ひねもすのたり

作者: 寺町 朱穂



 壮絶な戦いであった。


 魔王殿の大広間は、それは無残な有様である。絢爛豪華な彫り物が施された柱は、戦いの余波で破壊されつくされている。その残骸が転がるヒノキの床は、板があちらこちらで剥がれたり穴が開いたりしてしまっていた。

 私は瓦礫を避けながら、魔王と対峙し続けている。魔王は、その名にふさわしい剛力の持ち主だ。いままで戦ってきた敵よりも遥かに巨大で、豪華な着物を纏っている。そのあまりの強さに、仲間たちを後ろに下がらせていた。いまも、わずかに残った柱の陰から仲間たちの不安そうな視線を感じる。


 そう、それだけ魔王は強い。


「だけど、所詮は魔王」


 私は口の端を上げた。

 いくら強くても、奴は魔王。そして、自分の力はその遥か上をいく。なにせ、魔王を倒せるのは勇者だけ。つまり、勇者である私は、この世界で最強の存在なのだから。


「これで、終わりだ!」


 この一撃で終わりである。

 私の足払いを受け、魔王は床に転倒した。

 さすがは魔王。それまでの敵とは異なり、すぐに体勢を立て直そうとしてくる。しかし、わずかに生じた隙を逃すわけがない。すかさず慣れ親しんだ刀を握り直すと、力の限り振り下ろした。刃の先端が魔王の腹を貫く。魔王は甲高い悲鳴を上げた。白い腹が、じわりと赤く染まっていく。抵抗しようと四肢を動かしているようだったが、激しい抵抗も痙攣に変わり、やがて、糸が切れたように動かなくなった。


「死んだ、のか?」

「勇者様!!」


 耳の横に桜のかんざしをつけた少女が、てってってと駆け寄ってくる。私は彼女を受け止めると、優しく微笑みかけた。


「ああ、終わったよ」

「勇者様のおかげです、私は――本当に、嬉しいです」


 少女は私の腕にしがみつき、黒い瞳から涙を流し始めた。ぽろりぽろりと真珠のように大粒の涙が頬を伝い、あでやかな着物を濡らしていく。

 

「いや、君がいてくれたからだよ。君の支えがあったからだ」


 視線を上げると、遠くから見守ってくれていた仲間たちが近づいてくるのが分かる。

 私は彼女の滑らかな毛を撫でながら、これまでの旅に思いを馳せた。



 ああ、終わったのだ。

 終わってしまったのだ、この長い旅が――













 はじまりは、日常だった。

 いつものように仕事終わり、私は親友の元を尋ねていた。



「師走は忙しくてかなわない」


 親友は開口一番、こんなことを言い出した。

 煙管を咥えながら首を横に振っている。煙管とはいささか時代遅れのような気がしたが、「紳士たるもの、煙管くらいは嗜まなければならない」らしい。ただ、彼の煙管は玩具であり、白い煙が立ち上ることはなく、火種を入れる必要もなかった。


「師走というのはだね、誰もが忙しく走り回ったから師走というのだよ。それがなんだ、近頃は? やれ、クリスマスだの、年越しカウントダウンだの、年末コンサートだの騒がしくていかん。風情が足りんよ」

「風情が?」

「そうだ。緊迫感……いや、緊張感というのか?

 それがなっとらん。はしゃぎまわるものではないのだよ、師走は」


 親友は忌々しそうに言い放った。

 厭世家の彼には悪いが、自分は――彼曰く「風情の足りない行事」にとっぷりと浸かっている。街を彩るイルミネーションを見つけたときは心が明るくなり、クリスマスプレゼント選びに精を出す。友人同士で集まり、酒を酌み交わしながら年越しカウントダウンをするのは楽しみで、いまから心が躍る。


「そうかもしれませんね」


 とはいえ、そのようなことを指摘しようものなら、親友は気分を害するであろう。

 なにしろ、今日の彼はいつになく機嫌が良い。しかめっ面で腕を組み、右手の人差し指でとんとんとんっと左肘を規則的に叩き続けているが、あれは以前からの癖である。荒い呼吸をしていない分、幾分か調子が良いように見えた。

