94.メガネ君、遅ればせながら挨拶に向かう
馬車を降りれば、山へ向かう街道の途中みたいだ。
左右には深い森があり、ハイディーガから山へ向かう一本道だけ存在している。
一ヵ月前、俺が山の反対側にある暗殺者の村からハイディーガへ移動したあの時は、安全な迂回路を選択した。だからこの辺は通っていない。
いつもなら、山の麓辺りになるこの辺は、やたら魔物が多い場所である。街道ではあるものの移動に適した道ではないと思う。
ちなみにリッセと狩りをしたのは、もっとハイディーガ寄りの街道だった。こんなに深い場所ではない。
どうやらここで先に来ていた人たちと合流したようで、人は多い。
今回一緒にやってきた騎士たち四人、「黒鳥」の三人とロロベルの四人、そして俺たち三人と。
そして先遣隊と思しき冒険者たちが十数名、ここで待っていたようだ。
「――」
「――」
主導権を――この集団のリーダーとなっている騎士たちと、先に来ていた冒険者たちが静かに話し合っている。
まだ彼方が少しだけ明るい早朝である。
陽も昇らない静かなこの時間、やはりできるだけ隠密裏に事を運んでいくつもりなのだろう。
あるいは大騒ぎしておびき寄せる、という手段もあると俺は思っていたが。強い魔物であるならこれで遭遇できることも多い。
だが、それはしない方針なのだろう。
それにしても――
辺りを見回すに、本当に魔物の数が少ない。
リッセと来た時は、びっくりするほどひしめいていたのに。
それに、動物も少ないな。
まあ元々動物にとっては外敵となる魔物が多い場所なので、そんなに数はいなかったけど。
「んじゃ俺らは街寄りの場所で待機してるからよ」
と、御者がロダに断り、護衛であろう冒険者数名と馬車が引き上げていく。見れば騎士と「黒鳥」を連れて先に到着した二台も、とっくに引き返していた。
長居したい場所ではないからだろう。
「――どうだ? わかるか?」
と、隣に立つロダが小声で話しかけてきた。
「あ、ごめん。今から探すよ」
そうだった。俺は黒皇狼を探すために連れて来られたんだ。
周囲の状況を見るより、そっちが先だ。
でも、少なくとも「暗視」――いや、厳密には「体熱視」という「生き物の体温を視る」限りでは、それらしい魔物の赤い光は見えない。
そう、俺が「暗視」と呼んでいた「獲物が赤く光って視える」という機能は、調べた結果、正確には「温度」を見分けているようだ。
周囲と動物・魔物の温度差や対比で、浮かび上がるようになる。
あまり細かくは「視えない」ので、火が多い場所なんかでは役立たずになるようだ。
湧いた風呂なんかもダメ。中に人が入っていても光が混ざってわからなくなる。あと人込みも全員が混ざって見えるのでダメだ。
やはり、人気が少ないところや、こういう狩場で使うのが有効なのだろう。
その「体熱視」で周囲を見た結果、それらしいものは見えない。
少なくとも俺の「視える」範囲にはいないようだ。
――じゃあ、ちょっと範囲を広げてみようかな。
登録してある「素養・遠鷹の目」を「メガネ」にセットし、改めて周囲を見る。
俺の意志に応え、レンズに一瞬だけ「遠鷹の目」という文字が浮かび、溶けて消えた。
これでセット完了だ。
「遠鷹の目」は、遠くを見るための「素養」である。
一時的にすごく目がよくなる、と思えばいい。
「体熱視」や「数字」などは、元々「メガネ」に備わった力である。
そして登録・セットは、「メガネ」の特性となる力である。
つまり、「適した素養」をセットした場合、「メガネ」に備わった力を助長することができるのだ。
――つまり「遠鷹の目」と「体熱視」を併せて、「遠くまで見える体熱視」を発動できる。
俺はいろんな「素養」を再現できるが、しかしこうしていちいち「メガネ」に「登録した素養」をセットしなければ、使用することができないのだ。
できることははるかに多いとは思うが。
だが、決して万能ではない。最強では決してないと思う。
改めて周囲を見ると…………あ、いた。「視えた」。あれだろ、たぶん。
「向こうにいる、かも」
「わかるのか?」
「それっぽいのがいる。正確に言うと『巨大な何かがいる』のがわかるだけで、黒皇狼かどうかはわからないけど」
そう、結構遠く……山の中腹くらいかな。そこに大きな赤い光が「視える」だけだから。
さすがに正体まではわからない。
だが、その周りには生き物がいないので、魔物たちはそいつを避けているのではないかと思う。
少々しゃべりすぎだが、ロダならたぶん俺が何をしているかわかっていると思う。「メガネで獲物が見える」、くらいにはおぼろげに解釈しているはずだ。
何せザントが、「俺の素養」を、わかっている範囲でそれくらいは考えていたからね。ザントからロダに報告もあったかもしれないし、ロダが普通に推測を立てているかもしれないし。
まあ、詳しく聞かれても話す気はないけど。
「――よし、ちょっと行ってくる」
と、ロダは話し込んでいる騎士たちの方へ行ってしまった。……全面的に俺の言葉を信じすぎじゃないですかね。
「あ、わかった」
ん?
