婚約が無くなったその後の話

作者: 高杉なつる

 一年中休暇なく二十四時間休みなく稼働し続ける採掘現場は、三交代制になっている。


 朝番は八時から十七時、昼番は十六時から深夜一時、夜番は深夜零時から翌朝九時、という勤務時間に分けられているのだ。

 ケイは夜番担当の事務員として、二年前からこの採掘現場事務所で働いている。


 事務職員たちの中で勤務時間帯を相談して決めるのだけれど、昼番と夜番は不人気で、その中でも夜番は圧倒的に不人気だ。


 不人気の理由は深夜から朝までの勤務である、単純な理由だった。「家族の問題がある」とか「子どもがまだ小さくて、子育てに影響がある」とかいうものから、「夜に寝ないとお肌がボロボロになっちゃうから」とか「彼氏との時間が取れなくなっちゃう」とか、事務職員たちはあれこれ理由をつけて夜番を回避しようとするのである。


 事務職員の昼番担当は二名、夜番担当は二名。この四人にならないよう、毎年人事の季節は事務員たちの中が揉めに揉める。皆、どうにかして夜番だけは回避したいのだ。


 ただし、ケイが入社してからは昼番、夜番の担当者が四人から三人になった(ケイが最初から夜番勤務で採用されたため)ことで揉めることが僅かに減った……ような気がする、とは人事担当者の言葉だった。


 そんな人事の揉めごとも、この採掘場で掘り出される鉱石の価値が見出されて世界中で需要が高まっていることも、ケイは全く興味がない。ケイ自身に関係もない。


 ケイはただひたすら、同じ毎日を繰り返しているだけ。


 深夜零時から翌朝九時まで事務仕事をし、下町にあるワンルームのアパートに帰ってシャワーを浴びて眠る。起床してからは、パンとミルク(ミルクがないときは水)を食べて家事や買い物をし、夕食を軽く食べてから深夜に出勤するという毎日だ。


 最初は昼夜逆転の生活に体が悲鳴をあげていたけれど、数か月で慣れて今では何ということもない。人間の環境適応能力は高いのだと、ケイは身を持って知った。




 二年前、ケイは十七歳の学生だった。

 貴族も平民も通う事のできる国立の学校で、経営やマナーなどを学んでいた。


 商家の娘であったケイは第三校舎(平民の生徒が通う校舎/貴族は第一、第二校舎)に通い、将来は商家の子息である婚約者と共に店を切り盛りする。商家の娘としては、ありふれた人生を歩む予定だった。


 婚約者は同じ年で、子どもの頃から商家繋がりのお茶会や季節のイベントなどで顔を合わせている間柄で、婚約を結んでからの関係も良好。燃えるような激しい恋ではなかったけれど、お互いに穏やかな恋をしていたと思う。


 卒業して結婚した後も上手くやっていけるだろうし、温かく穏やかな家庭が築けるだろうと双方の家族も、本人たちも思っていた。


 しかし、最終学年に進級してすぐ、婚約者とケイの関係に待ったをかけた人がいたのだ。


 それは学校に入学してきたばかりの一年生。艶やかな黒髪に、紫色の瞳を持った美しい男爵家の令嬢だった。


「あなたのことが気に入ったわ。わたくしの婿にしてあげる」


 入学式でケイの婚約者に一目惚れをしたという男爵令嬢は、そう言ってケイと婚約者の間に割って入った。


 すでにケイと婚約者は正式な『婚約者』という関係になって三年ほど経っており、誰の目から見ても男爵令嬢が一目惚れをしたからと後から割り込んで来たことは明らかであった。


 商家同士が結んだ『婚約』も貴族と同じく家同士の契約であり、簡単に破棄などできない。ご令嬢のわがままなのだから、迷惑料を商家へ支払って騒ぎをなかったこととして、それ以上のことはないのだと皆が思っていた。


 ……のだけれど、「よいではないか。現在結ばれている婚約を破棄し、彼は我が孫娘の婿になればいい。我が孫娘は大層美しく、朗らかな気質の持ち主であるのだから文句はなかろう。しかも男爵家への婿入りだ、貴族という立場になれるのだぞ? 実家の商家も貴族との縁を持つこともできる。現在の婚約よりも遥かに良い条件だろう」と口を挟んで来たのが、令嬢の母方の祖父だ。


 彼女の祖父という人物は、名の知れた豪商で商業ギルドを取り纏めている重鎮の一人。


 例の令嬢は男爵家に嫁がせた娘が産んだ初めての女の子ということで、老人がこれ以上ないほどに可愛がっていると噂になっていた。


 商人である以上、商業ギルドに属していた両家は悩み、苦しんだ。子どもたちの気持ちや商売の契約も大切だけれど、ギルドの重鎮に逆らえば立場が苦しくなる。


 両家が答えを出せないでいる間に、痺れを切らした令嬢は学校から帰るケイを攫った。彼女の身を守る護衛たちにとって、商家の娘一人連れ去ることなど簡単なことだ。


 なんの家紋も入っていない黒塗りの馬車に引きずり込まれ、ケイは手足を縛られて見知らぬ場所へと運ばれた。


 その後ケイは、三日三晩に渡って乾いたパンと水が一日に二回差し入れられるだけの真っ暗な部屋に閉じ込められることとなったのだ。部屋の外からは人の呻き声や悲鳴が時折聞こえ、ケイは恐ろしさにずっと震えていた。……そして、四日目に突然やって来た見知らぬ男は「今キミがしている婚約を、なかったことにして貰いたい」そう言ったのだ。