 調子が悪い日の彼は、この程度ではすまされない。だんだんと呼吸が荒くなり、目は血走っている。そして、ほとんど突然、つばをまき散らしながら怒鳴り始めるのだ。いや、それだけなら構わない。酷いときには興奮するあまり、目の前の机を力の限り蹴り飛ばし、私を絞殺さんとの勢いで手を伸ばしてくる。こうなると、応援を待たなければならない。騒ぎを聞きつけた大人――それも男性が駆けつけてくるまで、自分一人で親友と取っ組み合いを続ける羽目になる。



 ……正直、両親には何度となく「彼に会いに行くのは止めてください」と言われているのだが、この提案ばかりは聞き入れることはできない。




 なぜなら、私は彼とは親友なのだ。




 彼――、いや、ここは本名ではなくAとしておこう。

 Aはここで入院生活を送っている。ここへ入ってから、もう5、6年になるだろうか。

 205号室は病室というよりも、すっかり彼の部屋と化していた。彼自身、たまに本当の家を忘れそうになるらしい。その不安もあってか、いつここから出られるのか?ということばかり気にしている。そう、彼にも家族がいる。ところが、不思議なことに、私がいる間は一度も見舞いに訪れたことがない。私が来ている時間が悪いのか、それとも、見舞いに来ることができない、もしくは、したくない状況なのか。彼は、いつもたった一人だ。帰り際、ふと振り返ってみたことがある。彼は、小さな椅子に腰を下ろしていた。普段の辛口な発言にあわない寂しげな背中は、どこか可哀そうに思えた。

 

 

 さて、親子ほどの年齢も離れた私たちが親友になれたわけは――話せば長くなるので、別の機会にしておこう。ともかく、私は今日も仕事が終わり、彼の元を訪れている。まぁ、冒頭の会話がそれだ。

 ここは冬も温かく、夏は適度に涼しい。そんな病室内だから、いつも常春の国へ迷い込んでしまったような錯覚に陥る。事実、Aは日付感覚がマヒしてしまっているらしく、今日はまだ6月の半ばだというのに、師走の話を持ち出して来ているのはそのせいだったのかもしれない。

 だが、それを指摘して気を悪く、さらには、病状を悪化させてはいけないので、私は黙って肯定する。


「ところで、親友よ。この地図を見たまえ」


 彼は私を呼び止めた。小さな手には、くしゃくしゃになった紙が握りしめられていた。正直、私は内心「またか」とため息を吐く。帰り際、このように紙を渡されることはよくあることだった。大抵、この紙には彼の言う内容とは関係のないことが書かれている。もっとも、病気だから仕方あるまい。

 私はへきへきとした気持を抑え、できる限り興味深そうな表情で紙を受け取る。そして、あっと声を上げてしまった。


「本当だ。地図ですね!」


 そこには、本当に地図が書かれていたのだ。

 A本人の直筆、だろうか。黄ばんだ紙には、鉛筆で殴りがいたような地図だった。非常に簡略な地図だが、近くの駅前を描いているようだ。


「実は、君にこの場所にいる古い知人に会って欲しいのだよ」

「知人?」

「ああ――風の噂で聞いたのだが、どうやら困っているみたいでね。

 見てのとおり、僕はここに閉じ込められている。容易に抜け出すことはできん」


 まったく、不愉快なことだ。と、彼は続ける。

 私はもう一度、地図をじっくり見つめた。そして、やはりというべきか。違和感に気づいてしまったのである。


「でも、この場所に人は住んでいませんよ?」


 つい口走ってしまい、慌てて口を塞いだ。彼は怒り狂うに違いない、と思ったが、彼はなんと笑っていた。それも、歯の掛けた口を大きく開け、非常に愉快そうに笑っている。まるで、にたにたと笑いながら、こちらの表情を楽しんでいるかのようだ。