ロダと逆隣にいたリッセが、俺に言った。
「『視える』んだね? 魔物が」
「……」
「……」
「…………」
「…………なんか言えよ。なんで真顔でじっとこっち見てんのよ。見るなよ」
「あ、ごめん。俺に言ってたの?」
「ほかにいないだろっ」
「ごめん。こいつ何言ってるんだろうとしか考えられなくて」
「え、どっちに向かって話……草に話しかけてるのか! わっかりづらいイジメだなぁ! 猫草はこっちだけどなぁ!」
イジメとは人聞きの悪い。話をするしない、したくない、無視したいという選択くらい俺にもさせてほしい。
……あっ。
「ほんとにごめんリッセ、俺もちょっと行ってくる」
「は? え?」
「――あんまりフラフラするなって。おい。ホルン。どこ行くのよ」
ふと見かけた「黒鳥」とロロベルたちの中から、ふらふらと姉ホルンが一人だけ離れるのを視認した。相変わらずふらふらしている姉である。
「――おーい。はぐれたら置いてくぞー。一人は寂しいぞー。一人で帰ってこれるのかー」
ここしかない。
間違いなくここだ。
ふらふら森に迷い込むホルンを追いかけようとする女性――アインリーセに、俺は声を掛けた。
「姉がすいません」
「お? ……あ、弟くん」
渋い顔をして姉を追っていたアインリーセは、俺を見て笑顔を浮かべた。「黒鳥」の住処で見た時と同じどこか気が抜けていて優しそうな顔だ。
「なんだよー。挨拶に来ないから忘れられたかと思ったよー」
忘れられるわけがない。
ある意味では暗殺者たちより礼を欠けない人たちだ。
「姉と絡むとちょっと面倒なことになりそうだと思って。隙を見て挨拶に来ました」
「あーそうね。わかるわー」
よかった。すぐ挨拶に行かなかったことを怒ってはいないようだ。
「この機にグロックさんにも挨拶を……と思ってたんですけど、やっぱりちょっと忙しそうですね」
恐らく、今回やってきた中ではリーダーとなっているのだろう無精ヒゲのグロックは、騎士たちに呼ばれてそっちへ行ってしまった。これからの行動の打ち合わせをするのだろう。
「空気もピリピリしてるしね。あんまりいい雰囲気じゃない」
そりゃこれから狩りだからね。それも気を抜けば命を奪われかねない大物狩りだ。緊張感が漲るのも当然だ。
ふらふらしている姉がおかしいんだ。……あの姉なんなんだよ。
「街に帰ったらご飯でも行こうよ。私たちはしばらくハイディーガに滞在することになるだろうから。今じゃなくていいよ」
あ、そうなのか。しばらく街にいるなら、あとでもいいかな。
「じゃあ、姉以外には挨拶に来たことだけ伝えてもらえますか?」
「りょーかい。お互い死なないようにがんばろうね」
この緊張感漲る場には不釣り合いな、ゆるーい空気を放つアインリーセは「じゃあね」と姉を追いかけて森へ消えていった。姉は……まあ、たぶん、何か食い物の匂いでも感じたのだろう。拾い食いは得意だったから。
それにしてもだ。
「……やっぱりか」
「黒鳥」の住処でちょっと見ただけなので、確証はなかったが。
手にあるタコなどから、もしかしたらこの人は弓を使うかもしれないと思っていたが、当たっていたようだ。
革鎧をまとう軽装のアインリーセの背中には、威力が出るだろう長弓が背負われていた。