これを恋と呼ぶなら
「素敵ですわ、セシリア様」
姿見を覗き込んで、侍女のベルが満足そうな声をあげた。
濃紺のドレスはシックだが上品で、今期の社交シーズンでもセシリアのブルネットによく似合っていると、いちばん好評だったものだ。
「きっと、ティム様も、見惚れてしまいますわね!」
ベルはうきうきした口調で幼なじみの名をあげるが、それはどうだろうーーとセシリアは苦笑する。
彼が自分にほんの少しでも見惚れているところなんて、見たこともなければ、想像もつかない。
「失礼いたします」
規則正しいノックの音が響いて、執事の声がする。
「ローレンス様がお見えになりました」
着替え中であることは知っているので、扉は開けない。声だけでセシリアの幼なじみであり、本日のエスコート役ーーもうずっとそうだーーのティム・ローレンスの来訪を告げた。
「あら、もうそんな時間」
セシリアは少し慌てる。ティムは時間に正確だ。遅刻もしないが、早目に来るということもない。
ドレスルームの大時計に目をやると、出発の時刻が迫っていた。もっとも、ある程度余裕をみて行くので、本当はそこまで慌てる必要もないのだが。
ただ、今日だけは、身支度に時間をかけてでも、最高の装いをしたかった。
少しだけ待っているように伝えてもらって、姿見の前でゆっくりと胸元にパウダーをはたき、髪を整え、アクセサリーを身につける。
自分としては気合いを入れているつもりだが、普段とそんなに変わらないようにも感じる。
特に、ティムは絶対に気づかないだろうと、わかっているのに。
「遅れてごめんなさい」
薄い上着を羽織って急いで駆けつけると、ティムはセシリアの屋敷のエントランスホールに据え付けられたベンチに座って、予想と寸分違わない姿勢で書物を読んでいた。
「いや、まだ大丈夫だろう」
懐中時計を一瞥すると、本を閉じる。ティムの時計は正確だ。
「きれいだよ」のひと言もないのはいつも通りだ。ティムはおそらくセシリアの容姿にそれほど関心がないのだろう。
「上がって、お茶でも飲んでてくれたらよかったのに」
こんな寒々としたホールにある、固いベンチではなくて。
使用人が客間に通そうとしなかったはずはないので、ティムが断ったのだろう。
「時間が勿体無い。試験を控えているんだ。本当はパーティーなんかに出席している場合でもないんだけど、顔見せしておきたい人が何人か来るから。それに、今シーズンはこれで最後だろうし」
「それはそれは」
言外に今日のパーティーが億劫だと伝えられて、エスコートされる立場のセシリアは何と言っていいのかわからない。
普段から決して愛想が良いとは言えないティムは、いつにも増して仏頂面だった。
数ヶ月後に試験を控えて、ぴりぴりしているのだ。
試験というのは、アカデミーの法学部の卒業試験の事だ。
すでにティムは司法修習生として法廷に出入りしているが、教授たちとの面談と筆記試験にパスすれば、晴れて卒業して法曹院に入り、正式に法律家を名乗ることができる。
逆に、落第すればもう一年だ。
長男でない男子であるティムは、父の男爵位と領地を継ぐことはない。
それほど余裕がある訳でもない男爵家の援助は、来年以降はあまり期待できないだろう。ここで試験に受かるか落ちるかは、ティムにとって文字通り死活問題と言って良かった。
セシリアとティムは、男爵家の子供同士だ。
同い年で、領地も家格も近いことから、幼い頃から幾度となく対面する機会があったふたりには、婚約の話が持ち上がったこともあるらしい。
ただ幼い頃から本の虫であるティムと、のびのびと外で遊ぶことを好んだセシリアとでは気が合うとは言い難く、両家の間では、本人たちの意見を尊重して、もう少し様子を見ようということになっていた。
貴族の子女が通う全寮制の王立学園に入ることになって、領地から王都へ移って来たのがお互い12歳の時。
幼い頃から見知った間柄なので、他の生徒よりもお互い気ごころは知れている。
14歳のセシリアのデビュタントのエスコートを何となくティムがすることになり、それ以来、パートナーを連れて出席しなくてはいけない社交行事があるたびに、ふたりで出るのが恒例みたいになっている。
一緒にいて気楽なのは確かだった。
ティムはベンチから立ち上がると、上着を羽織った。すらりとした体躯に三揃いのスーツが様になっている。
セシリアがいつもうらやましいと思っているさらさらの黒髪は、社交の場に出る時だけ後ろに撫でつけられるので、普段は長い前髪に隠れがちな端正な顔があらわになる。
腕を差し出されたのでそっと手を添えた。家族と使用人に見送られて玄関から馬車に乗るまで、きっちりエスコートしてくれて、マナーも完璧。ティムは黙っていれば本当に文句のつけようのない紳士なのだ。
でもこのエスコートも今日で最後になるだろうと、セシリアだけが知っていた。
侯爵邸で行われたパーティーには、ティムの言っていたとおり、著名な法曹家が多く出席していた。
「君がローレンス君か! いや優秀だと噂は聞いているよ。君の師匠であるフォイルゲンとは学生時代、一緒に夜明かしして語り合った仲なんだ」
「私も伯爵の名前はよく存じ上げております。悪法として名高かったブラー法を、当時新進気鋭の法曹家であった伯爵や教授たちが法廷とやり合ってとうとう廃止させてしまった話は、未だに語り草になっていると他の教授から聞きました」
「はっはっは。私達も若かった! 君はよく勉強しているね。我々法曹院は君のような若者を歓迎するよ」
「ありがとうございます」
なにやらおじさんの昔話で盛り上がりはじめているのを、セシリアは蚊帳の外で聞きながら、もの凄いプレッシャーのかけられ方だとはらはらしていた。
(もし、あれで試験に落ちたら、どうなるのかしら。考えたくもないわ)
しかし当のティムは涼しい顔で会話を続けている。陰では努力をしながら、それを表に出そうとはしない。昔からそういう人間だった。
それでも、流石に気疲れしたらしく、パーティーが終わって帰りの馬車にふたりで乗り込むやいなや、ティムは上着を脱ぎクラバットを緩めると、深いため息をついて馬車の椅子の背もたれに寄りかかってしまった。