 Aのこのような反応は久しぶりだ。私は彼の笑顔を凝視してしまう。


「そりゃそうさ。こんなところに、彼らの家があるわけなかろうが!」

「彼ら? 一人じゃないんですか?」

「まぁ、行ってみればわかるさ。君なら出来るはずだ」


 それ以降、なにを尋ねても彼は笑うばかりだった。

 ひとまず面会を終えた後、Aの主治医にこれこれこういうことがあった、と相談してみたが、その主治医も同じく首をひねるばかり。なにしろ、ここ一週間で面会に訪れたのは、私だけらしい。いつも通り、Aは他の患者と話す機会もなく、煙管を吹かす真似をしながら本ばかり読み耽っている。そんな彼が耳にした噂とは何なのだろうか。

 おそらく、妄想の類だろうが――指示された場所が、近所であることには変わらない。


「行きますか?」


 主治医が悩ましそうに尋ねてきた。私はさして迷うことなく


「行きます」


 とだけ言い残し、病院を後にした。彼とは親友だ。ならば、親友の望みはできる限り叶えるのは当然のことである。






 さっそく次の日、その地図を片手に駅へと繰り出してみることにした。


 土曜日の駅前は人であふれかえっていた。

 近くに、大きなショッピングモールができてしまったからだろうか。年の若い男女から腰の曲がった老人まで、駅にはありとあらゆる人で込み合っている。私はその波に逆らいながら、彼の示した路地を目指した。

 目指すは、どこにでもある商店街だ。軒先の看板は薄れ、黒く汚れたシャッターを閉ざしている。とはいえ、街に誰もいないというわけではなく、まばらだが人が行き来している。しかし、彼らの視界には、シャッター街など入っていないのだろう。おしゃべりを楽しむ友人の顔、スマートフォンの画面、自分が目指す目的地、etc。


「きっと、この廃れた商店街に目を向けているのは自分だけなのだろう」


 そんなことを考えている間に、例の路地にたどり着いてしまった。

 シャッターを閉ざした八百屋と空っぽのケースが特徴的な魚屋。両方とも、潰れてから五年あまり経過しているはずだが、次の店が入る気配はなかった。そんな二軒の間には、一際暗い路地が続いている。大人の私が通るだけで精一杯な路地だ。いちおう、コンクリートで舗装はされているが、室外機やらパイプやらが道をさらに狭めている。


「……こんなところに、人が住んでいるわけないだろ」


 行ってみたが、誰にも会わなかったことにしてしまおうか。

 そう思ったが、彼の示した場所はこの路地を抜けた先にある。意を決して、一歩、踏み込んでみる。やはり狭い。身体を横にしながら、また足を前に出す。前方には室外機、頭の上にはパイプが張り巡らされている。おまけに室外機の影にはネズミがうずくまっているではないか。これはいけない。さすがに、これ以上は進みたくない。

 ……いや、ネズミは苦手ではない。職場や家に発生したとき、駆除は自分の役目である。だが、やはり生理的に受け入れがたいのは確かである。ネズミがうようよいる場所に好んで入って行けるだけの勇気はなかった。


「しかたない、帰るか」


 申し訳ないが、Aには行けなかったと謝ろう。

 そう思った矢先のことだ。


「もうし。そこの御仁」


 足元からか細い声が聞こえてきた。当然のことだが、人の姿は見当たらない。声の方へ視線を下ろしてみれば、そこにいるのはネズミだけだった。背筋を伸ばし、まっすぐ黒い双眸をこちらに向けている。


「もしかして、A様のご友人でございますか?」


 ネズミは小さな口を動かしていた。あまりの出来事に、私は思わず「わあっ!」と叫び、腰を抜かしてしまった。そう、ネズミだ。ネズミが喋り出したのだ! 私は頭を抱え込む。ついに、自分も本格的に変になってしまったのだろうか!?


