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お邪魔虫─11

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 シャロンさまは静かにわたしの話を聞いていました。そこへ、「──失礼」とアレクセイさまの冷静な声が割って入ります。


「エリアーナ嬢のお考えは理解していたのですが。それで、コルバ村の貝殻に目を付けられた理由をお伺いしてもよろしいですか」


 あれは、とわたしは少し頬が赤くなるのを感じました。偉そうなことを述べたわりに、目を付けたのは好奇心が発端のものでした。


「その……古文書の清書を手伝っていた時に、アルス大陸で使われていたインクと、『東方見聞書』で読んだ墨との違いに気付きまして……」


 ふしぎそうな顔の殿下をちらりと見て、わたしは思い返していました。



 以前、殿下に墨と筆という東方渡りの筆記具をお渡ししたことがありました。使いやすさから貴族間で広まったのですが、庶民には手の届かない高級品です。

 それというのも、墨というインクがサウズリンドで普及している安い紙質に合わないのが原因でした。


 それも好奇心にかられて調べたりもしたのですが……、わたしが目を留めたのは、サウズリンドにある古文書のほうでした。


「何百年も昔の古文書も、時が経てばインクが色褪せてきます。けれど、墨というインクは千年昔の古文書でも墨痕(ぼっこん)あざやかに残るのだと、『東方見聞書』で知りました。父がやはり好奇心から東方の古文書を手に入れたので、間違いはありません。それで……なにが違うのだろうと、サウズリンドの古文書のインクを再現してみたのです」

「それで……貝殻?」


 やはりふしぎそうな殿下のお声に、わたしはうなずきました。


「今は植物性や動物性から作られるインクが主流ですが、先史時代は壁画にその時代の信仰や生活様式が記され、その際使用された顔料は貝殻から作られたものでした。今でもそれらは色あざやかに残っているのだと、兄から聞いています。

 古文書に使用されていたものも同じなのに、こちらは色褪せてきています。やはり原料と紙質の問題のようですが……古文書のほうはどうやら、後世の人が上から文字を書きなぞってきたようで……その時々、書きなぞった方のクセや好みが見えてとても面白く、とある方はいやに頭皮の薄さ対策に熱心だったり、またある方は目に見えない霊的な分野に熱心な様が見えたり、またある方は、アレクセイさまのような巧言令色のない文章に興奮する性質らしく、どうもその名残が古文書のあちらこちらに──あ」


 違う話に流れていたことに気付いて、古文書の筆跡鑑定に夢中になっていた口元を、わたしは押さえました。


 戸口付近のアレクセイさまは真顔ですが、いつの間にか扉に寄り添って今にもその向こうへ身をひるがえしそうです。殿下から、笑いをこらえた話の軌道修正が出ました。


「それで、コルバ村のミルル貝に目を留めたの?」

「ええと……はい。ミルル貝の顔料はノルン国のトッティ洞窟壁画にも使用されていたと、兄から聞きました。ですが……紙に落としてみると、とても薄くて文字を書くのに適していません。重ねていくとあざやかな色になったりもするのですが、……今のところ、絵画以外の用途は見つかっていません……」


 インクとしては不十分な代物です。なにか特産になるものを、と意識して注目しても、シャロンさまに言った通り、そう簡単にはいかないのが現実でした。

 殿下は少し考え深げに、いや、とつぶやきます。


「その話、母上の前でもした?」

「え……はい」


 コルバ村やアズール地方を気にかけていたのはアンリエッタさまも同様でしたので、サラから話を聞いたり、わたしが出来上がった試作品の結果をお話する相手は、アンリエッタ王妃さまでした。

 殿下はやはり面白そうに意味深な微笑を浮かべています。


「エリィが見つけたインクはたぶん、とても画期的なものになるよ。まあ……それは聖夜の祝宴でのお楽しみだけれど。それで──シャロン嬢。ご理解いただけたかな」


 ふいに、殿下は話の向きをシャロンさまへ戻されました。

 すっかり涙の乾いた様子でやり取りを聞いていたシャロンさまが、クリストファー殿下のきらきらしい微笑に瞬きます。殿下はにっこり、女性を魅了してやまない笑顔で返されました。