「キミが身を引けば、全てが平和的に解決する。もしも、身を引かなければ……キミのご両親が経営している店はギルドから除籍されるだろう。婚約者の店の方も同じ道を辿る、かもしれないね? ギルドから除籍されたら、店としてはもうやっていけないだろう。しかも、貴族からの圧力もかかるだろうね……そうなったら、どうなると思う? キミのご両親、弟さん、お祖父さんお祖母さん、叔父さん叔母さん、従兄妹たち。無事でいられるだろうかね?」


 恐ろしい言葉だった。ケイは生まれて初めて血の気が引くという経験をし、新たな恐怖に体を震わせる。


 婚約者のことは大事に想っているし、将来を語り合い、自身で想像もした。結婚し、店で共に働き、子どもを産んで……そんなよくある想像だ。その想像は現実になると信じて疑っていなかった。


「さあ、返事をくれないか?」


 両親と弟が苦労する、祖父母や両親が先祖から受け継ぎ守った店が無くなってしまうかもしれない。婚約者の家も同じだ……あちらの両親、婚約者の姉は結婚が決まっているけれど、その結婚だってダメになってしまうかもしれない。


「……お嬢さん、返事を」


 婚約者と描いた未来を捨てる、それしかないと思った。


 それを『はい、わかりました』と捨てるには……情が育っていた。


 けれど、けれども……


 ケイに語りかけてきた男はため息をつくと、ゆっくりと近付いて来てしゃがんだ。男の栗色の瞳と目が合う。連れて来られた知らない場所の知らない部屋の隅っこで座り込んだケイは、ガタガタと体を震わせる。


「ああ、まあ、そうだな。お嬢が不機嫌になるのも、わかるわな……もうちょっとなぁ、整ってなけりゃあなぁ……」


 ため息交じりに男はそう言うと、ケイの髪を手に掬いとった。父親譲りのアッシュゴールドの髪がスルスルと男の手の中で流れる。


「あ、あの……」


「……身を引く、そうだな?」


 ケイは頷くしかなかった。


 婚約者との未来を諦めれば、自分の家族も相手の家族も双方の店も今と変わらないでいられるのだから。それと同時に、三日三晩に渡る暗闇での監禁は……ケイの心を大きく傷つけた。


 商家の娘として十七年間、特別な苦労もなく、暴力や他人からの悪意に晒されることもなく生きて来たのだ。貴族の間ではそういうこともある、という噂話で聞いたことが実際に自分の身に降りかかれば……特別な人間ではないケイの心はは折れていたのだ。


 さらに、婚約を破棄するという同意書にサインをした後でやって来た令嬢本人に「あなたは気に入らないのよ」と言われて花瓶の水を大量にかけられ、手にしていた扇子と乗馬用の短鞭とで滅多打ちにされ、令嬢の侍女によって腰まであった髪をボロボロに切られたことで、折れた心は砕け踏み躙られた。


「平民の癖に生意気なのよ。なによ、その髪と瞳の色は! なによ、その顔は! 二度と見られないような顔にしてやろうかしら? それともいっそ、殺しちゃおうかしら?」


 ケイを殺すことは、見知らぬ男が「後始末が大変なんで、やめて貰っていいですかね。大旦那様の手を煩わせることになりますよ? そんなことをおねだりするより、もっと楽しいことをおねだりしたらどうです? ドレスをもっと上のものにするとか、アクセサリーとかかね。代わりに、お嬢さんの目に二度とこの娘が現れないようにするので」と言って、それに令嬢が賛同したため取りやめになった。


 その後部屋から出されたケイは、風呂に入れられ、平民として最低限のブラウスとスカートと靴を身に着け、最低限の着替えと小銭の入った鞄を与えられ(金持ち感覚での小銭であったため、かなりの大金だった)連れて来られたときと同じ黒塗りの馬車に乗せられた。


「このまま国を出る。キミは、他の国で生きていくんだ……そうすれば、キミの家族も婚約者だった男もその家族も無事でいられる」


「……」


「心配するな、家族と家の安全は保障する。って、俺が言っても信用できないだろうけどな」


 同乗している見知らぬ男は表情を崩さなかったけれど、その目には哀れみの色が浮かんでいた。が、ある種のショック状態であるケイは俯いたまま、男の顔を見ることも返事をすることもないままだ。


「あのお嬢様には関わらない方がいい」


「……」


「……今から行く国に着いたら、移民受付所に行って登録するんだ。三年間は、国から暮らす場所と最低限の生活費を受けることが出来るからな。それから、国営の職業斡旋所に行って仕事を探せ。あの国には職業の斡旋施設が沢山あるが国営の紹介施設で探すんだ。いいな」


