お邪魔虫─7
翌日のことでした。
わたしはシャロンさまから、グレンさまのことでご相談したい、という申し出を受けて、王宮内にある私室へお招きしました。
シャロンさまの供には女騎士のエレンさまが付き添っており、わたしの部屋付きの侍女たちがお茶を淹れながらチラチラと気にしています。
同性に惹かれるのはどういう心境なのかしらと思いながら、シャロンさまと社交辞令の会話を交わすことしばし──。
はじめはにこやかに愛らしい笑顔をふりまいていたシャロンさまの顔が、とまどったような瞬きから徐々に困惑がちなものになってきました。しまいには、ふしぎそうな顔でわたしはたずね返されてしまいました。
「あの……エリアーナさま。すごく専門的なお話ですが……私は園芸が趣味だと、どなたからかお聞きになられたのですか?」
それに、とシャロンさまは若葉色の眸を困惑で瞬かせています。
「サウズリンドはたしかに、ミゼラルより冬が厳しい国だとはお聞きしていましたが……毛皮の防虫効果のお話を私にされても……」
あら、とわたしも恥じ入る思いでした。シャロンさまが口にされていたのを耳にしたので、ご興味があるのかと話題に出してしまいましたが、勘違いだったようです。
シャロンさまはさらに、近くで笑いをかみ殺しているエレンさまを不審そうに見やって、おもむろに人払いを頼んできました。本題のグレンさまのことだろうと、わたしも侍女たちを下がらせます。
エレンさまだけは、いやにじっとシャロンさまを見返されていましたが、シャロンさまはすました顔で、
「エリアーナさまに相談事があるのよ。下がって、エレン」と令嬢然と返していました。
そうして二人になった室内で、シャロンさまは愛らしい笑みを向けてきます。
わたしも、乗り気ではない婚約話ならば自分になにができるかしら、と思いめぐらせながら小さな少女に向き合ったそこで、飛び出してきた言葉でした。
「私、まどろっこしいのは嫌いなの。エリアーナさま」
はい、とうなずきそうになって、ガラリと雰囲気の変わった少女に、わたしは目をしばたたかせました。シャロンさまは愛らしい笑顔を浮かべたままです。
「時間もないことだし、率直に申し上げますね。聖夜の祝宴で、クリストファー殿下のパートナーを私に代わってほしいの」
「は、い……?」
「ミゼラル公国の人間である私がクリストファー殿下のパートナーとして出れば、殿下はやはり、ミレーユ姉さまを尊重しているのだと皆にもわかるでしょう? 今後の流れとして、やっぱりそれが最善だと思うの」
わたしは自分でも瞬きの回数が増えているのがわかりました。
「あの……シャロンさまは、グレンさまのパートナーをどうするのか、ご相談のためにいらっしゃったのでは……?」
シャロンさまの顔が嫌そうに引きつり、わたしは無言で、はあ? と返された気がしました。
「エリアーナさま。私、グレンさまには興味ないの。いくら将来有望でも、女の影が絶えない男なんてごめんだわ。だいたい、赤毛の家と縁付いたりしたら、また赤毛の子が生まれるじゃない。そんなの冗談じゃないわ。ただでさえ私の赤毛が……って、私の話はいいのよ」
コホンと咳払いをして、シャロンさまは同じ話をあらためられます。
「ご正妃がエリアーナさまなのは、もう仕方がないって、私もわかっているわ。お触れも出てしまったし、ミレーユ姉さまは白い結婚だったとは言え、一度は嫁がれた身だから。でも、クリストファー殿下とミレーユ姉さまが元の鞘におさまれば、すべては元通りなのよ。わかるでしょう? エリアーナさま」
ポカン、と口を開けそうになって、わたしはあわててひとつ息を呑みました。
「ええと……すべては元通り、とは?」
