花守り虫─3
三日目はあいにくの雨模様でした。
エイデル領にあるクライス公爵家の屋敷は古城も要した英雄王時代の砦跡が現存している、由緒あるお屋敷です。
ただ、古城のほうは現在は使われていないとの話で、数十年前に建てられた邸宅のほうに客人は滞在していました。
このお天気ですので狩りに出掛けられる殿方の数も少なく───それでも、近衛隊の幾人かとヘイドン辺境伯などは出掛けられたそうですが、広大なお屋敷のあちらこちらに人の姿が見られました。
さながら、宮廷の社交場が一時、場を移したかのようです。
様々なお茶会の誘いを婉曲に避けて、わたしは図書室へ避難しました。
本の存在とにおい、静謐な中に眠る知識と物語の息吹は、なによりもわたしを安らがせ、胸をときめかせます。
しばし読書で時間を過ごして、ふと、年期の入った一冊に目を止めました。手にとってみると装丁も危ういほど傷んでおり、修繕が必要な刺繍に関する本です。そっと開いてみると、女性のたおやかな字で署名がありました。
───レディバード・シルヴィア。
本の持ち主でしょうか。クライス家の中にそういったお名前の方はいなかったように思いますが。
修繕が必要な書物はわたしにとって傷病人も同然です。胸に抱えて足を返しますと、どこからか話し声が聞こえてきました。
「───そうもったいぶるなよ」
不穏な言葉に少し足を止めます。そっと書架の間からのぞくと、アンナさまが一人の男性に言い寄られているところでした。
「悪くない話だろ?スイラン織に群がってる商人なんて、しょせん日和見だ。流行が廃れりゃ、見向きもしなくなる。その点、俺はれっきとした貴族出だ。辺境伯と縁を結ぶのは両家にとって得になりこそすれ、損にはならない。あんたが一言、うなずけばいいんだ」
かきくどくというよりは、どこか上から目線で迫っているように見受けられました。アンナさまは冷静に応じられています。
「何度も申し上げましたが、レネック・オーエンさま。私はあなたさまとのお話はお断りさせていただいたはずです」
とたん、耳にした者をおびえさせる強めの音が書棚を揺らしました。
「もったいぶるな、ってんだよ。あんたみたいな売れ残りの年増、価値が上がってるのは今だけだって自分でもわかってんだろ。この俺がここまで言ってやってんだぜ。あんたみたいな冴えない女相手によ」
感謝しろ、と言いたげな口ぶりです。さすがにわたしも眉をひそめました。すると、声も荒げずにアンナさまが返しました。
「───アルス大陸歴311年、サウズリンドの時の王、ルドルフ王は諸国を圧倒する大軍勢で東方遠征へ乗り出し、失敗しました。この時の敗因はなんだと思われますか?」
「…………は?」
「またその敗戦後、カイ・アーグ帝国とマルドゥラ国、ナウパ国との三カ国同盟によってサウズリンドは一時、滅亡寸前まで追い詰められました。この時、後世、英雄王と呼ばれるカルロ王が起ち、三カ国同盟を撃ち破って国土を取り戻し、
レネックさまは目を白黒させていらっしゃるようです。突然の歴史談議についていけなかったのでしょう。
アンナさまはまるで覚えの悪い生徒に講義するように言い聞かせる口調でした。
「答えがお分かりになれば、レネックさまが今なさっていることもどれだけむなしいことか、ご理解いただけるかと思います。それでは、失礼させていただきます」
淑女の礼で足を返したアンナさまに、ハッとあわててレネックさまが引き止められました。
「待てよ───」
アンナさまがそこでわたしに気が付かれました。意図したわけではありませんが、立ち聞きする形になってしまったわたしは申し訳ない気持ちでかるく会釈します。
「エリアーナ嬢───」
同じように気付いてひるむ風を見せられたのは、レネックさまです。自身でうそぶくように、たしかに様子のよさそうな、貴族然とした男性でした。ただ、それを鼻にかけたようなところが彼の魅力を半減しているようです。