「大人気だったわね」
同じアカデミーの学生も何人か来ていたようだが、部外者のセシリアの眼から見ても、ティムがいちばんあちこちから声をかけられていたように見えた。おそらく名刺入れはパンパンだろう。
セシリアたち女性陣は、その間は主催の侯爵夫人を囲んでのんびりと社交界の噂話に興じていたのだけど、結婚はおろか婚約さえしていないというティムとセシリアの間柄に眼を丸くされ、早く将来を誓えとせっつかれたのには閉口した。
ーー弁護士になってしまうと、忙しくなって、愛の言葉を交わす時間なんて取れなくなってしまうわよ。彼が学生のうちに捕まえておかないと。仕事がある程度落ち着くまでなんて待っていたら、あっという間に私たちのようなおばさんになってしまうわ。その時には、ライバルは法服目当ての若い女の子達よ。
「ーー早く結婚しておけって言われた」
ご婦人方の言葉を反芻していると、そこにティムの声が重なってどきりとする。向かいに座っているティムが、目を閉じたまま発した言葉だったのだ。
「法曹院に入ったら、息つく間もないぐらい忙しくなるから、身の回りの世話をしてくれる人が必要だと。それと、既婚者であることは、社会的な信用を得るための条件のひとつでもあるから。まだまだ遊びたいというなら無理にとは言わないけど、と。……まあ、これはジョークだろうけど」
ティムもセシリアと同じようなことを言われていたのか。
それにしてもこちらは言い方が随分と露骨である。ロマンチックな言葉のオブラートに包んで忠告してくれたご婦人方に較べて、人生の一大事である結婚がまるで事務的な求人募集だ。
法曹界にはそのように率直な言葉遣いをする者が多いのだろうか。ティムもその素質は充分にある気がするが。
「遊びたいの?」
ほとんど答えを分かって訊いた問いには、予想通りの返答が返ってくる。
「まさか」
「だったら、早く結婚してくれる人を探さないと。もう、卒業まで半年もないでしょう」
まあティムならその気になれば、花嫁候補の十人やそこら、すぐに見つかるだろう。
嫡子ではないが男爵家の息子で、将来を嘱望されている法律家候補だ。やや偏屈で無愛想なところが玉に瑕だが、それを補って余りある才能と容姿を持っている。
案外努力家で優しいところがあることにも、付き合っていくうちに気づくはずだ。
「君でいい」
ティムはいつの間にか目を開けていた。疲労は相変わらずなのか、どこか気怠そうに言う。
「どうせ互いの両親も、とっくにそのつもりだろう。何なら婚約期間を省略して、いきなり籍を入れろと言われるかもしれない。結納金と持参金の兼ね合いはそちらの希望を全て飲んで構わないから、さっさとーー」
「あら、だめよ」
セシリアがティムの言葉を途中で遮ると、それが意外だったのか、少し眼を丸くしてセシリアを見た。
「何だ、婚約期間はやっぱり必要? じゃあ、いま婚約して、卒業と同時に籍を入れる感じでいいか」
「そうじゃなくて」
やっぱりティムも結婚を作業みたいに言う、と未来のティムの妻になる人に同情しながら、セシリアは打ち明け話をするように、口を手で覆う。
「私、もうすぐ婚約するのよ。エヴァンス男爵家の、モートン様と。だから、ティムにエスコートしてもらうのも、今期で終わり」
「はあ!?」
目の前のティムが勢いよく立ち上がった。が、馬車の中なので、思い切り天井に頭を打ちつけてしまう。
「いっ……」
「大丈夫!?」
いつものティムらしくない失態に、思わずセシリアは手を伸ばした。凄い音がしたけど、もしかして怪我をしたのではないだろうか。
ティムは片手はぶつけた頭に当てたまま、もう片方の手でセシリアの伸ばした手首を掴むと、もの凄く不機嫌な顔でセシリアに問い詰めた。
「誰だって?」
「え、婚約のこと? だから……モートン様よ、同じ学園で二学年先輩の。知っているでしょう、ティムも学園にいた頃、見かけたことがあるはずよ」
ティムは舌打ちをした。ふたりだけの車内に、その音はやたら大きく響いた。
「あまり覚えてない。どうせ大して優秀な奴でもないんだろう」
「そりゃあ、貴方にとっては誰でもそうでしょうけど。でもいい人よ。っていうか、人の婚約者になる人をあまり貶さないでくれる?」
セシリアの手首を掴む力が少し強くなった気がした。いい加減に放してくれないかしら、とセシリアは頭の片隅で考える。
いつもならさらっと放して、と言えるところを、今は言うのがためらわれた。目の前のティムは……何故だか少し怖い。
もしかして、頭の打ちどころでも悪かったのだろうか。
「いつからだ」
「え? いつ? 何が?」
ティムの怪我を心配していて、一瞬何を訊かれているのか分からなかった。
「学園を卒業してから、ずっと付き合ってた訳じゃないんだろ? 今までそんな相手がいるなんて聞いたこともないし」
「ああ……春のアカデミーのパーティーで再会したのよ。私がティムの同伴役だったやつ。あの時も貴方は修習生仲間とばかり話していたけど、モートン様も従妹の付き添いで来ていて。あ、知ってる? ジョアンさんって、あなたと同じ法学部の方らしいんだけど」
「知らない」
叩き落とすような返答だった。
「アカデミーのパーティーって……まだ三か月も経ってないじゃないか。セシリアと俺は、何年の付き合いだと思ってるんだ。なんでそんなぽっと出てきたばかりの奴と婚約なんてしようとしてるんだよ」
「ぽっとって……一応、学園にいる頃から、顔だけは知ってたし……」
話したことはほとんどないけど、それは言わないでおこうと思う。
しかしティムはどうしてしまったのだろう。口調もいつもよりも乱暴になっている。
「ねえ……」
おそるおそるというように、セシリアが口を開いた。
「もしかして、怒ってるの? 私が勝手にティム以外の人と婚約しそうになってるから?」
少しだけ勢い込んだように尋ねるセシリアに、ティムが我に返ったように瞬きした。
「ああ……そりゃ、怒りたくもなるだろ。ただでさえ勉強しなくちゃいけなくて忙しい時期なのに、新しく妻を探さないといけないなんて、そんな面倒ごと。何のために君をずっとエスコートなんかしてきたと思ってるんだ」
