序幕─1
序幕─1
聞き覚えのある笑い声が響いてきた時、わたしはあやうく梯子から足を踏み外すところでした。
ビックリして視線をおろせば、換気のために開けられた窓の外、王宮の奥庭にあたる木蔭に二人の人影が見えました。お一人はとてもよく知っているお方です。
我がサウズリンド王国第一王位継承者、クリストファー殿下。
御歳二十一になられる、聡明で英邁な、将来を期待される若き王太子さまです。
ふだんの殿下は際立ったそのご容姿をあますところなく活かして、年頃のご令嬢から妙齢の貴婦人を魅了し、先見の明でもって老獪な貴族をも従える、若くして王者たる風格を備えた方ともっぱらの評判です。
人前では隙を見せない王太子っぷりを発揮するお方が、くったくなく声をあげて笑われるなどと。
そんな無防備な───。
四年間、わたしは殿下のお側に上がってお仕えし、恐れながらそのお人柄も理解していたからこそ、その光景に驚愕しきりでした。
殿下とて人の子。声をあげて笑われることもあれば、軽口を叩いて年相応のお顔を見せられる時もあります。ですが、それはごくごく内輪の中に限っていました。
権謀術数ひしめくこの王宮内で奥庭とはいえ、だれの目に止まるやも知れないのに無防備なそのご様子に、わたしの胸は鋭く重たく痛みました。
そうして、そっとため息をつきました。
その時が来たのだと。
~・~・~・~・~
殿下と一緒におられるもうお一方は、最近後宮へ行儀見習いに上がったという子爵家のご令嬢です。
貴族令嬢が後宮へ行儀見習いに上がる理由は様々あります。婚礼前の花嫁修業の一環、縁談前の箔付け、そして求職のため。
貴族の家のご令嬢でもお家の事情で職を求められることはままあります。
その中でも王宮付きの女官や侍女は憧れの職であると聞きます。高位の方にお仕えするという名誉、そして王宮勤めの有望な殿方と知り合う機会や、もしかしたら、巷の恋愛小説のように王族に見染められる可能性だって、決して皆無ではないのですから。
子爵家のご令嬢、お名前をアイリーン・パルカスさまとおっしゃられたと思います。
最近、なにかと話題のそのお方を、わたしは遠目に拝見しておりました。
先日は近衛騎士団所属にして殿下の護衛も務める赤髪の騎士───グレン・アイゼナッハさまと、王都の通りを仲よさげに歩いていたのを見かけております。
また先々日は、殿下の側近にして右腕でもある公爵家の令息───氷の貴公子とささやかれる、アレクセイ・シュトラッサーさまと中庭の噴水近くで談笑されている姿をお見かけしました。
そしてわたしがいまいる王宮書庫室、その責任者である王弟殿下───テオドールさまとも親密そうに何度かお話されていらっしゃいました。
ひそやかに聞こえてくるお話によりますと、宮廷楽師として人気の美青年、アラン・フェレーラさまとも個人的に親しいのだとか。
その時には別段、なにを思うこともありませんでした。
同性の評判はかんばしくないようですが、知り合われた方々が皆人気のある方だけに、嫉妬ややっかみもあるのでしょう。
しかし今、殿下とアイリーン嬢のご様子には傍目にも親密な空気があり、アイリーン嬢のひたむきで一途な眼差しからは、言葉にせずとも殿下への想いが伝わってくるようです。
なるほど、とわたしは理解しました。
将を射んとすれば馬から───不敬にあたるでしょうが、そんな格言を目の当たりにした思いでした。
本が好きで、貴族の娘であるにも関わらず引きこもりがちなわたしからしてみたら、称賛に値する見事な社交術と人脈作りです。
本来ならば、その手腕はクリストファー殿下の婚約者であるわたしが発揮しなければならないものでしょう。
…………はい。
わたくし、エリアーナ・ベルンシュタインは十四の歳からクリストファー殿下の婚約者としてお側に仕えてまいりました。
ベルンシュタイン家は一応侯爵家ですが、内実は力ある伯爵家にも劣る末席中の末席です。
そんな家の娘がなぜ、王太子殿下の婚約者に選ばれたかというと───。
残念ながら、世の女性達を喜ばせるようなロマンス的なものはいっさいありません。ただ単に、都合がよかったのです。
我が家は宮廷内のどの派閥にも属さず、縁戚筋にもやっかいな権力者はおりません。そして父も兄も、権力ごとには興味を抱かない(───ある意味、宮廷貴族としては失格かもしれない)人種でした。
昨今の宮廷内派閥の権力闘争を改める一手として、我が家に白羽の矢が立った次第です。
はじめてお逢いした時に、クリストファー殿下はそのきらきらしいご容姿を輝かせておっしゃいました。
「───エリアーナ嬢。あなたは私の隣で本を読んでいるだけでいいよ」と。
我が家は代々、本好きの血筋として有名です。領地にあるご先祖さまが建てた地域図書館は広く一般開放されており、その内容量と代々の侯爵家がそろえた稀少本の品揃えは王立図書館に勝るとも劣らないと言われております。
そんなベルンシュタイン家の人間は三度の飯より本が好き、という変わり者ばかりで、かく言うわたしもその例にもれず、字を覚える前から書物に埋もれて育ってまいりました。
女性ならば好むであろうドレスや宝石類よりも未知の本を好むわたしについたあだ名は───本の虫ならぬ、「虫かぶり姫」という、普通なら不名誉に嘆いてしかるべきものでした。
