげると、ザック副隊長はなにやら真剣に懇願の目を向けてきました。
「エリアーナさまが観戦していただければ、まだ我が隊に降りかかる被害は少ないかと思います。どうか、お願いします」
はあ、と半ば押し切られる形でわたしが腰を上げると、三賢者の方々が同様に席を立ちます。訪れた方とは古馴染みだとわたしに続こうとして、研究員たちに引き留められたナイジェル老を残し、王宮内をさらに外れの方へ向かっていました。
中心部から離れていくほどに、冬の冷気が身体に忍び込んでくるようです。朝は小雪がチラつく程度だった空模様も、昼を過ぎて吹雪くような天候に様変わりしていました。
そのため、王宮内の開放されている社交場へ出入りする貴婦人の姿も今日はなく、主にお役所勤めの方がちらほらと見受けられるのみです。貴婦人やご令嬢たちの華やかさは暖気も感じるものなのだと、あらためて思い知らされました。
そんな回廊を進みながらもれる従僕の不平に、四年の間に顔見知りになっているハーヴェイ医師が笑いながら声を投げます。
「薬学室で出されるものはめったやたらと口にしてはならんと、おまえさんなら知っているだろうに」
「……お嬢が関わってなければ平気だと思ったんッスよ……」
「おまえさんも存外、見通しが甘いな。ちなみに、身体に変調を来したら私にも教えろよ。加齢による衰えとの比較をしたい」
「……なんで、当たり前のように実験体扱いされてるんッスか。人の人権をなんだと思って……」
なおも不平を言いつのるジャンに、わたしは衣服の隠しを探って、兄から渡されている飴玉をひとつ渡しました。
怪しむようにそれを見たジャンですが、受け取って慎重ににおいと味を確かめ、口に放った後はやっと静かになりました。
小さな頃から、兄から読書の合間に口にしなさいと渡されている甘味ですが、甘いものが苦手なわたしは自分の口に入れるよりも、もっぱらブツブツとうるさい従僕の口をふさぐために使用している気がします。
静かになったそこで、わたしは先ほど聞きそびれてしまった問いをオーフェン老にたずねました。
「ナイジェル薬室長のお弟子さんに、かつて禁忌に触れかけた方がいたのですか……?」
好々爺の面を探究心で彩る眸が、ふと沈痛な様で翳りました。そうさのう……と白髯をなでる様子にはためらう色もあります。
「エリアーナ嬢はまだご存知ないか……。現国王陛下の即位にまつわる忌み事でもあるしのう。まあ……追々とわかるじゃろう」
わたしも少し胸を突かれてしまいました。回廊を歩みながら聞く話ではなかったかも知れません。
オーフェン老は静かな微笑で障りのない事実を教えてくれます。
二十年近く昔に、才能豊かに向上心にあふれた若者が王宮薬学研究室に在籍していたのだと。そして、その才気煥発な若者をナイジェル薬室長はことに目をかけていたのだと。
しかし──。
「才走った若さゆえか、野心あふれる好奇心ゆえか。次第に現行の薬草学では知識欲が抑えきれなかったようで、『ヒューリアの壺』の魅力にとり憑かれるようになった。……万能の薬。それを証明するために必要なものはなんだと思うかの?」
わたしは小さく息を呑みました。想像してしまったおそろしさに少しふるえて。
「……毒物、ですか。解毒薬の存在しない猛毒、とか……」
オーフェン老の朗らかな面が痛ましい色を帯びました。
「王宮薬学室は、王族の身を守るためにあらゆる毒に精通していなければならぬ面もある。だが……あの者は、守らなければならぬ一線を越えてしまったと聞く。人体で、それを試そうとしたのだと」
まさか、という言葉は出ませんでした。毒物を使った事件は、史実にも実際にある出来事です。それが、ナイジェル薬室長のお弟子さんだったという事実が、わたしにも痛ましく思われました。
「その方は、どうなったのですか……?」
「──死罪じゃ。関わってしまった事件が事件だったしのう」
