失敗
「ケーキセットになります」
宿屋の食堂でくつろいでいると、店員であるスーミレが運んできたケーキと紅茶がテーブルに並べられる。
女将さんはお菓子作りにも凝っているので味はいいのだが、……俺は頼んでいない。
「これは、そちらのご婦人が注文されたのでは?」
隣のテーブル席にいる二人組のご婦人達に目を向けて言うと、スーミレが「あっ」と声を漏らした。
「す、すみません」
慌ててケーキを回収して隣へと運んでいく。
向こうでもペコペコ何度も頭を下げている。客の方が恐縮するぐらいの謝りっぷりだな。
「はぁーっ、またやっちゃった。すみません、回収屋さん」
俯き加減でテーブルの隣に立つスーミレが再び謝罪をする。
「いいんですよ。ちょっとした間違いなんて誰にでもあることですから」
「そう言ってもらえると助かります。でも、回収屋さんは失敗なんてしたことなさそうですよね?」
「そんなことはありませんよ。人には話せないような大きな過ちを犯したことが何度もありますからね……」
そう、取り返しのつかない失敗を何度か経験したことがある。
今でこそ回収屋の仕事も板についてきたが、まだ回収屋と名乗っていなかった頃は本当に酷かった。その中でも心底悔やんだ、あの過ちだけは今も自分が許せないでいる。
「学園の生徒たちのスキルはそれなりか……」
以前、死の間際の商人から『鑑定』を安値で買い取り、それからは頻繁に発動しているが、やはりこれがあると『売買』の能力が利用しやすい。
商人として各地を回りながら、スキルで悩んでいる人の話を聞いて買い取りをさせてもらうこともあるが、そろそろ本格的にスキル集めをするべきなのか。
戦闘系のスキルと利用価値の乏しいスキルはかなり集まってきたが、それでもレベルを上げるためにはもっと必要だ。
珍しいスキルや強力なスキルを買い取るには、現金も必要だから買い取りだけじゃなく売る方も積極的にやるべきかな。
姉と別れてから一時期は冒険者もしてみたが、『売買』を生かすには商人をやる方が効率もいい。それに商人の方が性に合っている気がする。
「あのあの……商人さん、総菜パンまだありますか?」
小柄で前髪が鼻先まで伸びた、見るからに気が小さそうな少年が目の前でおどおどしている。
古びた本をいつも大事そうに抱きかかえているが、あれは呪文書なのだろうか。
この子は人がいなくなってからやってくる子で、この子の為にいつもパンを残しておくことにしていた。
「あるよ。肉を挟んだのと野菜たっぷりなのも残っているけど」
「じゃあ、両方ください」
「毎度ありがとうございます」
お腹を空かせた生徒にお手製のパンを売り、お金を受け取る。
今は魔法使いを育成する学園の売店で働いているのだが、みんな若いだけあって総菜パンや弁当が飛ぶように売れていく。
どうして学園で働いているのかというと、知り合いの商人さんから頼まれた仕事だ。
魔法系のスキル買い取りができるのではないかと期待して、短期間だけ仕事を請け負うことにした。
「ここのパンは美味しくて……好きです」
「そう言ってくれると嬉しいよ」
この子は学園内でイジメに遭っているようで、いつも人のいない時間を見計らってこうやって買いに来る。
意識を集中して彼のスキルを見てみるが、魔法系のスキルは他の学生と比べて高い方なので、魔法使いとしては優秀なはずなのだが。
ただ『内気』というスキルがレベルも高く、これが周囲に悪影響を与えているのだろう。この年の子供は気に食わない相手を見つけ、自分のストレスを発散するなんてことは普通にあり得る。
実際、俺が村で似たようなことをされていたのだから。
「食べる場所がないなら、売店の奥で食べて構わないよ。客から奥は見えないようになっているからね」
「い、いいんですか?」
「大事なお客様だからね。特等席でランチをどうぞ」
「ありがとうございます!」
何度も頭を下げて、パンを大事そうに抱えながら売店の奥へと移動する。
今横を通り過ぎた瞬間、仄かに木の香りが漂った。深い森の中で深呼吸をしたかのような、芳醇な木の香り。これは香木かな。よく見ると少年は木製の丸い玉を繋いだ首飾りをしている。あれが匂いの元か。
俺が利用している机と椅子があるので、そこで少年は嬉しそうにご飯を食べていた。
居場所がないようなので、これからはここを避難場所として提供することにしよう。少年の現状に同情しているのもあるのだが、それよりも少年には気になるところがあるのだ。
