お邪魔虫─8
お詫び
・前話のラストをちょっぴり書き直していますが、流れに変更はありません。
・ウジウジエリィにイライラしたら、申し訳ないです……(私はしました)。
殿下の執務室から逃げ出して、わたしは人目を避けるように、外回廊から雪の降り積もった表へ飛び出していました。
王宮内の庭園は聖夜の祝宴に向けた準備の真っ最中で、除雪されている箇所には大きな樅の木がいくつも運び込まれています。なにか趣向があるようですが、わたしは人のいるそちらを避けて雪深い庭園の方へかけ込んでいました。
たぶん──わたしはもうずっと、どこかで逃げ出したい思いがつのっていたのだと思います。思い返してみれば、夜会の時にも無意識に逃げ出していました。
その思いが先ほど、とっさに口をついて出てしまったのでしょう。
殿下のおそばにいたいと、ただそれだけの想いでやってきましたが、現実には殿下の足を引っ張ったり、お荷物になったり、側室問題でうろたえるだけ。
一人ではなにも解決できなくて、殿下のそばにいることにもどんどん自信がなくなっていって、けれど簡単には投げ出せない立場に捉われて、気持ちがいっぱいいっぱいになってしまって──。
ついには、逃げ出してしまいました。
なんてなさけない虫かぶり姫。
「……っ」
アンリエッタさまの言う通り、わたしには殿下の隣に立つ覚悟などできていなかったのです。
ミレーユさまと殿下の繋がりを見てから、見ないフリをしていた小さな芽が知らぬ間に大きくなっていって、自分でも手のつけられないモノに育ってしまって。
それが、ミレーユさまがご側室に上がられるかも──という話で芽吹いた気がしました。
手のつけられないその感情に捉われて、今のわたしには、殿下と気持ちが通い合ってから築いてきた自信が見る影もありません。
殿下はわたしの存在を無視して側室を娶られるような方ではないと信じていても、そのお相手がミレーユさまだったら……? と疑いだすと、次から次にあふれだす疑心が止まらず、今や心は醜い感情でいっぱいです。
わたしは、自分の中にこんな感情があることをはじめて知りました。
手のつけられないほど我儘で狂暴で、好きという気持ちとは正反対なのに、同じくらいの強さで心を占める。他になにも手につかなくなるくらい、真っ黒なもの。
ほんとうは……そんな醜い自分を殿下に知られるのが怖くて、逃げ出してしまったのかも知れません。
こんな自分を知られたら、殿下にどう思われるのか──。
感情があふれだしそうになって、わたしはふいに髪を引っ張られる痛みに足を止めました。ふり返ると、柊の枝の群生にわたしの髪が絡め取られています。
自分のまとまりのない髪がいやでたまらず、なぜだか柊の木にも意地悪をされているような、そんな被害妄想気分で髪を引っ張りました。
ほんとうは──。
わたしの口を突いて出そうなのは、いやだ、という泣き叫びたい思いです。
殿下の隣をだれにも渡したくない。殿下が他の女性と親密なやり取りをするなんていやだ、と。だれにも、わたしに向けるような笑顔を見せないでほしい。わたしを呼ぶ声で他の女性を呼ばないでほしい。
わたしに触れるように他の女性にも触れるのだとしたら──。
感情が視界をにじませた、その時でした。
「──エリアーナ嬢?」
かけられた声に背筋を強張らせてふり向くと、怪訝そうな顔をしたエレンさまに出逢いました。
「雪の中に走って行かれるのをお見かけしたので……ああ」
何事か、と追いかけてきてくださったのでしょう。エレンさまは次いでわたしの状況を把握すると、動かないで、と歩み寄って手を伸ばしてきました。
上背のあるエレンさまの腕がわたしを囲み、ふわりと見知らぬにおいと気配に包まれます。
柊の枝からエレンさまは丁寧にわたしの髪を解き放ってくれると、傷みを確かめるようにその一房をなで、わたしの表情を見て、フッとやさしく笑いかけてきました。
「いたずらな柊ですね。こんなに愛らしい髪を傷付けようとするなんて」
