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浮気虫─前

 



 はて。なぜこんなことになったのでしょう。



 わたし、エリアーナ・ベルンシュタインは日が落ちた倉庫の地べたで、とほうにくれる次第と相成っておりました。


 王都の夜は更けてゆき、人もまばらな倉庫街にひとけはありません。

 盛夏の頃とはいえ、川沿いの倉庫街はジメジメとしながら底冷えする気温に包まれてきます。


 さすがのわたしも心細さを覚え、いったいなぜこんなことになったのかを思い出しはじめました。




 ~・~・~・~・~



 お昼時のことでした。

 わたしは訪問の報せを受けて自宅でのんびり読書にふけっていました。そこへ、まるで嵐のように突撃してこられた方がいました。


「───エリアーナさま!聞いてちょうだい!」


 凛としたお顔立ちをおそろしいほどの迫力にそめ変えて飛び込んでこられたのは、アレクセイさまの妹君、テレーゼさまです。


 年も近しい彼女とはクリストファー殿下の婚約者に上がってから、親しくお付き合いしてきました。わたしの数少ない友人の一人です。


 その彼女の剣幕に、わたしは驚きながら問い返しました。


「どうされたのですか、テレーゼさま」


 かけ込んでこられた勢いをグッとためられると、突然、噴火する活火山のように叫ばれました。



「あの人ったら、浮気してたのよぉ───!」




 常には静かなベルンシュタイン家がふるえるほどの叫びでございました。



 わたしは劇場で聞くような大音声を間近で浴びせられ、ビリビリふるえる鼓膜とに、しばし放心しました。

 それからようよう、泣き伏せられたテレーゼさまに声をかけました。


「浮気って、アルドリーノ伯爵さまがですか………?」


 テレーゼさまは三年前の十六の歳に、一回り以上お歳の離れたアルドリーノ伯爵さまのもとへ嫁がれています。

 アルドリーノ伯爵は貿易商も営まれている実業家としてもご高名で、王都にもさほど滞在されません。なんでも、一年の半分は海の上か他国なのだとか。


 わたしもお逢いしたのは数えるほどです。それでも実直そうなお人柄は拝見しておりました。

 信じられない思いが声音に表れていたのでしょう。テレーゼさまはきっ、と迫力ある涙目を上げられました。


「間違いありませんわ。あの人ったら、ここのところ毎晩毎晩帰りが遅くって、その上………その上、いつも女の香水のにおいをプンプンさせているのよ!」


「はあ………」

 しかし、それだけで浮気と決め付けるのは尚早では、と思いました。

 アルドリーノ伯爵なら、商談のために娼館などを使うことはありそうです。


 わたしのとぼしい表情でも言いたいことは察したのでしょう。テレーゼさまの眸が据わったように剣呑になりました。



「わかっていないわね、エリアーナさま。男はね、浮気する生きものなのよ。はじめはいいわ。新婚時代なんて、そりゃーもう、空の砂糖壺がいくつあったって足りないくらい、お互いに甘々のベタベタよ。でもね、男っていうのは安定したものより、刺激を求める生きものなのよ!今はよくても、そのうち安らぎがほしい、なんて言ったその口で、火遊びにうつつをぬかす生きものなのよ!」



 テレーゼさまの剣幕にわたしはタジタジとなりました。

「ええと………でも、世の男性すべてがそうなわけでは」


 ここ最近のクリストファー殿下とのやり取りを思い出して、わたしは不覚にも頬に血が上るのを感じました。



 先の一件以来、想いが通じ合って殿下との仲は良好です。来年の春には成婚の儀も先頃発表されました。

 その殿下は…………なんと言いましょうか、近頃とみに触れ合いが過剰です。二人きりになると、甘い言葉ときらきらしい微笑でせまって来られるので、なれないわたしはいつもひっしです。

 正直、今日は登城を辞退する口実ができて、テレーゼさまに感謝していたところでした。


 そのテレーゼさまはなぜかにぎり拳で力説されています。


「エリアーナさまは男という生きものを知らなさすぎますわ。男は、結婚してから三年経つと浮気の虫が動き出しますのよ!」


「浮気の虫………」


「ええ。はじめは影も見せないそれが妻との安定した生活になれてくると、すわ、うごめきだすのですわ。これは古今東西のならいなのです。バレていないとでも思っているところが、また腹立たしいですわ!」


