お邪魔虫─10
長くなったので、分けました。(1/2)
王宮内のわたしの部屋には、お馴染みの顔ぶれがそろっています。
応接室のわたしの隣に腰掛けたクリストファー殿下は、にこやかな笑顔でいながら、眸が笑っていません。
その殿下の視界に入るのを避けるように、戸口付近に側近のお三方が、ある人は面白そうに、ある人は逃げ出しそうに、またある人は冷然とした様でたたずんでいました。
わたしと殿下の対面に腰掛けているのは、少し憮然とした面持ちのシャロンさまです。その後ろに控えたエレンさまが、申し訳なさそうな微苦笑を浮かべていました。
どうやら、シャロンさまは聖夜の祝宴が迫っているのに捕まらないわたしに業を煮やし、グレンさまを押し立てて乗り込んで来られたようです。アランさまやアレクセイさまは、そのグレンさまに半ば強引に引きずられてきたようでした。
犠牲は分かち合ってこそ真の友情だ──と、よくわからないことを口にされていましたが。
ええと、とわたしは会話の糸口に困って少し首をかしげます。
シャロンさまは先日のようにわたしと二人だけの対談を申し込まれたのですが、クリストファー殿下が、『自分は必要以上口を挟まず、傍観者に徹するから』と強引に同席されたために、シャロンさまも少々気分を害されているようです。
大人びた対応より、そういった表情のほうが年相応でほほ笑ましいと、わたしはたずねました。
「それで……シャロンさま。わたしにお話があるというのは、なんでしょうか」
若葉色の眸が、キッと勝ち気に上がりました。幾分、ためらうような沈黙もありましたが、──いいわ、とつぶやくお声は覚悟を決めた様子がうかがえます。
「エリアーナさま。クリストファー殿下のパートナーを私に代わってください」
ピクリ、と隣の殿下が身動ぎした気配がありますが、沈黙を保っています。
先日と同じ意志を、当の本人を前にしても変わらず口にされたシャロンさまに、わたしは内心感嘆を覚えていました。この小さな少女をそこまで駆り立てるものはなんだろう、と。
すると、シャロンさまは自信ありげに面を輝かせます。手荷物から、おもむろに何かを取り出しました。
「ただで、とは言わないわ。殿下のパートナーを代わってくださるのなら、お礼にこちらを貸し出しします」
「それは……」
シャロンさまが卓に差し出したのは、年季の入った一冊の本でした。
題名などはなく、事典ほどの厚みがあるそれは、どうやら日誌のようです。同時に、差し出してきたシャロンさまの家柄、と思い至ったわたしは、震撼と身震いする思いでした。
「……まさか」
ええ、とシャロンさまはにっこり満面の笑みです。
「エリアーナさまなら、きっと気付いてくださると思っていたわ。そう──。これは、海洋王とも称された先の大公殿下に仕え、その繁栄を卓越した航海術で支えた、ヴィーゴ船長直筆の、航海日誌よ」
わたしは鋭く、息を呑みました。
シャロンさまのご実家、ガードウェン家はミゼラル公国の将軍を排出した武門の家柄ですが、一人、他国にも広く名の知れ渡った方がいらっしゃいます。
それが、ヴィーゴ・ガードウェン卿。
シャロンさまのおっしゃった通り、先のミゼラル大公が海洋王とも称される切っ掛けになった、今までだれも成し遂げられなかった東方航路を制覇した方です。その方の、直筆の航海日誌。
彼は残念ながら、帰路の途中、異国の地で熱病に罹り、若くして亡くなってしまいました。そのため、その功績と名ばかりが先行して、彼の人となりや航海の実情などはあまり伝わって来ずに、近年のことなのに、伝説上の存在のように祭り上げられてしまっているのです。──それはもちろん、航海術を秘したい、ミゼラル公国の思惑などがあるのでしょうが。
その彼が、実際につづった航海日誌。
──読みたい。
そこには、どんな冒険譚が記されているのでしょう。航海の苦労や、天候と戦った記録や、訪れた土地土地のめずらしい動植物に風習、人々、異文化交流。彼がどんな風に感じ、どんな風に生きてきたのか──すべてが、そこに詰まっているはずです。
読みたい。
手を伸ばせばすぐそこにある未知の世界に捉われて、わたしは目前のシャロンさまとエレンさまの会話を聞いていませんでした。
