花守り虫─2
夜会の人いきれから逃れて、わたしはようやく一息つきました。
昼間の狩猟祭の後は、エイデル領にあるクライス公爵家での夜会です。狩猟祭が終了するまでの七日間、名代の一人であるわたしはこれに付き合わなければなりません。
社交界が苦手なわたしには気が重いのですが、立場的に如何ともしがたいことはあります。
ただ、これまでこういった場で公式非公式に関わらず、わたしをエスコートしてくれたのはクリストファー殿下か身内に限られていましたので、その存在がいないと心細さを覚えてしまうのも、どうしようもありませんでした。
救いだったのは、夜会の話題がテオドールさまと昼間気遣ったご令嬢に集中していたことでしょうか。
今回ともに参加していたストーレフ家の三女、リリアの言によりますと、テオドールさまが気遣われたご令嬢はクライス公爵家の縁戚筋にあたるミルズ伯爵家のご令嬢で、お名前をソフィさまとおっしゃるそうです。
主催者であるクライス家ゆかりの方だけに、テオドールさまも無碍にはできず、夜会のエスコートを引き受けていらっしゃいました。
昼の件を目撃していたリリア曰く。
『ご自分で輪を外れて行ったの。あれは絶対、わざとね。あの方、少し前まではクリストファー殿下に熱を上げていたのに、エリィ姉さまとの成婚の日取りが決まってから狙いを変えてきたの。要注意人物よ、エリィ姉さま』
………なにがでしょう。
従姉妹のリリアはわたしより三つ年下の、末っ子特有の抜け目なさも愛嬌がある少女です。ストーレフ家の者らしく、流行やうわさ話、貴族間の人の動きに敏感でした。
意図はよくわかりませんでしたが、彼女がそう言うのなら、とわたしは気に留めていました。今夜はどうやら関わらずにすみそうでホッとしていますと、かけられた声がありました。
「───ベルンシュタイン侯爵令嬢」
露台へ向けた足を止めてわたしはふりかえります。
わたしを呼び止めたのは、五十代ほどの厳めしい顔立ちに屈強な体格をした、見るからに取っ付きにくそうな雰囲気の男性でした。
濃紺の髪は短く、日に焼けた肌と、雨風にさらされてきたような風貌は夜会服よりも軍服が似合いそうです。獲物を射るような鋭い双眸がわたしを捕えました。
「お初にお目にかかる。イーディア辺境領が領主、ロウ・ヘイドンと申します。紹介もなしの無作法、辺境の田舎者ゆえとお許し願いたい」
アンナさまの父君であらせられる、ヘイドン辺境伯でした。わたしはいつも通りの淑女の礼で返します。
ヘイドン辺境伯はそれを待ってから堅苦しそうな口を開かれました。
「あなたには直に一度、お目にかかってお礼を申し上げたかった。あなたのおかげで我がイーディア辺境領は近年まれに見る活気でにぎわっている。───重ねて、御礼申し上げる」
「………とんでもないことでございます」
昼間の会話から、予想はしていたことでした。実感は薄いのですが、わたしは辺境領を盛り立てた一員と見なされているようです。
ヘイドン伯の眸はジッとわたしにそそがれていました。
「───失礼ながら、私は、王都に住まわれ貴族らしい生活を謳歌し、王太子殿下の婚約者として華々しい地位におられる方でも、辺境に住まう民に目を向けて下さるのだと、不躾に親愛の念を抱いておりました。───それが、まったくの誤りであったことは、すぐに思い知らされましたが」
わたしはビックリして目を上げました。スイラン織の他に、わたしはなにかをイーディア領にしたでしょうか。
ヘイドン伯爵の眸は怖いほど強くて真っすぐでした。
「昨年のマルドゥラへの支援及び軍事的牽制、お見事でしたな。あなたの助言のおかげで危機的回避は行われ、マルドゥラにも周辺諸国にも平穏がもどった。───表面的には」
小さく息をのみました。ヘイドン伯の口舌はいっそ、苛烈なほどでした。
「我がイーディア辺境領は、サウズリンドが建国されたその昔より、国の要所として、礎の一貫として、国を護り支えてきた地であると自負している。しかし、歴史的にもイーディア領は幾度となく戦火の第一線に立たされ、何度も侵略者の土足に踏みにじられてきた。
………イーディアに住む民の気持ちを考えたことがありますか。常に近接する好戦国の脅威におびえ、生まれ育った地を踏み荒らされた歴史を持つ、そこを故郷とする者の気持ちを」
深く静かな、力強さに満ちた声音でした。
「あなたはマルドゥラの脅威は取り除いたと、軍備予算を他へ回すよう助言された。それが、我が領に住む民の心にどんな影響をもたらしたか。───イーディア辺境領を治める領主として進言させていただく。防衛は好戦国への抑止力であるとともに、イーディアに住む民の安心の拠り所でもある。防衛力を軽視するような発言は、自国の民の安寧を脅かすこともあるのだとご承知いただきたい」
そこまで言って、少し息をつかれました。わたしに向けた眸がかすかにゆるんだようなのは、自分の娘よりも年端もいかないわたしの年代を思いやったからでしょうか。
「あなたお一人に言うべきことではないと、私もわかってはいますが。………あなたのお父上も毎年軍事予算を抑え、その分を主要公路ではなく、地方の街道整備や商人の保護に充てておられますな。なるほど。おかげで地方に集中していた盗賊被害も減り、山間や峻厳な渓谷の村々へも、人の往来が活発になった。物資の流通が滑らかだと国は潤う。いい例ですな」