「いや、驚かせてしまいすみません。そういえば、A様も最初は同じ反応でした」

「君は……Aを知ってるのか?」

「ええ、よく存じ上げております。彼は私たちの良き理解者でしたから」


 ネズミは背筋を伸ばしたまま、こちらを見つめ続けている。口も動いている。厳格と幻聴、それが同時に起きているのか。はたまた、これは本当に起きている出来事なのか。いささか判別しがたい。私が悩んでいる間にも、ネズミは語り続ける。


「あぁ、なるほど。A様に言われて来たのですね。A様は閉じ込められていますから」

「病気で入院しているだけだ。というか……どうして、そのことを知っている?」

「ネズミはいたるところにおります故。たとえば、貴方様のことも存じております」


 そう言うと、ネズミは私の名と職業を口にした。それだけではなく、昨日の夕食まで当てられてしまったのである。私は呆けたように立ち尽くしてしまった。


「立ち話もなんですし、どうぞこちらへ。遠慮することはありません」


 さぁどうぞ。と手招きをする。そのまま、ネズミは二足歩行で歩き始めた。右足、左足と器用に前に出しながら、まるで人間のように歩いている。

 もうなにも驚くまい。不思議なことだが、これは現実。自分の目が変になったわけでもなければ、頭がおかしくなったわけでもないのだ。こうなれば、とことん付き合うことにしよう。私は覚悟を決めると、ネズミの後に続いた。


「どこへ向かう気だ」

「すぐそこです。すぐそこに私たちの世界があります」

「私たちの世界?」


 路地の幅は、次第に広くなっていく。身体を横にしなくても、前に進みやすくなってきた。その代わり

いつのまにか霧が出てきていた。それも、かなり深い霧だ。今では左右の壁の感覚が分からない。あまりにも濃いせいで、ネズミの後ろ姿も霞み始めている。


「つまり、ネズミの国か?」

「半分正解ですが、厳密には違います」


 ミミズのような尻尾を左右に揺れていた。


「私たちの世界です。貴方様の世界から、少しずれた場所にあります。つまるところ、異世界でございますね」


 ネズミの手元に、ぼうっと明かりが灯る。ホタルブクロのランプだった。釣り鐘型の花を器用につかみ、足元を照らしている。そこでようやく気付いたが、地面がコンクリートと砂利の混ざり合った道に変わっていた。時折、思い出したかのように、コンクリートの合間から下草が生えている。それも、やがて消え失せ、なにも変哲のない砂利道になった。



「ようこそ、私たちの世界へ」



 ネズミの得意げな声が霧の世界に木霊する。

 深い霧の向こうに、橙色の灯りが等間隔に見え始めた。最初、ぼうっと灯るそれを人魂か?と思ったが、近づいてみれば、なんのことはない。鬼灯ほおずき製の提灯だった。ちょうど私の腹くらいの位置に吊るされている。


「全部、ネズミ仕様だな」

「私どもからすれば、貴方様の世界は大きすぎますよ」


 霧が少しずつ晴れていく。

 次第に、民家が目立つようになってきた。茅葺屋根の建物が――これまた、腹くらいの高さで並んでいる。まるで、映画のミニチュアセットに迷い込んでしまったみたいな錯覚を受けた。小さな出窓の奥に、黒い瞳がいくつも見え隠れしている。なにか囁き合う声も風に乗り耳に入って来た。だが、その声は不明慮極まりなく、好意なのか悪意なのかすら、判別できなかった。ただ、なかに人――いや、動物が生活していることは確かだ。私は住まう住民たちを脅かさぬよう、間違って踏みつぶさないよう、できる限り足音をひそめて歩くことにする。


「誰も外を歩いていないな」

「そりゃそうでございますよ。なにせ、人間は珍しいですから。おおっと、あちらでございます」


 ネズミが差し出した手の先に、少し開けた空間があった。

 その空間を覗き込んだとき、私はぎょっと仰け反ってしまった。その中央に、何十匹ものネズミが座している。それも、和服を纏ったネズミたちが、これまた時代劇の真似事のように座り込んでいたのだ。


