衣手に月宿る

作者: 雨宮とうり(旧雨宮うり)

 


「邪魔をする」


 気配もなく唐突に、外から届いたのは、ずっしりと重く耳に残る男の声だった。

 返答を期待してもいないのか返事も待たず、御簾が捲られる。

 姿を現したのは大層立派な容姿の公達だった。

 彫りの深い顔立ちの男だ。整ってはいるが美しいと言うには些か貫録がありすぎる。

 年の頃は三十路に届くかどうか。大柄な上背に、鍛え上げられた逞しい体躯は、線の細い公達の多い都の中では少々……いや、多分に異質だ。

 重ねて、彼の恰好も非常に目を惹く。

 殿上人らしく、身に纏うは風雅なばかりの輪無唐草の黒袍、紫固地綾の指貫だと言うのに、その腰に刷くのは二本の太刀。

 反り返りの大変美しい大太刀であった。

 柄頭に付けられた翡翠と水晶の玉飾りに漆塗り、唐草模様の螺鈿細工が施された鞘は、一見装飾品の様な優美さを醸し出している。しかし、そこに収められている刀身は飾り物とは程遠い、怖気を齎すほどの切れ味を持つ業物であった。

 ちなみに、どちらも有名な妖刀だが、彼の手に渡った際、力業で屈服させた彼の出鱈目さに、その場に居た陰陽師や御坊が唖然とした、というのは大変有名な逸話である。確かに、動きやすいとは言い難い束帯姿で豪快に大太刀を振り回す様を一度でも見てしまえば、なるほどと納得する他ない。

 彼の動きに合わせるように紙燭の灯りがゆらりと揺れ、部屋の中に影が伸びる。

 夜更けと言わずとも灯りのいる刻限。女の下に忍んで来るには何とも都合の良い時間だ。

 しかし、此処は『清庭さにわ』。神祇官の一角である。

 逢引きなどという色っぽいものとは無縁の場所であるから、そこに居たのは当然ながら妙齢の女人などではなく、裳着の儀も終えていないような童女であった。男を見上げる動作に、色を無くしたような白髪が衣の上を滑る。髪同様に白い睫毛が瞬くと、嵌り込む淡い銀藍色の眼がきょとりと丸くなった。先触れもなくやってきた訪問者に驚くこともなく、応えを待たずに入ってきたことに怒った様子もなく、ただ、不思議そうに首を傾げる。


「別当殿?どうなされました?」


「何、瓜を頂いたものでな。お裾分けに来た」


 男は片手に持った薄緑の塊をひょいと上げ、にっと笑ってから、彼女に向かって無造作に放った。

 柔らかな弧を描いて届こうとするそれを、受け止める様に少女は手を差しだす。しかし、その間を割るように現れた黄金色の髪の女が、危なげもなくそれを受け止めた。

 髪色と同じく、満月のような金目が険を帯びて男に向けられる。


「乱暴な。主に当たったらどうするおつもりか」


「お前がいてそうはなるまい。せっかく川で冷やしてきたんだ。冷たいうちに食べないか?」


 勧められたわけでもないのに、彼は勝手知ったる様子でどっかりと腰を下ろして、女を促した。男が我が道を行くのは今に始まったことではない。図々しさを指摘したところで、彼は涼し気な顔で笑うだけだろう。それがわかってしまうほどには付き合いは長い。わざとらしいほどに深々と溜息を付き、女は仕方なしに身を返した。

 瓜を持った女の後ろ姿が几帳の陰に消える。それを見届けて、男は童女の方へと視線を戻した。躊躇うこともなく片手を伸ばし、大きな掌でまろみを帯びた頬に触れる。

 子供特有のもちっとした柔らかさに合わない、ひんやりとした冷たさが掌に伝わった。


「無理をしたな」


「しておりませぬ」


 むすっとして返されるものの、娘はその手から逃れようとはしない。やれやれと苦笑を漏らして一度手を引いた男は、今度は両手を伸ばして娘を引き寄せた。膝の上に座らせ、衣袖で包むように抱きしめる。「過保護」と苦情なのか、呆れなのかわからない口調で呟かれ苦笑は更に深まった。懐の中の小さな身体は、子供の体温とは思えないくらいに冷たい。

 彼女が無理をしているつもりがないからこそ、心配症にならざるを得ないのだというのに、それが当の本人にだけは伝わらないのだから困ったものだ。

 旋毛の上に顎を乗せ、男は一つ息を吐く。


「お前には過保護なくらいで丁度いい。……せっかくなら、温まるものを持ってくるべきだったか」


 残暑も名残り、夜風すら蒸し暑い時期であるから、冷たいものをと選んできたが、どうやらその選択は誤りのようだ。

 少しばかり小難しい顔をした男に、幼子おさなごは手を伸ばした。皺を寄せる眉間をついっと突いてから、頬を緩めて、悪戯っ子にように微笑う。


「温かい所で冷たいものを食べると言うのは、中々に贅沢だと思いませぬか」


 その意味に。

 まじまじと銀藍の瞳を覗き込めば、腕の中の小さな生き物は恥ずかしそうに男の袖の中に顔を隠した。

 その一挙一動に、男は思わずと言った様子で溜息を漏らした。

 少しだけ抱きしめる腕の力を強めて己の温もりを分け与えながら、声を乗せずに「炎駒えんく」と口の中で呟く。

 呼応するかのように脇に置いた太刀が震えた。

 ふわり、火の気が高まる。

 部屋の端で紙燭の炎が躍るように膨らんだ。

 屏風に映る影が大きく揺らぐ。

 

