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二幕─1



 二幕─1



 三日ほど何事もなく過ぎました。わたしは一通の書状を受け取り、朝食の席で父と兄に今日の予定を告げました。


「───テオドールさまから?」


 兄の声にわたしはうなずきました。

「王宮書庫室から辞書をお借りしたままだったのです。返却に行ってまいります」


 ほかに借りた本はなかったか、わたしは記憶を洗います。

 王宮へ上がるようになってから、私室としてお借りしていた部屋もありました。つらい作業ですが、早めに片付けなければなりません。


 兄はなにかを考える仕草をしていましたが、そこに父が声をかけてきました。

「あー………、エリィ。ものは相談なのだが」

「はい」


 常には鷹揚でのほほんとした性格の父が、わたしに相談とはめずらしいこともあります。


 四十半ばの父の焦げ茶色の髪には、白いものが混じりはじめたようです。

 父は以前まではテオドールさまの下で王宮書庫室の一役人(閑職に近いです)を勤めていたのですが、わたしがクリストファー殿下の婚約者に選ばれてから、婚家の父親が一役人では格好がつかないと大人の事情で財務省の大臣職に抜擢されていました。

 ちなみに兄も同様で、宰相補佐役として日々忙しくしているようです。


 あらためてわたしは、家族にもふりかけてしまった負荷に申し訳なく思いました。


「少し前から、領地のお祖父さまから手紙が来ていただろう。久しくあちらには戻っていなかったし、どうだろう。私もフレッドも休暇を取るから、皆で領地に戻るというのは」

「───父上」

 と返したのは兄のアルフレッドです。父をたしなめるような厳しいご様子です。


 わたしは首をかしげながら父の提案を吟味しました。そして、それはなかなか悪くないことのように思われました。



 領地には爵位を父に譲って隠棲した祖父がおります。十八の成人辺りから、たしかに祖父から帰省をうながす手紙をいただいていました。

 殿下との婚約解消は時間の問題としても、しばらく王都はわたしにとって居心地のよくない場所になるでしょう。なにより、殿下の新しいご婚約者さまを近くで見なくてもよくなります。


 ───逃げ、と言われても、わたしはこの閉塞した想いの行き場を求めていました。

「………ですが、お父さまもお兄さまも、休暇を取れるのですか?」


 なにやら言い争っていた二人にわたしは割り込みました。


 王宮に上がってから、わたしは父とも兄とも帰りを共にできた例がありません。

 以前のぞいてみた二人の職場机には、それはもう見事な、いまにもなだれ落ちそうな書類の山が芸術的に積まれていました。お二人の仕事量が書庫室勤めの時の比でないのは、容易に想像がつきます。


 以前とは畑違いの役職を、それでも文句や愚痴も言わずにこなしているお二人には、ほんとうに頭が上がりません。


 父はやはり、のほほんと答えました。

「心配いらないよ。実はすでに申請済みだからね。休暇は大事だ。人の時間(と読める本)には限りがあるんだからね」


 ………なぜでしょう。言葉の合間に違う願望が見え隠れしたのは。

 ニコニコ顔の父の頭の中が、好きな書物に囲まれてほくほくと満足げに過ごす姿があからさまに透けて見えるのは。


 アルフレッド兄さまは処置なし、というふうにため息をつかれていらっしゃいました。




 ~・~・~・~・~



 父と兄と王宮に上がったわたしは、あまり立ち入ったことのないお役所関連の棟が並ぶ造りに、まごついていました。

 ふだんは殿下の許可をいただいて王族専用の通路から上がりますし、逢う人たちも限られています。ですから、わたしの顔を見知っている者も少ないでしょう。


 父と兄は馬車溜りに降りたとたん、待ち構えていた方々にあれよあれよと言う間に執務室へ担ぎ込まれてしまいました。お役所はとても忙しい所のようです。あのご様子でほんとうに休暇申請が下りるのでしょうか。