「さぁさぁ、A様の代理の方がお通りだ。道をお開けしろ」


 道案内のネズミが、しっしっと手を払う。すると、和服ネズミたちは文句ひとつ言うことなく道を開けた。


「お前、もしかして偉いネズミなのか?」


 そう問えば、ネズミは得意そうに鼻を鳴らした。


「自分で言うのもなんですが、それなりの地位にいるものでございます。

 ……ああ、こちらへお越しください」


 私はネズミを踏み潰さぬよう、ゆっくり慎重に足を出す。道の先には、一組の――これまた、立派な和服を着こなしたネズミが座っていた。片方はちょこんと髷を結い、片方はきらびやかな扇子で顔を隠している。そんな二匹が並んでいる様子は、まるで内裏雛のようだ。


「よくいらしてくださった、勇者殿」


 殿様ネズミが大仰に両手を開いた。私は、思わず首を傾げてしまう。


「勇者? なにかの間違いでは?」

「ええ、貴方様はA様の代理なのでしょ?」


 慌てて問い返すと、姫ネズミはか細い声で尋ね返してきた。


「A様は私どもの曽祖父の時代、勇者として戦い抜いた方でございます。その方の推薦ならば、私どもも心強い限りですわ」

「実は、我が世界は数世代に一度、魔王と呼ばれる輩が出現しましてな。これを沈めるのに、ほとほと手を焼いているのです」

「魔王のネズミか。するとなんだ? お前たちは、そいつらに滅ぼされる寸前ってことか?」

「おっしゃる通りでございます。我らではまったく歯が立たず――先日、我らの息子も戦で死にました」


 殿様ネズミが暗い口調で告げると、姫ネズミが泣きながら崩れ落ちた。悲しみの空気が伝播したのか、周りに集った和服ネズミたちも辛そうに肩を震わせている。


「頼りになるのは伝説の勇者――A様しかいないと、そちらの老中を派遣したのですが、いまは貴方様が勇者でございます。お願いします、どうか我々を救ってください」


 殿様ネズミの絞り出すような声に、むむむと唸ってしまう。さて困った。私は頭を悩ませる。いきなり連れてこられたかと思えば、勇者になって魔王――といっても、ネズミだが――を倒せだなんて、どこかの物語のようだ。


「しかしな、明後日には仕事がある。そう簡単に引き受けられないよ」

「それには心配ありませぬ」


 道案内ネズミ――いや、老中ネズミは、にたりと笑った。


「ここは貴方様の世界とは異なる世界。時間の流れも違いますれば」

「……そうなのか?」


 そういえば、先程――姫ネズミが言っていた。『Aは曽祖父の代に活躍した勇者』だと。たしかにAは自分より年齢が上だ。だが、せいぜい離れていたとしても父子程度。五十も六十も違うわけではない。時の経過がないのなら、問題はない、のだろうか?


「お願いします、勇者様!」

「「お願いします、勇者様!!」」


 殿様ネズミも姫ネズミも、老中ネズミも他のネズミたちも、一斉に頭を下げる。社会人になってから、いや、子どものころから、こうして他人から頭を下げられてまで求められたことはなかったので、なんだか照れくさくなってきた。


「……自分でよければ」


 気がつけば、勇者を引き受けている自分がいた。途端、どことなく悲しみに沈んでいた空気が緩む。殿様ネズミはわざわざ私に近づくと、小さな手で私の指を握りしめた。


「いや、本当に助かります。お願いします、我らの世界を救ってください」




 こうして、私の勇者生活が始まった。



 とはいえ、それほど難しいことはない。

 なにせ、相手はネズミだ。たしかに、通常のネズミよりも巨躯で凶暴であることには変わらない。しかし、所詮はネズミである。どれほど大きくても、腹の高さ程度であった。常に敵を見下しながら剣を振るい、脚を振るい、拳を振るう。

