浮気虫─後
ジャンは工場らしき方に人が残っているようだと言っていました。日が落ちても働くとは、アルドリーノ伯爵の商会はずいぶんと働き者です。
工場には行き当りませんでしたが、別の通路が続いた先には外の灯りが見えました。
「───だから、ボクはその首が伸びるバケモノなんて、眉唾に十ドーラかけますね」
「たったの十ドーラっぽっちかよ。オレは泣き女の方に三十ドーラかけるぜ」
まてまて、おまえら、とすこし気取った三人目の声がします。
「だいたいだな、亡霊ってのはどうしてこうも女が化けたものが多いんだ?女って生きものは、よっぽど恨み辛みの業の深い生きもんなんだと、このオレさまは思うわけよ」
「っけ。その女の恨み辛みを増やしてるのは、どこのどいつだよ。花街でもめ事起こしたのは、ついこの間のことだろうが」
「モテない男のひがみはやめろよ。じゃあ、賭けるか?女の亡霊が出るか、男の亡霊が出るか」
「ちょっと待ってください。それじゃあ、賭けになりませんよ。ボクは亡霊なんてデマカセだって、思ってるんですから」
「わかってねえなあ………」
はてしなく続きそうな亡霊談議に、わたしは割って入りました。延々と拝聴しているわけにはまいりません。
いきなり灯りを突き付けないよう配慮して胸元に引き、わたしは「───もし」と声をおかけしました。
お三方がそろってわたしをふり向きました。
その目と口がそろって開かれたのを目にした瞬間───特大級の絶叫が倉庫街の夜のしじまに響き渡りました。
わたしはあまりのことに呆気に取られました。
悲鳴をあげた大の殿方が三人、わき目もふらず一目散に逃げて行かれました。『タッケテ、オカアチャーン!』とは何語でしょう。
いくらわたしに『図書館の亡霊』の異名があるとはいえ、ここまですさまじい反応をされたのははじめてです。
瞬いたその視界になにかが沁みてきて、ぬぐってみるとネネリの実の果汁でした。先ほど頭上に降りかかった際に熟したものがついていたようです。
これでは「虫かぶり姫」ではなく、「汁かぶり姫」になってしまいます。
わたしがハンカチを取り出して拭いていますと、どこかあきれを含んだ声がかけられました。
「………なにやってんッスか、お嬢」
回り込んできたジャンでした。
テレーゼさまが中で具合を悪くしていることを伝えますと、向かいかけたジャンがあさっての方を見やりました。あー、時間切れッスね、と。
~・~・~・~・~
首をかしげて見守るうちに、にわかに周辺は騒がしくなってきました。騎馬で駆け付けて来られたのは、グレンさまたち近衛の者です。
彼らが従うのは当然のごとく、クリストファー王太子殿下、その人でした。
「───エリィ!」
日が落ちた中でもそのお姿は際立っておられます。とたんに、わたしの鼓動も強く高鳴りました。
軽やかに馬上から降りられると、わたしの方へ駆けて来られます。抱きしめるように抱え込まれて、心臓が飛び出すかと思いました。
「きみの家から、エリィが帰って来ないと王宮に報せが来たんだ。ほんとうに………心配させないでくれ」
ホッとしたように少し荒々しかった息がつかれました。わたしは頬が火照る思いをしながら謝ります。
………なぜわたしの居場所がわかったのかについては、あまり深く追求しないほうがよいのでしょうか。
「まあ、殿下───」
驚いたような声はテレーゼさまです。ジャンに支えられるようにして姿を見せました。
殿下はあざやかな青の双眸を少し厳しくしてテレーゼさまに向けられます。口が開かれる前に、騒ぎを聞き付けられたのか、当事者の一人であるアルドリーノ伯爵が姿を見せました。
テレーゼ、と驚いたように口にしてから、殿下とわたしの姿を認めてさらに困惑されています。
なにが起こったのかわからない、といったご様子なのは当然でしょう。
突然、ご自分の職場に妻と自国の王太子、その婚約者、さらには近衛たちがそろって現れたのですから。
反対に、ご夫君の姿を見て落ち着きはらったようなのはテレーゼさまでした。
