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お邪魔虫─9

セクハラ魔王がいます……。





 どれだけ時間が経ったのか、わかりません。

 大泣きしたわたしは殿下に抱きしめられたまま、室内にあるソファの上に移動していました。


 なだめるように、あやすように何度も謝られ、首をふりながら抱えていた不安をひとつずつ吐露していました。


 アンリエッタ王妃さまのようになれなくて、それでも、わたしなりに頑張ろうとしていたところに起きた発言の流用。今さら、宮廷がおそろしいところだと、尻込みしはじめて心細くなっていたこと。


 殿下に、側室ができる可能性に不安を抱いていたこと。


 ミレーユさまと殿下の繋がりを見て疑心暗鬼になっていたところに、ミゼラル公国での評判を聞いて、さらに疑惑が育ってしまったこと──。


「殿下に……ちゃんと、お聞きしなきゃ、って……そう思って」


 けれど、どうしても怖くて、忙しい殿下の負担になってはいけないと、自分で自分を追い詰めてしまったこと。自身の失態が殿下の足を引っ張ってしまった事実が、心苦しくてなさけなくて、仕方なかったこと……。


「うん──。ごめん、エリィ。ほんとうに……全部、私が悪かった。きみはなにも悪くない。もうそんなに泣かないで」

「殿下の、せいでは……」


 こぼれた涙を先から殿下が唇で吸い取っています。

 目尻や頬や額に鼻先、顔中になだめるような口付けが降っていて、わたしの唇にこぼれた涙もすくい取られて少し息苦しく、小さな声がこぼれた気もしますが、抱えていたものを吐露するのにひっしなわたしは、よく気が付いていませんでした。


 今もソファに腰掛けた状態で殿下の腕の中に囲われ、あたたかいやさしさと、いつの間にか慣れ親しんでしまった香りに包まれて、あふれだしていた心もゆっくりと落ち着いていくようでした。


「わたしが……勝手に一人で思い悩んで。殿下にきちんと、お訊ねするべきでしたのに……」

「いや──、やっぱり私が悪かった。エリィが生真面目な性格で頑張りすぎるのは知っていたのに。私がきちんと、きみが思い悩む前にそばにいて、配慮すべきだった。ごめんね、エリィ」


 なんだか、先からお互いに謝ってばかりです。

 鼻をぐずらせたわたしに殿下のハンカチが差し出されてありがたくお借りしていると、やっぱり額に口付けが降って、殿下の真摯な謝罪も降ってきました。


「ラモンド夫人のことは、ほんとうに誤解なんだ。エリィが気に病む前に話しておけばよかったんだけど……きみが今、慣れないことでひっしになっているのもわかったから、私の方で対処するつもりだった。……癪にさわるが、グレンやアレクの言う、私の悪いクセが出たな。私たち二人に関わることだ。きちんと、エリィにも話しておくべきだった。一人で解決しようとした私の失態だよ。エリィはなにも、悪くない」

「殿下……」


 見つめた先で、殿下がフッ、と青い眸をなごめて笑いました。それにしても、と。


「エリィがこんなに泣くのは、はじめて見たな。それが、私のことで思い悩んでいっぱいになって泣いてしまうなんて……まずいな。ちょっと、悪いクセになるかも」


 ……意味がわかりません。

 殿下はやはり、どこかうれしそうにわたしの目尻に口付け、額髪をかき上げるとそこにも口付けを落としました。


「エリィを泣かせるのは、式を挙げた夜と決めていたんだけどな。でもまあ……これはこれで悪くなかったり……」


 ……もっと意味がわかりません。

 しかし、殿下はなぜこんなにうれしそうなのでしょう。わたしは自分でも、こんなに大泣きしたのは母を亡くした時以来のことのように記憶しており、自分でも内心驚いているのですが。


 殿下のにこにことした笑顔が、なんだか妙に腹立たしく映ります。……今なら、おそれながら、殿下の両頬をみょーんと引っ張っても不敬にはあたらないでしょうか。


 わたしの目付きに不穏なものを感じたのか、殿下は若干身を引き、「あー、エリィ」と口にします。そして次に、ハッと鋭い目付きで扉の方をふり向くと、マズイ、と小さくつぶやきました。


「──エリィ、こっち」


 急いた様子の殿下にわたしは突然引き立たせられ、腰を抱かれて足早に続き部屋へ入室していました。



 控えていた部屋付きの侍女二人と殿下の近衛兵が驚いたように立ち上がります。言葉を発する前に殿下が片手を上げて制し、二手に分けてわたしの部屋の扉、すべてを開け放って別室で待機するように告げていました。