 黒塗りの馬車は街道を三日間走り続け、港で船に乗って二日。ケイは生まれた国から遠く離れた国に到着した。


 商家の娘であったケイは男の言う通りに移民として登録を受け、国営採掘場の事務員としての仕事を得て……それから二年間、ずっと働き続けている。



 ― ++ ―



 八時に仕事が始まる担当者と引継ぎを行うと、九時になりケイは退勤した。


 街中が動き出した中、ケイは自宅アパートへと向かう。途中、朝のラッシュが終わったパン屋に立ち寄って、パンとパン屋の女将が作るフルーツバターの中からりんごバターを選んで買った。


 街の大通りを横断し、下町に向かう通りへと足を向けると「キャー!」という悲鳴と人の騒めきが聞こえてくる。


 事故でもあったのか? ケイはそう思いながらアパートへの道を進むと、騒めきが大きくはっきりと聞こえて来た。不幸にもケイの行く先でトラブルが発生しているらしい。


「わかったか! おまえに用事はない、おとなしく引き下がれ」


「っ……待ってください。こんなの、おかしいじゃないですか」


「黙れ! この俺に口答えをするとは、生意気なっ」


 交差点には一台の馬車が停まっており、護衛らしい者が二人と貴族らしい令息が一人。その令息に腰を抱かれている女性が一人、地面に尻もちをついている青年が一人……そして、それを見守っている野次馬が大勢いた。


 どうやら護衛の一人に青年は殴られたらしく、左頬が真っ赤になって腫れている。


「アビー、ダメだ。こんなの、ずっと続くわけないんだよ!」


 青年の訴えに女性は首を左右に振った。


「そんなことないわ。だって、エイドリアン様は誓ってくれたもの。生涯私だけだってだって、ね?」


「ああ、そうだ。アビーは俺のただ一人の女だよ」


「嬉しい、エイドリアン様!」


 女性が抱き着くと令息は嬉しそうに鼻の下を伸ばし、抱きしめ返す。


「ごめんなさい、アラン。私、エイドリアン様と一緒に行くわ、そう決めたの。だから、あなたとの結婚の話はなかったことにしてね。今日、ここで私たちはお別れよ。さようなら、アラン。今までありがとう!」


「アビー!」


 令息と女性は馬車に乗り込み、護衛も配置に着くと、馬車は滑るように交差点を抜けて街の大通りを走って消えて行った。


 馬車がいなくなると、ことの顛末を見守っていた野次馬たちも「すげぇ、ああいう略奪って本当にあるんだな」とか「貴族っていうのはさぁ……」とか好き勝手言いながら散らばって、残されたのは青年だけになる。


「……」


 青年はしばらく地面に座り込んでいたが、目の前の店の店主が「消えろ」とばかりに咳払いをし、従業員が箒を持って出て来たためにゆっくりと腰をあげた。


「……あの、すみません」


 ケイは立ち上がった青年に声をかけ、持っていたハンカチを差し出す。


 貴族に婚約者を奪われる、そんなことは物語の中だけのことで自分の身に起きたことは天文学的な確率で起きたのだろうと思っていた。けれど、今目の前で繰り広げられたことは、違う部分も沢山あるけれど結果としては同じだ。


 そんな同じ思いをした青年に対して、ケイは素通りすることはできなかった。


「…………ありがとう、ございます」


 青年はケイからハンカチを受け取ると、口の端の血を拭いて腫れた頬を軽く抑える。


「よく冷やして、お薬を塗るといいかと思います」


「……ありがとうございます」


「お大事に」


 それ以上、かける言葉は思い浮かばなかった。


 二年前にケイが体験したことについて、そのときには誰になんと言われても受け入れることが出来なかったから。青年に言葉をかけたい気持ちはあるけれど、それに相応しい言葉が浮かばない。


 だからせめて体を労わることだけでも、そう思ったのだ。


 この国に来る間、あの見知らぬ男の言葉でケイが受け入れることが出来たのは、扇子や短鞭で叩かれた傷を労わる言葉と、この先どうしたらいいのかというアドバイスだけだった。


 家族のこと、婚約者のことなどに言葉は……精神的なことなのか、耳に届かなかったし届いても受け入れられなかったのだ。


 自分のとった行動が間違っているとは、今も想わない。そうしなければ、家族はとても困ったことになっただろうから。けれど、思うのだ、自分で決めたはずなのに……この道を決めさせられたのだ、選ばざるをえなかったのだと。


 どうして自分だけがこんな目に合っているのか? どうして自分だけが婚約者を奪われ、家族から引き離され、たった一人異国の地で生きていかなくてはいけないのか、と。


 そう思うと、余計に言葉など浮かばない。


「では、失礼します」


 ケイは軽く青年に頭を下げると、アパートに帰った。


 仕事の疲れもあったけれど、あの時のことを思い出してずっしりと重たい気持ちになる。あれから二年も経っているというのに、未だケイは前を向き切れていない。


 俯いて、足元を見ながらゆっくり半歩ずつ進んでいるような感じだろう。


「……あの人はできるだけ早く、早く前を向いて新たな出発が出来るといい、な」


 そう呟いて胸の中にある重たい気持ちを出すように息を大きく吐き出すと、ケイは荷物をテーブルの上に置き、やかんを火にかけた。


 焼きたてのパンとコーヒーの朝食をとったら、熱めのシャワーを浴びて眠ろう。


 眠って起きたら、きっと二年前のことはまた胸の奥へ仕舞い込むことが出来ているし、気持ちも落ち着いている。それを繰り返していれば、いつか、自分も前を向くことが出来る……いつか、きっと。