そう言って、そっと、いたわるようにわたしの髪に口付けます。
思い出したようにわたしの鼓動が鳴りました。エレンさまの眼差しもいたわる色を帯びていて、わたしは自分が泣きだしそうになっていたのを見透かされた思いで、なさけなくうつむきます。
そこに割って入った、冷ややかな声でした。
「──エリアーナ」
今度こそビクリ、と身体がふるえて目を上げると、いつもと変わらぬ悠然とした微笑を浮かべたクリストファー殿下が、小道の入り口にたたずんでいました。
殿下もわたしを追いかけてきてくださったようですが、その様子はふだんと変わらずに隙がなく、息を切らした様子も金色の髪が乱れた様子もありません。
ただひとつ違っていたのは、晴れ渡った青空のような眸が静かに、──それは静かに、冬晴れの凍て付く青の強さを秘めてわたしを見ていました。
怒っていらっしゃる──。
当たり前だと、自分でもそう理解できるのに、殿下のお怒りがわたしに向けられている事実に心がすくみました。
無意識に後ずさると、エレンさまが急いで片手を出し、柊の葉からわたしを庇います。殿下の整った眉がぴくりとわずかに上がりました。
有無を言わせない雰囲気で片手が差し出されます。
「エリィ──。ちゃんと話をしよう。おいで」
「…………」
いつもなら幸せな気分で取るその手を、今のわたしはおののくような思いで見つめていました。
人に聞かれない話をするためには、おそらく殿下の執務室へ連れ戻されるのでしょう。あの執務室に……? とわたしはさらに追い詰められる気分です。
先日、クリストファー殿下宛てのミレーユさまからのお手紙を目にし、わたしははじめて、人さまの手紙を盗み読みしたい衝動にかられました。どうにか振り切りましたが、あんな思いをした殿下の執務室が、今やわたしにとって何よりおそろしい場所に映ります。
思わずさらに足を引きかけてエレンさまの腕にはばまれ、しぜんと彼女に寄り添うような体勢になっていました。
殿下の眉がさらにはね上がり、エリィ、と低い声と一歩が踏み込まれます。その前にエレンさまの背が立ちふさがりました。
「クリストファー殿下。少し、落ち着かれてはいかがでしょうか」
「あなたには関係がない。下がってもらおう」
「たしかに私は無関係ですが、おびえている女性を見過ごすことはできません。ご婚約者であるあなたが彼女を追い詰め、怖がらせてどうするのです」
小さく、苛立ちまじりの息がつかれたのが聞こえました。お声もその感情を抑えつけているような低さです。
「私と彼女の問題だ。口を挟まないでもらいたい。──おいで、エリィ」
焦る心とは裏腹に、わたしは身動きができずに立ちすくんでいました。エレンさまがひとつ息をついて、諭すように話されます。
「クリストファー殿下。感情的になっている時に話し合われても、よい結果が出るとは思えませんよ。エリアーナさまも今混乱されているようです。少し時間を置かれてはいかがですか」
苛立ったような殿下の気配がわたしにもわかりました。いけない、と急いでエレンさまの背から出て殿下に頭を下げます。
「……申し訳ありません、殿下。少し……お時間をいただけないでしょうか。今日だけ、家に帰りたいのです」
せっかく殿下が追いかけてきてくださったのにまだ逃げ出そうとする自分が、自分でもほんとうにいやで仕方ありませんでした。けれどエレンさまのおっしゃる通り、今殿下に向き合っても、わたしはうまく自分の気持ちを伝えられる自信がありません。
冬晴れの庭園の中で、わたしたちのいる一角だけが、いやに凍て付く空気で占められている気がします。
殿下のお顔を見ることができずに頭を下げていると、ややして小さな吐息とともに静かな声が降ってきました。
「……そう。わかった」
踵を返される音に、一拍置いてはじかれたようにわたしは顔を上げます。
背を向けて立ち去っていく後ろ姿を、瞬きも忘れて見つめていました。
~・~・~・~・~
エレンさまに付き添われ、従者控室に待機していた従僕のジャンが準備した馬車に揺られて、わたしは帰宅しました。