「なんてものを持ち出されたんですか、シャロンさま! 将軍の雷が落ちますよ!」
「ちょっと、エレンは手を出さないで! お祖父さまが私の好きに使っていいっておっしゃったのよ」
「それにしたって、限度があるでしょう。事は国益にも及びますよ!」
「副船長の航海誌は出回ってるんだから、もう今さらでしょ! それに、家の先生だって、航海術は日々進歩しているから、古い知識はどんどん廃れていく、っておっしゃっていたわ。後生大事に取っておいて一銅貨の価値もなくなる前に、使える時に使わなくてどうするのよ!」
「だからと言って──」
シャロンさまの外野を気にしない毅然とした呼び掛けに、わたしは注意を引かれました。
「エリアーナさま。──いかがでしょう。さすがにこれを進呈することはできないのですが、私がサウズリンドに滞在している間、お貸しすることはできますわ」
奪われないように胸に抱えていた航海誌が、ゆっくりと差し出されます。
「…………」
ハッと、我に返りました。
真横から、じーっと穴の空くほど見つめてくる視線を感じます。
……ソロソロと、何気なさを装って手を膝上に戻しましたが、なにやら、いやに流れる冷汗を感じます。室内は適温に保たれているはずなのに、なぜでしょう。
わかっています。答えなど、一つに決まっているではありませんか。天秤にかけることなどできません。ええ。もちろん──。
「…………………………できません」
「うん、エリィ。すごい長い沈黙と、さっきよりも泣きだしそうで悲壮感たっぷりだね」
気のせいです。殿下。
戸口の付近からも、ボソボソと交わされるつぶやきがありました。
「これが天から地へ、ってやつか?」
「なんかすごく一瞬、存在感が際立ったよね」
「目は口ほどに物を言う、というやつですね」
……気のせいですったら。皆さま。
未練がましく目前の書物に目を奪われていると、隣からは大きなため息が聞こえ、日誌をつかむシャロンさまからは不満げな声がもれました。
「これだけじゃ足りないっておっしゃるの? 各国の有識人が喉から手が出るほど欲しがるものよ? ヴィーゴ船長直筆の航海日誌……あ、本物かどうか疑っているの? だったら、直筆のサインもあるわ」
ほら、と
「──エリィ」
殿下のお声に、ギクリ──と姿勢が戻ります。はい。わかっております。今の主題は本のことではありませんね。
殿下はもう一度息をつかれると、ゆったりと長い足を組み、その態度に似つかわしいお声を紡がれました。
「シャロン嬢が私のパートナーにこだわる理由はそれと見当がつくが……それは、きみの独断かな。それとも、ミゼラル公国の意志かな」
お声はやさしく、悠然と余裕を持った響きでしたが、その中にひそむ冷ややかさを感じ取ったように、ビクリとシャロンさまは身をふるわせました。
それは……、とためらうシャロンさまに代わって、背後のエレンさまが答えます。
「シャロンさまの独断です。我が国の意志ではありません」
「エレン……!」
優美さとは一線を画した、厳しい目がシャロンさまへ向けられました。
「ご自身の立場をお考えください。あなたはミゼラル公国の前将軍の血筋に連なる方です。アイゼナッハ家に招かれた客人とは言え、まったくの私人とは違うのだから言動には注意するようにと、ミレーユさまからも注意されていたでしょう」
「でも!……だから私が、クリストファー殿下のパートナーになれば、ミレーユ姉さまだって……!」
「それを、ミレーユさまが望むと、一言でも口にされましたか」
言葉に詰まったように押し黙ったシャロンさまでしたが、一拍置いて、「だって……!」と癇癪の声を上げました。
「おかしいじゃない! ミレーユ姉さまは“ミゼラルの真珠姫”と謳われたほど将来を期待された方なのよ。なのに、クリストファー殿下との婚約話が流れてからすぐに大公殿下がお亡くなりになられて、姉さまはあの忌々しい側室と後見の公爵家に冷遇されてきたわ。あげくに! 二十五も歳の離れた相手に嫁がされて、あっという間に未亡人になって、次の縁談だって……もう、あまり期待できない……。そんなのって、おかしいじゃない! ミレーユ姉さまは絶対、国中のだれより幸せになるべき人なんだから……!」
癇癪の思いのまま、手にした日誌を膝上に叩き付けました。思わず、わたしはそれを咎めていました。
