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58.メガネ君、ハイディーガに到着するその前に





 ――ある街に行け。そこの暗殺者ギルドを訪ねろ。


 そう言われて暗殺者の村を追い出されたのは、二日前の夜である。


 休憩や休息もそこそこにがんばって走ってきた甲斐があり、ようやく遠くにそれらしい街が見えてきたのは、三日目の夜だった。


 御者のおっさんが指示した街は、ハイディーガという場所である。


 規模はそれなりだが、例の危険な山に少し近いとあって、腕試しやランクを上げるため

によく冒険者が出入りしているそうだ。


 このハイディーガだが、あの暗殺者の村と、山を挟んでほぼ真向かいにある。

 山を突っ切れば一日以上は短縮できるとおっさんは言っていたが、俺はしっかり迂回して比較的安全な道をやってきた。あの山は俺には早い。あそこで夜を過ごせる気もしない。


 街が見えてきたところで、俺は最後の休憩として火を起こした。

 急いだところで、もう到着は夜中になる。

 どうせ焦っても大して変わらない。腹も減っていたし、少しだけ身体を休めることにした。


 都合三日は走ってきた。さすがに疲れた。

 飯を食って身体を休めたら、ラストスパートだ。宿を取って明日半日はしっかり寝ようと思う。


 ――それに、そろそろ決着を付けなければいけない。





 林、と呼ぶにはスカスカな印象がある林の開けた場所で、俺と同じくらい高い岩を背にして座り込む。

 火を起こし、干し肉と残った野草を入れてスープを作ることにした。野宿はここまでなので、これ以上はもたない保存食はここで使い切るつもりだ。


 塩分は、干し肉に使っているので不要。

 そして今日は、今日こそ、今晩こそ、今こそ、ここに、このスープに、ちょっと珍しくて値が張る餞別の調味料を――


 …………


「――ダメだっ」


 俺にしては声を張った方だと思う。


 意志なのか本能なのか欲望なのか、あるいは好奇心だったりするのかもしれない「調味料を入れる」というただそれだけの行為を、紛れもない俺の理性が止めたのだ。


 この短い旅の間、何度調味料を入れようとしたか。

 何度使ってみようと思ったことか。

 何度いつものおいしい肉を、一風変わったおいしい肉にしたいと願ったことか。


 しかし、いざとなると、躊躇する。激しく躊躇する。


 においが……だってにおいが、もう、完全に腐っているにおいが……!


 姉じゃない。俺は姉じゃないんだ。


 「腐っても肉だ」なんて言いながら平気で腐った肉を口に運ぶことなんてできないんだ。両手に鷲掴みにして食べておえってして「これは無理!」とわかり切ったことを言いながら号泣する姉じゃないんだ。肉を吐くという行為に恥を知り震えて泣く姉じゃないんだ。最初からわかりきっていることを試すような真似はしたくないんだ。腐った肉は食料じゃないんだ。腐った肉は人間は食べられないんだ。


 サッシュは、匂いはアレだが食べられたと言っていた。

 ならばギリギリ大丈夫なのかもしれない。


 しかしこの匂いは、完全に腐だ。新鮮味が一切感じられない、いわば手遅れの匂いだ。


 これを腹に入れたら、きっと俺は腹を壊すだろう。

 だが、もしかしたら匂いだけはアレだが、味は……味と安全面だけは無事なのでは?


 ――こんな葛藤を、旅の間中ずっとしていた。


 答えは、口に入れてみなければわからない。

 だがそれをするリスクを考えると、どうしても理性が賛同しない。


 ……そもそも、元は、俺が初めてサッシュに見せてもらって料理に使った時は、ややとろみのある液体だったのだ。

 なのに今は、とろみというか、…………ねばり気があるんだよな。危険な糸を引いてるんだよな。


 …………


 よし。決めた。


 やめとこう。俺は姉じゃないから。


 姉は子供の頃から特別な訓練でも受けているのかってくらい頑丈な身体をしていたが、俺はいたって健康なだけの普通の人間だ。

 腹を壊すくらいならまだいいが、普通の人間では死ぬかもしれない。さすがにこの死因は嫌だ。腐ったもの身体に入れて死にました、じゃそれこそ姉より強烈なエピソードだ。命懸けでそんなネタを仕込みたくはない。


「ごめん、サッシュ」


 小ビンの中の、かつては調味料だったねばる液体は、軽く掘った地面に埋めておいた。

 せっかくの餞別だったが、さすがにしょうがない。


 …………


 冷静に考えると、あいつ自分で捨てるのは勿体なさすぎてできないから、俺に処理を押し付けるつもりで渡したんじゃなかろうか?


 ……いや、さすがに考えすぎかな。





 ねばる調味料は片づけた。

 次はこいつだ。


「……本当に見るからに……」


 邪悪。

 邪悪そのものが具現化しているとしか思えない形だ。


 これまた冷静に考えるとなぜこれを渡したのかわからないのだが、フロランタンに貰った可愛い邪神像は、残念ながらまだこの世に存在している。


 なぜなら、何度捨てようとしても、破壊しようとしても、火に放り込もうとしても、手が止まってしまうから。


 フロランタンが一生懸命彫っていた姿を何度も見ているからだ。

 真剣に、本当に真剣に彫っていたのを知っているからだ。

 決して邪悪なるモノを降ろそうとしていたわけではないし、邪悪なるモノを作ろうとしていたわけでもないから。


 まさに、心を込めて彫ったものだから。

 ちょっと完成したブツが邪悪すぎて、どんな心を込めたのか邪推してしまうけれど。この世を呪いながら彫ったんじゃなかろうかと思ってしまいそうになるが。


 本当に参ったな……どうすりゃいいんだこれ。


 彼女には悪いが、本気ですぐ捨てるつもりだったのに、ずっとそれができないでいる。こうしてまだ持っているのだ。不吉の象徴みたいなモノを。手放せないままに。


 溜息が出る。

 邪神像を見つめる。


 ……邪悪だな。ようやく見慣れてきた気がするけど、どう見ても邪悪――ん?


 俺は邪神像を背負い袋に突っ込むと、腰を上げて岩の上に昇った。


 岩の上にしゃがみ、林っぽくない林の奥に、意識を尖らせる。


「……誰か戦ってる? いや」


 こっちに逃げてきている、か?





 気配を探る。

 三人ほどの人間が大きい魔物に追われているっぽい感じである。


 まだ遠いが、林の中をこちらに……ハイディーガ方面に逃げているようだ。


 たぶん追われているのは冒険者だろう。

 一般人にしては、強者の気配がするから。


 となると、アレか。

 手出し無用になるのか。


 冒険者の戦闘には手を出しちゃいけないとかいう、獲物を横取りしたら怒られる的なルールがあるんだったよな。

 いつだったかアルバト村の近くで、というか俺と師匠がよく行く狩場で冒険者が戦闘をしている姿を見ることがあった。その時に「手を出すな」と師匠に教えられた。


 確か、向こうが助けを求めるまで、手を出しちゃダメだって――


「――助けてぇぇぇーー! 誰かーーー!」


「――しっ、死ぬぅ! 死ぬぅぅぅぅーーーー!」


 何か喚いているなーとは思っていたが、さっきまではっきり聞こえなかった。

 でも、こちら側に逃げつつ喚くならば、それはいつか意味ある言葉として聞こえてしまうというもので。


 …………


 仕方ない。行くか。






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