予想していた中で最悪の結果を聞き、わたしは息を詰めて少し瞑目しました。
その方とナイジェル薬室長、当時の関わった人々の心情を思って。
黙って聞いていたハーヴェイ医師が、当時を思い出すような口調で言葉を紡ぎます。
「私は話にしか聞いたことがなかったが──その者が道を踏み外さなかったら、その後に起こった“灰色の悪夢”の治療薬は完成を見ていたやも知れぬ……と、そう言われるほど、才ある若者だったそうだな。当時、すでに薬草学の第一人者に数えられていたナイジェルの才を凌ぐやも、と噂されたとかなんとか」
オーフェン老があっさりその言葉を否定します。
「歴史にたらればや、かもしかを言い出したらきりがないわい。それこそ、エリアーナ嬢が先に口にしたように、道を踏み外さなかった者たちが築いた今の薬学研究室を否定することにも繋がりかけん」
ああ、とわかっているように苦い笑みを刻むハーヴェイ医師は、それでも、話に聞いた人の才を惜しむ様子が見て取れました。
オーフェン老の眸が、のう、エリアーナ嬢、と静かにわたしに向かいます。いつの間にか足を止めていた冷たい回廊で、真摯な眼差しがわたしの胸に重石をかけるようでした。
「弟子が道を踏み外し、師よりも先に逝くことほど、年寄りに堪えるものはない。そなたは自身で口にしたように、大切なものを見抜く目がある。……そなたが己を見失わないよう、ナイジェルを悲しませることがないよう、わしも陰ながら祈っておるよ」
歳を経た者だけが持つ老成した深みと、その中で友人を思う心がありました。
未熟なわたしにその思いを受け止める覚悟があるかのかどうか──。迷いはありましたが、向けられた思いから逃げることはできませんでした。
はい、とわたしが心に刻む思いで受け止めると、オーフェン老の眸がなごみ、ハーヴェイ医師からは明るい笑いがもれました。
「エリアーナ嬢がナイジェルの弟子より私の弟子についていれば、今とは違う未来があったかも知れぬのにな。まったく、惜しいことをしたものだ」
「お主の弟子についていたら、サウズリンドの王宮は今頃、桃色魔宮と化しているじゃろうて」
ホッホッホと笑うオーフェン老と、それもまた悪くないぞ、と夢想するハーヴェイ医師との合間に、悲壮な声が割って入りました。
「……すみません。桃色魔宮の前に、
これまた切羽詰まった形相の、ザック副隊長でした。
~・~・~・~・~
そこに近付くにつれ、もれる歓声と活気がわたしにもわかりました。
王宮の最外れに位置する、屋内演習場です。雨天や今日のような天候の日に、近衛隊や軍部所属の方々が鍛錬の場に使う場所として知られていました。
その入口に踏み込むと──ワッ、と歓声と熱気が
実は、屋内演習場に足を踏み入れたのは、はじめてのことです。野外演習場ならば社交の付き合いで訪れたことはありますが、今日のような天候の日に赴くことは稀でした。
舞踏会場のそれより一回りは狭い空間でしょうか。舞踏会のその時にも劣らない人いきれと熱気で、息も詰まる様相です。
それもそのはず。
そのほとんどが、剣をふるって戦うことを身上とした男性たちで占められており、彼らが夢中になって観戦する熱量が、場内いっぱいにあふれていました。
その後ろを、ザック副隊長にうながされてわたしは回り込みます。圧倒されたままの耳にも女性の声が混じって届き、どうやら、王宮務めの侍女たちが詰めかけているようです。王宮内がいやに閑散として見えた理由も悟りました。
雰囲気に呑まれたまま目を上げると、わたしたちに気付いた侍女の一人が顔を輝かせてかけよってきます。
「──エリィ姉さま!」
口にしたのと同時に、パチンと音が出そうな様で口元を覆いました。王宮の侍女職に就いてまだ日も浅い、従妹のリリアです。
サウズリンド王宮の三賢者と呼ばれる二老人の面白そうな視線に合って、職分を改めるように急いだお辞儀をし、次にはわたしを引っ張って元の人の壁に割り込みます。