「もうっ。見かけどおり鈍い方ね。この前ちゃんと、匂わせて差し上げたでしょう。クリストファー殿下から、お聞きしていないの?」
「殿下から?」
わたしがひっしに頭を働かせていると、シャロンさまは大きくうなずきます。
「『ユールの恋人』よ。クリストファー殿下と、ミレーユ姉さまの恋物語。──幼い頃から想い合っていた姫君と隣国の王子。将来を約束した仲だったのに、悪者の手によって引き裂かれ、王子には二人の仲を邪魔する婚約者があてがわれて、姫君は年老いた男に無理やり嫁がされてしまうの。二人の仲は絶望的かと思われたその時! 姫君が女神に愛されたユールの乙女だと判明して、女神の加護によって姫君の貞潔は守られ、悪者も邪魔な婚約者も退治されて、姫君は王子のもとへ嫁いで二人はいつまでも幸せに暮らすの──」
うっとりと、両手を組み合わせたシャロンさまは、年相応の夢見る乙女の愛らしさです。
わたしはおそらく、この短時間で過去最高の瞬きの回数を数えていると思われます。
なんとお答えしたものか、今までにない例、というだけではなく、物語に入れ込む思いの強さを目の当たりにして、反面教師の気分です。
反応に迷っていると、シャロンさまは少し我に返ったように小さく咳払いをしました。
「ミゼラルでは、この本がとても評判なの。だれもが、この本のモデルはクリストファー殿下とミレーユ姉さまだと承知しているわ。そして、二人が物語のように結ばれて幸せになることを望んでいるの。──もともと、殿下とミレーユ姉さまは六年前に婚約寸前だったのに、それがなぜか流れて、どこのだれとも知れない家のご令嬢が殿下のお相手に上がったのだもの。おかしな話だって、だれもがそう思っていたわ」
わたしは内心、なるほど、と変に感心してしまいました。
我が家は本好き以外に特出したところのない、弱小貴族です。他国の人から見たら、ポッと出た婚約者はどこの家のだれとも知れぬ、怪しい人間に映るのかも知れません。──いくら、殿下が望んでくれて婚約者になったのだと言っても。
「だからね? エリアーナさま。歪な関係は正されるべきだわ。あなたの人気がサウズリンド国内ではそこそこあるらしいのは、私も聞いているけれど……。でも、あなたでは殿下のお荷物になるだけだわ。だからもう、殿下を解放してミレーユ姉さまに後を任せてほしいの」
「殿下を解放……ですか?」
ええ、とシャロンさまは迷いなくうなずかれます。
「ミレーユ姉さまなら、殿下の側室候補も、宮廷内の貴族たちだって、きれいに押さえてみせるわ。ミゼラル公国の後ろ盾で、殿下を支えていくこともできる。──あなたは? エリアーナさま」
コクリ、と小さく息を呑みました。
殿下の足を引っ張り、お荷物になるだけの婚約者──。
シャロンさまの微笑は、無邪気な少女特有の愛らしさと残酷さをはらんだものに映りました。
「虫かぶり姫のエリアーナさまは、本だけ読んでいるお飾りのご正妃さまでいいわ。実質的な正妃の務めは、形式上、側室として上がるミレーユ姉さまがこなすから。──お分かりになるでしょう? エリアーナさま。物語のお邪魔虫であるあなたからクリストファー殿下を解き放って、本来の主役であるミレーユ姉さまに、あるべき座を明け渡すの。それが、物語としてふさわしい姿だわ」
それがさも、当然である、と信じて疑わない眼差しに、わたしはただ、なさけなくも呑まれていました。
その後もシャロンさまは殿下のパートナーの話やミレーユさまが嫁いでくる今後の流れなどを口にされていましたが、反応の薄いわたしにややして鼻白んだようになり、「考えておいてくださいね」と話を締めくくって部屋を後にされました。
わたしはおそらく、しばらく呆然としていたのだと思います。気が付けば、王宮書庫室の書棚の前にいました。
いつ、ここにやって来たのかも定かではありません。