 一週間後、いつものように出勤してきた担当者と引継ぎを行って、九時に退勤した。いつもの道を歩いてアパートに向かい、いつものパン屋さんに入ろうとしたとき「あの」と声をかけられる。


 振り返ると、見覚えのある青年が立っていた。


「あの、先週、あちら側の道の交差点で助けていただいた者です。その、先週はありがとうございました」


「あ、ああ。いいえ、お役に立てたようなら嬉しいです」


 赤く腫れていた左頬も、切れしまった口端の傷もすっかり治り、本来の顔立ちに戻っている。


「お仕事、終わったんですよね? その、突然なのですが……よければ食事をご馳走させてください。あのときのお礼がしたくて……」


「でも、そんな……」


「出来たら、断らないでほしいんです! その、女将さんが、あ、師匠の奥さんなんですけど、ちゃんとお礼をしなくちゃダメだって、それはもう物凄い勢いで叱られちゃいまして。今日、お礼が出来ないとまた叱られちゃいます……」


「まあ……」


「ですから、すみません……自分を助けると思って!」


 余程修行先の女将が恐ろしいらしく、青年は必死の様子で深く頭を下げる。


 女将という女性はどんな人なのだろう? 声が大きくて、恰幅もよくて、元気で明るくて、面倒見がよくって、裏表のない優しい人、ケイはそんな想像をした。


「お礼をしたいのに、お願いするって変ですけど、お願いします」


 目の前の青年はケイと同じくらいの年齢で、立派な成人だ。そんな彼が幼い子どもが母親を恐れるような態度でいるのが、おかしい。ケイは自分でも無意識に微笑みを浮かべていた。


「……わかりました。ご馳走になります」


 バッと音が出るほど勢いよく顔をあげた青年は、一瞬だけ固まった。


「あ、ありがとうございます。では、その、行きましょう。美味しい朝食が食べられる店があるんです」


 ケイは青年に連れられ、いつもは通らない……この街には二年暮らしているというのに、初めて通る道へと足を踏み入れた。


 案内されたのは小さな食堂で、『朝昼亭(あさひるてい)』という名前だ。名前の通り朝食から昼食時間のみ営業している少し変わった営業形態をしている。店の奥のテーブル席に座れば、日替わりで一種類しかないという朝食セットが運ばれてきた。


 トウモロコシを使った野菜のたっぷり入ったシチュー、二種類のパン、茹で卵の乗ったサラダという家庭的なメニューが並ぶ。気力がなく、自炊をほぼしない(料理はできるけれどやろうという気力がない)でパンとミルクという食生活を送っているケイにとっては、とてつもなく手の込んだ豪勢な朝食に見える。


「たっぷり召し上がれ! パンもシチューもおかわりあるからね」


 店主は満面の笑顔だ。温かい朝食にも、店主の笑顔にも……ケイは心も体もすっかり温められた。


 青年の名前はアラン・ターナー。生まれはケイと同じ国で、この国にはこの国で多く掘り出される鉱石を扱う技術を習得するため、修行に来ている職人の卵だという。


 先週貴族の元へ行ってしまった女性はアランと結婚の約束をしていた幼馴染で、将来アランが店を持ったときにその手伝いが出来るように、と彼女もこちらで接客、発注書受注書、帳簿の書き方などの事務仕事を学んでいたのだという。


 ただ、修行で忙しくているアランとは時間が取れず、自分が学んでいる事務仕事の方も思っていたようには習得できずにいて、悩んでいたし不満も出ていた様子だった……今思い返せば、彼女が変わっていった節目節目があったのだ、とアランは言った。


「まあ、きっと寂しかったし不安だったし不満だったんだと思います。そんなとき、あの貴族令息と出会ったらしくて……」


 アビーは平民の生まれではあったけれど、淡い茶色の髪は可愛らしい巻き毛に透き通るような緑色の瞳を持ち、非常に整った容姿をしている。幼いころは髪の色はもっと濃い茶色で、顔にはそばかすが沢山出来ていてよく見れば美しいくらいの容姿だった。


 年頃になり、身を構い化粧を覚えたことで、磨かれて垢抜けたのだ。平民の中に居れば、アビーは飛びぬけて美しい女性に成長した。そんなアビーが貴族令息の目に入ったらしい。


「そう、なのですか」


「話はしたんです、貴族と平民の結婚なんてあり得ないと。あの令息と一緒に行くってことは愛人になるってことであって、妻になれるわけじゃないんだって。でも、アビー……彼女はわかってくれなくて」


「きっと、ご令息にも正妻に迎えると言われたのでしょうね。その言葉を信じておられるのかと」


「……だと思います。夢見がちなところがありましたから、物語みたいな気持ちでいるんだと思います。結局、俺の言葉は届かなくて、アビーは行ってしまいました」


 ケイもアランと同じ意見だ。


 商家の者として貴族と顔を合わせることはあったし、校舎の違う貴族の令息令嬢と話しをする機会もあった。その経験から貴族と平民とでは生活様式も考え方も全く違うことを学んでいる。