「四年の間に、エリィは“灰色の悪夢”の治療薬研究を推進し、貧しい土地を豊かにする方法を探し求めた。その他にも色々とあるけれどね。王太子婚約者の肩書がなくとも、彼女は別の方法で何らかの行動を取ったと思うよ。だからこそ、サウズリンドの民は彼女を支持する。──ひいき目抜きにしても、エリアーナとミレーユ殿との違いは明らかだと思うがね」


 ……持ち上げすぎではないでしょうか、殿下。

 でも、と今度は違う反論で、シャロンさまが勝ち気な口ぶりを取り戻していました。



「ではなぜ、『ユールの恋人』はクリストファー殿下とミレーユ姉さまの恋物語だと広まったのですか? 火のないところに煙は立たず、とも申します。エリアーナさまが虫かぶりだけではない方なのは理解したけれど、クリストファー殿下とミレーユ姉さまが幼い頃から想い合われていたのは、事実なのではないですか? だから、物語にまでなったのではないですか」


 ……確かに、シャロンさまのおっしゃることにも一理あります。


 今度はわたしが静かに殿下に視線を送ると、エリィ、と苦々しそうなお声とため息がもれました。そして、いつの間にか室内に戻られていたグレンさまをうながして、手渡されたものを卓上に置きます。


 一通の手紙でした。

 殿下が口を開かれる前に、まあ、と喜色に声をはずませたシャロンさまが両手を打ち合わせました。


「この筆跡、ミレーユ姉さまのだわ。やっぱり、お二人は今でも親密なやり取りをされていらっしゃったのね。だって、ユールの恋人だもの!」


 ……わたくし、そろそろ失礼してもよろしいでしょうか。


「エリィ! なんで腰を上げようとしているの。これはほんとうに、そういうのではないから!」


 戸口のほうからはアランさまとグレンさまのつぶやきが交わされていました。


「観念して浮気をゲロった旦那みたいだね」

「動かぬ証拠もあるしな」


 殿下の青い眸が鋭利な様で戸口へ向けられます。


「グレン。おまえやはり、ミゼラルに永住したいんだな。わかった。後できっちり手続きをとってやるから、待っていろ」


 なんで俺だけ!? と叫ぶグレンさまや、はしゃいだ声を上げるシャロンさま──と、わたしの部屋はまたも混沌とした様相を見せはじめました。


 かるく息をついたわたしとエレンさまの仕草が重なります。

 エレンさまの微笑がやさしく向けられて、わたしがそれに笑み返すと、苛立ったような殿下の咳払いが室内を制しました。


「ともかく。シャロン嬢。ミゼラル公国内で流行っているその恋物語だが──、私は裏があると見ている」

「裏──?」


 思いがけないことを言われたようにシャロンさまは瞬きます。クリストファー殿下は少し、辛辣そうな色をのぞかせてうなずきました。


「きみはおかしいと思わなかった? 女性が好みそうな恋物語にしても、あまりにミゼラル公国に有利な内容だ。それに──きみが口にしていただろう? 先の大公殿下が亡くなられて、ミレーユ殿は力のある側室と公爵家に冷遇されてきた。ミレーユ殿が先の大公殿下の末娘で、一番溺愛されていたのは、“真珠姫”と称される民の人気からも推して知れる。ミレーユ殿を冷遇していた公爵家は、半年前の海難事故が原因で国益にも損害を出したと聞く。今、(くだん)の公爵家はなんとか損害を埋めようと──失墜した名誉を挽回しようと、必死なようだね」

