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お邪魔虫─6





 ふう、とため息の声にわたしはハッと目を上げました。

 聖夜の祝宴の手順を説明していた女官のアグネスが書類をパタリと閉じます。


「気が散っているようですね。エリアーナさま」


 王宮内にある、わたし用にあてがわれた私室でした。集中を欠いていたことを指摘され、申し訳ない気持ちで謝罪します。

 対面に座したアグネスはいつも通り表情を動かすことなく、わたしの気懸りを指摘しはじめました。


「王妃さまが示唆された、殿下のご側室問題を気にされているのですか」


 すぐに喉が上下してしまうわたしは、ほんとうに腹芸が向いていません。アグネスは少し間を置くと、

「王妃さまはお話されないと思いますので、お教えしておきますが……」と前置きをしました。


 眸を上げた先で、アグネスの真っすぐな視線と合います。


「ダウナー子爵夫人がご息女のマティルダさまを売り込んでいるのは、ご自分が果たせなかった夢を娘に託しているのだと思います」

「え……」

「子爵夫人は、元は陛下の婚約者候補でもありましたから。アンリエッタさまに適わなかったのは後見力の差だけだと、当時口にされていましたね。陛下の側室問題が上がった時にはすでにご結婚されていましたが、離縁する騒ぎもあったとか」


 わたしは少し目をしばたたきました。

 ダウナー子爵夫人が少々困った方なのは、わたしも四年前から存じ上げていました。お茶会や夜会など、社交の場でやたらと王妃さまと張り合おうとする姿勢を見せられるのです。王妃さまも快くは思っていらっしゃらないようでしたが、政治的背景を慮って当たり障りなく対応されていました。

 アグネスは静かに状況を分析します。


「あの家は一度、エリアーナさまの評判と優秀さが定着するにつれておとなしくなったのですが……。エリアーナさまのお父君、ベルンシュタイン侯爵は毎年軍事予算を抑えられていますので、軍部関係者からよく思われていません。ダウナー伯爵が気炎を上げているのも、宮廷内のバランスを取るように──ご自分の孫を側室として上げるように、殿下に迫られているみたいですね」


 ぎゅっと、心臓が氷の手でつかまれたような気分でした。


 たしかに、財務大臣を務める文官寄りの父と、富国強兵を声高に叫ぶ軍部とは以前からそりが合わないと聞きます。調和を取るために、そういった方法があることは理解していたつもりでした。

 アグネスの眸は静かにわたしに問いかけてきます。


「それで、エリアーナさま。あなたさまはどうされますか」

「どう、とは……」

「本をよく読んでいらっしゃるエリアーナさまなら、お分かりでしょう。王妃さまから指摘されるまでもなく、歴代の王者に側室問題は不可欠です。継嗣の有無に関わらず──。あなたさまは、殿下の側室を受け容れられるのですか」

「わたしは──」


 反射的に飛び出しかけた言葉を押し込めるように、ぎゅっと膝上の手をにぎりしめました。

 アンリエッタさまから話された時から、ずっと胸にあった想い。ひどく醜い、私欲まみれの想い──。


 しかしそれを、今のわたしが口にしていいのでしょうか。殿下の足を引っ張り、お荷物になるだけの婚約者が──。


 言葉にならずに唇を引き締めたわたしですが、答えを待つ沈黙ではなく、心が落ち着くのを待ってくれるような間がただよいました。

 アグネスの静かな問いが続きます。


「もうひとつ。エリアーナさま」

 いつの間にか落としていた眸を上げると、深い静かな眼差しに合いました。


「あなたさまの情報がもれた件ですが──後宮勤めの侍女を疑われますか?」

 反射的に言葉が飛び出していました。考えるより先に出た声でした。


「いいえ」


 サラたち、後宮勤めの年若い侍女たちの顔が浮かびます。

 四年前──、殿下の婚約者に上がったばかりの頃から、わたしは王家の方々の心を感じ取ることができました。王宮務めの侍女や下働きの者たちなど、彼らの出自は十五年前の、“灰色の悪夢”で親や子を亡くし、または一家の働き手を亡くした女性や子どもたちが積極的に採用されていたのです。

 王宮、という、国の顔である主要な場所で、国難に遭った民を優先して受け容れているサウズリンド王家の有り様に、あの時のわたしは心を打たれました。


 それゆえに──見せかけの関係であろうと、殿下や王家の名を辱めない婚約者であろうと、あの頃のわたしは思い定めたのです。

 今、あの頃とは異なる心構えでいても、あの時に感じた思いに偽りはありません。


「王家の方を裏切るような行為を、彼女たちがするとは思えません。もし──わたしに含みある者がいるのだとしても、王妃さまの名を汚すような真似は、絶対にしないはずです」