「は?」
ティムの返答に、今度はセシリアの目が据わった。
「何それ。お嫁さんを探すのがめんどくさいから、私でまあいいやって思って、今までエスコートしてくれたってこと? 手近にいて、年齢と家柄が釣り合う相手なら、私じゃなくても、誰でもよかったって?」
矢継ぎ早にまくしたてるセシリアに、明らかにティムが怯む。
「何だよ。君だってそうだろ。初めて王都に出てきた時、俺たちなら知らない仲でもないし、他に相手を探す伝手もないから、お互いパートナーでいいかって妥協し合ったんじゃないか」
「妥協……?」
あまりといえばあまりなティムの言葉選びに、セシリアが一瞬絶句する。
いや、最初は確かにそんな感じだった気もするが、14で社交界デビューした年から8年もお互いパートナーを変えなかったのは、わずかなりとも親愛の情のようなものが芽生えているからではないかと思っていた。
「ねえ、本当にそれだけ? 8年間私のパートナーをやってくれて、そこに好意みたいなものは一切なかったの?」
「もちろん好意はあるよ、無ければ結婚しようなんて提案はしない」
提案。どこまでも事務的な言葉選びに釈然としないものを感じながらも、セシリアは訊かずにはいられなかった。
「それはーー恋心とは違うもの?」
「恋心? 何だ、それは」
ティムは吐き捨てた。
「判例集にもよく出てくるが、愛だとか恋だとか、定義不能な感情を動機にされるといらいらするんだ。そんな曖昧なものを主張されても、こちらには推しはかることすら出来ないんだから時間の無駄だ。そもそもそんな感情は幻想で、嫉妬心だの独占欲だのの醜い感情を見栄え良く言い換えているだけではないかと疑っている。それにしたって、全財産を投げ打っても構わないほどとか、親友と敵対関係になるのも吝かではないほどとか、せめてもう少し具体的に言ってほしいものだけどね。……セシリア?」
難解な判例を思い出しているのか、嫌な顔をして持論を展開するティムだったが、目の前のセシリアがうつむいて震えているのを見て言葉を切った。
「どうした、気分でも悪いのか? 丁度屋敷に着いたよ。歩けなかったら俺が背負って行くからーー」
「もういい。訊いた私が馬鹿だったわ。いつまで掴んでるのよ、放して!」
セシリアはこの期に及んでまだ手首を掴んでいたティムの手を振り払うと、自ら勢いよく馬車の扉を開けた。
実は自分で開けるのは初めてだ。いつもエスコート役のティムが開けてくれるから。そして先に降りて、セシリアの手を引いてくれる。
だが今日はティムが降りるのを待つことなく、さっさと自分で馬車から降りた。そして馬車の中のティムを振り返る。
「今日はここまでで結構よ」
そう言ってにっこりと笑った。
「そして今シーズンの社交行事も終了ね。来シーズンからはもうエスコートもいらないから、『面倒ごと』がひとつ減って良かったわね。おつかれさま」
先ほどのティムが言った言葉をそのまま使うあたり、根に持っている。
「今までどうもありがとう。こう見えても感謝しているの。もしも花嫁候補になりそうな方に心当たりがないなら、私も探すのを手伝うから、いつでも言ってちょうだい。アカデミーのパーティーの様子を見ていると、そんな心配は必要なさそうだけど。ああ、私の結婚式にはぜひ出席してちょうだい。勿論、新しいパートナーも同伴で。会える日を楽しみにしているわ。じゃあおやすみなさい」
それだけをひと息に言って、勢い良く扉を閉めた。「セシリア」と馬車の中のティムが何か言おうとしているのが見えたが、構わず馬車を出すように馬丁に合図する。
決心が鈍るようなことは聞きたくない。
セシリアはティムが乗った馬車の音が聴こえなくなるまで、ひとり門のところに立ち尽くしていた。
これで終わりだ。あっけないものだった。
結局、ティムはセシリアの容姿を褒める言葉も、好きだという言葉も、最後まで言ってはくれなかった。ーーいや。
「好意はある、だって」
セシリアはふふっと笑った。ずっと渇望して、夢にまで見た言葉とは少し違うけど、とりあえず、嫌われてはなかったようだ。
「好意は、ある……」
さっきよりもゆっくりと、口の中でその響きを味わうように、もう一度反芻してみる。
それが、ティムとセシリアの8年間で、ティムが出した結論だ。セシリアのものとは、もう随分と違ってしまった。
それでも、その言葉を宝物に自分は生きていくんだろうと思う。
そう考えて、雫が頬を伝う。セシリアは泣いていた。
お気に入りのドレスが涙を吸って、染みになってしまう。お化粧もせっかく綺麗にしてもらったのに、侍女のベルが見たらがっかりするだろう。そんなことをどこか冷静に考えながら、しばらくの間、涙を止めることができなかった。
もうしばらく会うことは無いだろうとーー下手したらどちらかの結婚式まで会うことは無いだろうと思っていたティムとの再会は、案外すぐに訪れた。
きっかけはセシリアとの婚約を控えたモートンが浮気しているという、友人の証言だった。
密告の主はセシリアの学園時代からの友人のリオという男で、ティムとも共通の友人だ。今はティムと同じアカデミーに籍を置いている。
学園が一緒だったので、モートンの顔も知っているリオは、セシリアとモートンが婚約間近だと聞いて眉をひそめた。
リオの話では、モートンをたまに夜の繁華街で見かけるが、いつも女性とべたべたと仲良さげにしているらしい。
セシリアもティムもそんなところへ行かないので、リオが教えてくれなければ、知らないまま結婚する事になっていただろう。
更にその話を聞いた探偵見習いの別の友人が、じゃあ尾行の練習がてら調査してみると言って、調査を始めた。数日モートンに張り付いただけで、あっさりと証拠写真が撮れてしまった。
暗いうえに遠くはあったが、それでも濃厚なキスを交わしているふたりのうち、ひとりは疑いなくモートンだとわかるくらいには、鮮明だ。
セシリアは写真を見て難しい顔をする。有無を言わせない証拠ができてしまった。
正式な婚約の書面を交わすために、お互いの家族の顔合わせを一週間後に控えているのに。