ジャンはわたしが王太子妃になった後も側仕えする者として選出されているため、居住を王宮へ移しはじめています。その彼に帰宅の意志を伝えた時には、それは恐怖を覚えたような顔で、
「お嬢って全然そうは見えないッスけど、実は傾国の女なんッスね……」と意味不明なつぶやきと、とばっちりが来ませんように、という祈りの仕草で返されました。
突然帰宅したわたしに家人たちも驚いた様子でしたが、深く詮索せずにいたわってくれます。自分から願い出た帰宅なのに、わたしはまったく安堵していないことに気付きました。
心は今すぐ王宮に戻って殿下に謝るべきだと責め立てています。
なのに。
今のわたしは、もう自分で自分がわからなくなっていました。
あれほど、おそばにいたいと決意した殿下から逃げ出した自分。追いかけてきてくださった殿下の気持ちを汲み取ることもできず、自分の思いだけに手一杯。公務さえも放棄してしまいました。
自分のことが信じられずに、想いさえも見失ったまま、まんじりともせずに夜を過ごしました。
そうして明くる日、整理のつかない心を抱えて登城します。足取りは重たく、一向に晴れない物思いに胸はふさがったままです。
登城するとまずは私室へ向かい、そこで女官から公務の予定やわたし宛ての陳述書、面会人の申し出などを聞きます。それらを捌いてから、書庫室や殿下の執務室で残り時間を過ごすのがわたしの日常でした。
ジャンを供にその私室へ向かう途中、部屋付きの侍女二人と遭遇します。二人とも瞬いてわたしを見返してきました。
「あの、エリアーナさま。書庫室にいるから来てほしいと言付けされたご用はなんでしょうか」
はい? とわたしも瞬きます。三人で同じ表情を見合わせ、侍女二人は変ね、と目を交わします。
「サラがそう伝言してきたのに……」
わたしも怪訝な思いを抱きながら、とりあえず彼女らと私室へ向かいました。
すると、無人のはずの室内から人の気配がします。衛兵を呼びに行こうとする侍女を制したのは、もれ聞こえたのが女性の声だったのと、ジャンがいたので問題はないだろうと判断したためでした。……面倒事を嫌う顔で、あまり頼りにならなさそうな従僕なのですが。
侍女が待機する続き部屋へそっと入り、居室である部屋から聞こえてくるのは、言い争うような二人の声です。
「──もうおやめくださいませ。マティルダさま」
「いいからさっさと探しなさい。ほんとうに役に立たないんだから。聖夜の祝宴はもう明後日なのよ。ドレスが間に合わなかったらお祖父さまに言い付けて、王宮勤めから田舎の農婦にしてやるわよ」
「……エリアーナさまがお召しになるドレスは、王妃さま手ずから厳重管理されているのです。いくらお部屋を探しても無駄だと思います。もうおやめくださいませ」
「だったら他に何か役に立つものを探しなさい! あの人が話題を作る前に私の発想にするのよ。聖夜の祝宴であの人より目立たなきゃ、私がお祖父さまやお母さまに叱られてしまうんだから!……シャロン嬢はたいした情報を持っていないし、おまえが役に立たないせいで、私がこうして苦労しているんじゃない!」
「マティルダさま……」
甲高い声の主はマティルダさまのようです。それをなんとかなだめようとしているサラに、マティルダさまの叱声が続きます。
「おまえを拾い上げたのは、我がダウナー家なのよ。うちの援助がなければおまえは家族を養えなかったし、王宮勤めの侍女になることもできなかったでしょう。呪われたアズールの人間であるおまえなどが。わかったら、きちんと恩に報いなさい」
そこまで聞いて、わたしの心も決まりました。眉をひそめている侍女を制して、自分で部屋に踏み込みます。
ハッとしたように室内にいた二人がふり返りました。
蒼白になってわたしの名をつぶやくのはサラですが、マティルダさまは一瞬うろたえた態度から令嬢らしい微笑で取り繕います。