きれいに背表紙の並んだ書架をながめて、いつもなら語りかけてくるような書物の息吹が、なにも感じられないのにも気が付きました。
この症状は、以前にも味わったことがあります。殿下との婚約が解消されるのだと、そう思ったあの時でした。
未知の世界が目の前には広がっているというのに、ちっとも心が動かない。わたしの中の探究心や憧れ、書物に対する尊敬の念、物語の中に入り込む心躍る一時。それらがすべて、消え失せてしまっています。
大好きな書物の前で、こんな空虚な気持ちになっていることが、悲しくて仕方ありませんでした。
今は殿下との婚約が解消されるわけでも、おそばにいられなくなるわけでもないのに……。
けれど、衝撃を受けている理由には、自分でも気が付いていました。
──今この時に、殿下の側室問題が取り沙汰されるようになった理由。
それは、ミゼラル公国で殿下とミレーユさまの仲が評判になっていたからだったのです。王妃さまもおっしゃっていました。『ミゼラル公国から客人が来ているから、ちょうどよい機会』だと。アグネスが言っていた、一度はおとなしくなったダウナー伯爵家が今側室候補を上げてきたのも、ミレーユさまが側室になられる話が広まっていたからだったのでしょう。
知らなかったのは、わたしだけ。
「…………」
いえ。それがショックだったのではありません。シャロンさまのお話を鵜呑みにしているわけでもありません。
殿下が側室を迎え入れられる気があるのかどうか──それは、殿下にお聞きしてみなければわからないことです。
わたしが今傷付いているのは、現実を見ていなかった自分にでした。
殿下の側室問題が上がっても、わたしはどちらかと言えば自身の失態のほうに気を取られていて、殿下の側室問題を身近に迫ったこととして捉えられていなかったのです。
それは、わたしが殿下のお気持ちの上にあぐらをかいていたからでしょうか。気持ちが通い合った自信からくる驕りでしょうか。
クリストファー殿下は、今でもミレーユさまと繋がりを持っていらっしゃるようなのに。
「お邪魔虫……」
物語の中の邪魔な存在。ヒーローとヒロインの仲を邪魔する、わずらわしい存在。
──クリストファー殿下とミレーユさまが幼い頃から想い合っていて、それをわたしが邪魔したのだとしたら……?
ぎゅっと両手をにぎりしめました。小さく強く、かぶりをふります。
一人で思い悩んで、一人で勝手に思い込むのは、わたしの悪いクセです。きちんと殿下に聞いてみなければなりません。
でも──それでもし、うなずかれてしまったら……?
「……っ」
息も止まりそうな胸元を、ひっしに押さえてこらえました。
虫かぶり姫のわたしが、書物の前でこんなになさけない体たらく。偉大なる先人たちの前で、ほんとうに不甲斐ない限りです。
──殿下のおそばにいたい。
想いが通じ合ってから、その気持ちだけを胸に、殿下の隣にふさわしくあろうとひっしにやってきました。
でも、現実が見えていなかった虫かぶり姫は、やはり何も変わらないままで──。
わかっていたつもり。理解していたつもり。
実際にその問題が身近に迫ると、こんなにも取り乱して何も手に付かなくなる。史実として有り得ることだと理解していても、我が身のこととして降りかかってくると、醜い感情ばかりが先走ってしまう。
どうしたらいいのかわからず、答えを求めるように静かな背表紙をながめました。
そうして、ふいにアンリエッタ王妃さまが思い浮かびます。同じ状況に立たされた時、アンリエッタさまはどうされたのか。
それをお聞きしてみたい、とわたしは踵を返し書庫室を後にしかけ、──はた、と足を止めました。
一人で対処できない婚約者は、クリストファー殿下の隣にふさわしくないと思われたら──?
