終幕
依然、なさけない顔つきのままのわたしに、殿下はおかしそうに笑われます。
「私もね、ベルンシュタインの隠し名を使わずにどうやって、上辺しか見ない者や、権力闘争しか頭にない連中にエリィのことを認めさせようか、けっこう悩んだんだよ」
これでも、とにこやかに笑われるお顔から、失礼ながら悩まれたご様子は見受けられません。
「ベルンシュタイン家は相も変わらず弱小貴族の評判を諾々と受け止めているし、権威に固執する家柄から舐められても、のほほんとしている。それをどうやって覆そうかと。───でも、エリィは自分で自分の価値を示してみせたね。私が策を弄す要もなかった」
はい………?
殿下もかるく首をかしげてみせました。
「いま話しただろう?きみは自分で、宮廷貴族も役人たちも社交界のご婦人方も黙らせたよ。さらに言うなら、サウズリンドの国民達にも『虫かぶり姫』の評判は高まるばかりだ」
戦回避の件や流行を生みだす先見の明、さらには庶民の生活にも見識を持った親しみある姫君としてね───。
………殿下。それはだれのことですか。親しみって、『図書館の亡霊』と呼ばれたことですか。見識って、サミ魚に興味を示した食い意地のことですか。
なにかが間違っている、とわたしはアワアワと腰が引けました。
殿下はそんなわたしに、にっこりと距離を詰めて来られます。
「まさか、エリィが自分で自分の地位を確立してくれるとは思わなかったな。うれしいよ、エリィ。きみも私の隣に立つことを望んでくれていたんだね」
「はい………!?」
素の声が出ました。アワワと狼狽しながら、きらきらしい笑顔に近付かれて、わたしははたと気付きました。
「───殿下」
それ以上近付かれたら頭突きも辞さない覚悟で、間近の青い双眸を強く見返しました。
「誤魔化さないでくださいませ」
「………………ッチ」
お顔をそむけられても、聞こえております。
………なんでしょう。今日一日で今まで見たことがない殿下のお顔ばかり拝見している気がします。
考えてみればわかります。わたしの功績や助言はたしかにそれなりにあったのでしょうが、それを大々的にわたし一人の功績として広めるには、操作が必要です。
カスール伯爵の件がいい例です。そしてそれを行うことによって利を得るのは、いまの話の流れから言って、お一人しかおられません。
殿下は片手でまばゆい金髪をかき上げられると、かるく息をつかれました。
「たしかに、エリィの評判を多少操作したことは認めるけれど。でも、私がなにをしなくてもきみの評価は勝手に上がっていたよ。信じられない?」
真っすぐに眸を返されますと、わたしとしてもそれ以上意固地になることはできません。
「殿下は………なぜ、そこまでして」
『サウズリンドの頭脳』
その名前がいまや重荷となってわたしにのしかかってまいります。それを得るためにクリストファー殿下はこれまで、面倒な条件ものんで来られたのではないかと。
重たい気分で眸を伏せたわたしの頬が殿下の手で持ち上げられます。つかまれたままの手にも力がこもりました。
迫力ある眼差しがそこにありました。
「エリィ。言ったよね?私はベルンシュタインの隠し名ゆえにきみを望んだのではないと」
ためらってわたしは自分の眸が揺れたのを、殿下の目の中に見取ることができました。わたしの不安をかき消すように、殿下はやさしく息をつかれます。
「まあ………エリィが覚えていないのは、わかっていたけれど」
疑問を覚えたわたしに、殿下はやさしい微笑で教えてくれました。
わたしと殿下は十年近くも昔に、一度お逢いしているのだと。
~・~・~・~・~
その頃の殿下はサウズリンドの第一王子としてそれは大切に育てられ、才走ったところもあったことからそれはもう、絵に描いたような傲慢で高飛車な少年だったそうです。
ある日、殿下は王立図書館でなにかムシャクシャしていたらしく、本に八つ当たりしていたのだとか。
本を投げたり足蹴にしたり、的当てのための玉替わりにしたり───。
「………エリィ!あらためて怒らないでくれ。あの時散々、きみに叱られたから!」
あら、殿下。そんなにあせられずとも、反省しているのならよろしいのです。
まあ、冷汗をぬぐわれるなんて、そんな大げさな。
「とにかく───」
殿下はその時、彼より年下の少女にピシャリと頬を張られたそうです。まあ、勇気のある行動ですが、おそれ多いですね。
その少女は殿下でさえも言葉を失くすほどの迫力をたたえて、『本に謝りなさい!』と叱ったそうです。どうにか我を取り戻された殿下が反論しますと───。
『どこのだれだろうが関係ありません!書物は物言わぬ先人です。人類の宝です。あなたは口がきけない人に対して、非道なふるまいをしてもよいとでも教わったのですか』
『お、大げさだぞ………たかが書物ではな���か』
『………あなたは何歳ですか』
『なんだ?………じゅ、十二歳だ』
『あなたが投げたこの書物は、百余年も昔に書かれて、今なお再版され続けている歴史書です。たかだか十二年ぽっちしか生きていないあなたなど、この書物の前には
殿下はただただ圧倒され、彼より年下の少女に褓の取れていない赤子、ピヨコ───いえ、ヒヨコと言われ、下手に今までその才智を誉めそやされてきただけに矜持がガタ崩れし、反省して謝ったそうです。
それから少女に興味を抱いた殿下は王立図書館に通い、少女に本の話を聞くようになったのだとか。
少女の話す書物の中身はどれも面白く、王子付きの教育係から教わるものとはまるで異なっていたのだと。
殿下が書物の話よりも、それを話す少女のほうに胸をときめかせるようになるのに、そう時間はかからなかったそうです。
そのため、少女の身元を調べていた殿下は自分の側へ上げたい旨父親である陛下へ打診したところ───。
「いきなり、宰相と二人であわてだしたんだよ」
殿下はなんだか遠い目をされます。そんなにやんごとない身分のお方だったのでしょうか。実は他国の王女がお忍びで来られていたとか?