「まあ、エリアーナさま。ご実家にお戻りになったと聞いていたのですが、登城されていたんですのね。殿下のご婚約者さまですのに、存在感が薄くて気付きませんでしたわ」
わたしの部屋に無断で侵入されているのですが、きれいに無視した態度は別の意味で立派かも知れません。
マティルダさまは悪びれた様子も見せずに、立て続けの言葉を紡ぎます。
「今の時期に公務を放り出されるだなんて、他国の方々もいらっしゃっているのに、恥ずかしくはございませんこと? あなたさまがそんな調子だから、クリストファー殿下まで悪し様に言われてしまうのよ。武を嫌う弱腰王子とか、血を見るのが苦手なお方だとか──。将来、我が国が戦に巻き込まれたら危ぶまれると、軍関係者の間では懸念されていますのよ」
マティルダさまは扇を開かれると、その向こうから嘲りを含めた余裕の微笑をのぞかせました。
「でも、私が殿下の側室に上がれば、軍部の関係者も安心するわ。殿下は武力に弱腰ではないと皆にも知れるでしょう。これからは長いお付き合いになりますわね。エリアーナさま」
それは、ご自身が殿下の側室に上がるのを確信している口ぶりでした。
わたしはマティルダさまを真似してその発言と態度を受け流し、無言で歩を進めて、自分の机の引き出しから試作品を含めた小瓶の数々を取り出しました。
そうしてマティルダさまの方へそれを押しやります。怪訝そうなマティルダさまに、静かに説明しました。
「アズール地方のテッセン川と、北方連山から流れ込むミル川。二つの川が交わる支流でのみ取れる、ミルル貝というものがあります。その貝を加工し、古文書のインクを再現したものがこちらです。マティルダさまのお役に立つのでしたら、どうぞ」
「なっ……」
権高そうな頬にサッと赤味が増し、扇をにぎる手に力が込められました。
「馬鹿にしていらっしゃるの。なぜ私があなたの意味不明な古代のインクなんか──しかも、アズール地方の支流ですって?」
嫌悪を込めた色がその口調と視線に表れていました。インクを詰めた小瓶から、マティルダさまは汚らわしそうに身を引いています。
「それってまさか、コルバ村のことじゃないでしょうね」
「そうですが、何か問題でもありますか?」
まあ、とマティルダさまは大仰なほど驚いた顔を作ってみせます。
「エリアーナさま。あなた、ご自分がなにをおっしゃっているか、わかっていますの? コルバ村だなんて……しかも、そこから取れた貝だなんて」
おぞましい、と言わんばかりの口調でした。
傷付いた色を走らせて面を伏せたサラに気付き、わたしは歩み寄って彼女を自分の背後に引き入れます。後ろ手に彼女の手をにぎり、正面からマティルダさまに対峙しました。
「マティルダさまはアズール地方とコルバ村に偏見がおありのようですが、それは、“灰色の悪夢”がアズール地方から発生したとされているからですか?」
「当たり前でしょう。あの土地は呪われているのよ。疫病なんかを発生させて国中を混乱させて。国力も弱めたとお祖父さまはおっしゃっていたわ。もしもあの時、マルドゥラから攻め込まれていたら、サウズリンドは終わっていたと」
だから、とマティルダさまは蔑むように鼻を鳴らされました。
「コルバ村があんなことになったのも、病を発生させた報いを受けたのよ。──エリアーナさま。あなたサラを庇っていらっしゃるけれど、彼女はそのコルバ村出身者よ。忌まわしい、呪われた生き残りの一人だわ。近付くと穢れますわよ」
「そのお言葉は、病を克服された王妃さまに対する不敬とも受け取れますが」
かすかにたじろいだマティルダさまですが、次にはやはり、嘲る色を浮かべました。
「エリアーナさま。こうしてあなたのお部屋に失礼させていただいているのは、言い逃れのしようのない事実ですから申し上げますが……あなたの情報がどこから洩れたか、ご存知?」
扇の陰でマティルダさまはクスクスと笑います。
「お祖父さまがおっしゃっていたわ。クリストファー殿下はあなたを大切にされているようだけれど、そのあなたの情報がアズール地方出身者から洩れていたら、殿下はどう思われるか、って。進めている橋梁工事も、取り止めになるかも知れないわね」
