002 とりあえず逃げることにしました
馬車から出て来たのはいいけれど、これからの行動指針を決めない事にはどうにもならない為、改めて現状の把握をする事にする。
今の私は崖の下で満身創痍。移動もままならない。そしてここから移動するにしても、どこへ向かうのかが問題だ。
崖を見上げる。崖を上るのは不可能。
崖から左方向を見る。方角的には南。こちらに進めば、元々の目的地である商人様のいる街に至る。辿り着けば当然、囲われるだろう。
右。北方向。こちらへ向かえば元居た孤児院の有る街がある。帰った所でもう一度送り出されるだろう。
或いはこのままじっとしていれば、先ほどの盗賊達が左右どちらからかは判らないが迂回して下りて来る事も考えられる。
……どうする? 囲われるのは嫌だ。出資者の商人は何度か見た事がある。小太りで下品な顔をしたガマガエルっぽい感じの中年だった。
アレ相手にそういう事をする? 前世の男性であった時の記憶を思い出した事もあってか、意識が男性寄りになっているようで男性相手にそういった事をする、される、という事に酷い嫌悪感が湧く。
無理。無理無理無理無理、無理! 絶対無理!
嘗ての私は至ってノーマルだった。
ネタとしてそういう薄い本を読む事はあったが、実際に自分がそんな事になる位なら死んだほうがマシ! と言いたい所だけれど、出来れば死にたくはない。生きていたい。
となると後はここから逃亡、という事になるんだけど……と、後ろを見る。東の方角、森だ。
この森、大森林とか魔の森等と言われているかなり大きな森である。当然の様に凶悪な魔物なんかも沢山居る、らしい。
そして今自分が居る辺りはほぼど真ん中と言っていい辺り。十歳の女の子が怪我した状態で一人で踏破出来るとは思えない。
……それでも、囲われるのが嫌ならここを抜けないといけない。そして逃げる事に成功すれば私は自由だ。それから先は好きに生きていける。でも……んー。
迷ってる時間は余り無い。盗賊が下りてくるかもしれないし、死体の血の匂いを嗅ぎ付けて魔物が寄って来るかもしれない。となれば即行動だ。
これでも前世で研究者をやっていた時はフィールドワークもそれなりにこなしていた。運動不足で休憩は多めだったけれど。
ともあれ、まずは生き抜く為の道具が必要だろう。横転した馬車の屋根部分に括りつけられている荷物を見る。一部縄が解けて散乱しているけれど、ここからなにか役に立つ道具を見つけないといけない。
散乱した荷物の一つに手を伸ばそうとして、そこに付いた血に気付いて手が止まる。
視線を泳がせると直ぐ側には死体が転がっていた。おそらく、崖からの転落中にドアから外に放り出された人だ。
……首があらぬ方向に曲がっていて、苦悶の表情を浮かべていた。死体はそれなりに見慣れている。
孤児院にいた時、冬場には小さい子が何人も死んでいた。そんなに気にする事じゃない、この人達は運が悪かっただけだ。この世界ではたったそれだけの事で人は死ぬ。
前世の倫理観がちくちくと胸を刺す。気にしちゃだめだ。手を止めちゃダメだ。私は生きるんだ。
この世界では簡単に人は死ぬ。旅をすれば盗賊や山賊の類だって襲ってくる。自分の命は自分で守らないといけないのだ。いずれは人を殺す必要に迫られる事だってあるだろう。その覚悟はしておかないといけない。
目を瞑って一つ深呼吸をした後、そっと目を開けて改めて死体を見る。……今度は思ったより平気だった。
小一時間ほど物色して、ひとまず納得できるものを集めた。毛布、ナイフ、携帯食料、水の入った皮袋、幾らかの金銭、その他。
取り敢えずこれだけあれば何とかなるだろうか? もっと何か探すべきか……とは言えあまり迷っている暇は無い。日が落ちる前にある程度ここから離れないと拙い。急いで出発だ。
「痛……」
忘れていた。そう言えば全身打撲状態だった。でも、それでも移動しないといけない。つらい……ゆっくりと歩みを進める。
暫く進んだ所で立ち止まり、樹に寄りかかる。
意識が混濁している。
全身の痛みで思考も侭ならない。不意に蘇った前世の記憶と、今まで生きてきた10年間の記憶がごちゃ混ぜになって混乱しているのがわかる。
今の私は何だ? 私は誰だ?
……この考えは拙い気がする。
私は私だ、その筈。でも今まで生きてきた私はこんな考え方をする人間だった? 自分の事をどう呼んでいた? どんな口調だった?
ダメだ。
ダメだ。ダメだ。ダメだ。ダメだ。ダメだ。ダメだ。
難しい事は何も考えずに歩く事だけを考える様にした。
……更に2時間ほど歩いただろうか、少しずつ日が傾いてきた。
転落した場所はもう見えない。大きく息を吐いて座り込んだ。
今日はここまででいいかな? それとももう少し歩く? ……いや、割と限界だ。全身の痛みも結構拙い気がする。この怪我をどうにかしないと危険だ。
「……そういえば、『応急処置』が使えた筈……?」
前世の記憶を思い出し、その情報量の多さから忘れていたけど、私は、レンは幾つかの魔法が使えた筈だ。
その幾つか使える魔法が生活魔法。それは魔法資質が低くても習得出来るとされる、日常生活全般の役に立つ無属性魔法だ。
少量の水を出す、小さな火を点す、明かりをつける、等々。日常生活において道具があれば出来るけど、無くてもそれらが行えるようになるというちょっと便利だけど地味めの魔法系統。
その中でも『応急処置』は多少の血止めや軽い痛み止め程度の効果がある回復魔法になる。ちなみに一番習得が難しいのは身体や衣類等の汚れを落とす『洗浄』の魔法だと言われている。当然私は使えない。私が使えるのは『応急処置』と『灯り』だけだ。
……そんな事も思い出せないで居た?
違う。私は私だ、何も問題はない。頭を振る。
「『応急処置』」
……あ、痛みが楽になってきた。気の所為か、過去の記憶にあったそれよりも効き目がいいような気がする。
もうこれで痛くて眠れない、という事はなさそうだ。問題は寝ている時に魔物がよってきたら、死ぬかもしれないって事だけど。
こういう時は樹の上とかで寝るのがいいんだっけ? まあ、今は身体中痛いから無理だ。
今日は大きな樹の根元で小さく丸くなって寝る事にする。毛布を持ってきて良かった。魔物が出たらその時はその時だ。
結論から言えば、全身の痛みと不安感で碌に寝られなかった。