 はあ、とわたしは返しました。

 クリストファー殿下もそのうち浮気の虫が出てきたりするのでしょうか。「虫かぶり姫」のわたしにはもったいないほどのお方ですし、世に魅力的な女性は数多くいらっしゃいます。


 でも、あの殿下が………?とわたしは少し前のやり取りを思い出しました。


 ある日、殿下に愛称で呼んでほしい、と言われ、わたしは思わずそっぽを向いてしまいました。『いやです』と。ほかの女性が呼ばれていた光景を思い出してしまって、どうしても素直にうなずくことができなかったのです。


 すると殿下は瞬いた後、きらきらしい微笑でわたしにせまって来られました。『じゃあ、エリィが私の名を呼ぶまでどこまで耐えられるか、試してみよう』とおっしゃられて、触れ合いの嵐が…………。



「───エ・リ・アーナさまぁ………」



 ハッとわたしは赤面する頬を押さえたまま顔を上げました。


 向かいに座ったテレーゼさまのお顔が怖いです。その背景からなにやら禍々しいものが渦を巻いているように見受けられます。なにか、別のモノに変身しそうな勢いです。いけません。


「ええと、テレーゼさま。それで、アルドリーノ伯爵が浮気しているとして、テレーゼさまはどうされたいのですか」


 据わった眸を底光りする色で輝かせ、テレーゼさまはにぎり拳で立ち上がりました。


「決まっていますわ!言い逃れのしようのない現場を押さえて、ギュウッとこらしめてやるのです。二度と浮気なんてする気がおきないくらい!私は絶対、大目に見たりしませんわ!」


 そう宣言されますと、わたしを引き立たせて馬車へ乗り込み、テレーゼさまが怪しいとにらんでいるアルドリーノ伯爵のお仕事現場へ向かわれたのでした。




 テレーゼさまがおっしゃるには、怪しい女性が伯爵の周辺におられるとの話です。同じ馬車に乗られているところも見たそうで、どなたかと訊いたところ、頑なにテレーゼさまには関係ない、と突っぱねられたとか。


「男らしくありませんわ。愛人がいるのなら、そうはっきりおっしゃればいいのに」


 浮気疑惑から愛人確定になってしまいました。どうしたものかと思いながら、わたしもここまでついて来てしまいました。


 なんでも、伯爵の御者を脅し…………奥方の威厳で問い質し、伯爵とその女性がよく密会(あくまでテレーゼさまの私見です)されているという倉庫街へ着きました。貴族の馬車は目立ちますので、テレーゼさまが用意されたありふれた仕立ての馬車です。



 一応わたしは王太子殿下の婚約者という立場であり、テレーゼさまも伯爵夫人という身分です。供もなしに出歩くことはないのですが、今回はテレーゼさまの勢いにつられて侍女もなしに我が家の従僕だけがついてきた次第でした。


 ジャンという従僕は三十前半のひょろりとした体格で、どこか頼りなく冴えない印象の者です。彼が事務所の中を確認してくるから、というので待機していたところ、テレーゼさまが突然、「あの女性だわ………!」と叫ばれて馬車を飛び降り、かけ出しました。


 あわてて後を追うわたしの背後で、御者の呼び止める声がしていました。




 倉庫の中へかけ込まれたテレーゼさまを追ってわたしも続きます。


 木箱が山と積まれた倉庫内は夕暮れ間近でも薄暗く、人夫達もちょうど仕事上がりの時間帯だったようです。

 人の出入りもまばらな隙をぬって見咎められることもなく、テレーゼさまとわたしは奥まで入り込んでしまいました。


 これは一応、不法侵入にあたるのではないでしょうか………。


 倉庫の責任者である伯爵のご夫人が一緒なら、罪には問われないでしょうか。

 わたしははじめての経験にドキドキと鼓動が高鳴りっぱなしでした。


 テレーゼさまはわたしの心境などおかまいなしに、ひたすら物陰から件の女性の姿を追われています。


 わたしも拝見しましたが、遠目からもわかる婀娜っぽい女性です。

 一見で判断するのは失礼なこととは思いますが、貴族階級の女性には見受けられません。かと言って、伯爵のお仕事を手伝われている働く女性とも席を異にしているような───。



 人目をはばかるように、その女性が倉庫内にいた一人の男性と落ち合いました。どうやら待ち合わされていたようで、女性は笑顔をはじけさせます。


 お相手は、濃い茶色の髪を隙なく上げて、謹厳そうな面差しが不機嫌そうにさえ見える紳士です。その男性と言葉を交わして腕を組まれると、二人は別の扉から倉庫の外へと出て行かれました。


