88.メガネ君、冗談が人を傷つけることを語る
翌日には続報が入った。
「ロダから伝言だ。明日の早朝に出発するから朝迎えに行く、だってよ」
小汚いおっさん・ザントが、「道」を走っていた俺に通達した。
俺は今、訓練メニューがない。
「素養」関係の訓練をしてくれていたソリチカが終わりと言ったので、今日から特にすることがないのだ。だから朝からずっと自主的に走っていたわけだが。
「そっちは終わったの?」
「ああ。リッセなら先に上がったぜ」
ザントはいつも通りリッセの訓練をして、すでにボッコボコにし終えたらしい。このおっさん本当に強いからなぁ。しかも本職は剣士じゃないらしいから恐ろしい話だ。
それはともかく、だとすると今頃はもう夕方なのか。
この地下訓練室は時間がわからないのが不便だなぁ。
夢中で走っていたせいで失念していた。放っておかれていたら夜まで走っていたかもしれない。
「ふう……じゃあ俺も上がるね」
顔に浮かぶ汗を拭い、これからの予定を立てる。
狩猟準備はだいたい済んでいる。
一ヵ月前に白亜鳥と狩った時、準備はしたけどほとんど使わなかったものがそのまま残っているから。
今度の狩猟場所も近くの山だし、長くて二、三日くらいと見積もれば、保存食辺りはあまり必要ないかもしれない。
数日なら森の中で採れるもので凌げるし。可能なら明日の朝に調達してもいいと思う。
だから、強いてやることはないんだよね。
「気を付けていってこいよ」
もちろんだ。決して矢面には立たないように立ち回ろうと決めていますよ。前に出たら瞬殺されそうだし。
――おっと、そうだ。
『体力増強』を外しておかないと。
「あ」
お。
今日はしっかり身体を動かしたので、俺も訓練室から風呂に直行したところ。
風呂から出てきたところでリッセと鉢合わせた。
リッセとは生活サイクルは酷似しているけど、こういうのは意外と初めてなんだよな。
「今お風呂上がり? 晩ご飯は?」
そういえば晩飯は俺の担当だったか。まだ。
ソリチカとの訓練が終わった以上、俺の生活サイクルもまた変わる。が、その辺の交渉はしていないから。だからまだ夕飯作りは俺の仕事だ。
「帰ったら作るよ」
どうせ大した手間も掛けずに作っているのだ。パンを買って帰ってからすぐに作り始めても、そんなに時間は取らない。
「あ、そうだ。聞きたいことがあるんだけど」
ん?
「エイルってこの街のおいしいお店知ってる? 珍しいものでもいいんだけど」
おいしいお店?
「全然知らないけど、ジェラートはおいしかったよ」
というか、この街で食べたもので特別珍しいと言えば、唯一それしか知らないんだけど。
あとは肉ロールとか。
でもあれはおいしいお店じゃなくて、おいしい屋台だから別としておく。
「ジェラート? どんなの?」
説明できるほど詳しくはないので、簡潔に「氷の菓子だよ」と説明する。ついでに店も教える。すぐ近くの食堂だからね。
「へえ、なるほどね。ちょっと待ってて」
「わかった。先に帰るね」
「話を聞け。待てっつってんだ。いい? 絶対待ってろよ? 絶対だからね?」
絶対だぞー、と念を押しながら、リッセは女風呂に引き返していった。すごく帰りたいけど帰ったら必ず文句を言われるので、少しだけ待つことにする。
ソリチカは飯食ったかな。
明日の今頃は山の中かなぁ。それとも戻って来れてるかなぁ。
英雄ご用達の魔物・
…………
よし。これだけ待てば充分だろう。
すっとその場を離れようとしたら、奴が来た。
「あ、おい! こら! 待てっていったのにどこ行く!」
さっき消えた女風呂からリッセが戻ってきた。想像以上に速かったな。本当に「ちょっと待て」の言葉通り、待ち時間はちょっとだけだった。
「少し待ったからもういいかなって思って」