しかし、その「虫かぶり姫」でもクリストファー殿下のお申し出が珍妙であることはわかります。
一瞬、わたしは自分が殿下の朗読係にでも選ばれたのかと、トンチンカンな考えに思いをはせました。
首をかしげたわたしに殿下は先の派閥問題や権力抗争、ベルンシュタイン家の利点を上げ、取り引きのように自身の要望をお話になられました。
───ぶっちゃけ。
さっさと婚約者を決めないと、王妃であらせられる母上さまや周りがうるさくてかなわないのだと。
「どうだろう、エリアーナ嬢。あなたも社交界デビューした年頃のご令嬢である限り、貴族の義務からは逃れられない。どこかの家のご夫人に収まって家政に追われ、貴婦人同士の交流会にふりまわされる未来よりも、私の隣で本を読むだけの生活を手に入れないかい?」
「………はぁ」
未来の貴族の奥方としての苦労より、目先の王太子の婚約者の気苦労のほうが何倍も想像に難くありません。
ちなみに───。
自国の麗しい王太子さまに対して、わたしの反応は不敬にあたるものだったかも知れません。が、ベルンシュタインの人間は興味があるもの(本)以外、等しく関心が薄いのでわたしとしては通常仕様だったのです。
クリストファー殿下はにこやかな笑みを浮かべておられました。
「私の婚約者ということになれば、お婿さん探しの茶会や舞踏会を断れるし、その分、読書の時間が増えるよ。……まあ最低限、公式行事や王家主催のものには付き合ってもらうけれどね」
どのみち、王族からの申し出を弱小貴族が断れるはずもありません。殿下の申し出が破格のものであるのは、世知に疎いわたしにも理解できました。
つまり殿下は、恋愛感情抜きで一令嬢にすぎないわたしに取り引きを申し出てくれたようです。
……………。
わざわざご苦労なことです。わたしは早くもこれからふりかかるであろう困難と、奪われるであろう読書の時間に憂鬱な思いでした。すると殿下はにっこり、悪魔のささやきをわたしに吹き込みました。
「それに、私の婚約者の肩書があれば、王宮書庫への出入りはもちろん───閲覧、貸出も自由だよ」
───ベルンシュタイン家の血は活字でできている。
そう、まことしやかにささやかれる家の娘であるわたしが、その申し出に飛び付かないはずがありません。
王宮書庫室はその名の通り、一般開放されている王立図書館とは異なり、王宮内にあって限られた者しか出入りが許されていない、王家秘蔵の蔵書が収められている、本好きには垂涎ものの聖地です。
本当なら領地にこもって地域図書館長として悠々自適な本読み三昧を送りたい父と兄が、しぶしぶながらも王宮勤めをしている理由がそこにあります。
わたしがいつも(恨みがましく)父と兄から聞いていた、王家所蔵の稀少本の数々。
それを直に目にし、手に取り、未知なる世界にふれられるのです。本好きにとって、これ以上の至福があるでしょうか。
喜色満面に眸も輝かせたわたしに、クリストファー殿下も、それはきらきらしい笑顔で応じられました。
「では、婚約成立だね。私は婚約者探しというわずらわしさから解放され、あなたは貴族令嬢の縛りから解放される。私は───私の婚約者という責務をあなたに背負わせるかぎり、あなたの自由の時間を守ってみせよう。必ず」
その時はじめて、未知の本にふれた時のように、わたしの胸がドキリと鳴りました。
クリストファー殿下はそのお言葉どおり、わたしを婚約者として発表した後は立場にふりまわすことなく、自由に読書させてくれました。
わたしも本当にそんなことが可能なのか、はじめは懐疑的でしたし、それこそ、当初は王妃さまの茶会や女官たちの質問責め、高位貴族らの思惑に右往左往させられたものです。しかし、それも殿下やその側近方がいつの間にか如才なくおさめてくれたようです。
以来四年間、人前にあまり出ない名ばかりの王太子婚約者として、とりあえずはつつがなく過ごしてまいりました。
そうしてようやっと、クリストファー殿下の真意がわたしにも見えてきたように思います。近頃、とみにささやかれている内容とも一致しております。
───成人を迎えられても殿下が成婚の儀を挙げられないのは、「虫かぶり姫」が噂どおり名ばかりの婚約者であり、権力闘争もひと段落ついた今、殿下はようやく意中の、真実心に想う姫君を妃に迎え入れられるのだと───。
噂を鵜呑みにすることはできません。しかし、わたしは噂を確証付ける事実も知っていました。
サウズリンド王国では男女共に、十八で成人とみなされます。女性が未成年でも、婚約相手の男性が成人に達していれば婚姻は可能です。しかし殿下はわたしがまだ幼いから、という理由でのらりくらりと成婚を先延ばしにしていました。
そうして、わたしが十八の成人を迎えた今でも成婚の話題は上ってきません。それが噂の信憑性を高めてもいるのでしょう。
しかし、仕方がないのです。
わたしと殿下が交わしたのは、あくまで婚約時代の双方の利点の合致。王妃教育をほどこしてもいない娘を妃に迎えることはできないのです。
わたしたちの間に恋愛感情はなく、あったのはただの、年頃の男女が周囲から求められる立場への共闘のみ。
そして今。
わたしは殿下が婚約破棄される日を、まるで読んだことがある物語のように理解してその時が来たことを知ったのでした。