 アビーという女性は貴族令息の愛人として囲われることになる、そして、彼が結婚するタイミングか、彼がアビーに飽きたとき……その関係は終わるのだ。その時、アビーに与えられる物がどれだけあるかはわからないが、その後彼女の人生が難しいことになることは簡単に想像がついた。


「もう、どうにもならないですけどね。それで、その、話しは変わりますが、これ……」


 アランはテーブルの上に可愛らしくラッピングをされた包みを取り出し、ケイへと差し出した。


「え」


「先週、ハンカチをお借りしたんですけど……洗っても汚れが落ちなくて。その代わり、です。使って貰えたら、嬉しいです」


 上品なラベンダーピンクのリボンがかかった包みは、街で有名なお店のものだ。白い外観に出入口を包むようにピンク色のバラでゲートが作られている、大変可愛らしくメルヘンな店である。


 扱う商品は女性用の小物ばかりで、当然客は女性ばかり。婚約者や恋人への贈り物を買いにやって来る男性もいるのだけれど、男性には大変入りにくい感じになっているのだ。


 ケイ自身はその店に行ったことはないけれど、店の前を通ったことはあるし、朝番の事務員たちが話しているのを聞いたこともある。


 あの店に出向き、女性向けの小物の中から自分への贈り物買うなんて、アランにとってとても大変だっただろうと簡単に想像がつく。そうして選んでくれた、という事実がケイは嬉しく感じたのだ。


 中身はユリの花の刺繍が入ったハンカチ。上品で可愛らしい品だ。


 婚約者だった人もケイに贈り物を誕生日や季節ごとにしてくれた。けれど、商家の人間である彼は商品を取り寄せるだけでよく、自分が入りにくい店に出向いて選んだりはしなかった。


「……ありがとうございます、大切にします」


 ハンカチ自体はもちろん嬉しい。けれどそれ以上にケイ自身のために女性ばかりの店に出かけ、沢山ある商品の中からこのハンカチを選んでくれたという、アランの行動と気持ちが嬉しかった。




 このときの朝食を一緒にとったことがきっかけとなり、ケイとアランは定期的に食事を共にする仲となった。


 ケイが深夜勤務であることからなかなか時間は合わなかったけれど、双方が合わせようという気になれば案外なんとかなる。二人は週に一度か二度共に食事とお喋りを楽しみ、春と秋に開催されるお祭りにも共に出かけた。


 端から見ればお付き合いをしているように見えたけれど、実際の二人はそういう関係ではない。気持ちは向いているのだろうけれど、あくまで友人という関係でいる。


 それぞれに結婚を考えていた相手を貴族に奪われていることが、一歩を踏み出せない原因となっていた。


 大切に想っている相手を誰かに奪われたら? そう思うと、一歩が踏み出せない。


 周囲は(特にアランの周囲は)もどかしい気持ちのまま二人を見守り、なんの進展もないままケイとアランは二年という時間を共に過ごしていた。


 いつものようにケイとアランは『朝昼亭』で朝食セットを注文する。


 本日のメニューはきのこと豆のトマトシチューととろけたチーズの乗ったパン、温野菜のサラダというものだ。二人の前にそれぞれの朝食が並ぶ、女将からの「たっぷり召し上がれ! パンもシチューもおかわりあるからね」というお決まりのセリフを聞くのが当たり前だったのだけれど……女将のセリフがない。


 ケイは不思議に思い、女将に視線を向けた。


 テーブルの脇に立つ女将は、難しい顔をしている。眉を寄せて口を強く引き結んでおり、常に笑顔である彼女の初めて見る表情だ。


「女将さん、あの、どうかしたのですか?」


「……ケイちゃん、どうしたもこうしたもないよ。もうね、二年以上経ったんだよ、二年って決して短くはない時間だろ? あたしはもう見ていられないんだ!」


「え? なんのことで……」


「ケイちゃん、お願いだよ! この意気地なしとのこと、前向きに考えとくれ!!」


 女将はそう言うと、ケイの向い席で固まっていたアランの背中をバーンッと叩く。大きな音が二人しかお客のいない店内に響き、アランの「うっ!」と痛みを堪える声が聞こえた。


「えっ……あの、どういうことで……」


「アランがあの娘のことで傷ついたことは、あたしもよくわかってる。そのせいで前に進めないでいることも知ってるし、理解もしてるつもりだ」


 ケイは女将の言葉に頷いた。あの事件のことはよく覚えている、ケイとアランが出会うきっかけにもなっているからだ。


「おんなじように、ケイちゃんにもなにか事情があるんだろうってことも……わかってる。どんな事情があるのかは知らないけど、こんな若くてかわいい娘さんが外国にやって来て、たった一人で生活してるんだからさ、なにかあるんだろうってね」


「……ケイ、あの」


「……」


 ケイは俯いて、膝の上で両手を強く握る。


 この国に来て四年、ケイは二十一歳になった。例のご令嬢は成人年齢である十八歳になり、学校も卒業しただろう。貴族としての教育も終わっただろう元婚約者と、結婚する年でもある。