それが何かは分からないのだが、喉の奥に小さな骨が刺さったかのような違和感というか、少年を見ていると胸騒ぎがする。
もう一度『鑑定』を発動してみたが、怪しいスキルは何もない。
『直感』が何かを訴えかけているのだが、レベルが高くないのでそれが何か分からない。ただそれに少年が関わっている。それだけは確かだと……思う。
杞憂であればそれで構わないのだが、少年のことは気を配るように心がけておこう。
「ムカつくんだよっ! 変な臭いさせやがって!」
売店の商品を補充しながら『聞き耳』を発動していると、裏庭の方から生徒たちの声が聞こえてきた。
あの場所は教師の職員室からも遠く……いじめを行うには絶好の場所なんだよな。
「見過ごすわけにはいかないか」
怒声に交じって聞こえる打撃音と「やめて」という弱々しい声に聞き覚えがあったので、俺は荷物を床に置いて駆け出す。
最短距離を全力で走り、現場近くの大木の裏に潜むと『声真似』を発動させた。
「こっちでイジメられているというのは本当か?」
学園で肉体強化魔法と体術を教えている、厳つさナンバーワンの先生の声を真似る。
それを聞いた途端、生徒達が一斉に逃げ出した。
「このことを先生にチクったら、どうなるか分かってるよな!」
と脅しの言葉を残して。
全員の気配が遠ざかったのを確認してから、地面にうずくまっている彼の元に歩み寄る。
「大丈夫ですか?」
「あ、はい。あっ、売店の人」
手を差し伸べると泥にまみれた手を伸ばしかけたが、少年は手を引いて自力で立ち上がる。俺の手を汚すことをためらったようだ。
こんな状況でも気を使えるのか……。
「私から教師に伝えておきましょうか?」
「や、やめてください! 前に僕が訴えても担任は取り合ってくれませんでした……。それどころか、生徒たちに笑いながら話して翌日から悪化しました」
教室に味方が誰もいない状況なのか。それはきついな。
魔法の実力では少年の方が上なのだが、許可なく魔法を使うのは禁止されている。魔力を探知する魔道具もあるそうなので、イジメをしていた連中も魔法だけは一切使わなかった。
このままだと、イジメが悪化していく一方かもしれないな。
「僕は何も悪いことをしてないのに……。あっ、母さんの形見のネックレスが千切れ……てる。うっうっ……畜生、ちくしょおおおっ! なんで人の嫌がることを平然とできるんだよっ!」
地面を殴りつけ涙をボロボロと流す少年と、自分の幼い頃の姿が重なる。
あの時の俺には姉がいた。裏があったとはいえ頼れる相手がいたのだ。だが、少年は独りぼっち。
ずっと俺がここにいるなら、彼をかばってやることも可能だが一か月もしたら学園を離れなければならない。
彼に――スキルを与えてみるか。『体術』や『回復力』があれば、あの程度のイジメに屈することはなくなる。『内気』も買い取ろう。
あと『解読』もいいかな。これがあれば古文書や魔法に対しての理解力が上がり、授業でも役立つし、将来魔法使いになった時にも使い勝手がいいはずだ。
学園での仕事が終わるその日、少年は涙を流しながら俺との別れを惜しんだ。
あれから少年は俺の渡したスキルを活用して、イジメっ子達を撃退。
少年がイジメられていたのを見てみぬふりをしていた生徒たちも、手のひらを返して少年の味方になったらしい。
イジメ問題も片付き、憂いがなくなった俺は学園を後にした。
――それから三年後、再びこの学園へ俺は舞い戻ることになった。
イジメられていた少年の卒業式があるらしいので、そのタイミングに合わせてこの街にやってきたのだが、まさかこんなことになっているとは。
街中では学園での騒動についての話題で持ちきりだった。夕方や週末には学園から生徒たちがやってくるというのに、この二週間生徒の姿を街中で全く見かけていないそうだ。
学園は街外れに建てられているのだが、街から学園へ続く一本道が今は封鎖されている。
見張りをしていた兵士に尋ねたところ、学園で騒動があり兵士を送り込んでいる最中だという事だった。
俺は見張りに礼を言い、少し離れてから道なき道を進む。
学園の生徒達で思い入れがあるのは、あの少年のみ。彼の無事さえ確認できればいいのだが……。
学園は巨大な塀で囲まれているので、外から見るとまるで要塞のようだ。塀が真っ白なのでそこまで圧迫感はないが。
学園の門前には常に門番がいるはずなのだが、誰もいないな。
夜以外は開け放たれている門扉も閉じられている。
『気配察知』を発動したが……気配が感じられない?