「もう! どちらにいらっしゃったの? 皆でお探ししていたのよ。書庫室とか殿下の執務室とか……姉さまが観戦したら、殿下もきっと張り切ること間違いないわよ!」
はしゃいだ声には興奮が隠しきれず、言葉遣いも抑えようとして抑えきれていないのが明らかでした。
わけがわからず、リリアに押しだされるまま、わたしは最前列へまろび出ます。瞬間でした。
視界が開けるのと同時に、一際大きな歓声が上がりました。
そこにいたのは、金色の王子さまです。
吹雪いた天候のために昼下がりでも灯りが灯された屋内で、まばゆいほどの金色の髪が灯りをはじきます。
麗しく整った顔立ち。ふだんのきらきらしさとは一線を画した、強く覇気ある微笑。
倒れた人影を前に少し息を上げた様子が、上着を脱いだ軽装の胸元からもわかります。
模擬戦用の刃をつぶした剣を片手に、少し着崩した完璧らしからぬ身なりでも、気品高く華やかさを失わない立ち姿。
目にした者に圧倒的な存在感で焼き付く、類い稀なその人──。
一本! と審判役の声が勝敗を告げるのに続いて、その方の名を呼びます。
「──クリストファー殿下!」
再度、大きな歓声が上がりました。
その声につられて顔を上げた殿下が、あざやかな、晴れ渡った青空色の眸を輝かせます。
サウズリンド王国が誇る、輝かしい未来を嘱望された王太子殿下でした。
誇らしげな色を浮かべた笑顔が、青年らしい凛々しさとたくましさをのぞかせ、わたしの鼓動も跳ね上げました。
リリアのはしゃいだ声と手がわたしを脇から揺さぶります。
「三人目よ! 三人勝ち抜き! クリストファー殿下、すごいわ! 黒翼騎士団を三人立て続けに打ち負かすなんて……!」
リリアの言葉には、殿下がこれほど武芸に秀でていたなんて、と言外な声が聞こえます。
観戦していた人々も同様の思いだったのでしょう。平時の模擬戦であるにも関わらず、皆の熱狂ぶりがリリアと同じ思いを物語っているようにも感じました。
──クリストファー・セルカーク・アッシェラルド殿下。
サウズリンド王国第一王位継承者。サウズリンド第二の中興の祖と云われる、英雄王の直系の血を受け継ぐ王太子殿下です。
殿下はふだん、年に二回行われる武闘大会にも参加することなく主賓席で観戦するのみでしたので、剣技に秀でているという認識はさほどありません。それはもちろん──、他者に隙を見せないお方ですので、剣技に劣っているなどという評判が立つことはなく、近衛騎士にも劣らない腕前だということは知れ渡っていましたが──。
それでも、今この時、あらわにしてはいなかった剣技を見せられた理由。
それは……。
模擬用の剣をふるって、不敵なほどの笑みを見せられた殿下の前に、次の対戦相手が進み出ました。
きゃあ、とはしゃいだリリアが「四人目!」と口にした通り、彼女が殿下の腕前を比した騎士団の一人が、続けて相手になるようです。
進み出た方は、二十代半ばと見られるやさしげな顔立ちの方でした。
明るい日だまりのような茶色の髪が騎士団の名を表わす黒い隊服に少し異色に映り、すらりとした体躯とやわらかい雰囲気が、騎士というよりも良家の令息といった様子です。
しかし、その青年が現われたとたん、殿下の秀麗なお顔がわずかにしかめられました。
歓声の中では聞こえませんが、殿下の口元が嫌そうになにかをつぶやいており、それに対して青年が明るく答えています。
どうやら、お二人は知り合いのようです。
どなただろうと思いめぐらせるわたしを、やはり横から揺さぶる手がありました。
「やだ、どうしよう、姉さま! 私、ちょっと好みかも。やだ、どちらを応援したらいいの……!?」
……好きに応援してよいと思います。
それよりも、先からわたしを揺さぶる手を止めてはもらえないでしょうか。さながら、わたしは陸上にいながら船酔いの気分を味わう人の心地です。
視界が揺れるままのわたしの前で、開始の声とともに、次の試合がはじまりました。