「待たせてないだろそんなに!」
それはその通りだと思うけど、そういう問題じゃない。
「なんかあるの? 一緒に帰る理由なんてないと思うんだけど。どうせ帰ってから会えるんだし、一緒に飯食うから話す時間もあるし」
「え? ……あ、そういえばそうね」
無自覚か。しかも用事はなしか。
……まあ確かに帰る場所が一緒なんだから、自然と一緒に帰ろうと思うのもわからなくはないが。
「でも明日の話をしたいなって思ってたから、ちょうどいいと思ったんだよね。準備するならもうこの時間しかないでしょ?」
明日の話? あれ、ちょっと待て。
「明日、何かあるの?」
「は? ロダの言ってた狩猟でしょ?」
「黒皇狼?」
「うん」
え、ほんとに待って。
「君も一緒に行くの?」
「あ、まだ話が通ってなかったんだね。
最初は予定になかったみたいだけど、大物狩りは滅多に見る機会がないからーってザントが説得してくれてね。絶対に手を出さないって約束で、私も同行していいってさ」
……あ、そうか。
リッセの場合は魔物に強い「素養」を持つから、将来的には魔物討伐方面の活動がメインになってきたりするのかもしれない。ロダもそんな感じみたいだしね。
ならば、珍しい魔物の討伐経験は何より得難いものとなる。ザントが推す理由もわかる。
よくよく考えれば、リッセは俺以上に黒皇狼狩りに参加するべき人材である。俺よりよっぽど得るものが大きいはずだ。
「なんだ一緒に行くのか……別々だと思ったのに……」
「なんでちょっと不満そうなの? ねえ、なんで?」
理由はともかくとして、すごくやる気が目減りした。理由はともかくとして。大してなかったやる気が露骨にすり減ったね。
風呂屋の前でだらだらとそんな話をしていると、さっきリッセが二回出てきた女風呂から、二人の女性が出てきた。
二人とも若い。二十超えているかどうか、くらいだろう。
足運びも気配も並々ならぬものを感じるので、恐らく冒険者。堅気ではなさそうだ。
すっかり暗くなった空に映える色白の女性と、暗闇に溶けるような鮮やかに焼けた肌の女性だ。
「あ、さっきの少女」
日焼けしている方が、気軽にリッセをそう呼んだ。
「ああ、さっきはどうも」
知り合いみたいだ。余計に先に帰っておけばよかった。
「あら」
色白の女性が俺を見た。
「もしや恋人と待ち合わせでしたか?」
「あ、これ? これは違――」
「――冗談はやめてください! うぐっ」
とんでもないことを言いだした白い女性に、俺は強く否定の意を示した。反射的にリッセに脇腹を殴られながら。
「なんでそんな強い拒否でしかもちょっと怒ってるんだよ! ただの冗談でしょ!」
脇腹の痛みを押してなお、俺は言葉を連ねた。
「冗談が人を傷つけることだってあるんだけど!! 痛いぃっ!」
ついにパチーンと顔を張られてしまった。くそっ、さすがは近接戦闘が得意な剣士だ。避けたくても避けられない速度だった。
「何が誰を傷つけた冗談だったのか言ってみろよ! つか初めて感情的なとこ見たのがコレってなんなの!? どういう意味!?」
更に食ってかかるリッセを、日焼け女性が「気持ちはわかるけど暴力はダメだよ」と抑えつける。
そして色白の女性が気まずそうな顔で俺を見た。
「申し訳ありません。どうやら気に障ることを言ってしまったようで……」
「本当だよ! 言っていいことと悪いことがあるよ!」
久しぶりだよこんなに怒りに染まったのは! 大抵のことは受け流せる自信はあるけど、まさかリッセと恋人だなんて言われるなんて思わなかったよ! 抑えがたい怒りが爆発したよ!
「だからそれはどういう意味よ! 離して! もう一発だけ殴りたい!」
――そんなこんなで、明日からの不安を煽るような不毛な時間は過ぎていく。