「それが……」


 なにか、と続けようとしたシャロンさまは、次いでハッと聡く顔色を変えました。殿下はあまり、熱を感じさせない口調で続けます。


「国益になると思えば、ミレーユ殿の人気に目を付けて、それを利用しようと考えてもおかしくはないね」


 なるほど、とわたしもその可能性に気付きました。


 冷遇し、大公家から嫁がせた後でも、サウズリンドの王太子の側室として挙げれば、国益に繋がります。元からミゼラル国民に人気があり、殿下の幼馴染でもあるミレーユさまなら、再度利用価値がある、と見なされてもおかしくありません。


 しかし──サウズリンドには、正式に成婚の日取りの決まった、わたしという婚約者がいます。

 一度嫁がれたミレーユさまゆえに、国として側室の打診をするのは分が悪い。そのために、恋物語で評判を作り、サウズリンドにも無視できぬようにしたと、そういうことでしょうか。


 殿下の眼差しは、ミレーユさまを側室として挙げることは、彼女を利用しようとする者たちに加担する行為だ、とシャロンさまに突き付けているようでした。

 シャロンさまの顔からは血の気が引き、ふるえながら、おそろしい想像を口にされました。


「……まさか、ラモンド伯爵が亡くなったのって……事故じゃ、なくて」


 確かに、殿下の予測はミレーユさまが寡婦でなければ成り立たないものです。

 思わずわたしも眉をひそめましたが、さて、と殿下の口ぶりは変わらず、あまり興味を惹かれるものではありませんでした。


「私もそこまでは調べがついていないし、あくまでこれは予測のひとつであって、確たる証拠があるわけでもない。だが──、可能性として考えられないことではないね」

「そんな……」


 愕然と力の抜けたシャロンさまの眸が卓上に止まり、とたんに輝きを取り戻します。


「じゃあ、ミレーユ姉さまはクリストファー殿下にたすけを求められたのではないですか? その手紙って、そういうことでしょう!?」

「残念ながら──」


 殿下は手を伸ばして手紙の中身を取り出すと、わたしにも見えるように卓上に広げてみせました。


「そんなに可愛らしいものではないね。私がミゼラル国内で探りを入れていたところ、同じく、独自に調査されていたミレーユ殿が気付かれたようだ。内容は、互いの情報を開示する取り引きと──ミゼラル国内の問題は自分たちで始末をつけるから、一切の手出し無用──と、まあ、なかなかに勇ましい内容だね」


 シャロンさまは勢い込んで許可された手紙に目を走らせました。

 殿下はにこやかな笑顔で少々意地の悪いことを付け足されます。


「ミレーユ殿は同時に、自分の可愛がっている妹同然の者が多少迷惑をかけるかも知れないが、子どもの夢物語なので寛大な心を期待する、──という旨と、私の初恋相手である、ベルンシュタイン侯爵令嬢との成婚を心から祝う、といった言葉で締めくくられているね」


 今度こそ声なく、シャロンさまは目標を見失ってしまったように、脱力しました。その眸に涙の膜が張りかけて、エレンさまの静かなため息と口が開かれます。



「申し訳ありません。シャロンさまに代わって、私エレン・ウェンハムがお詫びを申し上げます」


 ていねいに一礼した後、ためらうように続けられました。


「言い訳になるのは承知の上で申し上げますが……ガードウェン家は武門の家柄です。私も親族の一人ですが、あの家で女性の立場はとても弱い。シャロンさまの母君もお身体が丈夫な性質ではなく、小さな頃からシャロンさまの世話を焼いて面倒を見てきたのは、ミレーユさまなのです。ゆえに……少々行き過ぎた言動があったことと思いますが、なにとぞ、寛大な心でお目こぼしをいただければ幸いにございます」