わたしの背後から、「マティルダさま……」とサラの愕然とした声が聞こえました。わたしは彼女をつかむ手になおも力を込めました。
返せる言葉はただひとつです。
「サラではありません」
マティルダさまが嘲りの色で口を開かれる前に、わたしは説明しました。
「サラがアズール地方のコルバ村出身者だということは、わたしも王妃さまも、とうに承知の事実です。当時の状況や、村の特徴なども教えてもらいましたから。ミルル貝もそれで取り寄せてもらいました。サラがもし、わたしの情報をダウナー家に流していたのだとしたら、ミルル貝の件などとうにマティルダさまも把握していたはずです」
「それは……そんなに役に立つものとは思えなかったから……」
「マティルダさま──。あなたは何か、思い違いをされていらっしゃいます」
いぶかしそうな表情に対して、わたしははじめて、本以外のことで心から憤る思いで見つめ返しました。
十五年前──。
“灰色の悪夢”がその名称で呼ばれだしてもいなかった、冬の最中のことです。例年にない長雨が続いて、アズール地方を流れるテッセン川が氾濫し、架かっていた橋がいくつも流されました。後背を北方連山に囲われ、他領との交流を橋に頼っていたアズールは、突然、陸の孤島と化したのです。
そんな中、“灰色の悪夢”がいよいよ猛威を見せはじめ、アズールを含む北東方面から見る間に国中を席巻する疫病となって襲いかかりました。だれもがその対処に追われ、アズール地方には仮の橋が架けられた程度でおざなりな対応でした。
──悲劇は、そこで起こりました。
アズール地方で最も北方連山の麓に近く、ミル川が流れ込む支流に位置するコルバ村。この村はアズールの中でも特に貧しく、土地も痩せて作物も育ちにくいことから、秋の恵みを山から得た後は、男手が他領へ出稼ぎに行くのが慣習化されていました。
冬の最中、村に残っていたのは非力な女子ども、老人だけだったのです。村の唯一の出入り口であった橋が流され、たすけを呼びに行くこともできず、コルバ村は孤立無援の状態で疫病と闘わなければなりませんでした。
アズールの悲劇、と呼ばれる事件です。
結局、たすけが向かったのは冬が終わる頃で、だれもが閉じ込められた村人の生存を疑いました。けれど、彼らは大方の予想を裏切って皆で互いを支え合い、どうにか被害を最小限に抑えていたのです。
人々はこれに驚き、だれもが当初は奇跡だ、と口にしていました。
しかし──“灰色の悪夢”が一向に収まる気配を見せずに猛威を振るう様を見るにつけ、徐々に人のよくない一面がのぞきはじめました。
これだけの被害が出ているのに、コルバ村の住人が生き残ったのは、なにか、怪しげな呪術が行われていたからではないか。あの村は呪われていたのではないか。──“灰色の悪夢”は、コルバ村から発生したのではないか。
根拠のない風評です。しかし、悪意あるささやきのほうが時として人を惹きつけてしまうのも事実です。
さらには、“灰色の悪夢”で家族や友人を失った人々にとっては、目に見える形での憎悪する対象がほしかったのかも知れません。それを向けられた相手がどう思うのかは、深く考えもせず──。
「マティルダさまは、もし“灰色の悪夢”が王都から発生していたら、王都の住人を忌まわしい、穢れた存在だとおっしゃるのですか? あなたご自身がそこに含まれて、他者からそう言われたら、どんな気分がしますか」
「……もしもの仮定の話なんてされても、実際に疫病はアズール地方から発生したし、コルバ村の生き残りが呪われていないという証明にはならないわ」
ふるえて身を引こうとしたサラの手を、わたしは強くにぎり返しました。彼女が自分を恥じる必要などないのだと。
「“灰色の悪夢”は、コルバ村から発生したのではありません。医学者の中には、あの病がカイ・アーグ帝国を滅ぼした一因でもある疫病に類似している、とする説もあります。病が北東方面から広がったことを推しても、故ない説ではありません。
