64.メガネ君、訓練を開始する
簡単な面通しが終わると、「あとはザントに任せる」とロダは椅子を立った。
「リッセ、エイル。君たちはしばらくあいつから教わるように。今後は命令がなければ互いの接触はなしだ。どこかで俺に会っても知らん顔して素通りしろよ」
どうやらここにいる三人は、表では知り合いであることを伏せているようだ。
そして今日からは、俺もそれに含まれるわけか。
ロダが部屋を出ていき……気が付けば幽霊みたいな女性も忽然と消えていた。果たして本当に実在する人だったのだろうかと、疑いたくなるほどの忽然感だった。
まあ、極力気にしないようにしよう。……できるかな。何気に夢に出て来そうなくらい不気味な姿が脳裏に焼き付いてるんだけど。
「じゃあ、しばらくは俺が面倒見るからよ」
ロダと幽霊みたいな女性が去り、残ったのは、いわゆる教官役であろうザントと、生徒である俺とリッセの三人である。
「リッセは先に行っていつも通りやってろ。坊主、おまえの荷物は? 住むところを世話してやるから持ってこい」
あ、そう。住むところ用意してくれるのか。
昨夜、一日分の宿代を追加で払ったので今日一晩が無駄になるが、この場合は仕方ないだろう。返金は……一応聞いてみるけど、返ってくるかな?
一旦それで解散となり、俺は外に出て宿に戻ることになった。
危惧しつつも半分諦めてもいた返金要請は、まだ朝ということもあり応じてくれた。一日分の宿代を返してもらい、荷物を持って再び商店街に戻ってきた。
「おう。こっちだ」
あのガラクタ屋の店内にいたザントに案内され、すぐ近くの小さな一軒家に連れていかれた。
「ここは俺たちが利用する隠れ家の一つだ。今住んでるのはリッセだけで、今日からはおまえも利用することになる」
ほう。
「ここにリッセと住むの?」
「襲うなよ。二人暮らしにはなるが、見張りも見回りもちゃんといる。見てるからな」
「俺が襲われた場合は?」
「あぁ? 男が女に襲われてどうすんだ」
そういう偏見や固定概念は、ことごとく姉に壊されてきたよね。女性はか弱い、女性は男性が守らなければならない、女性だけのティータイムは絶対に必要、とか。
「俺、同年代から少し年上の女はあまり信じてないから」
色々と特殊な姉のせいで、警戒せざるを得なくなってしまった。もう理屈じゃなくて性分だ、骨身に刻み込まれている。
女を信用するな。
あの姉と同じ種類の生き物だぞ、と。
姉、忌子でもなかったし。
そうなると普通の女性が姉と同じ種類となるわけだし。
そう考えると、最近知り合った女性で唯一年下だったフロランタンだけは、俺の中ではちょっとだけ扱いや印象は違っていたかもしれない。姉と違って割としっかりもしていたし。俺にしては構っていた方だと思う。
「はあ、そうかい。モテそうなのにもったいねえな」
ザントは半ば呆れたように言うけど、俺にとっては割と切実な問題なんだけどな。十三年もあの姉の弟として一緒にいたんだから。
それはもういろんなことがあり、いろんなことに巻き込まれたのだ。本当にいろんなことに。悪いことも嫌なことも逃げだしたこともいっぱいあった。
まあ、強いて今思い出す必要もないけど。
「とにかく家は任せる。
食料だのなんだのは自分たちで用意しろよ。俺たちは基本接触はできないからな。どう生活するかはリッセと相談して決めろよ。
よし、じゃあ、とっとと荷物を置いてこい。
次は訓練場に案内する。リッセが先に向かってるはずだ」
次にザントが連れてきたのは、……あれ?
「狩猟ギルド跡地?」
そう、ここは昨日利用した大浴場ゲルツの湯である。利用時間の看板を見れば、昼からの営業なので今はまだ準備中のようだ。
「ガワはこの通りだが、訓練施設は残ってんだ。地下にな」
ザントは大浴場の横手に回り、「関係者以外立ち入り禁止」とプレートが張られた従業員用のドアを、カギで開けて敷地内に中に入った。
壁の向こうには、風呂の準備だのなんだので忙しそうにしている従業員たちがいた。誰も見向きもしないので、従業員も関係者なんだろう。
彼らを横目に、ザントは中庭の壁際を行き、小さな納屋のような建物に入り――掃除道具などが置かれる奥、ひっそりと存在する床下へ続く扉を開いた。
階段を降り、地下に向かうと……施設はあった。
だだっ広い石造りの大部屋に、用途がわかるものやわからないものや様々な器具がある。
木造りの人形には人間の急所に赤印が付けられていたり、何かの試し斬り用に立てかけてある革はボロボロで。
かと思えばティーセットや本棚と言った、およそここには相応しくないような文化的なものもあったりと、統一性がない。
いや、統一性はあるのか。
誰かを殺すための訓練をする施設なんだから。
俺たちがやってきた階段以外にも、どこかへ通じるドアがいくつか見える。この部屋だけでも広いのに、全貌はもっと広そうだ。
「リッセは……『道』の方か」
見渡す限り、先に来ているはずのリッセの姿はなかった。
「みち?」
「道なき道を走る技術を磨く場所だ。通称『道』って呼んでる」
へえ。
ザントのあとをついていくと、一つのドアを開けた。
風が吹き込み、髪を揺らした。
「ここだ」
ザントが横にずれて、俺にそれを見せてくれた。
うん……まあ、なんというか、確かに「道」である。
正確には、石造りの地下通路だ。壁に光が点々と輝き、地下であっても結構な明るさがある。
通路は果てしなく、奥が見えないほど深く続いている。
気になるのは、その通路に設置してあるいろんなものだ。杭だったり石だったり何かの置物だったり、杭同士でつないだロープだったり。壁にも石やら何やら埋め込んである。
「やってみるか? 地面に足を付かずに奥まで行くんだ」
あ、なるほど。足場の悪い場所で走り抜ける技術を鍛える場所か。で、リッセは今奥の方にいると。
「これで強くなれる?」
「わからん」
おい。はっきり言ったな。俺は強くなるためにここにいるんだけど。時間が限られている以上、無駄なことはしたくないんだけど。
「だが――」
ザントはひょいと、手近にある杭に飛び乗った。片足の先くらいしかない細い足場で、しかし片足で立つザントは非常に安定している。
「こりゃ暗殺者の基本技術の初歩の初歩だ。ここをクリアできないようじゃ、うちでは門前払いもいいとこなんだけどな?」
ニヤリと笑うと、ザントは身軽に……いや、まるで羽毛のような軽い動きで、ひょいひょいと足場を渡って先へ行ってしまった。
驚いた。
速いのも驚いたが、あの体重移動のなめらかさはなんだ。あの重さを感じさせない動きはなんだ。人はあそこまで肉体を極めることができるのか。
動物よりも身軽で、鳥よりも静かに、虫よりも存在感がなく。
しかしその正体は人間で、暗殺者である。
師匠の見た目によらず軽い身のこなしにはたくさん驚かされてきたが、事ここに至って、師匠以上のそれを見てしまった。見せつけられてしまった。
――来てよかった。
暗殺者育成学校がどうこうと、いろんなたらい回しをさせられてきた気がするが。
ようやく、俺はここで学びたいと、本気で思った。