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序幕─2



 序幕─二



「───エリアーナ嬢?」


 ふいにかけられた声にわたしは我に返りました。

 いつ自分は梯子から降りたのでしょう。表の笑い声もいつの間にか聞こえません。わたしは自分が放心していたことに気付きました。


「どうした?」


 なにかあったか、と深みのある低音のお声でたずねられるのは、王宮書庫室の管理責任者、現国王陛下の弟君であらせられる、テオドールさまです。

 陛下とはお歳の離れたご兄弟であるため、どちらかと言えばクリストファー殿下とご兄弟と言われたほうがしっくりきます。


 王家の一員でありながらいまだ独身を貫き、壮年の魅力を兼ね備えた人気の高いお方です。書庫室に出入りするようになってから、親しくお言葉を交わさせていただいてきました。



 あわててわたしが頭をふるより早く、抱えていた本と間近の梯子を見やって、テオドールさまは眉をひそめられました。

「上段の本を取る際には人を呼ぶよう、先日も言ったはずだが」


 たしかに貴族令嬢が自ら梯子の昇り降りをするなど、ほめられたことではありません。わたしは小さくなって謝りました。

 テオドールさまは嘆息されています。ここ最近、お忙しくされていらっしゃったのに、わたしまでもが嘆息をつかせてしまいました。


「今日きみが登城するとは聞いていないが。グレンはどうした?王宮内とはいえ、供の一人もつけずに出歩くのはやめなさい」

「はい………。申し訳ありません」

 出来の悪い生徒を叱る教師のようです。

 これまでテオドールさまは、わたしの貴族令嬢らしからぬ振る舞いも大目に見てくださったお一人でしたが、もういままでのようにはいかないということでしょう。


「殿下はきみが登城していることをご存知なのか?」

「………いえ」


 わたしはこの五日ほど王宮へ上がってはいませんでした。

 叔母が腰を痛めたため、その看病───という名の退屈しのぎ兼、話相手にかりだされたのです。おかげで読みたい本からも遠ざけられ、叔母お勧めの恋愛小説や恋の詩集を延々と朗読させられるという苦行に耐えておりました。


 今日やっと解放され、読みたかった本のために王宮書庫室へ足を踏み入れ、そして先の光景を目にする次第と相成ったわけです。



 テオドールさまはまたも嘆息をつかれました。そして今日は早く帰りなさい、とすげなくわたしを書庫室から追い出されました。



 さすがにわたしも胸がシクリと痛みました。テオドールさまは身内以外で唯一、書物の話題で話が合うお方です。実は今日もお逢いできたら、手にしていた本のことで教えを乞いたいと思っていました。


 トボトボとわたしは回廊を進みます。近い内にわたしは気安く王宮に上がることもなく、書庫室への出入りはもちろん、こうやってテオドールさまと書物談議を交わすこともなくなるのでしょう。



 クリストファー殿下の婚約者としてお側に上がってから四年。殿下のお側にいる方々とも交流を持たせていただきました。


 赤髪の騎士、グレンさまは人好きのする風貌の闊達なお方で、よく気さくに本の持ち運びを手伝ってくださいました。氷の貴公子、アレクセイさまは立ってる者は親でも使う信条の持ち主で、わたしも読書中以外は書類整理や伝令など小間使いのようにこき使われました。


 そしてクリストファー殿下を交えた四人、ないしは五人で雑談や軽口を交わしながら過ごす一時が、わたしがはじめて読書以外で楽しく、好ましいと思う時間でした。



 そう遠くない未来、わたしがいた場所はアイリーン嬢にとって代わられるのでしょう。

 いえ、もうすでにわたしの居場所はなくなっているのかも知れません。

 あのクリストファー殿下が、身内や側近以外の者の前で素のご自分を出されていたのですから。



「………あら、まあ」

 足を止めたわたしは胸元を押さえました。ポッカリと空洞が空いているような気がしたのです。

 そしてやっと、鈍いわたしでもショックを受けているのだと気が付きました。



 殿下が声をあげて笑われていたお姿が目に焼き付いて離れません。いつか、こんな日が来るのではないかと、漠然と思っていました。しかしやはり、実際にその時が来てみると、想像以上のショックがわたしを襲っていました。


 わたしはこの四年の間に、彼らとの関係、そしてその時間に、少なからぬ愛着を抱いていたようです。



 ───わたしは名ばかりの婚約者であり、いつか、殿下にほんとうにお好きな方ができた時、わたしはお役目を解かれるのだと。

 その時のための婚約者───。

 それがわたしのはずでした。




 変です。「虫かぶり姫」のわたしが泣きそうなほど胸が苦しいです。六歳の時に母を亡くした以来の喪失感が胸を占めます。


 わたしはそっと、こんな時にいつもわたしをなぐさめてくれる本をなでました。

 異国渡りの稀少本であるそれは、六日ほど前にクリストファー殿下がわたしにくださったものです。専門用語が多いため自宅で読破することができず、王宮書庫室へ辞書を借りに来ました。



『───あなたが喜ぶかと思って』


 殿下がきらきらしい笑顔で渡してくれた時のことが忘れられません。

 おそらく時間を割いて伝手を使い、苦労して手に入れてくださったのであろう稀少本に、わたしは感動していました。本の中身はもちろん、殿下がわたしのために手に入れてくれた気持ちが、とてもうれしかったのです。