 次の瞬間。

 

 きん……っと微かな音がして、室内にこごっていた冷気が霧散した。

 その変化は、丸くなって男の温もりを享受していた娘にも届いた。

 凍えるような冷たさが遠のいていく感覚に、目を開ける。袖に包まれた視界は薄暗い。薄らと灯りに透かされる衣がまるで蛹の繭のように感じられて、娘はほんのりと微笑んだ。乗せられている膝も凭れ掛かる腹も全然柔らかくなどないのに、この中はとても心地良い。

 だが、きっと此処から出ても、もう寒さを感じることはないだろう。

 すっぽりと包まれたまま、「ありがとうございます」と感謝すれば、顔の見えない男が笑った気配がした。


「穢れは祓った。暫くは炎駒の気配に寄っては来れまいよ」


 煤を掃うようなぞんざいな言い方が、何とも彼らしく頼もしい。

 彼が祓い除けてくれたのは、物の怪と言う程の力を持たない汚泥のような澱みだ。恐れや怒り、悲しみや恨みを飲み込んでおりのように深く沈んでいくもの。

 恐らく、月読の神気に惹かれ集まってしまったのだろう。

 普段ならばこうも容易く神域に入り込ませたりしない。だが、此度のようにこれほど深く神に干渉されてしまっては、神域の維持にまで力を割くことは難しかった。楽の音を介し、神使に補佐をしてもらっているとはいえ、人の身が神の声を聞くということはそれほどに負担が大きい。

 月宮と呼ばれるこの身でも、それは変わらず。所詮は生身の人間に過ぎないのだから、男の体温に素直に身を預けてしまうくらいには、疲弊していたとしても仕方がなかった。

 とは言え、そのおかげで迷い子を一人にすることなく早々に保護出来たのだから、良しとすべきだろう。


 ふんわりと瓜の香りがした気がした。

 果実にしては、あっさりとした瑞々しい香り。


 甘いだろうかと、どこか期待するように、意識の片隅でふと思う。

 しかし、適度な温度と柔らかな暗闇は思いのほか心地良く、頼りがいのある腕の中は何処までも少女を安心させるから。

 届くのを待つことなく、うつうつと。彼女は知らぬ間に夢路へと旅立っていた。


 眠ってしまった娘を寝所に移動し、すうすうと寝息を立てるその横で男もまた横になる。肘を付きその顔を見つめる彼の表情は柔らかい。

 なにかを探すかのように動く小さな手に、空いている手を差し出せば、腕ごとぎゅっと抱きしめられた。ふにゃりと寝顔が崩れる。起きているときには決して見せることのない、その幸せそうな表情に。

 男は愛おしさを隠すこともなく瞳に浮かべ、あらぬ方へと声を投げ掛けた。


「明日こそ、三日夜餅の準備をしてもらってもいいんじゃないか?」


「叩き出されたくなかったら、その軽口閉じなさいまし」


 幼き主を起こさないよう、その声音は囁きの如く控えられている。が、几帳に映る女房……否、狐の影が大きく毛を逆立てているのを眺めやり、男は喉元で笑った。





 七年前、幼き娘は習いたての琴をつま弾いていた。

 年上の婚約者が「うまいな」と、優しく頭を撫でてくれたことが大層、嬉しかったのだ。

 男の顔を思い出しながら、娘は彼への想いを乗せて弦を鳴らした。

 それは子供らしい懸命さであり、一途さであった。

 付きそう女房達がその様子を微笑ましく見守っている。


 何が、いけなかったのだろう。

 男が彼女を褒めてしまったことか。

 彼女が琴の音を鳴らしてしまったことか。

 それとも、……月光の届く所に娘がいたことか。


 夜空に浮かぶ月が、彼女を見ていた。

 幼き恋心を秘めた琴の音に、何の因果か惹かれてしまったのは月読の神。

 一柱の神が戯れに放った声を聞いてしまったが故に、彼女は審神者となった。

 黒い髪は白く、黒い瞳は銀藍色に。

 月色を纏うた娘を、帝は『清庭』へと封じた。


 彼女が生まれた時に結ばれた婚約は、本来であれば封じられた時点で消えたはずであった。

 だが、男はそれを良しとせず、今も猶、足掻き続けている。


「神になど、決して渡しはせぬよ」


 神の気配を感じながら、退くつもりは欠片もない。

 白い髪に口付け、男はこの七年、姿の変わらない愛おしい婚約者を抱きしめた。