 面倒そうな敵に出くわしたときは、仲間のネズミたちに「殺鼠剤を持ってきて」と頼んだこともあった。ばたり、ばたりと敵が死んでいく様は、なんだかひどく爽快だった。


 ここに来る前は残業・残業・残業に次ぐ残業。

 上司から叱られ、客からは怒られ、家に帰っても怒鳴られ――休まる暇などなかった。ある意味、Aと会っている時間が休憩に当たるのだが、あれはあれで精神が休まらない。心を擦り切らしながら会っているようなものだ。



 それに比べて、こちらの暮らしは快適だった。

 ストレス発散もかねて、ばっさばっさと敵を倒す。それだけで、歓声を浴びることができる。

 食事だって用意してもらえる。最初は「ネズミが用意するものなんて、不潔な感じがする」と思っていたものだが、動けば腹はすく。ネズミも気を使ってか、


「すーぱーなる場所で仕入れてきた、新鮮な食材を使っております」


 と一言添えて、食事を出してくれた。鳴り響く腹を抱え、渋々口に運んだ握り飯は、それなりに美味く、他の料理も及第点だった。

 ネズミばかりに囲まれ、最初こそ人肌が恋しく思えたものだが、慣れとは恐ろしい。次第に、ネズミのお嬢さん方まで可愛らしく思えてきてしまった。なにせ、


「勇者様、さすがです!」

「勇者様、ありがとうございます!」


 と感謝の涙を流しながら上目遣いでこちらを見上げてくる。潤んだ黒い瞳、鈴のようにか細い声、小さな身体――守ってやりたくなる要素のオンパレード。気がつけば、彼女たちの様子に、一喜一憂している自分がいた。



 この生活の弊害は、彼らと自分の身体の違いだろう。

 自分の身体が大きい結果、宿に泊まることが難しく、必然的に野宿を強いられることになった。ただ、彼らが調達してきてくれた毛布のおかげで暖をとることができた。それらを組み合わせ、テントを作れば雨風だってしのげる。


 よって、特筆するほど不自由なことは――なかった。


 敵を倒すだけの容易い仕事で、食べ物や寝床に不自由もなく、女に囲まれ、笑いながら楽しく旅をする。



 勇者とは、なんて素晴らしい仕事なのだろう。



 だから、魔王を殺したとき――もう少し、旅が続けばよかったのに、と思ってしまった。

 しかし、時は止まらない。

 仲間たちと進んだ道を戻る。障害がないせいだろう。悲しきかな、行きよりも帰りの方が早く進んでしまう。そして、気がつけば、始まりの街まで戻ってきてしまっていた。


「お見事でした、勇者様!」


 殿様や家臣たちが、私たちを迎え入れる。誰もが歓喜の涙で顔を濡らし、こちらを誇らしげに見つめていた。


「これで、魔王もいなくなり、私どもの国に平和が訪れました」


 殿様は涙を流しながら、感謝の言葉を口にする。


「これもすべて、勇者様のおかげでございますれば」

「いいえ、殿様様がたの助けがあってこそ、ここまで来れました」

「いやいや、勇者様のおかげですよ。なにか、望みがあれば言ってください」


 やっと来た!