 それは必然的に、後宮を取り仕切る王妃さまの責任問題になってしまうのですから。


 ……わたしの考えは、ただの願望です。正確に言うのなら、思えない、ではなく、信じたい、という人の善意によった考えです。

 そんな綺麗事だけの世界ではないことも……残念ながら、王家に忠誠を尽くす人ばかりではないことも、理解しています。だからこそ、一度は浮かんだ疑念でした。


 けれどあらためて問われると、反射的に浮かんでくるのは、否定の声です。

 甘いと言われても、夢見がちな願望だと思われても。

 民を思わずに、民を信じずに、国を導こうとする王がどこにいるでしょう。


「何かを成し遂げる時に、裏切りを考えて躊躇するようでは、正道は歩めません。人にどう思われるのかを考えるのではなく、民のために何ができるのか。何を為すべきか。──常にそれを念頭に置くのが、人の上に立つ者のあるべき姿だと、わたしは思います」


 口にしてから、わたしは自身で発した言葉にハッとしました。

 人にどう思われるのかではなく、何を為すべきか──。


 フッと対面で小さな失笑がもれ、目を戻した先で無表情が常備のアグネスがわずかに相好を崩していました。室内からも小さな笑いがもれており、控えていた侍女たちのものだと知ります。


 わたしはにわかに赤面する思いでした。何かを成し遂げたわけでもないわたしが、ずいぶんと偉そうな口を叩いたものです。


「──エリアーナさま」


 笑いをおさめたアグネスはいつもの無表情のようでいて、目元がやさしく感じられました。


「あなたさまには、あなたさまの強みがある。常に、それを忘れられないことです」


 え、とわたしはそれを訊き返したくて仕方ありませんでした。

 今つかみかけた何か。自分を支えてくれるそれがあれば、内にいる弱い自分にだって立ち向かえるかも知れないのに、と。


 けれど、アグネスは一転して姿勢をあらためると、いつも通り隙のない様子で書類を開きはじめました。

 雑談は終わりと、ならった雰囲気でわたしも質問はあきらめ、気持ちを切り替えました。





 ~・~・~・~・~




 自分の中で整理できていない思いは多々ありましたが、これ以上先延ばしはできないと、意を決して殿下の執務室へ向かいました。


 昨日は結局、逃げるように殿下の執務室を後にし、夜の他国の大使を交えた夕食会にはどうにか出席しましたが、多忙な殿下とは逢えず仕舞いでした。

 そのことに安堵と失望を覚えてしまったわたしは、ほんとうに自分でもどっちつかずです。


 殿下にお逢いしたい。──けれど、逢うのが怖い。


 わたしの失言のことや、夜会でのことや、宮廷内の動きなど──話し合わなければならないことはたくさんあります。


 なのに。

 頭の中にどうしてもあの方のによる字が焼き付いていて、お逢いしたこともない方に対して、わたしの胸はどうしようもなく騒いでいました。


 今殿下にお逢いしたら、わたしはなにを口走るのでしょう。

 けれど、このままではいけないということは、虫かぶり姫のわたしにもわかります。これでは、わたしは春先の一件からなにも変わっていません。殿下と他の女性の親密そうな光景を見て、独りよがりな思い込みをした時と、なにも。


 あの時と今は、違います。殿下のお気持ちを疑うことはしないと、夏にも約束をしました。

 殿下にお逢いしてきちんと話をするべきだと覚悟を決めて、臆病な自分を叱咤する思いで、わたしは執務室へ臨みました。


 衛兵はいつも通り気安く扉を開けてくれます。その雰囲気から、殿下が在室中なのはわかりました。


 執務室へ至る続きの間でわたしは少し深呼吸をします。

 なにをお話するべきか自分の中で順番を決めながら、ミレーユさまのことをおたずねするべきかどうか……逡巡が浮かびます。気にかかるのだから訊いてみなければ、と両手をにぎりしめるものの……でも、もしも──と、ここに来てまたもひるむ思いが顔をのぞかせます。


 足がすくんでしまったそこで、目前の扉が開き、書類を抱えた侍従の方が姿を見せました。殿下付きの古参のそのお方は、わたしを認めて親しげにほほ笑んでくれます。扉の先から殿下のお声が聞こえました。


「──テッセン川の工事現場で事故?」


 厳しい声が続いて状況は、とたずねています。


「橋桁の足場が崩れたことによる事故で、負傷者が数名出ています。現場責任者のウィルソン卿は経験の浅い若手ですから、もしかすると、現場の統率が取れていない可能性もあります」