 言わずと知れた、アルドリーノ伯爵さまです。


 ハッとテレーゼさまはその後を追って飛び出されましたが、行動に移すのが遅かったのは、わたしにもわかりました。


 扉には鍵がかかっていて追うことはかなわず、ならばと表の扉に引き返したわたし達の前にふさがったのは、一日の仕事が終了した証の大扉の影でした。




 ~・~・~・~・~




 そうして冒頭の嘆きにもどります。わたし達はすっかり、倉庫内に閉じ込められてしまいました。こんな間抜けな王太子婚約者がいるでしょうか。


 とほうにくれた気分でいますと、隣から気落ちした声が聞こえてきました。


「………ごめんなさい。エリアーナさま」


 こんなことに巻き込んで、としおれた風情のテレーゼさまです。そのご様子に倉庫街へ息荒く乗り込んで来られた時の勢いはありません。


 わたしは日が落ちた倉庫内で、高窓から差し込む夜明かりを元にテレーゼさまのお顔を見つめ返しました。


「テレーゼさまは、ほんとうはどうされたかったのですか?」


 浮気浮気、とまくしたてていらっしゃいましたが、どこか本気ではなかったように思われます。それが先の光景を目にして否定できない現実にショックを受けられたのでしょう。わたしにも覚えのある出来事です。



 テレーゼさまはいつもは気丈な面を、はかなげな印象でほほ笑みにされました。


「私、押しかけ妻だったのです」


 ………はい?


「三年前、あの人───オスカーにはじめて逢って、私の一目惚れだったの。私はそれまで、王家の血を引く公爵令嬢としてそれはチヤホヤされてきたし、社交界でも男性たちの注目を浴びるのは当然だったわ。手に入らないものなんてないと思っていたの。

 それが………オスカーに出逢って、はじめはあの不機嫌顔であっさりあしらわれたわ。私、くやしくて腹立たしくて、どうにかしてあの堅物を私のことで右往左往させてやりたくて………それで、初対面で結婚してください、って言ったの」



「まあ………」

 わたしはビックリしました。テレーゼさまとアルドリーノ伯爵の婚姻が電撃的なものだったのは知っていましたが、そんな理由だったとは。


 テレーゼさまは悲しそうにほほ笑まれています。


「そうしたら、あの人、いいですよ、ってあっさり受けちゃって。あとから思えば、シュトラッサー公爵家の名が商売に役立つからだったのよね。でも、その時の私には、とにかくあの人を自分に夢中にさせるのにひっしで。ほんとうは一目惚れだったことにも気が付いていなかった、子どもだったのよ」



 凛とした鳶色の眸が力なく伏せられます。いつもの溌剌としたテレーゼさまを存じ上げているだけに、そんな風にされるとわたしの胸まで痛みました。


「だから、こうなることははじめからわかっていたことなの。あの人はいつも私を子ども扱いして仕事の話にも関わらせてくれなかったし、贈り物だけしてほったらかし。他に女の人がいるのも当然なの。

 私…………私に、もしエリアーナさまみたいな知識があったら、あの人との会話にも付いていけただろうし、相談事にだって乗ってあげられたかもしれない。私をふり向いてくれたかも知れない。私…………私」



 ポロポロと、大粒の涙が鳶色の眸からあふれだしました。


 わたしは急いでテレーゼさまの手をにぎりしめます。彼女がこんなにも悩んで思い詰めていたなんて、気付けなかった自分がひどく悔やまれました。


「テレーゼさま………」

 なにかなぐさめの言葉を、と思うものの、不器用なわたしにはうまい言葉が思い付きません。恋愛事に関しても自身が初心者です。上手な助言ができるとは思えません。



 困り果てそうになったところに、高窓の向こうから声がかかりました。


「───お嬢。そこにいますかー?」


 従僕のジャンの声です。わたしが応えますと、ジャンはベルンシュタイン家の気質に合った、のほほんとした口調で返しました。


「あー、図書館以外にも閉じ込められるとは思わなかったッスよ。鍵借りてくるから、ちょっと待ってて下さいー」


 呑気な声音に、ダメよッと声が上がりました。テレーゼさまです。


「ダメ。絶対にダメ。いまさら、あの人にこんな醜態をさらしたくなんかないわ。あの人の浮気現場を押さえるために出しゃばってきて、反対に閉じ込められて身動きできないなんて、そんな道化師みたいなこと!絶対にイヤ………ッ」