 意味がわからないご指示ですが、王宮務めの彼らは迅速に従って部屋を後にします。

 殿下はその開きっ放しの扉から別室に移るのではなく、なぜか窓辺の大きなカーテンの裏側にわたしと自身の身を隠しました。


「殿下……?」

「……シッ」


 唇を殿下の指先で押さえられて、今さらドキリと鼓動が鳴ります。

 真剣な表情の殿下は回廊の方を気にされているようで、その様子に胸を高鳴らせていると、すぐにわたしにも理由がわかりました。



「──まあ。何事ですか、この有様は。エリアーナの部屋に泥棒でも入ったのですか」


 開きっ放しの扉の向こうから聞こえてきたのは、アンリエッタ王妃さまのお声です。とっさに身動ぎしたわたしを戒めるように、殿下はさらにカーテンの奥深くに身を潜めます。


 王妃さま付きの侍女が室内を整える様子があり、状況を伝えるアグネスの声にアンリエッタさまは低い声でつぶやきました。


「──逃げたわね、あの子ったら」と。

 そして次には、あきれまじりの嘆声が聞こえます。


「ダウナー家はほんとうに、毎度懲りないこと。あの当時、軍部の力は軽視できなかったから陛下も諌める程度で収めていたのに……とうとう、その息子に引導を渡されてしまったわね」


 パチン、と扇を閉じる音とアンリエッタさまのお声には、どこか清々した響きがあります。


「まあ、もっとも。ダウナー家程度の小物では、幼少時からサウズリンドの隠れた古狸たちと渡り合ってきたあの子の敵ではないでしょう。それよりも──」


 少し苛立たしそうに扇を手のひらに打ち付ける音がしました。


「聖夜の祝宴は明後日なのに、エリアーナの装飾品がまだ決まっていないのですよ。それなのに、あの子は毎度毎度、エリアーナを独り占めして。読書の時間を邪魔したら逃げられる、と言うから、私も社交の場に頻繁に呼ぶのは控えたのに。あの子が不甲斐ないせいで逃げられそうになったではないの。まったく……ほんとうに陛下の御子かしら。なさけない」


 手厳しく断じるアンリエッタさまに、わたしはビックリして目を見開くばかりです。殿下の秀麗なお顔は苦々しそうにしかめられていました。


 その後もアンリエッタさまはアグネスとなにかを話しながら去って行かれ、室内に再び静寂が戻って、小さなため息が間近からもれました。

 まったく、とこちらも苛立たしそうなご様子で。



「自分の婚約者を独り占めしてなにが悪いんだ。エリィは母上の着せ替え人形じゃないと、四年前から何度も言っているのに」


 目をしばたたくわたしに、殿下の小さな吐息が降りました。


「エリィ──。きみはたぶん気付いていなかったと思うけど、四年前から、きみは母上のお気に入りなんだよ。いや、着せ替え人形は置いといて。──きみが私の婚約者に上がったばかりの頃、やたらと母上のお茶会に呼ばれただろう?」


 わたしの反論を先んじて封じ込める殿下に困惑しながら、思い出すようにうなずきます。殿下は苦笑気味に続けました。


「あれは、母上が自分の義娘になるきみを皆に自慢したくて仕方なかったんだ。ダウナー夫人をはじめにやり込めたのもきみだったし、エリィはまあ……意識してやったわけじゃないんだろうけど、私に近付こうとする女性を何気なく撃退してきたからね。母上もきっと、見ていて痛快だったんだと思うよ」


 わたしはやっぱり、大きく目をしばたたかせるばかりでした。


「わたしが……ダウナー夫人をやり込めた、のですか?」

 うん、と殿下は面白そうに笑っています。


「私も人伝に聞いたのだけど……、ダウナー夫人が母上主催の茶会で稀少な化粧品を入手するルートを独占確保した、とか喧伝して、母上の体面をつぶしかけていたらしい。そうしたら、エリィがその化粧品に使用されている赤色(せきしょく)は、西方諸島で取れるカーミンカイガラムシを乾燥させて砕いたものだと説明して、色素として使用される昆虫の特徴や製法の手間暇、化粧品に使用される虫の話などで、ダウナー夫人をやり込めたそうだよ。まあ──当然の帰結として、ダウナー夫人に化粧品の注文をする者は出なかったし、しばらく、宮廷内のご婦人方がいやに薄化粧になったね」


 あらまあ。

 わたしは自分が過去に行っていた所業をあらためて聞かされて、心なし、青ざめる思いでした。しかし、殿下は面白そうに続けます。


「面倒なダウナー夫人をやり込めたことも、母上がきみを気に入る要因のひとつだったろうけれど……。エリィ。自分を尊敬して追い付こうと努力する人を間近にして、きみなら可愛がらずにいられる?」