どういうことだ。学園の奥の方までは探知できないとはいえ、結構な範囲を調べることが可能だ。だというのに、人の気配を全く感じないだと。
それにこの学園に向かった兵達はどうなったんだ。門が閉まっているということは侵入できなかった?
ここで考えても答えは出ないか。侵入してみるしか手がない。
「行くしかないか」
『登攀』『跳躍』『怪力』に付け替え、楽々と塀を登っていく。
塀の上から学園の建物に目をやるが、窓際や中庭に人っ子一人いない。
人の気配どころか物音一つしないときたか。建物の入り口の扉は開け放たれているのか。
塀から飛び降り建物の入り口に忍び寄ると、そっと中を覗き込む。
「なるほどね」
一階のホールは石床になっているのだが、そこには鎧を着た兵士たちが転がっていた。兵士たちの顔は恐怖に歪んでいる。
にしても酷い有り様だ。体には刺し傷もあれば魔法でやられたような跡もある。
「なんだ……肉が抉れている。噛まれた跡か?」
魔物を召喚した可能性が高いな。希少ではあるが召喚魔法を使える生徒もいた。
どれが死因なのか断定できないぐらい、ボロボロにやられているな。複数で容赦なく襲い掛かったのか?
兵士の死体はあるが生徒達の死体はない。
ここから想定されるのは、学園の生徒達が暴動を起こしたという展開だが。そんなことをする必要性が感じられない。この学園は優秀な魔法使いを輩出していることで有名で、卒業後の幸福な未来が保証されている。
わざわざ、それを棒に振って暴動を起こしてなんになるというのか。
「っと、考えるより行動だな」
万全を期したスキルを設置すると、俺は学園内の探索を始めた。
各教室を回ってみたが、生徒は何処にもいない。それどころか教師の姿も見当たらない。
教室内は机や椅子がなぎ倒され、そこら中に血が飛び散っている。
「召喚に失敗して、強力な悪魔を呼び出してしまったというのが本命か?」
強力な悪魔を呼び出す場合、事前に生け贄が必要とされているが、場合によっては後払いでも可能となっている。
まず召喚して交渉した結果、学園中の人を生け贄としたという線も考えられる。魔法学園だけあって禁書の類や、取り扱いに注意しなくてはならない〈大いなる遺物〉があってもおかしくはない。
部屋の大半を調べたところで気配を探るのをあきらめ『聞き耳』『嗅覚』を発動させる。
多くの何かが蠢く音が微かにする。この方向は訓練場か。
「『直感』スキルをもっと磨いた方がいいな」
この後の展開を想像するだけでうんざりするが、ここで引くわけにもいかない。
俺はこれを最後まで見届ける義務がある。これは予感ではなくただの確信だ。
校舎を出て訓練場へ向かう途中、異様な臭いが漂ってきたが無視して進む。
訓練場の扉を勢いよく開け放つと、訓練場の中は学園の生徒達で埋まっていた。
結構派手な音を立てたというのに、誰一人として振り向かない。全員が足下を見つめたまま、ゆらゆらと体を左右に揺らしているだけだ。
数は百体ぐらいか。
そして、生徒達は気配がない。それはつまり――。
「死体」
おおよその見当はつけていたが、いざ目の当たりにすると愕然としてしまう。
この世界には死体を操る『死霊術』というものが存在する。これはかなり特殊なスキルで、魔法に属してはいるのだが後天的に覚えるものではなく、生まれつきスキルとして得ている者にしか使えない……レアスキルの一つ。と言われている。
魔力を元にして死体を操る『スキル』なので魔法学園の生徒にいてもおかしくはない。魔力を鍛えるのに最も適している場所がここだから。
痛みを知らない死体の群れ。この数を相手にするのは辛いかもしれない。一対一なら倒す自信はあるが数の暴力は、思っている以上に厄介だ。
死体相手となると一撃で仕留めることも難しく、取り囲まれて捕まったらそこで終了となる。
死臭が充満している中、一つの臭いを嗅ぎ取り……大きく息を吐く。不快な腐臭に交じりながらも主張してくる独特の香り。それは嗅いだ覚えのある匂いだった。
「卒業おめでとう。と言いに来たのに、まさかこんな再会をするとは。そろそろ出てきたらどうだい?」
俺が死体の群れに向かって語り掛けると、元生徒だった者達がのろのろと左右に移動する。一本の道が生み出された先には椅子の上で踏ん反り返っている、生徒の姿があった。
右手には分厚く古ぼけた本を手にしている。あれは、以前から大事そうに抱えていた本だよな。
「髪型は相変わらずだな。身長も三年前と変わらないようだね」