「書物に八つ当たりしてはなりません!」
ビックリしたように若葉色の眸が上げられて、わたしも声を荒げたことに呼吸をなだめるように、強いて落ち着いた声音を意識しました。
「シャロンさまが手にされているその航海日誌は、一人の偉大な船長が自身の生き様をつづった、いわば、彼の半生同然です。それを無下に扱ってはなりません」
昂った感情を諌められて、シャロンさまの幼い口元がふるえだしました。
「なによ……」と小さなつぶやきがもれます。
クリストファー殿下はシャロンさまとエレンさまが言い争いをはじめられた中途でグレンさまになにかを言付けられ、それを受けたグレンさまが静かに部屋を後にされていました。
それらは意にされずに、シャロンさまの目はわたしに向かっています。
「虫かぶり姫のあなたがいるからいけないのよ……! そこは、ミレーユ姉さまの居場所だったのよ。どうせ、あなたは本にしか興味がないんでしょう? だったら、ずっと図書室に引きこもってて! 虫かぶりのあなたなんかと、ミレーユ姉さまは違うんだから……!」
感情のままに吐き出される言葉にエレンさまや殿下が反応しかけましたが、真っ直ぐに向けられる想いにわたしも正面から向き合いました。
「できません」
シャロンさまがミレーユさまをどれだけお慕いしているのかは伝わりましたが、その思いに押されて自身の立場を譲ることはできません。
決意をあらためた今はなおさら、引き下がることはできませんでした。
「確かにわたしは、本にしか興味の持てない虫かぶりですが、クリストファー殿下を想う気持ちは、どなたにも負けないと思っています。殿下の隣を譲ることは、絶対にできません」
すると、隣から胸が苦しそうな殿下のつぶやきがもれました。
「……今日一日の上げ下げが半端ない……」
シャロンさまがさらに感情のまま言いつのりかけて、エレンさまの厳しい叱責まじりの声が出ました。
「シャロンさま。あなたお一人の身勝手な願望でミゼラルとサウズリンドの友好にひびを入れられるおつもりですか」
「だ、って……」
「泣いて済まされる範疇は越えていますよ。エリアーナさまに謝罪を」
ポロポロと若葉色の眸からは涙がこぼれていました。しゃくりあげながら、シャロンさまはそれを小さな手でぬぐわれます。
なおも謝罪を強いるエレンさまと、泣きじゃくるシャロンさまの光景に、わたしも胸が痛みました。
形としては、言葉だけでも謝罪を受けるべきなのはわかっています。ですが、ここは私室であり公の場ではないのだから、不問に付しても──と、甘いかも知れませんがそう思ったのです。
そこに、クリストファー殿下の静かな声が挟まれました。
「確かに──そうだね。エリアーナとミレーユ殿は違う。それは、だれの目にも明らかだ」
ドキリと、鼓動をつかまれたような思いで、クリストファー殿下を見返しました。
殿下は少しいぶかしそうに涙目を上げたシャロンさまにひとつ笑むと、わたしに変わらぬ、想いのこもった眼差しを向けて来られました。
「ねえ、エリィ。きみが四年前、私の婚約者に上がったばかりの頃、いやに薬草関連の書物を各国から取り寄せていたよね。それは、なぜ──?」
「え……」
唐突に四年前のことを持ち出されて、わたしはためらいました。
それは当時、王太子婚約者の立場があれば、めずらしい書物も手に入れやすくなる、などと、打算的な思いがわたしの中にもあっ──ケホコホ。
「『東方見聞書』を取り寄せたのも、その頃だったよね」
殿下がうながしてくれ、わたしはなんだかひっしにうなずいていました。青い眸に冷ややかな色が走ったようなのは、気のせいです。きっと。
「ええと……はい。もとはその……従姉妹が昔から婦人病に悩まされていて、サウズリンドにある従来の薬ではあまり効かなかったのです。その時には、東方航路から入ってくる新しい品々や知識がサウズリンドにもあふれていましたから、異国の知識に未知のものがあるかも知れない、と期待しました」
わたしは少し、膝上の手をにぎりしめました。それに、と肝心の目的を抱えて。
「“灰色の悪夢”の治療薬の研究が、行き詰まっているらしいことも知りました。研究に別視点を、という思いと、アルス大陸の中では見つからない治療薬も、別の大陸なら──異国の地でなら、見つかるのかも、と期待をしました」