コルバ村の悲劇の原因は、交通を橋のみに頼っていたことと、冬場は男手が消える状態を慣習化し、改善しようとしなかった領主と国に責任があります。彼らは被害者です。決して、忌まわしいなどと蔑まれてよい人たちではありません!」
「な……エリアーナさま、あなた本気でおっしゃっているの? 国に責任があるだなんて……」
わたしの立場でそれを認めたら、大変なことになる、とでもおっしゃりたいのでしょうか。
わたしがそれに対してひるむことはありませんでした。
「クリストファー殿下が今、アズール地方の橋梁工事を手掛けていらっしゃるのは、同じ悲劇を繰り返してはいけない、繰り返すことはしない、という決意の表れです。わたし一人のことで国の威信をかけた政策をひるがえすようなことはされません。
民は、国の宝です。民なくして、国も王も成り立ちません。そんなこともわからず、守るべき民を蔑視するような方を、わたしは殿下の側室候補とは絶対に認めません!」
「な……っ」
真っ赤になったマティルダさまの手が、とっさのように近くの小瓶に伸びました。
「なによ、偉そうに……っ、あなたごときが!」
ハッと身動ぎしたわたしの後ろから、サラが手をふりきって飛び出しました。
「おやめくださいませ! マティルダさま!」
インクの小瓶を投げ付けようとしたマティルダさまと一瞬もみ合い、すぐにマティルダさまから悲鳴が上がりました。
もみ合った拍子に瓶の蓋がはずれ、サラとマティルダさま、二人の衣服が赤黒く染まります。特に、マティルダさまの高価そうなドレスには取り返しのつかない染みが広がっていました。
「ひどい……!」
マティルダさまが声を上げた、その時でした。
「──失礼」
開きっぱなしの戸口に現われた方が、ノックするような仕草を見せて室内をながめていました。
「声をかけようとしたんだが、騒ぎが聞こえたのでね」
無断で失礼した、という口ぶりです。一転して、か弱い令嬢のようにその方の名前を呼んでかけ寄ったのが、マティルダさまでした。
「クリストファー殿下……! エリアーナさまが侍女を使って私のドレスを……!」
殿下にすがりつく寸前でマティルダさまを拘束したのは、ジャンでした。
悲鳴を上げるマティルダさまに相も変わらず、その表情は面倒そうなやる気のなさです。
「えーと。お嬢への暴行未遂の現行犯ッスね。あと王太子殿下への虚偽罪、王太子婚約者への侮辱罪……こんなところでいいッスかね」
答えを求めるように見返した殿下が口を開かれるより早く、マティルダさまの暴れる声が響きました。
「離しなさい、無礼者! お祖父さまに言い付けて、おまえの首など飛ばしてやるわよ!」
「あー……魔王の近くよりそっちの方がいいかも」
「──ジャン」
低い声で彼の軽口を戒めたのは、クリストファー殿下でした。いつも通り、存在感の際立ったご様子で、しかし、今日はその面にきらきらしい笑顔がありません。
まったく、と口にされる声は昨日と変わらず、苛立ちを含んでいます。
「毎度毎度……。そんなに私は物事の真実を見抜けない、間抜けな男だと思われているのかな」
震撼とするような冷気が辺り一帯に這い伝い、マティルダさまの癇癪も瞬時に止まって、ジャンはなぜか、すごいしかめっ面で視線をそらしました。
魔王さま降臨……と、見てはならぬものを見てしまったようなつぶやきで。
「マティルダ・ダウナー子爵令嬢。あなたの祖父君はたしかに軍部の重鎮であり、若輩者の私などには軽率に扱えないお方だ。だがそろそろ……、後進に席を譲る時期に来られたように思う。積み重ねられた功績と栄誉に傷を付けないよう、穏便な引退を望むばかりだ」
意味がわからないようにマティルダさまは目を白黒させていらっしゃいました。
殿下はいつものきらきらしさとは一線を画した、冷然とした微笑で返されます。