その言葉には皮肉が混じって聞こえました。王都に住むわたしたち貴族は、物に困ったことがありません。そして、安全をおびやかされたこともありません。
豊かな物に恵まれ、わたしの好きな本に囲まれ、しかしてその安寧を守っているのは誰なのだと。危険を一手に引き受けている地があるからこそ、王都に住むわたし達貴族はその生活を享受できているのではないかと。
ヘイドン伯の眼差しはそう、わたしに突き付けているかのようでした。
鋭い口調が少し静かになります。
「………女性がとかく、戦などの争い事を好まない性質なのは私も承知ですが。あなたの立場と発言は国を動かす力を持つ。それをご理解いただかなければ、本の世界しか知らぬ夢見がちなご令嬢の理想論としか受け取れません。無礼は承知で申し上げたが、どうかお心に留め置きいただきたい」
「…………はい」
眸を見て返すのが精一杯でした。
ヘイドン伯の言葉には、書物で読むだけではわからない、歴史の重みと生まれ育った土地を踏みにじられた痛み、そしてそこに住む領民を守ろうとする固い意志が見て取れました。
ヘイドン伯は堅苦しく目礼されると踵を返しました。その背を見送って露台に足を向けたわたしは、夜風を頬に受けます。
重苦しい気分で小さく息をつきました。ふいに自分が頼りなく、よって立つものがもろく感じられました。
これまでわたしは、本から得た知識を自分の中で解釈し、自分の考えに沿って発言してきたつもりでした。それでもヘイドン伯のような地に足のついた方からすると、わたしの考えは世間を知らない、夢見がちな理想論に過ぎないのでしょうか。
わたしの助言はイーディア辺境領に住む人々の安全をないがしろにし、その心を踏みにじるものだったのでしょうか。
ぎゅっと胸元を押さえました。こんなに自分に自信がなく、心細い気持ちになったのははじめてです。
マルドゥラ国の一件の時だって、軍部の強攻派からは手酷い批判を受けました。けれど、そばにはいつも殿下がいてくれました。
わたしはほんとうに、頭でっかちな「虫かぶり姫」です。書物で読むだけではわからない気持ちがあることは学んだはずなのに。いまこうして、はじめて自分がどれだけ殿下に守られていたかがわかるなんて。
「…………」
思わず言葉がこぼれそうになって、けれどそのお名前を口にすればなおさら恋しくなるのがわかっていましたから、どうにかこらえました。
いままでにも、何日もお逢いできなかったことはあります。こんな時だけすがりたくなるのは、ただの甘えにすぎないことも。
それでも、お逢いしたい気持ちが募るのまでは止めようがありませんでした。
その時でした。
小さな失笑が背後からもれて、わたしはビクリとふりかえりました。会場からもれる明かりを半身に受けた青年が、揶揄するような色を浮かべてわたしを見ていました。
はじめて見るお方です。クセのある黒髪に、野性的な光をたたえた黒い眸。俊敏な身のこなしを思わせる、しなやかな体躯。どこか異国の香りただよう青年。
ゆっくりと歩み寄ると、間近からわたしをその黒い眸で見つめ返しました。
「───あんたが、エリアーナ・ベルンシュタイン嬢か」
貴族の子息らしい身形とは裏腹に、その言葉遣いには粗野な印象があります。
とまどうわたしを頭の天辺からつま先まで値踏みするように見やると、小さな笑みを浮かべました。鈍いわたしでも、そこにあるのは揶揄する色だとわかりました。
「意外だったな。サウズリンドの王子の婚約者が、こんなお人形みたいな令嬢だったとは」
「………失礼ですが」
どちらさまですか、と訝るわたしに、今度は皮肉っぽく口の端を上げました。
「アーヴィン・オランザ。クライス公爵夫人の招待に預かっている。───あんたに逢ってみたかった。エリアーナ嬢」
昼間の話題の人物でした。わたしも王太子殿下の婚約者という立場から、衆目を浴びることはあります。しかし、ここまで不躾な視線に逢ったのははじめてでした。
「………わたしに、何か御用でしょうか」
「いや。だから、意外だったな、と思ってさ」
眉をひそめるわたしに、アーヴィンという若者は口調にもからかいがあらわでした。
「辺境伯に手厳しいこと言われて泣きべそかいてたろ。辺境の守護神の前じゃ、大の大人でも叱られた子どものようになるっていうが。それでも、『サウズリンドの頭脳』が言われっぱなしで半泣きとはな。………期待外れだったかな」
ずいぶんと勝手な言い草です。それにわたしは泣きべそなどかいていません。………多少、弱気でしたが。
それよりも、彼に対して警戒心が強まるのを感じました。王家や一部の者しか知らないはずの、我が家の隠れ名を口にした人物に。
わたしの眸に警戒の色を見て取ったのか、アーヴィンがさらに皮肉っぽく口を開きかけて、新たな気配が割って入りました。
「───エリアーナさま」
クライス家のお仕着せを着た従僕でした。ふりかえったわたしに黒髪の少年は頭を下げて告げます。
「クライス夫人がお呼びです。どうぞこちらへ」
逆らえない響きにわたしはうながされました。ちらりと見たアーヴィンの黒い眸には面白がる光があり、狙いを定めたような意志がそこには見て取れました。
彼はなにか目的があってわたしに逢いに来たのだと、その眸から悟りました。