凛と、いつもの姿勢で一人で立ち、付け入る隙のない───それでも健やかさを失われない明るさで伯爵の前に対峙されました。
「旦那さま…………オスカーさま」
少したじろいだ色を見せられたのは、アルドリーノ伯爵です。その彼を真っすぐ見つめて、テレーゼさまは告げられました。
「はじめてお逢いした時から、お慕い申し上げておりました。気安く笑われないところも、堅苦しくいつも不機嫌そうなところも、お仕事一筋の生真面目なところも───すべて」
そのほほ笑みは、女性のわたしでも胸が締め付けられるような切ないものでした。
そのまま、テレーゼさまは言葉にされました。
「でも、もう終わりに致しましょう。私はこのままでは、あなたへの想いゆえにどこまでも愚かな女になりそうです。大切な友人を巻き込んで、なにをしでかすかわかりません。………三年間、子どもの我儘にお付き合いいただいたこと、心より感謝いたします」
そう言って、綺麗に頭を下げられます。アルドリーノ伯爵は目をみはって凍りついたように固まったままでした。
わたしは仕方なく進み出ます。殿下にかけられた外套の下から、手にしたままのネネリの実を取り出しました。
「テレーゼさま。お待ちくださいませ」
「エリアーナさま………」
「アルドリーノ伯爵。あなたの商会は近々、ネネリの実を使った事業をはじめられるご予定なのでしょうか」
ハッとしたように伯爵の目がわたしに向けられます。
「いや───ネネリは染料に使うのが目的です」
わたしは少し首をかしげました。商売のことはわたしにはわかりませんが、テレーゼさまはわたしにとっても大切な友人なのです。
「───昨年出版された、リー・ターナ氏による『海と陸の動物記』によりますと、近年ジャコウジカやビーバーの乱獲が問題になっているとありました。おそらく、これから動物性香料に規制がかかるのではないでしょうか。
………ネネリの実はたしかに染料に使われますが、染料職人は実の香りが移ることから、トール地方では『香り歌』というものが流布していると本にありました。伯爵は、ネネリの実を使って新しい天然香料を開発されようとなさっているのではありませんか?」
テレーゼさまの眸も伯爵に向かいます。押し黙った伯爵に明るい笑いとともにかけられた声がありました。
「そこまで知られてるなら、もうバラしてもいいんじゃないの。オスカー」
先ほどの婀娜っぽい女性です。近衛たちの視線が一様に彼女のなまめかしい胸元に集まりました。殿方は正直ですね。
小さく青ざめられたテレーゼさまに代わって、わたしがお尋ねします。
「………失礼ですが、あなたさまのご職業をうかがってもよろしいですか?」
女性の眸が面白そうな光を帯びてわたしを見返します。艶っぽい色気がただよいました。
「私は、調合師よ」
なるほど、と合点するわたしに、女性はあでやかな微笑を向けられます。
「私はお嬢様や奥方のように学があるわけじゃないけど、これでも調合に関しては国で一二を争う腕前だって自負してんの。その私に、伯爵さまが達てのお願いって言うからさ。なにかと思えば、最愛の奥さまに彼女の名前を付けた香水を開発して贈りたいって言うじゃない。ホント、いい歳した男がなに青臭いこと言ってんのかと、笑っちゃったわよ」
テレーゼさまが目をみはって伯爵を凝視されました。
「オスカーさま………ほんとうですか?」
アルドリーノ伯爵は堅苦しそうな眉間をさらに寄せて視線をさ迷わせておられます。まだ口を開きません。
わたしは小さな吐息でネネリの実をテレーゼさまへ差し出しました。
「テレーゼさま。ネネリの実はスグリの実と同じ花言葉があるのをご存知ですか」
伯爵の眸がわたしに向きます。わたしはテレーゼさまに向かって少しほほ笑みました。
「まだ熟していない緑の実の時は、鋭いトゲの枝とその酸味から、『あなたの不機嫌が私を苦しめる』───反対に、完熟した実は甘く、『私はあなたを喜ばせる』と言うそうです。まるで、テレーゼさまとアルドリーノ伯爵のことのようですね」
テレーゼさまはネネリの実を受け取られました。