 わたしはにわかに頬が赤くなる思いでした。わたしの態度は、そんなにわかりやすかったでしょうか。

 殿下の眼差しはやさしくわたしに笑いかけてきます。


「母上がきみに厳しく接しているようなのは、エリィのことが可愛くて仕方ないからだよ。あの人は素直じゃないから。私は別に、母上のようにならなくても、エリィは今のままでなにも問題ないと思うけれどね」


 それはあの……自分で言うのもおこがましいのですが、惚れた欲目というのではないでしょうか。

 殿下の青い眸の中に自信のなさそうな自分を認めていると、その眸がやさしく笑みました。


「ねえ、エリィ。前にも言ったよね。人の上に立つからには完璧さは求められるけれど、人であるからには、得手不得手がある──って。私たちは、いつでも完璧であろうとする姿勢は持ち続けなければならない。でも、それだけに捉われないで。私の考えを理解して、民を第一に思うきみは、今のままで充分、私の隣に立つ存在としてふさわしいよ」

「殿下……」


 青い眸がやさしくほほ笑んで片手がわたしの涙の跡をぬぐいました。


「それにね──。母上の後ろ盾は油断のならないミゼラル公国だったかも知れないが、エリィの後ろ盾は、きみが全霊で守ろうとするサウズリンドの国民たちだ。ダウナー家以外の貴族は皆、それをわかっているから、私の側室なんて声を上げないんだよ。そんなことをしたら、自分たちの方が民から非難と批判を受けてそっぽを向かれると、承知しているからね」


 わたしがとまどって瞬くと、殿下の微笑はやさしくわたしを包み込むようでした。


「エリィ──。私が一人で頑張らなくても、きみがきみのままでいることで、私はいつでも守られているし、支えにもなってもらっている。きみが自信がなくなるたびに、何度だって同じことを言うよ。だから、そんなにおびえないで」


 殿下の指先があたたかくわたしの涙の跡を癒すようで、今日は涙腺がゆるくなっているわたしはまたも泣きだしそうになりました。


 そして同時に、気付きました。

 わたしはどうやら、成婚の儀が近付いて、王太子妃になるという現実に知らず気負って、──怖気付いてもいたのだと。


 責任感やお役目の大事さは軽視できないものですが、その前に──今のままのわたしでいいと言ってくださる、大切な方がそばにいたのに。


 涙がこぼれそうになる前に、殿下の口付けが目尻に落ちました。


「そんなに可愛いと、止まらなくなるんだけど……エリィ」


 熱をはらんでささやく声に、わたしの鼓動も跳ねました。

 そう言えば、アンリエッタさまはとうに行ってしまわれたのに、いつまでカーテンの裏側に身を潜めていなければならないのでしょう。人目を忍んで隠れている──という事実が、なおさら秘密めいた気分で鼓動を速めます。


 それに、狭い空間は殿下との距離感をなくしていて、きっとわたしの鼓動の音は先から殿下に伝わりっぱなしのはずです。


 少したじろいだわたしを放さないように、抱きしめる殿下の手に力がこもりました。

 ほんとうに……とつぶやくお声は、本気か冗談かわからない真剣さがひそんでいます。


「式を挙げる前に、エリィを寝室に引っ張り込む算段を実行に移すところだった。まったく……母上も、もう少し時期を見計らってほしかったな」


 はい……?

 瞬くわたしのすぐそばで、殿下のやるせなさそうな吐息がもれました。


「母上も急ぎすぎた嫌いがあるが……、父上だってまあ、似たようなものだ。私の政務がここ数年、いやに増えているのは、どう考えても近い先を見据えているからね。──父上は、母上を王妃というお役目から早く解放したくて仕方ないんだ。きっと、私たちの間に跡継ぎができたら、早々に王座を私に譲る気でいるね」

「まあ……」


 さらにビックリして目を見開いたわたしです。同時に、跡継ぎ、という言葉に意識せずとも頬が熱くなりました。

 とたんに、殿下の眸も甘さといたずらっぽさを含めてわたしをのぞき込んできます。


「母上もいらぬ心配をしてくれたよね。家系図的に見れば、エリィのベルンシュタイン家は皆、代々子宝に恵まれている。問題があるとすれば私の方だ。でもエリィ、心配しないで。そこは私の役目だから。男の私が頑張るところだから、エリィはなにも心配することはないからね」


 はい……?