「エリィ」
殿下の眼差しがなんだか生ぬるいです。
「いま私は、きみと私の昔話をしているんだよ」
はた、と私も目をしばたきました。
………と、言うことは、もしかしなくてもその少女はわたしのことですか。
はあ、と殿下は声にしてため息をつかれました。青空色の眸にもいつもの覇気がありません。
「ここまで話しても覚えていないって………いや。エリィの中ではきっと私は最悪な印象だっただろうから、覚えられていないのは幸いというべきか………」
まあ、殿下。元気を出してくださいませ。わたしの人に対する記憶力など朝露のようなものです。
殿下はふたたび眉間の皺をほぐすように揉まれると、話を続けました。
その時はじめて、件の少女───エリアーナ・ベルンシュタイン嬢にまつわるサウズリンドの隠し名を聞いたのだと。
それでも遠まわしに侯爵である父に打診をしてみたところ、翌日にはわたしは祖父が隠棲する領地へ帰されていたそうです。
「まあ………」
そこまで言われてわたしも思い出しました。
父は母が亡くなった後、本に見向きもできないくらい沈んでおり、わたしと兄を傍から離そうとしませんでした。それでわたしも幼少時は王都で育った記憶があるのですが、九歳の頃、突然兄とともに領地の祖父の元へ送られました。
それから社交界デビューする十四の歳まで、王都の土を踏んだことはありません。
殿下はなにやら、とても苦々しく笑まれていました。
「あの時の自分の迂闊さは、ほんとうに、後ろ
…………殿下?ご自分でご自分をどつくことはできないと思いますよ?
「まあ、とにかく。侯爵やベルンシュタイン翁に何度も申し込みを突っ返されて、ようやくエリィが社交界デビューしたと思ったら、メチャクチャ可愛くなっているし、私のことは覚えてもいないし、他の男から言い寄られても全然気付かないし………!」
………殿下。ちょっと怖いです。落ち着いてくださいませ。
それにあの………
わたしも、自分で自分を卑下する趣味はないのですが………殿下にも不敬だと思いますし。
先よりもいたたまれない思いで腰が引けていますと、殿下のどこか据わった青い眸がわたしを捕えました。
「十年近くかかって、やっとの思いでつかまえたんだ。いまさら手離す気なんてないからね?エリィ」
ハワワ、とつかまれた手のまま、背がのけぞるようになりました。
さすがのわたしでも、ここまでくれば殿下がベルンシュタインの名ではなく、わたし個人を望んでくれていたのはわかります。でも、───でも。
「で、ですが、殿下。わたしはお妃教育を受けていません」
殿下の青い眸がパチパチと瞬きました。なんでしょう、その虚を突かれたようなお顔は。
………聞こえております、殿下。なんですか、エリィでもそんなことを気にするんだ、とは。
「教育は受けていないけれど………試験は受けたよ。それでエリィに教育は必要なしとされたんだ」
はい………?
「私の婚約者になったばかりの頃、母上や女官達の茶会や質問攻めにあっただろう?あれで知識、教養、礼儀作法、………社交性はまあ、置いておいて。容姿や性質も問題なし、とされたんだ」
「き、いておりません………」
「うん。言わなかったから」
言ったら絶対、エリィ逃げだすと思って。
きらきらしい微笑は悪魔のほほ笑みだと、わたしはこの時悟りました。近付かれる殿下から逃れる術はあるのでしょうか。
「わた、わたしは、社交界が得意ではありません」
お妃さまの絶対条件でしょう。
殿下、わたしの手に口付けるのはやめてくださいませ。心臓が口から飛び出しそうです。
「───母上は、外交が苦手なんだ」
はい?
「他国の文化や知識や言語とか………苦手なんだよ。だから、他国から賓客が来ると、いつもエリィを呼んで王宮に滞在させるだろう?」
きみなら、その知識に長けているから、と。
そう言えば………とわたしも思い出します。てっきり王太子婚約者の役割だとばかり思っていましたが。
わたしは他国の本も読みたかったので、他国の言語を学びました。翻訳されているものもありますが、やはりその国の言葉で書かれたものは、その国なりの微妙な言い回しや意味合いがありますので。
「ねえ、エリィ」
殿下の微笑は甘くてやわらかいです。
「人の上に立つからには完璧さは求められるけれど、人であるからには得手不得手がある。幸い、きみや私の周りにはそれを補ってくれる人たちがいる。───なにより、私はこの先もずっと、きみに私の側にいてほしい。エリィは、それを望まない………?」
わたしの胸がいままでになく強く高鳴りました。
殿下の青い澄み渡った青空のような双眸にのまれて、すい込まれて、数日前まで抱えていた苦しみが溶けて消えていくようです。
お側にいたいと、でももう、側にいられないのだと、そう思った時、苦しくて悲しくて仕方ありませんでした。
「お側に………いても、よろしいのですか」
クリストファー殿下のお顔がそれはうれしそうにほころびました。
「エリィ。エリアーナ。後にも先にも、私が側に望むのは、あなただけだよ」
わたしも高鳴る鼓動に浮かされて表情が笑顔を作るのを感じました。
「書物だけではわからない世界があることを、はじめて知りました」
フフと笑んだ殿下の手がわたしの頬にふれ、青い双眸がやさしく甘くにじんでその境目をなくしてきます。
わたしの唇にふれる前に愛情のこもったつぶやきがささやかれました。
「───私の愛しい虫かぶり姫」と。