「分かっただろう。あの男は駄目だ。幸い、まだ婚約もしていないんだろう? 向こうの完全な有責で破談にできる。俺に任せてくれれば、あいつを徹底的に貶めてやるから」
リオから話を聞いたらしく、セシリアの屋敷に駆け付けたティムが何やら不穏なことを言っている。愛想はないが、他人を貶めるとか、そんな考えとは無縁な人だと思っていたのに。
もしかして法律が絡むと人格が変わるのだろうか。あり得る。何せ法令集を無二の愛読書にしている人だ。規律に違反する人間は、彼にとっては何よりも許し難い存在なのかもしれない。
ティムは尚も言い募る。
「正式な婚約前とはいえ、互いの意思を確認し合ってからの不貞だから、当然慰謝料も発生する。搾り取れるだけ搾り取ってやる」
見せられた目安の金額は、素人目には法外な値段に見えたが、ティムの目は本気だった。だがセシリアにはそんなことはどうでも良かった。
ティムは前に見た時よりも、かなり憔悴しているように見えた。頬の線がシャープになっている。試験前の追い込みが苛烈なのだろう。
はっきり言って、ここでセシリアの婚約者(予定)の浮気騒動なんかにかかずり合っている場合ではないのではないだろうか。
リオ達に口止めしておけば良かったと後悔しても、あとのまつりだ。相当忙しいだろうに来てくれたのは、意外と情に篤いところがあるからだ。
これ以上ティムの勉強の邪魔はしたくない。
「うーん」
セシリアは少し天井を見て少し考える。
浮気が露見してすぐ、写真を見せて問い詰めると、モートンには平謝りで謝られた。
結婚前の火遊びをしてみたかっただけだと、反省していると言っていた。
「良いわ、何もしなくて。無かったことにするわよ。また一から婚活なんて面倒くさいもの」
ティムが驚愕したように目を見張る。
「まだ、奴と婚約するつもりなのか!?」
「そうね。破談にするほど致命的な裏切りという訳でもないし」
「充分だろう、仮にも結婚を誓った相手がいるのに、堂々と浮気していたんだぞ、あいつは!」
「仕方ないわ。婚約して身を固める前に、ちょっと遊んでみたかったんですって。そういう魔がさすことなんて、誰にでもあるじゃない?」
肩をすくめて諦めたように力無く笑うセシリアに、ティムは絞り出すように言った。
「俺は絶対に、そんな事はしない」
「わかってる。貴方はしないでしょう。法の仕事ひと筋ですもの」
それに、この男が誠実なのは、セシリアが一番よくわかっている。何せ8年間もパートナーをやっていたのだ。
この8年、ティムはセシリアに誠実であり続けた。セシリアが苦しくてたまらなくなってしまうほどに。
「だから、こんな事に関わってないで、早く帰って試験勉強を頑張りなさい。でも休息もきちんと取ったほうがいいわ。ひどい顔をしているわよ」
本心だ。どんなに追い込まれていてもあまり人に弱味を見せない男が、痩せただけではなく、目は充血し、隈もうっすらとできている。
前回エスコートしてもらった侯爵家のパーティーからまだいくらも経っていないのに、ひどい荒れようだった。おそらく睡眠も食事も満足にとっていないのだろう。
そこまで死に物狂いで勉強しなくても、あのパーティーの様子から言って、試験で及第することはほとんど確定事項のように見えたのに。
「そんなに……あいつが好きなのか」
セシリアの忠告を聞き流して、ティムがぽつりと言った。
あいつというのは、モートンのことだろうか。
「そうね。結婚してもいいと思っているくらいの好意はあるわ」
わざとこの前のティムの言葉を引用して、いたずらっぽく笑って見せたが、ティムは笑おうとはしなかった。
モートンに好意があるかどうかは、正直に言うと自分でもよくわからないが、多分、ティムがセシリアへ向けている感情と大差はないぐらいには、あるんじゃないかと思う。
セシリアは、モートンに婚約を持ちかけられた時の会話を思い出していた。
数か月前、ティムが在籍しているアカデミーのパーティーで、セシリアはその身を持て余していた。
エスコートしてくれるはずのティムは、セシリアを置いてすっかり学友達と話し込んでいる。
これでは通常の授業と変わらないんじゃないのと思う。わざわざパートナー必須でパーティーを開催する意味がわからない。
それにしても、専門分野の話をするティムの顔はいきいきと楽しそうだ。あんな顔は、通常の社交用のパーティーでは絶対にしない。
この国の将来を担う崇高な目的を持った若者達は輝いていて、部外者が軽く話しかけるのもためらわれた。
話をしている顔ぶれの中には、何人か女性もいた。ティムと法律学で対等に話ができる女性がいるなんて。きっとさぞかし優秀なんだろう。
前から思っていたことだけど、ティムにはああいう理知的な人が似合っているのではないだろうか。
おろしたての、今日初めて着たドレスについて、ひと言も言及されなかったからといって、内心ふてくされているようなセシリアみたいな平凡な女ではなくて。
セシリアはティムの周りにいる女性に対して、もやもやとしたものを抱えていた。
この感情がなんというものなのかは薄々わかっていたが、はっきりとは認めたくない。
嫉妬、劣等感、いずれもティムが嫌悪しているものだ。
負の感情は自分も周りも引きずり落とす。そんなものを持つくらいなら、自分が上に行く努力をした方がましだ。
そう学園時代から言ってはばからない彼に、傲慢だと陰口を叩く者もいたが、セシリアはティムのそういうところを尊敬していた。
そんなティムに、自分がこんな気持ちを持っていることを知られたら、彼はどんな顔をするだろう。
つくづく自分が嫌になっていた時、モートンに声をかけられたのだ。
もしかしたら、ティムを見つめるセシリアの暗い視線に気付いたのかもしれない。
ーー君、学園にいた時、よくローレンスと一緒にいた子じゃない? 彼みたいなのがパートナーだと大変だろ。あいつを狙ってるの、たくさんいるもんな。
ーー何だ、付き合ってるわけじゃないんだ。だったら俺と結婚しないか? 俺もちょうど結婚相手を探しているところだったんだ。
ーー誠実な夫には、なれないかもしれないけど。少なくとも今の苦しみからは、解放されるんじゃないかな?