 内心、ガッツポーズをとる。魔王を倒したときから、この問いかけを待っていたのだ。


「それでは、ひとつだけ――」


 私は周りの人たちを踏まぬよう、静かに片膝を下ろした。勇者が何を望むのか、広間に集った民衆の視線を一身に感じながら、私はゆっくりと口を開いた。


「ここに――この世界に住みたいです」


 元の世界に戻ったところで、これほどまで崇められることはないだろう。

 元の世界に戻ったところで、辛い仕事が待っているに違いない。

 元の世界に戻ったところで、苦しい生活が待っているだけだ。


「魔王を倒しましたが、また残党が襲ってくるかもしれません。もしかしたら、第二・第三の魔王が現れるかもしれません。

私は、この世界が平和になるまで留まり、そして、やっとつかんだ平和を見守り続けたいのです」


 それならば、この世界にとどまっていた方がいい。

 優しく温かい方々、そして可愛らしい女に囲まれ、食料に心配することもなく、仕事で苦しむこともない。温かで、優しい世界に包まれていたい。

 殿様は、私のことをじっと見つめる。

 老中も、姫君も、民衆も、女たちも――。


 どれほどの時間が過ぎたのだろう。

 やがて、意を決したように、殿様は立ち上がった。


「分かりました。それでは、貴方に領地を与えましょう」


 殿様は、太陽のようにおおらかな笑みを浮かべた。なにかを宣言するように、大仰に片手を空に掲げる。


 そして――








「――ということがあったんだよ」


 私は静かに、しかし、やや興奮気味な口調で物語を結んだ。

 白い服の人間が、真剣な顔で頷いている。


「そうか、領地をくれると言ったんだね」

「ああ、でもそれは違ったんだ。嘘だったんだよ」


 あのときの震えは、いまでも身体に刻み込まれている。

 彼らの眼からすれば、私はチート級の力を持つ勇者。――そして、それは魔王亡き現在、恐ろしい怪物に映っていたのだ。

 彼らの了承した領地とは、私が入る墓穴のこと。

 あの瞬間――殿様が手を挙げた瞬間、民衆が待ってましたとばかりに襲いかかって来たのだ。殿様の忠臣たちも、一緒に旅をした仲間も、女子どもも、一斉に私に飛びかかり、爪や歯で攻撃をしかけてくる。

 長年、親しんだ相手に反撃などできるはずがない。私は彼らをできるだけ傷つけぬよう振り払い、死に物狂いで走った。走って、走って、走って、走って、それでも、奴らは追いかけてくる。


 やっとの思いで逃げ込んだ元の世界にも、あちらこちらで私を監視している。

 いつ、その喉元を喰いちぎってやろうかと、目を光らせながら。

 彼らの脅威に怯えていると、人間たちが優しく、そして、不安そうに尋ねてくる。「どうかしたのか?」と。ところが、理由を話した途端、誰もが表情を一変させる。「それは、悪い夢を見ているのだ」と笑い飛ばしてくるのだ。


 だから、私は――



「ああ、思い出さなくていいよ」


 かちり、スイッチが切り替わる。

 徐々に震えが収まっていく。


「ここにいる間、君は安全なんだ。ゆっくり、休むといいよ」


 白い服の人間は、優しく私の肩を叩いた。

 優しい、優しすぎる微笑みで、私を包み込んでくれる。


 あぁ、私は今、幸せだ。

 いや、幸せなのだろうか。

 どうなのだろう。

 自由に移動することができず――しかし、彼らからは守ってもらることができる。

 懐かしのわが家へ帰ることは不可能で――その代わり、衣食住は提供してもらえる。

 決められたスケジュールをこなさなければならない――だけど、優しく接してくれる。


 私は、幸せか?


「さぁ、落ち着きなさい。これでも飲んで」


 人間は甘い声で呟くと、マグカップを差し出してきた。

 私は水を一滴ずつ、舐めるように飲んだ。一滴、また一滴、水分を口に含むたび、なんだか体の奥から温まり、頭に靄がかかってきたような気がする。否、ずっと浮かんでいた靄が晴れた。頭の中がすっきりし、思考が鮮明になった。文字通り、快適。気分爽快というやつである。


「あ、ありがとうございます」


 幸せだ。 

 朝昼晩、食事は用意されている。

 テントを張らなくても、雨風をしのぐことができる。

 さらにいえば、彼らが入ってくる隙間はなく、安心して暮らせる。

 そのうえ、汗水たらして刀を振るう必要もない。

 巨躯な人間に対する忌避感や気持ち悪ささえ我慢すれば、これほど素晴らしい場所はなかった。


「あぁ、本当に」

 

 夏の蒸し暑さも、冬の凍える寒さもなく、ぬくぬくと温かい常春の世界。

 頭がぼんやりしてくる。うつら、うつらと眠ってしまいそうだ。今日は、本でも読もうか。それとも、居眠りをしようか。いや、あの冒険を紙に記そうか。

 どうせ、誰も尋ねてこない。



 平穏な、温かい日々。 




 ひねもすのたり、のたりかな。