「いや……ウィルソンはアズール地方の出身だ。土地の者にも顔が利くし、補佐に古株のグレッグをつけたはずだ。現場の齟齬はあまり考えにくい」

「殿下がウィルソン卿の意欲を買われたのは承知しています。しかし、その意欲が空回りしている可能性も考慮すべきです」


 アレクセイさまとのやり取りに、少し考え込む沈黙が落ちました。侍従の方も次の指示を待つように室内をふり返って動きが止まります。

 椅子から立ち上がる物音が続きました。


「現場の環境を見たい。アレク、私の予定を調整しろ。グレン、馬の準備」

「はぁ!? 今からアズール地方に行く気かよ。聖夜の祝宴はどうすんだ」

「三日あれば往復しても充分間に合う。私が直に見舞ったほうが現場の士気も上がる。つべこべ言わずに準備しろ」


 また強行軍……とグレンさまのうめくような嘆きの声が出、アレクセイさまの頭痛をこらえた諫言も出ます。

 殿下がわざわざ赴かれなくとも、と言いかけたそこで、一足早く戸口に姿を見せた殿下の声が上がりました。


「エリィ……!」


 殿下のお顔と声が喜色に輝いたのを見たと思った、次の瞬間──。

 わたしの視界は衣服の影にふさがれ、見知ったにおいとあたたかさに包まれていました。ゆるぎない力と息遣いに、一拍置いてわたしは殿下に抱きしめられたのだと悟ります。


「で、殿……」

 あわててもがいたわたしの動きを封じ込めるように、抱きしめる手に力がこもりました。頭上に降りかかるのは、やるせなさそうなため息です。


「……エリィが足りない……」


 さらに胸の奥深く抱え込まれ、殿下の鼓動と熱を感じてわたしも息が止まる想いでした。

 殿下の辛そうな、感情を抑えたつぶやきが続きます。


「同じ王宮内にいるのに、なんでこんなにエリィに逢えないんだ。だれかの陰謀か、何かの作為か──。危うく、もう少しでグレンに夜這いの作法を教わるところだった……」


 はい?

 身動ぎしたわたしとは別の方角から、「人聞きの悪いことを言うな!」という反論が聞こえます。アレクセイさまも同じく、「何が陰謀ですか。そもそも殿下が──」と、青筋が浮かぶ様が目に見える声が続き、わたしは耳をふさがれるように殿下のため息を聞きました。


「……恋人たちの逢瀬を邪魔するなんて、ほんとうに無粋なやつらだ。だから彼らは幼女を婚約者にあてがわれたり、冬場は寒々しくて近付きたくない男、と言われたり、日頃の行いがものを言うんだと思わない? エリィ」

 ……はい?

「で、殿下、あの……」


 アレクセイさまやグレンさまのなにかを言いつのる声も聞こえましたが、わたしは人前であることにあわてていました。

 しかたなさそうなため息で殿下は身を起こすと、周囲を意にも介さないやさしい眸で見つめてきました。


「全然時間が取れなくて、ごめんね。エリィ。ここまで忙しくなるとは想定していなかったんだけれど……年明けの休みまでには、必ず時間を作るからね」


 わたしは困惑で目をしばたたきました。なぜ期間が限定されているのでしょう。

 お話しなければいけない事柄があったのに、急いた雰囲気の殿下を引き留めるのはためらわれます。


 殿下が忙しくなった原因の一端を、わたしが作ってしまったかも知れないのですから。

 それに──お話をうかがう限り、たしかに負傷者が出ている事故ならば、殿下が直接見舞ったほうが現場の状況もよくなるでしょう。わたし個人のわずらい事で引き留めてはなりません。


 それなのに。

 わたしの手は意志に反して殿下の衣服をにぎりしめていました。

 殿下はそんなわたしに瞬いてフッとやさしく笑うと、わたしの頬に手を添えてきます。


「さみしかったの? エリィ」

「……っ」


 とたんに、わたしは真っ赤になって手を離していました。身体も後ずさったのですが、それを許されないように引き寄せられます。


 間近から、甘い青い眸がのぞき込んできました。殿下が口を開かれようとしたそこで、視野の外に置かれたお二人の声がはさまれます。


「行くなら行くでさっさと向かうぞ。冬の陽は落ちるのが早い」

「そうですね。無粋なお仕事がたまっていますから、イチャつく暇があったら、さっさと行って片付けてきてください」


 殿下の整った眉が寄ると、小さな舌打ちがもれました。わたしも落ち着かない心のまま、殿下の手をはずしてそっと身を引きます。

 殿下はため息で気持ちを切り替えられると、あざやかな眸でわたしを見つめ返してきました。


「エリィ。なんだか季節外れのヤブ蚊が飛んでいるけれど、害虫駆除は私の役目だ。手は打ってあるから心配しないで。エリィはなにも悪くないからね」

「殿下……」


 やはり、殿下はすべてをご存知なのだと思うのと同時に、自身の不甲斐なさがなおさら身に迫りました。

 殿下の手がやさしくわたしの髪をなでており、お忙しい殿下にこれ以上負担をかけてはいけないと、わたしもなさけなさを押し込めて微笑を浮かべました。


「ありがとうございます、殿下。……お気を付けて、行ってらっしゃいませ」

「うん。あわただしくてごめんね、エリィ。すぐに戻るからね」


 名残惜しそうにわたしの髪から手を離すと、グレンさまとアレクセイさまを引き連れて、足早に室内を後にされました。

 やっと殿下にお逢いできたのに、逢う前よりも喉がつかえたような思いになった、わたしを残して。





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