思わずその提案にのってしまったのは、その明け透けさと軽さが好ましかったからだ。
この人なら、セシリアが他の男への恋情を抱えたまま結婚しても、気にしないでいてくれるのではないかと思ったから。
だから許せるのだ。大切な家族との顔合わせの直前に発覚した浮気も。
焼けるような恋情だったら、到底こんな涼しい顔で笑えっこない。
おそらく、モートンとセシリアなら、似たもの夫婦になれる。
「……俺じゃ駄目なのか」
低い声音で吐き出された意外なティムの言葉に、まだそんな事を言っているのかと驚いて目を見開く。
「好意で大して長い付き合いでもない男と結婚できるなら、8年間パートナーを務めた俺の方が権利はあるんじゃないのか。あの浮気男とは結婚できて、俺とは結婚できない理由はなんだ。俺が、爵位を継がないからか?」
「そんなわけないじゃない。どうしたの、早くも花嫁探しに疲れちゃった? やっぱり、私も手伝ったほうがいい?」
突拍子もない事を言い出したティムを落ち着かせようと出したおどけた声は、ティムには届かないようだった。
表情を変えずに真っ直ぐにセシリアを見つめる目を見てセシリアは観念する。ひとつ大きな息を吐いた。
この目に嘘は吐くことはできない。
「私が貴方に持っている感情は、好意なんかじゃないのよ、ティム」
ティムは息を呑んだ。傷ついたような顔をしている、とセシリアは思う。この人にこんな顔をさせたくなかった。
「ごめんね。でも、貴方だけは駄目なの」
セシリアはきっぱりと答えた。
「私のことを好きじゃない貴方とだけは、結婚できません」
ティムが驚きに目を見開いた。
ずっと子供の時のように穏やかな関係でいられるなら良かった。
程よく互いに無関心で、お互いの心のうちもさほど気にせず、相手が誰と仲良くしていても、笑って流せる関係。
激しい恋心も、相手のすべてが欲しいと願う強欲も、家同士の結びつきには必要のないものだ。ましてや片方だけがそれを抱えてする結婚など、破綻が目に見えている。
セシリアだけが、ティムに対して、大きな感情を持ちすぎていた。綺麗な言葉で言うと、愛だとか恋だとかいったものだ。
ティムは正しい。セシリアの感情は、決して綺麗なだけのものではなかった。独占欲だったり、嫉妬心だったり、執着だったり、相手を縛ってしまいかねないどろどろしたものだった。
そして困ったことに、その感情は、年々肥大していく。
セシリアだけが、どんどんティムのことを独占したくなる。離れたくなくなる。全てを知りたくなる。
他の女性と話しているところを見ると邪魔したくなるし、エスコートが必要な時だけではなく、もっと側にいてほしいと思ってしまう。
自分の中に、こんなに厄介で重たい感情が眠っていたなんて、知らなかった。
結婚などしようものなら、やがて夫の心が欲しくて欲しくて、仕方がなくなるだろう。
決してティムが差し出せないものを欲しがっては、相手を困らせる自分が容易に想像できる。
疎まれたり足を引っ張る存在になるくらいなら、さっさと離れてしまう方が何倍もましだと思った。
ティムは茫然とした顔をしている。この男でもこんな顔をするのだ。案外この鈍い幼馴染みにも少しは伝わったのかと、セシリアは胸がすく思いだった。
そしてずっと気持ちを伝えたかったのだと気づく。たぶん伝わらないか、気にも留めないか、嫌がられるかのどれかだろうと思っていたので、怖くて到底打ち明ける気にはなれなかったのに。
少しでもこの人の心に届いてくれたのなら、恥をかくのを承知で口に出した甲斐があったというものだ。
まだ固まったままのティムにセシリアは少し笑うと、つま先立ちしてティムの頬にそっとキスをした。
それは感謝のキスでもあり、セシリアの気持ちと共にほんの少しだけでも、このキスがティムの中に残ればいいと、そんな想いも込もっているものだった。
セシリアの厄介さに、ティムは気づいただろうか。
「今までありがとう、ティム」
どうしようもないほど、セシリアはティムに恋していたのだ。
それから数日経って、いよいよモートンの両親との顔合わせが近づいていた。
顔合わせが終わり次第、セシリアは両親と共に領地へ戻って婚約の準備をはじめるつもりだった。
そのための荷物の整理をしていると、ティムと同じアカデミーに通っているリオが、血相を変えてセシリアの屋敷を訪ねて来た。
ティムがモートンに、手袋を投げつけようとしたらしい。
手袋を投げるのは決闘の申し込みの証だ。
よりによって白昼堂々、ギャラリーも多い街中での出来事だった。
試験を控えた友人たち数人が連れ立って書店巡りをしていたら、女性とふたりで親密そうに話をしているモートンを見かけたのだという。
それを聞いて、セシリアは頭を抱えたくなった。
ーー駄目だ。あの人、きちんと反省してるから、もう会わないって約束してくれたのに……。
あれから大して経っていないのに、また女性と一緒にいるなんて。ううん、もしかしたら、妹とかかもしれないし。
ーーせめて、正式な婚約を交わすまではおとなしくしていてほしかった。
セシリアが必死でポジティブに解釈しようとしている間も、リオの話は続く。
肩を掴んで問い詰めるティムに、モートンははじめは怪訝な顔をしていたが、ティムが長年セシリアのパートナーを務めていた相手だと気づくと、顔色を変えたという。