シャロンさまは涙目のまま、ふしぎそうに瞬きました。
彼女が生まれる前に流行した病です。ミゼラル公国は幸い、サウズリンドよりも被害が少なかったそうですが、史実として知ってはいても、それに重点を置いていることが理解できないようでした。
「だけど……その病はもう消えたのでしょう? だったら別に……」
「いったん終息しただけです。いつまた、起きるかも知れません。そしてその時に、『治療薬を見つけていれば──』と後悔しても遅いのです。有効な治療薬は、今もって発見されていないのですから」
歯がゆさをこらえて、わたしは膝上の手をにぎりしめました。殿下がそのわたしの気持ちをほぐすようにうん、と話を繋ぎます。
「エリィのおかげで、停滞気味だった薬学研究室が活気付いたね。それはまた、別の話だけれど……。エリィは、私がアズール地方の橋梁工事を立案する前から、あの地方に注目していたよね。それはやはり、“灰色の悪夢”の研究のため?」
「はい……それもありますが、その」
発端は幼い頃に感じた思いが起因だったために、少しためらいました。しかし、うながされる空気に気恥ずかしさを覚えながら口を開きます。
「アズール地方の童話には昔から、親のいない子どもたちの話が頻繁に出てくるのです。なぜだろうと思って調べたら、コルバ村のように、生活のために親が出稼ぎに行く村があることを知りました。家族が共に暮らせないのはさみしいことではないかと、……単純にそう思ったのです」
貴族階級の家庭は一般的に、子どもが親と離れて育てられるのはめずらしくありません。領地を持っている貴族などは特に、子どもの教育は領地の邸宅で行い、年頃になったら王都へ呼び寄せて社交界へお披露目するのが慣例となっています。
しかし、親と離れて育つことに少しのさみしさも覚えない子どもはいないと思うのです。
ベルンシュタインの領地にいた頃、子どもを迎えに来る領民の家族の姿を見て、わたし自身、さみしさをつのらせたりもしましたが、この光景が当たり前ではない土地もあるのだと、そちらのほうに思いをはせました。
コルバ村の悲劇の原因を学んでからはなおさら、その土地になにか──生活の基盤となるものがあれば、と注目していたのは事実です。
でも、とやはり困惑がちなシャロンさまの反論が出ました。
「それは……仕方がないことでしょう? 国中の土地、すべてを豊かにすることはできないわ。その土地は貧しかったのだから、仕方のないことでしょう?」
「仕方がない、という言葉を、わたしたち貴族が口にしてはなりません」
わたしは静かに自分の手入れされた爪や手先、質のよい衣服に目を留め、同様に、傷ひとつなく磨かれたシャロンさまに目を移しました。
「わたしたち貴族が土にまみれることなく、雨風にさらされることなく、その身を守られ、綺麗な衣装を身にまとい、手の込んだ食べ物を口にすることができているのは、すべて、民がそれを支えてくれているからです。……貧しさゆえ、出稼ぎに行く人々は、たいていが過酷な重労働を割り振られます。好き好んで、そういった環境に身を置く者はいないでしょう。彼らに支えられて今の立場にいるわたしたちが、貧しいから仕方がない、という言葉で片付けてはなりません」
「でも……じゃあ、どうするの? 貧しくなるのは理由があるからでしょう? そんなに簡単に民の生活を豊かにできるのなら、だれも苦労しないと思うわ」
感情の落ち着いたシャロンさまの眸に、わたしもうなずき返しました。
彼女はきちんと話をすれば理解して呑み込み、その上で質問を返してきます。その利発さを好ましく思いました。
「具体的な例として──。イーディア辺境領で織られていたスイラン織があります。辺境領は今、商人の他に機織り職人と、その技術を身に付けようとする人たちでにぎわっているそうです。辺境伯は職業訓練所を併設されたと聞きました。──これは一例ですが、シャロンさまのおっしゃる通り、毎回成功するわけでも、簡単なことでもありません。弊害ももちろん、あります。けれど、豊かな土地、豊かな国にするのは、上に立つ者の考え方ひとつだと、わたしはそう思っています」