「───クリストファー殿下が?」


 唐突に飛び込んできたお名前に、心構えができていなかったわたしは内心飛び上がりました。


 開いたままの扉から忙しなく動き回る人の気配と書類の音、合間に会話が飛び込んできます。


「ありえないだろ、それ」

「いや、でもさ。カスール伯爵家に殿下の使いが行ったって話だぜ。カスール伯爵家って言ったら、あのアイリーン嬢の本家筋だろ」

「マジか。じゃあ本気で、殿下はベルンシュタインの妖精姫と婚約解消してアイリーン嬢に乗り換えるのか?」


「えぇ?先輩、それウソくさくないですか。僕はパルカス子爵家の者がやたら吹聴してただけ、って聞いてますけど」

「いやぁ、でもオレ見ちゃったんだよな。殿下がアイリーン嬢と逢引っぽいことしてる現場」

「あ、侍女たちの間でも話題だぜ。殿下もやっぱり一人の男だったってことかねえ」


「それにさ、侍女の間で妙なうわさが飛び交ってんだよな。あの妖精姫がアイリーン嬢を妬んで色んな嫌がらせしてるとかなんとか」

「まさか。それこそガセだろ」

 だよなあ、とまだ続く会話を後に、わたしはそっと歩を進めました。



 不明瞭な単語もありましたが、王宮に勤める者たちの関心事はもっぱら殿下とアイリーン嬢の関係、そしてわたしの存在のようです。


 王宮内ではごく限られた者としか関わらず、うわさ話には疎いわたしの耳にもアイリーン嬢の話は入ってきましたから、実はもっと前から殿下との関係は知る人ぞ知るところだったのかも知れません。

 わたしだけがのほほんと本を読んで、なにも知らなかったようです。



 鬱々と考え込みました。

 わたしは現状から逃げることしか考えていませんでしたが、このままではせっかく築いてこられたクリストファー殿下の評判までもが地に落ちてしまいます。それはサウズリンド王国のためにも好ましからざる事態です。

 現状打開のためにはやはり、殿下とわたしの婚約解消を早々に公表すべきでしょうが、侯爵家からそれを申し出ることはできません。よほどのことでもなければ。



 思い悩んで、どなたかに相談すべきだろうと考えに至ったところで、目前の扉が忙しなく開かれました。

「───物証は押さえましたか」

「倉庫は第三警備隊が包囲していました。ですが、未明に川船が何艘かウルタール方面に向かったと報告が来ています」


 物々しい様子ながらも慇懃な態度を崩さなかった青年の怜悧な双眸が、それは冷ややかな色に染まりました。

「王都警備隊は間抜け揃いですか。ネヴィル河川の倉庫を見張らせて、船を警戒していなかったと?」

「い、いえ!河口付近に先回りして兵を配置済です。グレン隊長が一網打尽にすると!」

「脳筋も三日不眠不休にすると、ない知恵が回るようですね」


 ───氷の貴公子あらため、魔王の使いのような微笑が整ったお顔に浮かびました。そして、その視線が逃げ遅れた生贄(子羊)に止められました。


「おや、エリアーナ嬢。お暇そうでなによりです。おかげさまで宮廷各庁は目の回る忙しさです。書庫室へ行かれるついでにこちらもお願いします。途中、宮内省へこの書簡を渡して過去五年間の人事録一覧と再編成を午後までに再提出するようお伝えいただき、ふざけた考案は薪の足しにもならない───と、お伝えいただけますか」


 いつものアレクセイさまに輪をかけて鬼気迫るご様子でした。よくよく見れば蒼氷色の眸はうっすらと充血し、白皙の肌にもお疲れの色が見えます。

 ただならぬ案件でもあったのでしょうか。


 目をしばたたかせている間に、わたしはあれもこれもとアレクセイさまから雑用を仰せつかっていました。彼の部下は申し訳なさそうな顔をしながらも、進んで身代わりになる漢気はないようでした。



 本を返却して私室を片付けるだけのはずが、おかしな展開です。

 ……いえ、通常運転でしょうか?

 わたしはようやく、道のわかる王宮中央の大階段をえっちらおっちら、上がっていました。

 その時でした。



「キャ───アァァッ………!!」



 背後で大きな悲鳴が上がると、なにかが転がり落ちる物音がしました。


 ビックリしてふりかえったわたしの視界に、階段を転げ落ちたらしい女性の姿が見えました。やわらかな栗色の髪が身体を覆うように広がり、投げ出された手足や倒れ伏した様が痛々しく安否が気遣われます。


 わたしが急いで階下にかけつけるより早く、

「アイリーン………!」

 と、またも轟くような悲鳴でかけ寄る男性の姿がありました。


「アイリーン!アイリーン、しっかりして………!」

 悲痛な声で叫ぶのは、蜂蜜のような金褐色の髪に甘い顔立ちをした、少年とも見紛う線の細い青年でした。

「アイリーン!なんでこんな………!」



 いえ。嘆かれる前に医師を呼ぶべきでは。


 人を呼ぼうと視線を移せば、ただならぬ大音声にすでに周辺から人が集まっていました。女性の安否を確かめるために人がかけ寄り、医師を呼ぶ声が行き交います。

 その中でゆっくり、アイリーン嬢が意識を取り戻しました。蜂蜜色の青年に抱き起こされるや、身をふるわせてその腕にすがりつきます。



「エリアーナさまが………エリアーナさまが、私を!」

 ……………はい?



 階下の視線がいっせいに───アイリーン嬢をのぞいて非難の色を宿して上げられます。

 わたしは目を瞠って突っ立ったままでした。





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