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ワフッ(第一話ですわ)

 世界には「形質転換」と呼ばれる現象が存在する。


 外部から与えられたDNAが遺伝子情報として組み込まれ、個体、あるいは遺伝子情報が変化することをいい、与えられた遺伝子情報に従って決まった方向へと変化する。


 ここに一人の伯爵令嬢がいる。


 彼女の名前は「アルル・コーラス」。


 コーラス伯爵家の一人娘で現在十八歳。


 人呼んで「チャウチャウ令嬢」。


 アルルを妊娠中に他国から外遊に来ていた王族のペットであるチャウチャウに噛み付かれたアルルの母の体内にどういうわけか入り込んだその遺伝子により、顔だけチャウチャウ、体は人間として生まれてきたアルル。


 たるんだ皮膚、その皮膚に半分埋もれたつぶらな瞳、ペチャッとつぶれた鼻、一日の大半は出ている舌、顔中を覆う柔らかく茶色い被毛、ピンと立った三角の耳。


 おっさんじみた哀愁すら漂わせるその顔はどう見てもチャウチャウでしかなく、生まれ落ちた瞬間は医師が失神するほど周囲を驚愕させた彼女だが、赤子の無垢さと庇護欲をくすぐる子犬特有の愛くるしさが遺憾なく発揮された結果、家族達から溺愛されるようになり、スクスクと成長していった。


 顔がチャウチャウだからなのか人間の言葉は話せない彼女だが、「ワフッ」「バフッ」「バウ」「クーン」などの犬語で周囲と問題なくコミニュケーションが取れている。


 そんな彼女もお年頃であり、周囲は見合いや何やらで婚約者が決まっていくのだが、アルルを溺愛している両親や家の者達により彼女に来る打診は全てお断りされており、未だに婚約者がいない状態である。


 十八になって婚約者もいないとなるとさぞかし落ち込んでいるかと思うだろうが、アルル自身も普通の恋愛には興味がないため全く気にも留めていない。


 そんな彼女の元へと足繁く通う人物がいる。


 彼女が暮らす国「ピスタ王国」の第一王子「ラスタキ・ピスタ」である。


 金髪碧眼で大変美しい顔をした、この国のうら若き乙女なら誰もが憧れると言っても過言ではない人物だ。


「おはよう、アルル」


「ワフッ(おはようございます、殿下)」


「殿下なんてそんな堅苦しい呼び方はやめてくれ。ラスタと呼んで欲しいといつも言っているだろう?」


「ワフッ(そんなわけには参りませんわ)」


「アルルにそう呼ばれたいんだ。僕の愛しい君に……」


 この会話で分かると思うが、ラスタキ王子はアルルにご執心である。


 この二人の出会いは二年前まで遡る。


 ピスタ王国では男女共に十六歳を迎える年になると社会的に成人したと認めるためのデビュタントが開かれる。


 両親に蝶よ花よ(チャウチャウだが)と育てられたアルルはそれまで屋敷や別荘などから外出することはほぼなく、本当の意味でそのデビュタントが彼女のお披露目となったのだが、そのあまりにも異質すぎる外見を目にしたその当時は底意地の悪い王子であったラスタキの目に留まってしまい、一人で御手洗へと向かった際、ラスタキとその側近達グループに呼び止められた。


「おい、お前!」


「ワフッ? (はい、何でしょうか、ラスタキ殿下?)」


「化け物がなぜここにいる!」


「ワフッ……(そう申されましても……)」


「何だその顔は!」


 少し乱暴者でもあった当時のラスタキは、あろうことかうら若き乙女であるアルルのたるみのある頬をむんずと掴んだ。


「何だこの醜い顔は!」


 そう言いながらムニッと皮膚を引っ張ると、たるみが伸ばされ、黒くて丸く潤んだ瞳が顕になった。


「ワフ! (おやめください!)」


 実際アルルは少し涙目になって怯えていたため、いつも以上に潤んだ庇護欲満載の瞳となっており、そんな目に見つめられた王子は激しい胸の高鳴りを覚えた。


 そして自身の手に伝わる柔らかな被毛と皮膚の感触に幸福感すら沸き起こっていた。


「クーン(おやめください)」


 消え入りそうな愛くるしい鳴き声を耳にした王子は、その瞬間に完全に恋に落ちていた。


「おま、いや、君の名は?」


「ワフッ(アルル・コーラスと申します)」


「アルル……君にピッタリの素敵な名だ……」


 先程までとはうってかわり、熱を帯びた瞳で見つめられているアルルは困惑を隠せなかったが、その日はデビュタントが終了するまで王子のそばを離れることを許されず、こうして二人の出会いは過ぎていった。


「アルル? 君の好みはどんな人物だい?」


「ワフッ……(優しく誠実で真面目な紳士がいいです……)」


 それを聞いたラスタキは自身の性格を改め、アルルに好かれる男になるべくそれまで嫌ってきた勉強にも真面目に打ち込むようになり、出会いから二年が経過した現在では、当時の姿が嘘のように大変優秀で温厚でアルル一筋の王子へと変貌を遂げた。


 そんな王子の変貌を知った王家からは大変感謝され婚約の打診まで来たのだが、それはアルルの知らぬところで両親により断られており、諦めきれない王子はアルルの元へと足繁く通うというのが日常化している。


 この二年の間に王子に同行してアルルと接してきた側近達も今ではアルルに密かな恋心を抱いている。


 アルルは見た目こそチャウチャウだが、伯爵令嬢として申し分のない身のこなし、知識を持ち合わせており、何より外敵となる者に接してこなかったために大変純粋で優しく育っており、顔さえチャウチャウでなければ引く手あまたであっただろう。


「ワフッ」などしか発せられないが声はとても愛くるしく、また、アルルの両親は共に美形であるため、ちゃんとした人間として生まれていたならばかなりの美貌を誇っていたと予想される。


 そんなアルルと接する回数が増えた側近達はその心根にすっかり骨抜きにされアルルに夢中なのだ。


「はぁ……今日もアルル様は大変お可愛らしい……」


 アルルのチャウチャウ顔さえ今では可愛さの塊に見えている彼ら……世の中とは一体どうなっているのだろうか?