 女性らしい情に訴える思いと、騎士らしい潔さがありました。シャロンさまの根底にあったのは、母親に対する思慕と同じものだと、エレンさまはそうおっしゃりたいようです。

 隣の殿下がやはり辛辣な空気をまとって、わたしの口からはポロリと別の言葉がもれていました。


「──“子豚のえくぼ”ですね」


 一拍置いて、は? と若葉色の眸や部屋中の視線が集まったのがわかりました。

 わたしは今までの会話から思い浮かんだ、ひとつの物語を話しました。アズール地方にある寓話のひとつです、と。




 昔々──。


 親のいない子豚のルゥは、周囲から親の偉大さを聞かされて育ってきました。

 おまえの父親は、それは偉大な豚だった。おまえの母親は、それは立派な豚だった。それに比べて、おまえは貧相でとても美味しそうには見えないし、高く売れるとも思えない。エサ代がかかるばかりだから、その内処分されてしまうだろう──。


 そう言われても、ルゥは育った小屋を離れませんでした。

 それと言うのも、自分を育ててくれた小屋の少女がとてもやさしくて、ルゥと同じ、親がいなくてかわいそうな子どもだったからです。

 少女はルゥに言います。


『ルゥがわたしの、たった一人の友だち。ずっとずっと、一緒にいてね』


 親のいないルゥと少女は、とても似ていて、とてもさみしい者同士でした。

 ところがある日、少女がいやに興奮して村に戻ってくると、ルゥに話しかけました。


『ルゥ──ルゥ、聞いて。わたし、恋をしたの。相手は領主さまのご子息よ。とても親切で、とても素敵な方なの』

 どうにかして、あの方の目に止まることができないかしら──。


 そう願う少女の思いを聞いた子豚のルゥは、なんとか少女の力になれないかと、懸命に考えました。そしてルゥはひらめきました。


 自分が村一番の豚になって、美味しそうな豚になって、領主さまの目に止まればいい。ボクにならできるはず。

 だってボクには、偉大な父親がいて、立派な母親がいたんだから。


 そうして子豚のルゥは、村一番の豚になるための特訓をはじめました。

 すべては、笑うとえくぼのできる少女の喜ぶ顔が見たかったからです──。




「あ、その話知ってる」


 挟まれた声はアランさまのものでした。人差し指でリズムを取るように歌う口ぶりです。


「童謡にもなってるんだよ。──わたしの可愛い子豚。おまえの父親は偉大で、母親は立派だった。だからおまえもきっと美味しい豚になる。たくさんエサをお食べ。わたしの可愛い子豚。ずっとずっと一緒にいてね──って歌詞で、三番まで続くんだ」

「で、子豚はどうなるんだ?」


 好奇心をのぞかせるグレンさまに、アレクセイさまのため息が続きます。


「豚なんだから食べられて終わりでしょう。寓話というからには教訓がありますね。少女のためにと頑張ったはずが結局あだになる、とかそんなオチでしょう。まあ、今回の件と似ていますね」

「アレクは情緒がないなあ。この童話はさ、少女と子豚の成長物語なんだよ。ひっしに頑張る子豚が可愛いんだって」

「で、結局のところ、子豚はどうなるんだ」


 子豚論戦がはじまる一方で、殿下からは慣れきったため息がもれました。


「ともかく──。今回の件は子豚と──いや違う。シャロン嬢と、ミレーユ殿との行き違いに原因があると思うね。その手紙からは、ミレーユ殿が嫁いだ先の相手を今も深く想っていることが伝わる。相手のためを思っての行動が、すべて良い結果を生むわけじゃない。……今回は私も、身につまされた。子豚に免じて不問に処すよ」


 エレンさまはホッとした様子で礼を述べると、ていねいに一礼して、ぼうぜんとしたままのシャロンさまを抱えました。そして再度、戸口で頭を下げて室内を後にして行きます。

 扉が閉まった後で、ハッと我に返ったようなシャロンさまの、元気のよい叫びが聞こえました。


「だれが、子豚だって言うのよぉーっ!」


 わたしは、自分が口にした話が思わぬ流れになったことに目をしばたたき、同時に、シャロンさまと共に目の前から消えてしまった書物にとても悲しい思いでした。

 隣の殿下からは、短時間で疲れきったため息がもれ聞こえます。金の髪をかき上げる仕草と共に、疲弊の色でつぶやかれました。


「──とんだ子豚旋風だ」と。





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