ーー頼む、セシリアには言わないでくれ。この婚約が流れると、爵位が継げなくなるんだ。
ーー彼女とはずっと付き合って来たけど、身分差で結婚はできないんだ。だからこうして最後の別れを惜しんでいるだけだ。
ーー何だよ、君たちだって、今まで何もなかった訳じゃないんだろ? そこは目をつぶってやってるんだから、お互い様じゃないか。
そのあたりでぶち切れたティムが、突然モートンに殴りかかり、掴み合いの喧嘩に発展した挙げ句、手袋を投げつけようとしたらしい。
「流石に失うものが多すぎるから、俺たちだって必死で止めたんだよ。でも落ち着かせるのが大変でさ……。あんなティムは初めて見たよ」
今は頭を冷やすために、自宅へ戻っているという。
そこまで聞いて、セシリアは屋敷を飛び出した。
貴族の決闘は剣を持って行われる。基本的にどちらかが命を落とさなければ決着がつかないものだ。
そんなことに命を賭けるほど、セシリアの知っているティムは馬鹿じゃなかったし、自制心の無い人でもなかった。
今の彼はどうかしている。
ティムのローレンス邸へは、馬車を使わなくても行ける距離だったが、久しぶりに走ったので、着いた頃にはすっかり息が切れていた。
おおよそ何があったのかは屋敷の人間にも伝わっているのだろう。一も二もなくティムの自室へと通された。
寝室と続き部屋になっているティムの部屋は、本まみれでほとんど書斎のようだ。
片隅にあるソファに座っているティムはひどい顔だった。明らかな寝不足からくる憔悴に加えて、顔のあちこちにすり傷やあざができているし、口の端は切れて腫れている。綺麗な顔が台無しだ。
殴り合いの喧嘩なんて、きっと人生で今まで一度もしたことがないくせに。モートンの方が体格がいい。おそらくティムの方が、怪我の被害は大きいだろう。
それなのに、ティムは静かな目をしていた。
そしてセシリアの顔を見ると、「セシリア、君は男の趣味が悪すぎる」と言った。
セシリアは黙って、膝をつくと、震える手でティムの手を取った。ティムはされるがままになっている。
長い指にも、包帯が巻かれていて痛々しかった。
ティムは美しい手の持ち主だった。ただ形が整っているだけではない。この手が書く文字もまた、非常に美しかった。
本人の性質がそのまま指先から流れ出るように、几帳面で、整っていて、流麗な字を書く。彼が大きな紙に書いた法廷憲章が、額装されて、法学部のホールの一番目立つところに飾られているぐらいだ。
セシリアはそれを見たとき、自分が書いたわけでもないくせに、なんとも言えず誇らしい気持ちになったものだ。
この手で人を殴ったのか。
「……指は、大丈夫なの」
声まで震えてしまってみっともなかったが、そんなことを言っている場合でもない。
(どうしよう。指の動きが悪くなって、前みたいに綺麗な文字が書けなくなったら)
「今は少し動かし難いが、そのうち治るだろう」
ティムは何でもないことのように言う。セシリアはとうとう涙があふれてきた。
「馬鹿。勉強のしすぎでおかしくなったんじゃないの。決闘を申し込むなんてーー。リオ達が止めてくれなかったらどうなっていたと思うの。どう考えても負けて殺されるのは貴方の方よ。おばさまだって泣きそうな顔をしていたわ」
手も声も無様に震えていたが、構わなかった。友人達が止めるのが間に合わなくて、手袋が投げられていたら、ティムは今頃ここにはいなかっただろう。
さっき玄関口で迎えてくれたティムの母も、ずいぶんと疲れ果てた顔をしていた。あからさまにセシリアを見てほっとした顔をしていたので、なんとか笑って挨拶をすることができたものの、本当はもうその時点で声を上げて泣きそうになってしまっていたのだ。
「法律家の卵のくせに決闘なんて。今までの努力を棒にふるところだったのよ」
泣きじゃくりながら訴えてみるが、きっとこの程度のことは、ティムの方がよく分かっているはずだ。
縋り付くようにティムの手を握る。全身の震えが止まらない。危うくこの存在がこの世から消えてしまうところだったと考えるだけで、恐怖が腹の底から迫り上がってきては、セシリアを包む。
「何を、そんなに泣くことがあるんだ」
戸惑ったようにティムに問われて、セシリアは泣きながら怒った。
「あなたが大切だからに決まっているでしょう! だから、あなたが命を粗末にしたことが悔しいのよ」
「別に粗末にしようと思ってやった訳じゃない。気づいたら身体が勝手に動いてたんだ」
「無茶をしないで。……でも、生きていてくれて良かった」
ぽつりと付け足した言葉の方が本音だった。今泣いているのは、嬉しいからだ。
ティムがゆっくりとセシリアの濡れた頬を撫でる。
「それともうひとつ。あなたが私のために怒ってくれたのも、嬉しかったわ」
告白するセシリアを真っ直ぐに見つめる視線がいたたまれなくて、思わず目を伏せると、のぞき込むようにティムの顔が近づいた。
視線が合ったので目を閉じた。ティムのくちびるが重なって、離れた。
目を開けようとすると、すぐにもう一度キスをされた。
そのまま何度か口付けたところで、セシリアは我にかえると、これはまずいのではないかと思い当たり、腕を突っ張って拒否する。
「ま、待って」
「なんだ」
不機嫌そうに顔を寄せたままのティムが呟く。
「婚約のこと。まだ正式に解消した訳じゃないんだから、今キスしたら、あなたが不貞の相手になってしまうんじゃない?」