そして次にはなぜか、気取った微笑でわたしに近付いて来られました。
「これは奇遇ですね、エリアーナ嬢。社交界にあまりお出になられないあなたと、これを機会にお近付きになりたい者が列をなしていると思いましたが。───『虫かぶり姫』なら、図書室におられるのはむしろ当然というべきですかね」
形ばかり礼を取られましたが、アンナさまに対したものとは異なった言葉遣いがなおさら慇懃無礼に映りました。
こういった人は時折現れます。ベルンシュタイン家は父が要職に就いた今でも羽振りがよいとは言えませんし、王太子婚約者のわたしもその地位に見合った気高いふるまい、というものがなかなか身につきません。
そして、「虫かぶり姫」の功績を額面どおりに受け取られる方ばかりではありません。アンナさまに対する態度からも察せられるように、女性を見下されているような殿方などは特に。
「レネック・オーエンと申します。これを機に、ぜひとも近しくおそばに招いていただきたい」
いまさっきまでアンナさまに迫っておられたのに、見事な豹変ぶりでわたしにお顔を近付けて来ます。
女性受けするのであろうお顔立ちに、誘いかけるような眼差しでしたが、クリストファー殿下のきらきらしい微笑を見慣れているために感銘を受けることができませんでした。
「次期王太子妃のお立場は窮屈でしょう。いつでも息抜きにお付き合いしますよ」
わたしはかるく首をかしげました。
「ありがとうございます。でも、読書は一人でするものですから」
読書はわたしにとって、息抜きというより息をするように当たり前のものですが。
レネックさまの口元がひくり、と少し引きつりました。さらに迫ってくるレネックさまより、わたしはアンナさまに興味を覚えていました。
「アンナさま。先の問い掛けに対する答え合わせをお願いしてもよろしいでしょうか」
彼女の持つ知性に、心惹かれるものがありました。宮廷の教育係や女官達は王家第一ですから、歴史上の人物でも王族に対しての批判や欠点をあげつらうことはしません。
とまどったようにうなずかれるアンナさまに、わたしは発言をゆるされた生徒のような心境でした。
「───時の王、ルドルフ王はサウズリンドを一時期、大陸の覇者たらしめんとした武勇の王ですが、女性に対して見境がないことでも有名でした。彼が東方遠征に失敗したのは補給路を断たれたのが原因とされていますが、内実は見境なくかき集めた後宮の女性たちの権力争いが国内の領主たちに飛び火し、内紛が起こって結果、補給路を断たれたのが主な理由です。
英雄王、カルロ王は物語としても有名な泉の乙女、セイシェーラ姫を生涯ただ一人の妃として娶られましたが、残念なことに御子に恵まれず、また彼女が若くして亡くなられたため、英雄王の血統を望む家臣たちによって後宮に幾人もの女性が送り込まれました。
英雄王はルドルフ王の教訓から国内の内紛には気を配られましたが、後宮の女性たちをかえりみられることはなかった。それゆえ、後宮の女性たちが表向きは質素にふるまいながら、内実は他国の王妃にも劣らない華美な生活をしていたことに気付くのが遅れ、当時の財政を逼迫させる要因にもなりました。
そこで、持参金が豊富なカイ・アーグ帝国の姫君を後添いに迎えられましたが、それがために英雄王の治世に帝国の干渉が見え隠れし、後の30年戦争の引き金になったと言われています」
わたしは少し息をつきました。これらから導き出される教訓はひとつです。
「たとえ武勇の王であっても、英雄王であっても、女性の存在によってその身を滅ぼすこともあれば、汚点を残すこともある。───アンナさまがおっしゃりたいのは、いかに女性に頼らずに己を律するか、ですね」
アンナさまの濃紺色の眸が瞬きました。そうして、にっこり及第点を与える教師のように微笑まれました。