 あの時の幸福な気持ちが思い起こされて、わたしは喪失感をなだめました。


 たとえ殿下に本命の、素を見せられるお相手ができたのだとしても、わたしとの婚約は解消されるのであっても、クリストファー殿下は心ない仕打ちをされるお方ではないと。

 婚約を解消されるその時を待つのではなく、自分の口で聞いてみようと思い立ちました。





 ~・~・~・~・~



 クリストファー殿下の執務室は、わたしが王宮書庫室の次に長く時間を過ごすお部屋でもあります。


 はじめは婚約者の身分に過ぎないわたしが立ち入るのは色々と問題があるはず、とお断りしていたのですが、

『───ここが一番、だれにも邪魔されることなく読書ができるはずだよ』

と言われてすごしてみると、なるほど、周囲の雑音にわずらわされることがまったくありませんでした。

 そこでもわたしは、殿下がはじめのお言葉を守ってくださっているのを感じることができました。



 顔見知りになっている衛兵に取り次ぎを頼もうとしますと、いやに慌てられています。大事なお客様でも見えられているのでしょうか。

 会談用の隣室の扉が開いて給仕の侍女が姿を見せた時、わたしも気が付きました。扉の先から、鈴を転がすような楽しげな声がもれています。


 その声の主を知って、わたしはすべてが遅きに失していたのだと悟りました。



 ふいに、胸に抱えていた稀少本が色褪せて無価値なものになりました。



 わたしは数瞬にも満たない間、自失していたようです。

 ふるえだしそうな息を静かにつくと、やはり狼狽していた侍女を制してその部屋へ失礼させていただきました。


「エリィ………!?」

 動揺もあらわに立ち上がったのは、クリストファー殿下でした。いつもはきれいに微笑まれるだけの鉄壁の王子さまが台無しです。


 わたしは身内しか呼ばない愛称を呼ばれたことに内心首をかしげましたが、まずは淑女の礼と無断の入室を詫びました。


「いや、かまわないが………きみは今日、叔母上の見舞いのはずじゃ」

 わたしは普段、あまり動かない表情筋がすべらかに笑顔を作るのを感じました。


「───殿下におかれましては、私の叔母の病状までお心配りいただき、感謝の念に堪えません。実は本日、小用がございまして、ご歓談中のところを失礼させていただきました」

「しょ、小用とは」

 めずらしく殿下が及び腰です。


 室内にはいつもの面子もおられて、グレンさまはなぜか片手で顔を覆われ、アレクセイさまは頭痛をこらえるようにこめかみに手を当てられています。

 もちろん、唯一の女性であるアイリーンさまは驚いた様子ながらも、わたしの登場におびえたお顔をされていました。



 けれどわたしはそのお三方のだれにも目を止めることはありませんでした。わたしが見つめていたのはクリストファー殿下、ただお一人でした。



 にっこりと、わたしはいつかの殿下を真似て、これきりであろう最大の笑顔を向けました。

「先日、殿下よりいただいたこの本ですが………お返しいたします」

「え………」

「もう、いりません」

 最後の笑顔を向け、本を卓に置くと一礼してわたしはその場を後にしました。

 追いかける声はありませんでした。




 家にもどったわたしは、かなりぼんやりしていたようです。帰宅した父や兄が部屋に訪ねてきたりもしましたが、気分が優れないから、と夕食も断って一人閉じこもっていました。


「虫かぶり姫」のわたしが、本を読む気にもなれません。

 いい加減、自身で認めるべきだと、わたしは暗くなった部屋で一人ため息をつきました。



 なぜ、クリストファー殿下が他の女性の前で素のご自分を見せられていたことにあれほど驚き、ショックを受けたのか。

 泣き出しそうなくらい胸が締め付けられ、苦しくてしかたなかったのか。

 今も、息をするたびに胸が痛んでしかたないのは、なぜなのか。



「………そうなのね」

 クリストファー殿下が好きだからです。



 いつからなんてわかりません。日差しに輝く金色の髪も、晴れ渡った青空のように澄んだ眸も、指示を出す時の凛々しいお声も、きらきらしく微笑まれる際立ったお貌立ちもお姿も───。


 思い出すだけで、胸が苦しくなるほどです。自分がこんなに愚かな人間だったなんて、はじめて知りました。

 悟ったフリをして、理解のある小利口な顔をして、その実、自身の心さえわかっていなかった、頭でっかちな「虫かぶり姫」。


 いくら本を読んでも先人の知識を学んでも、こんな時なんの役にも立ちません。気付くのが遅すぎました。

 自身の心さえ、ままならない。

 あまりの情けなさに、自嘲の笑みがこぼれます。



 これからどうしたらいいのかすら、わかりません。書物は、なにも答えてくれません。

 ただわかっているのは、この先殿下の隣にいるのは───天気のよい昼下がりに木漏れ日の下で乞われて本を朗読するのも、静かな雨の日に二人でお茶の時間を楽しむのも、そのすべての相手はわたしではないということです。



 わたしはなにをする気も起きず、ぼんやりと、夜が過ぎてゆくのを見つめていました。





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