ティムには少しの汚名も被ってほしくはない。
「散々裏切られておいて、何を言ってるんだ。まさか、まだあいつと婚約したいとか言うんじゃないだろうな」
紛れもない怒気をまとったティムに問い詰められる。
「いえ、さすがに、もうそんな気は失せたけど」
「だったら、それで充分だ。両者にその気がなくなった時点で、無効だ。そんな口約束」
そういうものなのか。
「腹が立つから、もうそのことは口に出さないでくれ」
これ以上ないくらい不機嫌に吐き捨てるティムに、セシリアはぽかんとして、それからおそるおそる質問した。
「ティム……もしかして、嫉妬してる?」
その言葉を聞いたティムは思い切り嫌な顔をした。ずっと昔から、嫉妬心などくだらない感情を持つ暇があったら、自分がのし上がる努力をすると主張してきた男だ。
だが否定の言葉はなかった。代わりにため息をひとつ吐く。
「……厄介な感情だ」
セシリアは瞬きをする。もし、もしも、ティムのセシリアに向ける感情が、セシリアのそれと近いものだったら。
「教えて、ティム。あなたの気持ち」
ティムは少しの間言いづらそうにしていたが、今回のことが余程堪えたらしく、そこまで抵抗はしなかった。
「ずっと君以外の女性との結婚など考えたこともなかったんだ。初めて君をエスコートして王宮の舞踏会に出た時から。……それより前かもしれないな。当たり前に俺が法律家の道に進んで、君がずっと隣にいるものだと思い込んでいた。それが、君が俺から離れて行くかもしれないとなった時、はじめてその可能性があることに思い至ったんだ。ひどく苦痛だった」
ティムは淡々と続ける。
「俺以外の男と君が婚約するかもしれないと聞いた時には、衝撃過ぎてどうしていいか分からなかった。心底そいつを殺してやりたいと思ったし、試験のことも何もかも全てどうでも良くなった。君がそばにいない人生なら、死んだ方がましだとすら思う。……セシリア?」
ソファに突っ伏してしまったセシリアを見て、ティムが言葉を切った。
「ごめんなさい、ちょっと待って。思考が追いつかない」
ティムの言葉はどう聞いても愛の告白だった。予想していたよりちょっと、いやかなり情熱的だ。平気な顔をしてそんな事を言わないでほしい。
「恋心じゃないって、言ったくせに」
もう少し早く認めてくれたら、他に婚約者なんて作ろうなんて、思わなかったのに。
思わず出てしまった恨みごとに、ティムが心外そうな顔をした。
「違うとは言っていない。よくわからないと言ったんだ。でももしこの感情が、君の言う恋というものならーー俺は君に恋をしていることになるな」
つらっとそんな事を言う。あっさり認めてしまって、後悔しないと良いけれど。
恋心の性質が綺麗なだけではないというのは、ティムが言っていたことだ。
「……私は、たぶん、あなたが思っているよりうんと厄介なの。近くにいる女の人に嫉妬もするし、またこうやって泣くかもしれないし、うんざりするほど重い気持ちをぶつけるかもしれない」
我ながらどうかと思う告白を正直にしたのに、ティムは少し笑った。
「君が俺にくれる感情で、嫌なものなどひとつもないよ」
それから何か思い当たったような顔をした。
「ああ……。でも、君にされるのがひどく苦痛なことがいくつかある事には、最近気づいたけど」
心当たりが多すぎて、セシリアは胸を押さえる。軽はずみに突っ走ったことだろうか。それとも、みっともなく泣きわめいたことだろうか。
「聞かせて」
ちゃんと聞いておかなくてはと思う。少しでもティムの負担になることはしたくない。
「俺に、他の女をあてがおうとしないでほしい」
予想していたのとは少し違う内容に、セシリアは瞬いた。
「それから、俺の手を振り払わないでほしい」
そう言って、再びセシリアの手を取る。長い指に見惚れていると、ティムがセシリアの指先を口許に持って行って、セシリアの目を見据えたまま、てのひらに口づけた。
「……俺以外の奴と、結婚しないでほしい」
それは懇願だった。いつも仏頂面で、何を考えているのかよくわからないティムのこんな顔は、セシリアでさえ初めて見たかもしれない。
(他の男性と婚約しようだなんて)
馬鹿なことをしてしまった。セシリアはその時初めて思った。
「ーーあの」
セシリアは何か言おうとして、でもやっぱりこちらの方が気になる。身を乗り出して、ティムの額に手を当てた。
「やっぱり。ティム、あなた少し熱があるんじゃない?」
「熱……?」
指にかかった息が少し熱い気がした。額に手をやると、やはり熱い。よく見ると、顔も少し赤いような。
考えてみれば、ここ最近の不摂生に加えて、生傷をあちこちに作っているのだ。身体は相当疲弊しているだろう。
気が緩んで、身体が不調を訴え出しているのかもしれなかった。
妙に情熱的な台詞も、それが原因なのかもしれない。今聞いたことはひとまず保留にしておいて、元気な時に、もう一度確認した方が良いだろう。
「とりあえず、寝室へ行った方が良いわ。今おばさまを呼んでくるわね」
立ちあがろうとしたところを止められた。
「大丈夫だ。大したことない。少し休めば回復する」
「今日のところは、もう横になって休むべきよ」
「そうもいかない。勉強しないと」
思い出したように書物に手を伸ばしたティムを見て、流石にセシリアは腹を立てた。
