65.メガネ君、とにかく「道」を走る
「付いた!」「付いた!」
声は重なっていた。
壁に片手を付き、見つめ合う俺と彼女の顔は、すでに汗で濡れている。俺の汗は額を流れ、彼女の汗はこめかみを伝う。
正確に言えば誤差はあるのかもしれないが、決して明確ではない。
ならばどちらも「同じくらい」でしかない、というのがお互いの認識だ。
「随分ゆっくりだったな」
そして別格もいる。
どんぐりの背比べをしている俺たちのすぐ近くには、見上げるほどの大樹もあるのだ。
……ふう。
息を吐き、緊張で張り詰めていた身体から力を抜く。まだ疲れはあまりないが、少々腿や膝が痛い。まだまだ余計な力が入っている証拠、らしい。
「……なかなかやるじゃない」
彼女からそのセリフを聞くのは、二回目か。
だが、それは俺のセリフでもある。
ハイディーガでの訓練が始まって三日目。
この三日、俺とリッセは肩を並べて、ひたすら「道」を走っていた。
教官役に付いているザント曰く「ここを及第点で走れなければ次の段階に行けない」とのこと。
「道」は、長い長い通路に点在する足場だけ利用し、地面に足を付かずに走り抜ける訓練である。
単純な体力や筋力。
次の足場を選ぶ瞬間的な判断力。
更には、
根や土などの高低に足場が見づらい草むらなど、走るのに適さない森で走力を培った俺には割と簡単だが、難しいのは「速度を出す」という点だ。
どの足場を選べば早く進めるか。どの歩幅ならより速度が出るのか。
やればやるほど発見がある。非常に面白い。
それに、手本なら目の前にある。
「俺はまだ流してる程度だぜ? もっとがんばれよ若ぇの」
俺たちの訓練を見ているザントの早いこと早いこと。
見た目のアレさとは打って変わって、走っているというより滑っているかのようななめらかな動きで、同時に走り出してもあっという間に見えなくなってしまう。正直見た目の汚さからは想像もできないほどすごい。しかも汗だくになっている俺たちと対照的に、汗も疲労も全く見えない。
まあ、さすがはプロの暗殺者と言ったところか。
それに、リッセもなかなかすごい。
この「道」において……いや、広くは暗殺者候補生として競争相手なのだが、この訓練に関してははっきり決着がつかないことが多い。
今日だけでもう四回走っているが、やはり結果は同着である。
背格好も似ていれば、身体能力もほぼ同等なんじゃなかろうか。
最初こそ試しで、俺は速度を抑えてどんなものかを経験してみたが、それ以降の本気の勝負でははっきり明確な差がつかない。
微妙に早い遅いはあるが、そういうのはカウントしていないのだ。
桁違いに速いザントがいるから。
小さな差で決着がついても仕方ないって意識がお互いにあるようだ。
まあ、俺はそこまで勝敗にはこだわってないけど。でも競争相手がいた方が上達するだろうから意識はするようにしている。
「じゃあ俺は帰るからよ。あとは適当にやんな」
そして教官役は今日も程々で去る、と。
今日も俺とリッセは、ザントの定めた基準をクリアできなかったということだ。やれやれ。
「エイルって今まで何してたの?」
ザントは帰ったが、俺たちはまだまだ訓練である。
基本は自由である。
いつ始めていつ切り上げるかも自分で決めていいのだが……まあ、それも競争相手がいるからこそ有効なんだろう。自分はやってない間に相手がやっていたらと考えると、やっぱり焦るしね。
顔に浮いた汗を拭き、少し身体を休めている間に、リッセが話しかけてきた。
「狩人だよ」
「ん? 狩人? 鳥とかイノシシとかウサギとか狩る?」
「そう」
「冒険者ではないんだ?」
「そうだね」
今や狩人は少ない。冒険者に獲物も役割も奪われているから。
「ふうん……よくわかんないけど、それなりに鍛えてるんだ」
そうじゃないと狩人なんてやっていけないからね。
「…………」
「…………」
…………
「……私のことは聞かないの?」
「え? 別に」
「この流れなら聞くでしょ。君はどうなの、って」
「いや、あんまり興味ないから」
リッセが何者で、これまでどこで何してきたかなんて、知ったって仕方ないし。知りたいともそんなに思わないし。知らない方が面倒がなさそうだし。
「――やっぱ気に入らないわ、あんた」
睨まれた。そう言われてもなぁ。
「言っとくけど、私は――」
「そろそろ次行こうか」
「聞けよ!!」
「行ってきまーす」
「待てよ!! 私も走るよ!!」
計十四本を走り、体力の限界を迎えた。
スタート地点である出入口ドア付近から走り、果てが見えない向こう側の壁に手を付き、戻ってきて一回である。片道だけでも結構な距離があるんだよなぁ。
最期の二本は、疲労によるミスで足場を踏み外したり転んだりし、二人してボロボロになった。もう勝負どころじゃないのでここらで切り上げることとなった。
訓練場を後にし、いったん家に帰って着替えを持って引き返す。
今度の目的は風呂である。
本当に体力が尽きた。湯船で寝落ちしそうになるほどだ。これほど疲れたのは狩人に弟子入りした頃以来だ。
ここ三日は、いつもこんなんである。
本格的に寝そうになったので風呂から上がり、前に「ジェラート」を食べた食堂で一番安い食事を頼んで腹に詰めておく。
もう少し体力に余裕があれば自分で作るんだけどな。リッセと住んでいるあの家には台所もちゃんとあるのだ。
今はまだお金があるからいいけど、外食ばかりしていたらすぐになくなってしまうだろう。
…………
今は仕方ないと割り切ろう。
ここ連日、本当に食べながら寝てしまいそうなくらい疲れ切っている。他のことができる体力がない。
味わう余裕さえなく食べきると、食堂を出てまっすぐ家に帰った。
うーん……もうしばらくはこんな生活になるんだろうな。
ザントの及第点を取るのは、いつになるやら……