「これはこれは売店の商人さん。お久しぶりです。あなたから頂いたスキルのおかげで、こんなにも強くなれました。本当にありがとうございます」
あのおどおどしていたイジメの被害者だった少年は、三年前と寸分変わらぬ見た目のまま、口元に笑みを浮かべている。
これは『内気』を買い取った影響なのか。
しかし成長期である少年が三年間で少しも身長が伸びていないのは――違和感がある。
「ものの見事に騙されたようだね。まさか、弱者を装っていたとは」
「それは違います。商人さんといた頃はただの弱者だったのですよ。商人さんがいなくなってから、どうにか今の状況を打開できないかと考え、我が家に代々伝わる禁断の書に手を出しました。『死霊術』を操る太古の偉大な魔法使いの魂が封じられた本を、あなたからもらった『解読』を活用して読み解いてしまった。その結果、膨大な魔力と知識、更に『不老』『死霊術』といったスキルを手に入れることに成功したのです」
少年の口調は歳を経た老人の様で、言動の一つ一つに威厳を感じる。
老人の口調を真似たのではなく、自然に無理なく話しているようだが。
いつも大事そうに抱えていた本は、そんないわくつきの物だったとは。俺の『直感』はあの本に反応していたというのか。
「つまり、少年の体を……封じられていた魔法使いが乗っ取ったということなのか?」
「それは違う。魂をスキルと化し記憶を他者へ移す、という目論見は半分しか成功しなかったのだよ。偉大な魔法使いの知識やスキルは確かに、僕へと移った。だが意識を乗っ取ることには成功せず、魔法使いの記憶を受け継いだのみとなった」
つまり、目の前にいる少年は、老魔法使いの記憶だけを受け継いだ元の少年だというのか。
「この凶行は体を乗っ取った老人の仕業ではなく、キミが望んだことだ……ということか?」
「そうですよ。老魔法使いの記憶はありますが、まあ演劇か夢でも見ているような感覚なので、彼の記憶に左右されることはありません。僕はこの手に入れた力で、復讐をしただけです。毎日毎日、僕をイジメていた彼らと止めようともせずに黙っていたクラスメイト。そして、対策をしなかった教師達。イジメは無くなったとあなたに言いましたが、実はそんなことはなかったのです」
あの時、泣きながら俺に感謝していた姿は……嘘だったのか。
俺はそれを真に受けて、今日まで一切疑っていなかった。自分の間抜けさ加減に頭を掻きむしりたい気分だよ……。
「一対一で勝てないと分かると、大人数で取り囲み動けなくなるまで殴られるようになりました。物は隠され、授業もろくに受けられない状況。イジメている連中の中に権力者の息子がいたので、教師も生徒も見て見ぬふり。毎日が地獄でしたよ。彼らを見返すことだけを考えて日々を耐え忍んでいました。この本を『解読』してからは三年もの間、密かにスキルを磨いてきました。……復讐の為に!」
「三年間……。いや、それ以前からため込んだ恨みを晴らすために、復讐劇を開始したと。俺は最低のタイミングでやってきたのか。運がないな」
彼に『解読』を売らなければ、『内気』を買い取らなければ、この学園を離れなければ……こんなことは起こらなかったのか。
「威張り散らしていた彼らも今や、従順な下僕ですよ。どんな命令にも従う、可愛い奴らです」
「キミが受けた苦しみの十分の一も俺は理解できない。その屈辱は計り知れず、俺の想像の範疇を超えているのだろうな。だがな、これはやりすぎだ」
「やりすぎ⁉ 死にたいほどの仕打ちを毎日受け、人間の尊厳を踏みにじったこいつらを殺して何が悪いんです!」
目が血走り髪を振り乱しながら叫ぶ彼に、昔の面影は微塵もない。
狂気をにじませる彼の言動に恐怖は……ない。俺の目には癇癪を起して泣き喚く子供にしか見えなかった。
「イジメていた奴らに対して同情はないよ。殺されても文句は言えない行いをしていたようだからね。担任の教師にも罪はある。だけどね、何もしなかったクラスメイトや他のクラスの子に、ここまでする必要があったのかい?」
「あるに決まっているじゃないですか。助けもしないで見てみぬふりをするのは、イジメているのと一緒なのですよ? 同じ罪に決まっています! 彼らも同様に殺されるべき存在なのですっ!」
「じゃあキミは……クラスメイトの立場だったら、イジメられている子を助けたんだね?」
「……えっ?」
俺の問いが予想外だったのか、怒りも忘れて呆けた顔でこっちを見ている。
関わり合いになることを避けて放置していたクラスメイトに全く罪がなかったのか? と問われれば、頭を縦に振ることはできない。