 今まではずっと下を向いて人とは最低限の付き合いをして、傷付いた心を隠しながら生きて来た。この二年は、アランや女将との付き合いから人間関係が少し広くなった。そのことで、心の傷が癒えてきていることをケイ自身が感じている。


 体の傷も治り、切られた髪も整っている(以前のように長くするのは止めたが)、一番重傷だった心も治ろうとしているのだ。


 ――もう、いい加減止めよう。下を向いていても、過去は変わらない。


「わ、私は……」


 アランと『朝昼亭』の女将を相手に、ケイはこの国に来ることになった四年前のことを全て語った。あの事件のことを他人に話すのは初めてのことで、上手く話すことは出来なかったけれど……二人は黙って最後まで聞いた。


「ケイちゃん、ごめんよ。アランの気持ちだけで一方的なこと言ってさ」


 沈黙を破ったのは、女将だ。ふくよかな体でケイを包み込むように抱きしめると、何度も頭を撫でてくれた。


「辛かったね、頑張ったね。あんたは家族や元婚約者もその家族も護ったんだ、凄いよ。でも、もう必要以上に頑張らなくていいんだ」


 ケイの母は痩せていて、抱きしめられた感覚は全く違う。けれど、母に抱きしめられているようで……意図せず涙が溢れる。止めたくても止まらない涙が、四年の間で初めてであるとはケイ自身も気が付いていなかった。




 ケイの涙が止まるころには、朝食のトマトシチューはすっかり冷めていた。女将は「ごめんよ、二人が食べてから話をすればよかった」とシチューを温め直しにキッチンへと戻って行った。


「……嫌な話だったでしょう? 最後まで聞いてくれて、ありがとうございます」


 ケイは目尻に残った涙をハンカチで拭うと、軽く頭を下げた。それに対してアランは首を左右に振る。

「いいや、話してくれてありがとう。……俺たちはお互いに似たような経験をしていたんだね」


「そう、ですね」


「…………俺は、結婚を考えていた人が立ち去って辛かった気持ちを知ってる。だから、ケイの気持ちも少しはわかるつもりだよ。だからってわけじゃないけど……」


 アランは鞄の中から長方形の箱を取り出し、テーブルに乗せた。そして、その箱の蓋を開ける。


 箱の中には黒色のベルベッド生地が貼られていて、その上に銀色に輝く一対のピアスが入っていた。小さなティアドロップ型で、青色の石が二つはめ込まれている。一つは海のような青、もう一つは夜のような紫がかった青。


 海のような青はケイの瞳、夜のような青はアランの瞳の色だ。


「これは……」


「突然だっていうのは、わかってる。でも、その、受け取ってほしい」


 ケイとアランの生まれて育った国では、男性から女性へ結婚の申し込み時に耳飾りを贈ることが慣習だ。


 お互いの瞳の色か髪の色の宝石を埋め込んだイヤリングかピアス、それを一つずつ分け合って耳に飾る。左右が揃って一つの品、夫婦が揃って一つの家族、という意味があると言われているのだ。


「ずっとキミに惹かれてた。でも、あの時のことを考えると一歩を踏み出す勇気がでなくて……ケイ、キミも何かを抱えてるってこともわかっていたから余計に」


「……」


「女将さんに先を越されたけど、ケイを慰める役も取られちゃったけど。その……本気だから、受け取ってほしい」


「でも、その……」


「俺、ここでの修行がもうじき終わるんだ」


「え……」


 ケイはハッとした。アランは職人の卵であり、この国には鉱石を扱う技術を習得するためにやって来たのだと。技術習得の修行が終われば、国へ帰ることになる。


 アランはこの街から、この国から、いなくなるのだ。


「次の行先は、俺たちが生まれた国じゃないんだ。ここから西にある港から海を渡った先に大陸があるのは知ってる? その大陸にある国なんだ」


「凄く、遠い、ですね」


 とても会いに行けるような距離ではない。

 アランがこの街から旅立って行けば、二度と会えなくなるといってもいい。


「だから、俺と一緒に行ってくれないか?」


「……」


「あんなことを経験してるからこそ、俺は結婚してくれた相手を大事にしたい。あんな辛い経験は二度としたくないし、相手にもしてほしくないんだ。きっと、それはキミも同じだと思う」


 首を縦に動かし、ケイは肯定した。


「ケイ、キミの笑顔が好きだよ。キミには俺の側で、いつでも笑っていてほしいんだ」


「アランさん……」


「突然なこと、手順を踏めてないことは申し訳ない。でも、お願いだ……キミと離れたくない。だから、俺と結婚してほしい!」


 胸がぎゅーっと締め付けられる感覚がする。


 ケイ自身、アランのことは好ましく思っている。元婚約者への想いは淡いけれど恋だったと思う、アランへの想いは同じようであったけれど、もっとはっきりとしていて強い感じだ。


 けれど、アランと同じように……過去のことを思うと一歩を踏み出せないでいた。怖いと思う気持ちが無くなったわけではないし、この街からさらに遠い異国へ行くことに不安だって感じる。