わたしはそっと身を引きます。クリストファー殿下がわたしの肩を抱かれました。
テレーゼさまの自信なさげな声がもれました。
「………私は、あなたを喜ばせることができているのでしょうか」
息がつかれました。まるで何かを手離したような、あきらめたようなアルドリーノ伯爵の吐息でした。
「───俺は、きみより一回り以上も年上だ」
なにが言いたいのかわからないように、テレーゼさまの眸がゆれます。アルドリーノ伯爵のお声はどこか苦しそうな色を帯びていました。
「社交界の令息たちのように、きみを喜ばせるセリフのひとつも吐けない。仕事ばかりの面白みのない人間なのは、だれより自分がよくわかっている。社交界の華と呼ばれるきみにふさわしくないのも。───それでも、きみのことだけはあきらめきれなかった。凛として、だれに媚びることのない高嶺の花に焦がれていたのは、俺の方だ」
「オスカーさま………」
アルドリーノ伯爵の眸がテレーゼさまを見返し、その手の中にある実ごと包み込みました。
「俺は、仕事で長期家を空けることが多い。だからせめて香りだけでも、きみのそばにいられればと開発を思い付いた。………きみが待つ家に帰るのが、いつも俺の喜びだ」
泣きだしそうにテレーゼさまの口元がふるえますと、アルドリーノ伯爵が応えて二人は固く抱き合われました。
大団円のようです。あとはお二人の世界に任せたほうがよいでしょう。
クリストファー殿下にうながされてわたしもその場を後にします。殿下はなにやら「香りで印付け(マーキング)か………」とつぶやいておられました。なんの話でしょう。
わたしの視線に気付かれたように苦笑を浮かべました。
「それにしても………しっかりしているようでいて抜けたところのある我が従妹殿は、ご夫君の気持ちに気付いていなかったのか」
「………殿下は、ご存知だったのですか?」
「もちろん。でなければ、公爵家の者たちが結婚を認めるわけがない」
アレクもあれで妹を可愛がっているからね、傍目にはそうは見えないけれど、と口ぶりは軽いです。
ジャンが用意した馬車へ向かいながら、わたしは先ほどの調合師の女性に近衛の者が声をかけている様子を視界に入れます。
今日のテレーゼさまの訪問からずっと、考えていた疑問を殿下にぶつけてみることにしました。
「殿下」
ん?と気安く返す殿下の青い双眸をじっと見つめ返します。
「殿方は結婚して三年経つと、浮気の虫が起きだすというのは、ほんとうですか?」
スウッと、殿下の青い眸が夜目にも深みを増したのがわかりました。なにかを押したような気もしますが、わたしは殿方の生態を知ろうとする考えで真剣でした。
ジャンがあさってで、あーあ、オレ知らねッス、とぼやいています。クリストファー殿下はにっこり、わたしにほほ笑みかけました。
「そうか、エリィ。わかったよ」
なにがでしょう。
「私はこれでも遠慮していたんだ。エリィは慣れていないから、あまりしつこくすると怖がらせてしまうと思って。でも、きみにそんな疑問を持たせてしまうなんて、私の不徳の致すところだ。わかったよ。そんな疑問なんて考える隙もないくらい、私のきみへの気持ちを教えるべきだったんだね」
…………はい?
「今日は王宮に泊まろうか。エリィ」
「え、あの………殿下?」
話が違う方へ転がっていないでしょうか。
殿下はわたしを馬車へ乗せると、自らの後ろで扉を閉められました。
「大丈夫。時間はたっぷりあるよ」
きらきらしい微笑がそこにはありました。
~・~・~・~・~
その日、わたしは改めてひとつ学びました。殿方に不用意な疑問をぶつけてはいけない、と。
クリストファー殿下のお気持ちを疑うことはしないと固く約束させられ、どうにかその日のうちに家に帰していただきました。
後日、王都の倉庫街には新しい怪談が加わったそうです。
なんでも、ネヴィル川に身を投げた少女の亡霊が、頭から血を流して、女性を泣かせた殿方を好んで取り憑くのだとか。
夏場に怪談は付きものですしね。サウズリンドの王都は今日も平和です。
季節外れで申し訳ありません………。