だが、同じ状況に置かれた場合、どれだけの人間が止めることができるのか。
俺も彼のように怒りに目が眩み、村人全員が憎かった。彼を咎める権利などどこにもないというのに何を偉そうに……自分が嫌になるな。
「何度も言うが、イジメっ子や担任の教師が殺されたことに同情の余地はない。だけどね、自分ができないことを人に求めるのは違うのじゃないか。キミがクラスメイトの立場だったら、イジメられている子を助けてはいないと思うよ。彼らと同じように、見てみぬふりをするだけだ」
「そんなことはない! 僕はこんな奴らと違う! 絶対に助けていた!」
認めないよな。そりゃそうだ。ここでそれを認めたら罪の意識に押しつぶされてしまうだろうから。
こうは言ったものの、実際は彼の場合は助けに入っていた可能性だってある。だから、その答えを見せてもらうとしよう。
「違う、違う、違う、違う!」
俺の存在を忘れ、否定の言葉を唱え続ける彼の目の前まで移動すると、その顔を手のひらで挟み込み、強引に視線を俺に向けさせた。
そこで俺は『催眠術』『幻術』のスキルを全力で発動させる。
彼の目から光が消えた。今彼は記憶が退行した状態でクラスメイトの立場となり、イジメられている子を見ている。そこで彼がどういう行動をとるのか。その答えが明らかになるのは、もう少し後だ。
彼を止めるだけなら、取り乱している間にやれば済んだ。さっきの隙だらけな状態ならいとも簡単に倒せた。だが『死霊術』から解放せずに操る人を失った死人は、本能の赴くままに人を襲いだす。
ここで彼を倒した場合、ここにいる死人が暴走して俺に襲い掛かってくるだろう。更にここにはいない操られた死人が別の場所で暴れだす可能性だってある。ここで彼を倒すのは得策ではないのだ。
それに『死霊術』で操られたまま死んだ者は、死の理から外れあの世へ行くことも許されず、魔物に生まれ変わるという伝承が残されている。こういう知識は全て家にあった姉の所有していた本と、姉の話から得たものなのだが。
このことを踏まえると……彼の心を折り、自ら『死霊術』を解いてもらわなければならない。彼にとって残酷なことをしている自覚はある。だけど、もう同情しないよ。
多くの人を殺し、それを傀儡として操ったのだから。キミのやっていることも、力を持ったイジメと何ら変わらない……。いや、もっと質の悪いことだから。
「回収屋さんが失敗ですか……。想像できませんね」
彼女の言葉でふと我に返った。スーミレが小首を傾げて考え込んでいる。
つい昔のことを思い出してしまった。
「そんなことはありませんよ。若い頃には致命的な失敗をやらかしたりしたものです。お恥ずかしい話ですが」
「ふふふ。回収屋さんでも失敗するんだ。なんだかホッとしました」
「はは、完璧な人なんて存在しませんよ」
笑って済ませるような事ではなかったのだが、こんな話を詳しくする訳にもいかない。
あの後、彼は幻術の世界から帰ってくると落ち込んだ様子で『死霊術』を解除した。
その前に「もう使いませんから」と言って『不老』と一緒に前に俺から買い取ったスキルも売り渡した。
本当は『死霊術』も渡したかったようだが、解除した途端に彼は――物言わぬ死体へと戻ってしまったからな。
三年前から姿が変わらなかった彼は、本を開いた時点で死んでいたのだ。そして本の力により付与された『死霊術』によって生かされていた。……いや、本人も気づかぬまま生きる屍と化していた。
だから、彼は三年前から姿が変わっていなかったのだ。俺はそれが分かっていながら、彼に『死霊術』を解くように言った。あの場で一番のクズは間違いなく……俺だ。
結局『不老』は彼にとって何の意味も持たないスキルだったのだが、今となってはどうでもいいことか。
カタンという食器の音に意識を戻すと、目の前に茶色い液体がある。
今度こそスーミレが間違えずに運んできた飲み物を口に含む。
「少し苦いな……」
死人となった彼を魔物として転生させないためにも、自ら『死霊術』を解かせる必要があった。だけど、あの行為は正しかったのか。今でも答えは出ない。
「失敗や過ちを犯さないようにするには、どうしたらいいのでしょうか」
「そうですね。自分の非から目を逸らさずに、他人のせいにしない。あとは……」
さっきまで彼のことを思い出していたせいか、裏庭でイジメられて泣いていた当時の彼の姿と言葉が脳裏をよぎった。
「自分がされて嫌なことは人にしない。それだけではないでしょうか」