「アルル様ぁ!」


 アルルの名を嬉々として呼びながら近寄ってくる集団があった。彼女達もまたアルルに魅了されてしまった者達である。


 その中心で一際黄色い声を上げているのは「カイラ・マカロ」。


 マカロ公爵家のご令嬢であり、二年前まではラスタキの婚約者候補筆頭として名が上がっていた人物である。


 アルルとカイラの出会いはお世辞にも良いものではなかった。


 主にカイラの一方的な嫌悪なのだが。


 二年前のカイラは自分こそがラスタキの婚約者に相応しいと考えており、自分以外が婚約者に選ばれることはないと高を括っていたのだが、デビュタントでラスタキの隣に立つこととなったのはアルルであったため、アルルに良い感情は抱いていなかった。


 ピスタ王国ではデビュタントで王子の隣に並び立っていた者が婚約者になるのが大半である。


 他国のように妃候補を競わせたり、家柄や利益重視で婚約者を選ぶことは少なく、さすがに平民から選ぶことはないが、王子が気に入った相手と婚約を結ばせる体制になっている。


 このことに腹を立てたカイラはデビュタント後に公爵令嬢という立場を振りかざしてアルルに嫌がらせを始めた。


 デビュタントが終わると令嬢達はお祝いと交流を兼ねて茶会を開き同じ歳の令嬢達を招くことが習わしとなっているのだが、そこに呼ばないように圧力をかけたのだ。


 アルルは王子の開いた茶会にしか呼ばれることはなく、さぞかし落ち込んでいるだろうとカイラはほくそ笑んでいたのだが、元々そういう世情には疎い彼女は嫌がらせにも気付いていなかった。


 ダメージがないことを知ったカイラは他にも色々と嫌がらせを仕掛けたのだが、アルルには全く利かず、ついに直接手を下すことにした。


 アルルは週に一度お気に入りの動物園へと通っているため、そこを狙ったのだ。


「ちょっとあなた!」


 ゴリラの檻の前に立っているアルルに声をかけたのだが、次の瞬間、カイラの目の前を何か茶色い物が通過していった。


「え?」

「キャーーーーー!!」


 カイラの後方にいたご令嬢がけたたましい悲鳴を上げた。


「な、何?」


 カイラが振り向くと、ドレスに泥のような物が付いて青い顔をした取り巻き令嬢が目に入った。


「ワフッ(まぁまぁ、どうしましょう)」


 その様子を見たアルルが真っ先に動いた。


「ワフッ(ジョング様は時々イタズラをなさるんですよ)」


 アルルの言葉がまだ飲み込めないカイラは何が起きたのか分かっていない。


 ジョングとは檻の中にいるゴリラの名前である。


 真っ白いハンカチでためらうことなく泥のような物を拭い始めたアルル。


「ワフッ(ジョング様はイタズラ好きでして、初めて見る方には挨拶代わりに投げてしまうのです、ボロを)」


「ボロ」とは家畜や動物の糞のことを意味する。


「ボ、ボロ……」


 そうカイラが口にした瞬間、再び目の前を何かがヒュンと通過していき、他の令嬢が悲鳴を上げた。


「ワフッ! (ジョング様! メッ! です!)」


 アルルがそう言うとジョングはその言葉に従うかのように奥へと引っ込んで行った。


 単にボロを投げる行為に飽きて立ち去っただけなのだが、そんなことは分かるはずもないご令嬢達にはアルルがゴリラを従わせたように見えた。


「ワフッ(シミになってしまいますわ)」


 アルルがパンッと手を叩くとどこに控えていたのか音もなく現れた三人の召使い達がご令嬢に近付き、慣れた手つきでボロを落とし、簡単にシミ抜きを行い去っていった。


「バウッ(それで大丈夫だとは思いますが、ご自宅に戻られましたらきちんと洗ってくださいましね)」


 決して変わらない表情だったが(チャウチャウだけに)その瞬間、ご令嬢達には光り輝くようか笑顔のアルルの幻が見えていた。


 すっかり毒気を抜かれたご令嬢達だったが、ただ一人カイラだけは辛うじてアルルに完全には魅了されてはいなかった。


「あなた、どういうつもり」

「バフッ? (はい? どうかなさいましたか?)」


 振り返ったアルルの頬はブルンと揺れ、皮膚が伸びつぶらな瞳が全貌を表した。それはほんの一瞬の出来事だったのだが、カイラの心を掴むのには十分な時間だった。


「……アルル、様……何と愛くるしい……」


 こうしてカイラ率いるご令嬢軍団はその日からアルル親衛隊へと様相を変え、今では王子であるラスタキにすら「距離が近すぎます!」などと注意をし、アルルの恋を応援しつつその容姿を愛で、あまつさえ一緒に茶などを楽しもうと躍起になる軍団へと様変わりしたのである。

 

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