 けれど、ケイは決めたのだ。過去に囚われるのは、止める、と。


「……私で、良いのであれば、よろしくお願いします」


「! あ、ありがとう!!」


 テーブルの上に乗ったピアスが入った箱に手を伸ばす。指に触れたティアドロップ型のピアスは不思議な触感だった。


「それ、俺が加工して作ったんだ。……ジュエリー職人じゃないから、洗練されたデザインじゃないんだけど。師匠や俺が扱う鉱石を使って作った、世界で一つだけの物なんだ」


 アランは席を立つと、ケイの右耳を飾っていた小さなピアスを外してティアドロップ型のピアスをつけた。婚姻関係を現わす耳飾りは、女性は右耳、男性は左耳につけるのだ。


「ありがとうございます……大事にします」


 ケイの右耳で銀と青色に光るピアスが揺れる。


 また涙が零れそうになったケイは、慌ててハンカチで目元を押さえる。その手にあるハンカチは、ユリの刺繍が入ったもので、二年前にアランが借りたハンカチの代わりにと渡したもの。


 そのことに気付いたアランは感激し、ケイへの気持ちを強くしたのだった。



「まったく、話しは食べてからって言ったばかりだっていうのに! またシチューを温め直すことになっちまったよ」


 朝食の乗ったトレイを持ったまま、二人の会話を見守っていた『朝昼亭』の女将は泣き笑いしながら言う。二人が口にした朝食は、三度温め直されたシチューだった。



 ― ++ ―



 四年という時間を俯いて過ごした国を出て、アランと共に海を渡り、馬車を乗り継いで新たな国ののどかな雰囲気のある街に到着した。


 この国でアランは馬や大鹿など、人が動物に騎乗するために使う鞍などの馬具を作る職人として、馬具工房兼販売店で働いている。アランは職人として、ケイは事務員として、将来は自分たちの店を持てるように、そんな夢を抱いて。


 馬具工房兼販売店に就職し、店の近くにあった借家を借りての生活は慣れないこともあって最初は大変だった。けれど、二人で相談し改善を繰り返して半年ほどですっかり落ち着いた。そこへ、突然の訪問者が二人の暮らす借家へとやって来た。


 ケイは遠く離れた家族に手紙を出していた、四か月ほど前のことだ。


 自分が今暮らしている場所、結婚したこと、今に至るまでに経験した手紙に書いた。締めには、心配はいらないのだという気持ちを家族への気持ちを込めた。


「姉さん! もうっ、あなたって人は!!」


「……ダリル!?」


 届いた手紙を読んで、やって来たのは薄汚れて、疲れた雰囲気の訪問者はケイの四つ下の弟。


 記憶の中にいる弟は小さく、華奢な少年であるというのに……四年半の間で弟は華奢な少年ではなく体格の良い青年へと成長を遂げていた。まるで別人のようだ。


「どれだけ心配したと思ってるの! ずっとずっと探して回ったし、姉さんの写真は新聞の尋ね人の常連になったくらいだよ! どうして、もっと早く連絡くれないわけ!? どうして家族や親戚を信じてくれないの!? どうして頼らないわけ!? どういうつもりだったの!?」


 ケイよりも十センチ以上背が伸び、大きな体になった弟は早口で言い切るとケイを強く抱きしめた。


「……姉さん、やっと会えた」


 巨大な蛇か熊にでも締め上げられているようで、とても苦しい。とても苦しいけれど、それだけ家族に心配をかけてしまったのだと思い、ケイは弟の背中を擦って我慢することにした。


 そう、アランに「あの、そろそろ力を緩めてくれないか、ケイが死んでしまうから」と止めにはいってくれる(息苦しさで意識を失う直前)まで、耐えたのだった。




 突然国外から送られてきたケイからの手紙を受け取った家族は、慌ててケイの元へ向かおうとしたが店のこともありすぐには向かえない。そこで、学校を卒業したばかりで自由の利く弟のダリルがまずはケイの元へ向かうことにしたのだ。


 両親や祖父母からの手紙、学校の卒業と成人祝いに贈るつもりで用意していたのだというネックレスを手渡されたときは、涙が溢れた。


 そして、ケイが国を離れてから今までのことを弟の口から知らされることになった。


 ケイから婚約者を奪った男爵令嬢は、成人し学校も(卒業資格ギリギリの成績で)卒業したのだけれど、元婚約者の彼とは結婚しなかった。理由はご令嬢の妊娠。お腹の子どもの父親は元婚約者ではなく、学校でお付き合いのあった男性の中の誰か、であるらしい。


 そのため二人の婚約は白紙に戻され、元婚約者はケイを探そうとしたのだが……ケイの両親が待ったをかけた。すでに四年以上の時間が経ち、ケイの行方はわからないまま。家族は見つかるまで探す予定ではいるが、いつ見つかるかわからないのだ。


 ケイにも元婚約者にもお互いに問題があったわけではないけれど、結ぶはずだった縁は切れたと考えた方がいい。元婚約者は貴族へ婿入りをしないのであれば、当初の予定通り家を継ぐべき立場になるのだ。見つかるかわからないケイを探している場合ではない。