「勉強、勉強ってーー。そこまで必死にならなくても良いでしょう。体調が悪いのに本を読んだって頭に入りっこないわよ。しばらくゆっくり休んで、回復してからまたすれば良いじゃない」
紛れもないセシリアの正論に、ティムは渋い顔で反論する。
「それでは来月の試験に及第できない」
「そんなわけないじゃない。学部一教授の覚えがめでたい人が」
「いや。試験に落ちるのは、ほとんど確定事項みたいなものだったんだ。あのパーティーの夜から、勉強なんてずっと手につかないままだ」
ティムの意外な告白に、セシリアは眼を丸くする。
「パーティーって、侯爵夫人が主催のパーティー? だって、あの後会った時は、あんなにやつれていたのに。てっきり私は死にものぐるいで勉強しているからだとばかり」
ティムはきまりの悪い顔をして、視線を逸らしてしまった。
「仕方がない。夜は寝られなくなるし、食事は喉を通らなくなるし、散々だったんだ。法規がひとつも頭に入らなくなって、落第を覚悟した」
「…………」
理由を訊くほど野暮ではないつもりだ。この人、実は私のことかなり好きなんじゃないの、とは流石に口には出せない。
「まあ、そういうことならちょうど良かったわね。卒業を諦めるなら、ゆっくり休めるわ」
「冗談じゃない。ひと月あったら遅れを取り戻すには充分だ」
さっきまでとは違う力強い言葉におやとセシリアはティムの顔を見た。やつれた面差しに変わりはないが、目には光が戻っている。
「何としても試験に受かって、法曹院に名を連ねないと」
徹底した仕事馬鹿ぶりに、セシリアは呆れた顔をした。
「べつに、そんなに急がなくても大丈夫よ。家からの援助を打ち切られたとしても、修習生としての収入も入ってくるわけだし、私が働きに出ても良いし。一年ぐらい、なんとか食べていけるわ」
「駄目だ。それじゃあ君と結婚できない」
「な、何言って……」
上手く言葉が出てこずに顔を赤くして口をぱくぱくさせるセシリアに対して、ティムは大真面目だ。
「当然だ。こんな宙ぶらりんな状態では、君に求婚すらできない。何としても第一席で試験をパスするぐらいはしないと」
(理想が高い)
そこはセシリアがかねがねティムを尊敬しているところでもあったけれど、熱があるのに無理をさせる訳にはいかない。
「さっきのは、求婚じゃないの?」
ーー俺以外の男と、結婚しないでほしい。
「ああ……」
すぐに思い当たったらしく、ティムが横を向いた。
「別に、強制力がある願いじゃない、単なる俺のわがままだ。ちゃんと言うまで、忘れてくれ」
またそんな事を言う。嬉しかったのに。
「分かった。じゃあ、早く合格して求婚してね。待ってるから」
勇気を出して言ってみたものの、返答がない。横を見ると、ティムは座ったまま目をつぶって、力尽きたように寝息をたてていた。
「ティム。ちゃんとベッドへ行って休まないと駄目よ」
肩を揺すって起こそうとすると、その手を掴まれてしまう。
「すぐ起きる。起きたら結婚しよう」
思わずセシリアが顔をのぞき込んだ時には、ふたたびティムは寝息をたてていた。
「……寝言?」
ずいぶん人騒がせな寝言だ。
もしかしたら熱のあるティムよりも熱くなってしまった頬を、ぱたぱたと空いている方のてのひらで仰ぎながら、セシリアは少し考えた。
本当は人を呼ぶか無理矢理起こすかしてティムをベットに連れて行った方が良いのだろうが、がっちりと手を握られてしまっている。
この姿を人に見られるのは少し恥ずかしいし、それに。
ーー俺の手を振り払わないでほしい。
悲痛な顔を覚えている。こちらからこの手を放すことは、もうしたくなかった。
とりあえず、ティムの隣に座り直して、手の届くところにあったひざ掛けを、起こさないようにそっと掛ける。
部屋に沈黙が満ちた。かすかにティムの呼吸が聞こえてくる。
規則正しい呼吸音を聞きながら、セシリアは急速に身体から力が抜けていくのを感じていた。そういえば、ティムほどではないにしても、最近はあまり眠れていなかった。自分でも気づかないうちに、張りつめていたようだ。
眠気でぼうっとしてきた頭に、さっきまでそれどころではなくて忘れていた、とめどない思考がぐるぐると回りはじめる。
屋敷にリオを置いてきてしまったけど、どうしているだろう。セシリアを追ってきたりしたんだろうか。みんながいるはずの階下はやけに静かだ。
そうだ、モートンへ謝罪の手紙も書かないといけない。いや、謝罪というのはおかしいだろうか。とにかく婚約はできない旨の書面をしたためなくては。書き出しの文面はどうしよう。
ティムに頼んだらあっという間に書いてくれるだろうが、ずいぶんと過激な絶縁状ができあがるだろう。
いろいろ考えることがあるのに、ティムの身体から体温が伝わってくるものだから、こちらまで眠くなってきてしまう。
つないだ手が温かかった。大事なことは全部起きてから考えることにして、今はほんの少しだけ休もうと、セシリアはゆっくりと眼を閉じた。
読んでいただいて、ありがとうございました。
(1/3追加)
誤字報告いくつかいただいております。ありがとうございます。
ぽつぽつと修正しています。
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今年が皆様にとって幸多き一年となりますように。