 申し訳ありませんが、よく意味がわかりません。しかし、先から身の危険を感じる気がするのは、気のせいでしょうか。


 殿下はいつの間にか取り戻した、きらきらとした微笑でわたしに迫ります。

 ねえ、エリィ──と、わたしをがんじがらめにする常套句で。


「私に訊きたかった問いって……なに?」


 ふいに、今朝までわたしを苦しめていた思いが胸に戻りました。

 殿下が側室を迎え入れられるのではないか。それは、“真珠姫”と称される美貌と才智で有名な、殿下の幼馴染ではないのか。虫かぶり姫のわたしとは違う、殿下にお似合いの方なのではないか──。


 反射的に、殿下の胸元をにぎる手に力がこもりました。わたしの口を突いて出たのは、心からの声でした。


「わたし以外の女性を、娶らないでください」


 収まっていた涙が意図せず、こぼれました。

 殿下の眸が大きく見開かれ、とっさのように口元をおおって横を向かれます。うめくような声がもれました。


「エリィ、それ……反則」


 なにがでしょう。

 本心を口にしてしまったことに自信なく瞬いていると、「ああ、もう!」と殿下が勢いよく、わたしを抱きしめました。わたしの髪に顔をうずめて、くぐもったつぶやきがもれます。


「……春まで私はほんとうに辛抱できるのか……?」と、だれに向けているのかわからない問いかけで。


 なぜだか、大きなやるせなさそうなため息がわたしの背中に落とされ、身を起こした殿下は、あきらめと葛藤の入り混じった、複雑そうなお顔をされていました。

 そして小さな吐息で微笑を浮かべると、わたしの頬を指先でぬぐいます。


「エリィ以外、だれもいらないよ」


 真剣な青い眸に、飛び出す勢いで鼓動が跳ねました。

 エリィ、とわたしを呼ぶ殿下の声に、苦しいぐらい胸が高鳴っていきます。


 想いのこもった青い眸に見つめられて包み込まれると、わだかまっていた不安も疑心も、春の雪解けのように消えていくのを感じました。


「きみが逃げても、私は何度だって捕まえる。そんなに簡単に諦められる程度の想いなら、こんなに苦しい思いはしていない。だから──エリィ。私の気持ちを疑うことだけは、しないで」


 今まで以上に、息の止まる思いでした。

 殿下のあざやかな青い眸には、深い真摯な光があって、想いを伝えてくる眸と同時に傷も見えて、わたしは自分がどれだけ残酷な行為をしたのか、思い知らされる気分でした。


 ミレーユさまとの仲を疑い、疑心暗鬼になってなにも見えなくなった気でいましたが、わたしが殿下の手を拒んで距離を置いたことに、だれより傷付いていたのは、クリストファーさまの方なのかも知れない、と。


「…………」

 想いを言葉にしようとして、声になりませんでした。

 謝罪をするのも、違います。言い訳なんて、もっと違う──。


 想いをどう伝えたらいいのかわからず、わたしは心が動くまま、背伸びをして、間近の殿下の唇に自身のそれを重ねていました。

 殿下がいつも、想いの丈を伝えてくれるそれとは比べものにならないくらい、つたなく、(いと)けないものだと自身でも思いましたが、今はただ──心に動かされるままの行動でした。


 溶け込むほどすぐそこに見開かれた青い眸を見つめて、ポロリと、こぼれた涙を自分でも自覚しました。


「……好きです。クリストファーさま。もうけっして、──逃げません」

「エリィ……」


 かすれた声と指先がわたしの涙をぬぐい、やるせなさそうに、切なそうに眸が細められました。


「どれだけ私がきみのことを好きなのか……どれだけ、いつもきみを守りたくて、同じくらい、滅茶苦茶にしたいと思っているのか──全部、教えてあげたい」


 そっと指先で唇を開かされ、近付く吐息と青い眸に誘われるように、高鳴る鼓動に浮かされるまま、眸を閉ざしていきました。



 その時でした。


「──エリアーナさま! いるのはわかっていてよ! 潔く出ていらして!」


 まるで、『東方見聞書』で読んだ道場破りのようなシャロンさまの勇ましい呼び声でした。

 あまりのことに心臓が飛び出るほどビックリしたわたしは、とっさに間近の殿下を突き飛ばしてしまっていました。


 ……申し訳ありません、殿下。


 今は絶対マズイって、というアランさまの声や、俺は逃げてもいいか、と弱々しいグレンさまの声。書類がたまっているんですよ、まったく、と苛立つアレクセイさまに、うちのお転婆姫が申し訳ありません、と謝るエレンさま──と、わたしの部屋の前はにわかににぎわっています。


 カーテンの向こうに転がり出た殿下が、額を押さえながらうめくような声をしぼりだしました。


「毎度毎度……肝心なところでお邪魔虫が……」


 呪いか? と殺気混じりのつぶやきももれたようですが、わたしは今さら羞恥心を思い出して顔の火照りを冷ますのにひっしでした。






シャロンギャフン(死語)まで行かなかった……m(_ _)m


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