「ダウナー伯爵家の資金源であるドルード商会は、王家御用達のマーズ商会とライバル関係にあるらしいね。商会同士、互いを出し抜くために手の者を潜り込ませるのは常套手段と聞くが……。手を出す相手を、間違えたね」
殿下の迫力に呑まれて、今や蒼白顔のマティルダさまは、声なく小刻みにふるえていらっしゃいます。
殿下のお声と静かな微笑が、容赦なく彼女を追い詰めるようでした。
「ドルード商会は色々と黒い噂もあったし、この際だから取りつぶしてもよかったんだけどね。商会を消すと色々と面倒だから、頭をすげ替えて引き込むことにした。早晩、新しい商会長はダウナー家への援助を打ち切るだろう。ダウナー伯爵には、宮廷内での面目を失う前に穏便な引退を望むばかりだ」
「そんな……ドルード商会の援助がなくなったら、家は……」
「うん。方々への借金等の肩代わりもドルード商会が行っていたようだから、手を切られたら……まあ、行く末は目に見えているね」
顔をそむけたジャンがおそろしげな声で、「えげつないッス……」とつぶやいていました。
殿下はあざやかな青色の眸を怒気の色で輝かせ、マティルダさまに宣告します。
「もともと、私の側室問題などとたわごとを発していたのは、ダウナー家だけだ。サウズリンドの他の貴族たちはだれもそんな声は上げていない。そこに気付くべきだったが……ダウナー伯爵も耄碌された、ということかな。まあ、エリアーナに手を出した時点で、許す気は毛頭なかったけれどね」
酷薄な微笑を向けられて、マティルダさまがふるえ上がったのが見えました。殿下のお声はなによりも凛然としてその場に響き渡ります。
「私の妃は、エリアーナだけだ。彼女以外の女性をそばに置くことは決してあり得ない。──一晩、その事実を牢の中でじっくり味わってもらおうかな」
声にならない悲鳴を上げたマティルダさまを、殿下は連れて行け、と無情に宣告し、もはや目を向けることはありませんでした。
そして次に、ぼうぜんと立ち尽くしていたサラに目を投げます。少し眸を細めてかるく息をつかれました。
「きみの処分は、母上と相談して追って沙汰する。下がっていいよ」
サラがようやく身動ぎし、一度だけ気遣うような目をわたしに向けましたが、殿下のお言葉に逆らうことはせずに、お辞儀をしてから他の侍女とともに退室していきました。
扉が閉ざされ、二人になった室内で殿下が一歩を詰め寄ってきます。
「──エリィ」
とっさに、わたしの足も下がっていました。
殿下の青い眸から目が離せず、殿下がお姿を見せてからわたしの頭の中にあったのは、昨日の後ろ姿です。王宮に戻って殿下に謝らなければ、と思いながら動けなかったのは、背を向けて去っていく姿が目に焼き付いていたからでした。
臆病で意固地なわたしに、殿下は失望されたのではないかと──。
わたしが一歩を下がったことで、殿下の青い眸に傷付いた色が走りました。さらにわたしの心も追い詰められます。
と、こぼれた声でした。
「ごめん。エリィ」
わたしはようやく、瞬きを思い出します。殿下の表情はつらそうに、真摯な誠実さがこもっていました。
「私が悪かった。……ごめん」
「…………」
なぜ、殿下が謝るのでしょう。
殿下はなにも悪くありません。一人で思い悩んで、一人で勝手に思い詰めたのはわたしです。先走って嫉妬でぐちゃぐちゃになって、殿下のお気持ちを信じる強さも持てなかった。
今だって、好きな人をわたしが傷付けた。
「……っ」
視界がゆるんだと思ったら、見る間に殿下のお姿がぼやけて見えなくなりました。
喉をこみ上げる嗚咽が止まらず、ずっとこらえていた感情の堰が切ってあふれたようです。
わたしは、自分がふきこぼすように涙を流しているのに気が付きました。
「……エリィ」
少し驚いたようなつぶやきと、急いで歩を詰めた殿下の腕がわたしを抱きしめました。
再び、何度もなだめるように謝られましたが、わたしは首をふって殿下の胸にしがみついていました。
わたしだけの、安心する居場所でした。
予報
次話では砂吐き注意報が発令されることでしょう。ご注意ください。