 うーん、とわたしも「虫かぶり姫」なりに悩みました。テレーゼさまの中では自身の矜持とアルドリーノ伯爵への想いとがせめぎ合っているようです。



 テレーゼさま、と心をこめて眸を合わせました。

「大切なのは、アルドリーノ伯爵を想う気持ちではありませんか?」


 わたしたちにはたしかに、自身の置かれた立場に対して責任と覚悟があります。それを持たなければならない身分です。けれど、同じくらい、人を想う気持ちだってあります。


 なにが大切なのか。それを見誤ってはいけません。


 テレーゼさまの眸が静かになると、高窓の外からため息が聞こえました。

「あー………お嬢。窓の近くまで来れますー?」



 わたしは少し首をかしげます。木箱を三つほど積み上げればやってやれないことはないでしょう。わたしのあまり自慢できない特技の出番です。

 えっちらおっちら組み立てた木箱の上によじ登って、まだ身体半分届かない高窓に膝立ちになって声を投げました。


「ジャン。それでどうするの?」

「あー、とりあえずいつもの灯り渡しますー。そっち、真っ暗だと思うんでー」


 言うや、空を切る音と高窓の近くでなにかが壊れる音がしました。とたん───。


 わたしは目をしばたたきました。いきなり、顔面に水しぶきがふりかかってきたのです。あ、ヤベ、と少しあせった声が遅れてきました。


「雨樋壊しちまったッス。ちょっと狙い外しました。大丈夫ッスかー、お嬢」


 ぬれた顔をぬぐいながら、わたしはなんとか返しました。もっ回行きますねー、と声がかかって今度はわたしのおでこに衝撃が走りました。


 高窓から狙いすましたように飛び込んできた革袋がわたしの額に命中したのです。いい音がしました。

 窓の外からも同様のつぶやきがもれています。なんかいい音したッスねー、と。


 ………この従僕は、わたしに対してなにか含むところでもあるのでしょうか。



「大丈夫ッスかー?お嬢」

 呑気な声にどうやって外に出るのかたずねますと、どうやら倉庫が別棟の工場らしき建物へ繋がっているから、そちらへ向かうように、と言われました。


 方角を聞いてわたしは木箱から降ります。すると、一番上の木箱がバランスをくずしたのでしょうか、音を立てて中身と共にわたしの頭上から降りそそぎました。


「まあ………!大丈夫ですか、エリアーナさま!」


 ………今日は厄日でしょうか。


 気遣ってくれるテレーゼさまに応えながら、わたしはその匂いに気付きました。さして痛くなかったのは、なにかの木の実が詰まった箱だったようです。


 ジャンから渡された革袋から簡易式の手燭を取り出して火を灯します。


 慣れてますのね、と感心した口ぶりのテレーゼさまです。身分の高いご令嬢は自分で火を灯したこともない方がほとんどでしょう。わたしは領地の図書館に忘れられて閉じ込められることが多々ありましたので、家人に常に持たされていました。



「………ネネリの実ですね」


 スグリの実に似て赤黒く、イチゴ大の大きさがあります。スグリとは違って食用には適さず、染料に使われると本で読んだことがありました。

 北のトール地方が産地で染料もそちらが主なはずですが、なぜ王都に………とわたしは内心首をかしげます。


 すると、間近のテレーゼさまが気分を害したように口もとを押さえて姿勢をくずしました。


「テレーゼさま」

 急いで気遣うと、手燭の灯りの中でも顔色が優れないように見えます。匂いが、とつぶやかれるのに、急いでその場から離れました。



「大丈夫ですか、テレーゼさま」

「ええ………ごめんなさい。迷惑かけて」


 少し歩いただけでもテレーゼさまはふらついておられます。ほんとうにお加減が悪そうです。

 人を呼んできます、とわたしが離れかけると、おびえたようなお顔をされました。


「エリアーナさま………。ここ、なにか出るんじゃ」


 わたしはまたたいて少し考えました。そうして大丈夫です、と請け合います。


「先日出た、『王都怪奇百選集』によりますと、倉庫街の怪奇現象はネヴィル河畔で人を川の中に引きずり込む、皿回しの物の怪です。倉庫内には出ません」


「…………前から思っていましたけれど、エリアーナさまの読書傾向って………」


 わたしは予備のロウソクを取り出して火を移すと、テレーゼさまの足もとに置きました。すぐに戻ります、と断ってジャンに聞いた方角へ向かいました。






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