再び、わたしはとほうに暮れてしまいました。
王宮内で頼れる人──と思い浮かべて、いやに家が恋しく、父や兄や、わたしを小さな頃から知っている家人たちの顔が浮かんで、家に帰りたくて仕方なくなります。
今のわたしはもう、公務を放り出して好き勝手できる身分ではないのに。
胸元をぎゅっと押さえ、わたしは兄の顔を見て安心するために、足をそちらへ向けました。
お役所関連の棟や重臣の方々の執務室の辺りを一通りまわってみますが、兄の姿が見当りません。宰相さまの補佐役ですから、お忙しい陛下の近くかも、と思い、そうすると、ただ心細いからという理由で多忙な人々をわずらわせるのは申し訳なくなりました。
あてもなく王宮内をウロウロとし、ようやく回廊の向こうに兄の姿を見つけます。小走りにかけ寄りかけて、兄がだれかと話をしているのにも気付きました。
濃紺色の髪の持ち主は、アンナさまです。同色の眸がビックリしたように見開かれており、内心首をかしげたわたしにも、兄の声が聞こえてきました。
「もう一度言います。──アンナ・ヘイドン伯爵令嬢。聖夜の祝宴に、僕のパートナーとして出席していただけませんか」
わたしも目を見開きました。アンナさまのとまどったような、兄の名を呼ぶ声も聞こえます。
常に柔和な印象の声音が、今は緊張をはらんで真剣に紡がれました。
「僕は本気です。アンナ嬢。僕は、一人の異性として、あなたに惹かれています。──パートナーに、なっていただけませんか」
ためらったようなアンナさまの気配があり、わたしはそっと、二人に気付かれないようにその場から立ち去りました。
なんだか色々なことが立て続けに起こって、グルグルとわたしの思考も落ち着きません。けれど先よりもずっと、胸にポッカリ空洞ができたようにさみしさがつのっているのはわかりました。
聖夜の祝宴が押し迫る王宮内は、皆があわただしく準備に追われています。その中で一人、わたしだけが自分の居場所がわからずにとほうに暮れていました。
~・~・~・~・~
「──だからー、無茶言わないでよ、クリスさま。人間の行動範囲には限界ってものがあるの。ボクの耳は、エリアーナさまが読んでたサーカスの小象のように大きくないの。他国のことなんだから、調べるのに時間がかかるのは仕方ないでしょー」
「無駄口叩いている暇があったら、諜報部と連携を密にしろ。なんのための音の聡耳だ」
「そんな昔の呼び名持ち出さないでよー。今のボクの聴覚は音楽の女神に捧げてるの。こっちだって聖夜の祝宴の準備の合間を縫ってるんだから、多少後手にまわるのは大目に見てほしいよ。過重労働で訴えるからね」
「ッハ。やってみろ。どうせ上がってくるのは私のところだ。にぎりつぶしてやる」
「うっわ。横暴君主。権力乱用。黒色職場。守れ、労働者の基本的人権。打倒、不当残業。打倒、専制政治。クリスさまの耳はロバの耳!」
「エリィの真似すればなんでも許されると思うなよ、アラン」
殿下の怒気を秘めたお声が扉の先から流れてきます。
先日と同じ光景でした。
扉を開けた状態でわたしに気付いた侍従の方が、来訪を告げようとして執務室にあきれた目線を送っています。室内からは続けて、冷え冷えとしたアレクセイさまのお声や、たじろぐグレンさまの声などが聞こえてきました。
アズール地方の橋梁工事の事故を見舞って、急ぎ戻られた殿下や側近の方々に変わった様子は見受けられません。至って通常通りの、わたしもよく知る雰囲気──。
侍従の方に断って、わたしも戸口に失礼しました。
先日のように殿下の勢いに流される前に、きちんと聞いてみなければなりません。ご側室を迎え入れられる予定があるのかどうか。そしてそれは、──ミレーユさまなのか。
戸口に立ったわたしに気付いた殿下が、厳しい顔つきから一転して面をほころばせます。
わたしの名が紡がれる雰囲気に先んじて、言葉が飛び出していました。
「──殿下。成婚の儀を、延期していただけませんか」
殿下の顔が一瞬で凍り付き、わたしもハッと口元を押さえました。
わたしは今、いったいなにを口走ったのでしょう。
それと同時に室内が一瞬で──まるで、生物の呼吸が絶えたかのような空恐ろしい沈黙で占められました。
それは月食の夜のような、まったき闇夜が降りかかったような、生き物の気配が感じられない重苦しさ。
大きく見開かれた青い眸がわたしを凝視しており、整った口元が動きかけて、わたしは耐えられずに頭を下げました。
「申し訳ありません!」
そのまま、逃げるように殿下の執務室を後にしました。踏みとどまることはできませんでした。
※3/22 ラスト部分をちょっぴり書き直しています。申し訳ありません。