 仕事上の付き合いはしても、それ以上の付き合いはしない方がいいと判断したためだ。


 結局、彼は自身の両親にも諭されて渋々であったけれどケイのことを諦め、去年の夏に遠縁の女性を妻に迎え、実家の支店を任されて仕事に打ち込んでいる。


 貴族家への婿入りだと施された教育は元婚約者を洗練された男に作り上げ、それを武器に自分の中にある昇華出来なかった気持ちを貴族相手の商売にぶつけ、上手く行っているらしい。


 男爵令嬢がどうなったのか、そこは貴族世界のこと、平民の耳にははっきりしたことは入って来ない。子どもを出産した後で遠方の修道院に入ったとか、男爵家の領地に封じられたとか、どこかの老貴族の元へ後妻に入ったとか……そんな噂が流れたらしい。


 そのはっきりしない噂の代わり、男爵令嬢の兄にあたる令息が事件に巻き込まれたことははっきりしているとダリルは言った。


 男爵令息には婚約していた子爵令嬢がいたのだけれど、令息は平民出身の愛人を三人ほど囲っており、子爵令嬢との結婚を控え三人との別れを切り出したらしい。その際、令息と愛人たちの間でトラブルになり、刃傷沙汰になってしまった。


 しかも、その刃傷沙汰が起きた場所は、貴族も平民もよく利用するという流行のカフェ。大勢の人が目撃したことで彼らの関係が赤裸々に語られ、社交界で噂になりゴシップ雑誌の一面をかざったりもした。


 負ったケガは大きくはないものの、平民である愛人たちが貴族である令息を傷つけたことが問題となった。本来なら、貴族を傷つけた平民は死罪だ。


 しかしながら、一夫一婦制という夫婦形態をとっている国で愛人を大勢抱えることは褒められたことではない。婚約者のいる令息が、愛人を三人も抱えていることにも問題ありとされ……愛人たちは強制労働の罰が下された。愛人たちの中には、アビーという名の美女がいたらしい。


 女性問題で問題を起こして社交界に醜聞が流れた男爵令息は、婚約者であった子爵令嬢から婚約を破棄された。それにより、令息は男爵家から除籍されて街道作りの労役所に入れられたらしい。子爵家への慰謝料を稼ぐため、街道や水路を作る仕事をしているという話だ。


 そして、商業ギルドの重鎮であった彼らの祖父である人は、孫娘と孫息子の不祥事と今まで行ってきた横暴かつ非道な振る舞いを咎められ、商業ギルドの役職から退いた。彼の商会は子息に受け継がれたが勢いを削がれ、以前のような勢いを失くしている。


 当の本人は商会所有の小さな別荘に『病気療養』という名目で封じられたという。その別荘から出ることはできないのだとか。


「……そう、色々あったのね。でも、お父さんとお母さんとあなたが元気でいて、あなたが継ぐお店が順調でよかった。彼の方も結婚して、お仕事も安定しているようで安心したわ」


 ケイは弟からひと通りの話を聞き終え、大きく安堵の息を吐いた。


「姉さん……今、幸せなんだね?」


 ダリルは姉弟で座るリビングルームの椅子から、キッチンに視線を向ける。そこには、夕食で使った食器を洗うアランの姿があった。


「色々あったから、沢山悩んで不安になったりもしたの。でもね、アランが……彼が一緒にいてくれたから、立ち直れたのよ。私、幸せよ」


「姉さん」


「お父さんたちに伝えてくれる? 旦那様はケイを大事にしてくれています、心配はいりませんって。暮らす場所は遠く離れてしまったけれど、ケイは幸せに暮らしていますって」


 カチャンっと大きく食器同士が当たる音がして、アランの方に視線を向ける。「大丈夫、脅かしてごめん」と言う夫と目の合ったケイは、「ダリル、ちょっと待っていて」と心配そうにキッチンへと向かう。


 キッチンで二人並んで食器を片付け、食後のお茶を用意するケイは幸せそうな笑顔を浮かべている。


「……」


 ケイが家族と離れ離れになる前、ダリルがまだ十代の初めだった頃。家族と一緒に暮らし毎日学校に通い、婚約者の男との関係も良好だった……その頃のケイはよく笑っていた。


 その時よりも、華やかなのに穏やかな様子の姉を見たダリルは「一緒に国へ帰ろう」という言葉を飲み込んだ。


 ケイの幸せが、夫であるアランと共にこの家で作られているのだと、ここは二人が共に歩んで掴み取った場所なのだと、家の穏やかな雰囲気を感じて姉夫婦を見ていればわかる。


 姉が家に帰って来るものだと思っている両親は、とても残念がるだろう。


 それでも、今まで辛い思いをして苦労した末に掴んだ姉の幸せを壊すことは絶対にできない。


 ――姉さんが家に帰らないって、どう父さんたちに説明したもんかな。下手に説明すると、店を捨ててこっちに永住するとか言い出しかねないし……


 甘い香りのするお茶を淹れ、小さな焼き菓子と共に運んで来るケイの右耳に揺れる銀色のピアスを見つめながら、ダリルは苦笑いを浮かべて大きなため息をついた。

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(短くまとめるって……難しいです……)