「───正解です。エリアーナさま」
わたしは久しくなかった、教師から誉められたような喜びに心が浮き立ちました。さらに話を続けようとして、間近のレネックさまが怒気の色で顔を赤くされていました。
「………ふざけるな。この俺が、女に汚点を残されるだと」
馬鹿にされた、と思われたのでしょうか。不穏な形相にわたしがたじろいで、アンナさまも割って入られようとしました。諌めるようにお名前を呼ばれています。
それをレネックさまは声を荒げてふりはらわれました。
「うるさい。利口ぶった女ごときが!」
いきなりの暴力でした。アンナさまが小さな悲鳴で書棚にぶつかります。声を上げかけたわたしに頭に血が昇ったようなレネックさまの目が向けられました。
とっさに身の危険を感じたわたしは、つかみかけられる前に腕に抱えていた本で間近の顔面を打ちます。
従僕のジャンに教わった、不埒な男性への対処法その一です。
反撃されるとは思っていなかったようなレネックさまがひるまれた隙に、わたしは小さな掛け声で勢いよく足をふり上げました。
───お嬢。思い切りよく。
きちんと止めを刺さないと、余力を残した暴漢は下手な悪党よりやっかいですからね、とジャンの教えです。
梯子の昇り降りで鍛えた脚力です。いい音がしました。
声にならない声でレネックさまが悶絶してうずくまります。紳士にあるまじきお姿ですが、もとよりふるまいが紳士らしくありませんでしたので、わたしの淑女らしからぬ行為とよい勝負ですね。
ところが、ここで誤算が生じました。相手の不意をついてひるませたところを狙え、と教わっていましたが、わたしはとんでもないことをしてしまいました。
ただでさえ、修繕が必要だった本です。レネックさまの顔面を叩いたことでさらに劣化がはげしくなってしまいました。表装はほとんどはがれ落ちそうです。
わたしはあまりのことにこれまでにないくらい、感情がたかぶりました。思わずその衝撃のまま叫んでいました。
「なんてことをするの………!」
「………………それは俺のセリフ………」
苦悶のうめき声でレネックさまがつぶやかれると、あさってからはじけるような複数の笑い声が出ました。
見ると、テオドールさまとアーヴィンさま、クライス家の従僕がそろっています。アーヴィンさまと黒髪の従僕はお腹を抱えて笑っておられました。
礼儀正しく笑いをおさめたテオドールさまが歩み寄ってアンナさまをたすけ起こします。そしてクリストファー殿下とどこか似通った、冷ややかさを含んだ微笑をレネックさまへ向けました。
「オーエン男爵家のご子息だったか。この件はよくよく、クリスに報告しておくよ」
レネックさまの顔色が見る間に蒼白になりました。まるで未来を絶たれたような絶望色です。
わたしはまったく同情できませんでした。それよりもなによりも、いまや瀕死状態の書物に涙がこぼれそうでした。
「エリィ。大丈夫か?」
うながされてその場を後にしましたが、なにも大丈夫ではありませんでした。
「テオドールさま………」
思わず目を上げた先でテオドールさまが一瞬息をのみ、あわてたように口元を押さえて横を向かれました。ヤバい、クリスに殺される、とはなんの呪文でしょう。
「エリアーナさま。大丈夫ですわ」
自らも腕に本を抱えていたアンナさまがわたしの手の中の書物の具合を診ます。これなら補修すればまだ長持ちします、と言われてわたしも涙をこらえました。
傷病人に対して、わたしはなんてことをしでかしてしまったのでしょう。悔やんでも悔やみきれません。
すると、フフ、とおかしそうな笑い声がもれました。アンナさまです。
「エリアーナさまは、ほんとうに書物がお好きなのですね」
アンナさまの眸はどこか、憧れがこもったようにうらやむものでした。私も、好きなものは堂々と口にしたいわ───と。
首をかしげたわたしが問い返そうとして、その騒ぎを耳にしました。