01.アルバト村のエイル
物心付いた歳は四歳。
大人同伴での森の散策で、一人だけポツーンと置いていかれた時だ。
あの時、確かに俺は思った。
俺はこのままじゃ死ぬ、と。
それが、思い出せる限りでは、一番古い記憶だった。
夜中、遠くに聞こえた狼の遠吠えや、森がざわめく音の怖さを思い出して震えた。
そして今、その恐怖のど真ん中にいることを考え、死を予感した。
子供心に思ったのは、自力で家に帰るしかないということだ。
頼れる大人も年上の子供も、周囲には誰もいない。自分しかいない。自分でなんとかしなければいけない。
それだけはちゃんと理解できた。
その時に学んだのは、「息をひそめ、獣に見つからず動き、手掛かりを探す」ということ。
泣きたくて仕方なかったが、我慢した。
まあ実際は、声を殺して少しだけ泣くだけに留めた。ほんとに少しだけだ。
若干目から汗を流しつつ、冷静に、冷静に、来た道を戻ることを考えた。
村までは、そんなに遠くはない。
何せ自分の足で歩いて付いてきたのだから。
地面を見ても足跡は残っていない。
だが、ちょっとだけ、草が倒れている部分がある。
たぶんこれが、俺たちが来た痕跡。
そう確信し、俺はそれを辿って、自力で家に帰ったのだ。
あとから思えば、そこは村の近くの林だった。森でもなんでもない。人を襲う獣もいない。四歳にはそう見えただけだったけど。
――なお、引率していた大人や一緒に行った子供たちは、俺がいなかったことも、森に置いてきたことも、誰も気づいていなかった。
元々目立つ方じゃなかった。
というか、相当大人しい子供だった。
気が付いたらそこにいたとか、存在感がないとか、いるなら声を掛けろとか、頻繁に言われて育った。
森での一件があってからは、もしまた同じような境遇に直面した時に備え、常に「外敵に見つからないように」という不思議な意識が生まれていた。
その外敵とは、友達と一緒に大人にイタズラしたあとの脱出であったり、ガキ大将だった姉からの逃亡であったり、嫌いな野菜を持って追いかけてくる母親からの逃走であったりした。
存在感がないのではなく、わざと存在感を消すように。
誰にも気づかれないのではなく、わざと足音を消すように。
こうして俺は、「影が薄い子供」になった。
それからは何事もなく過ごしたが、事件は十歳の頃に起こった。
俺が生まれた村は、人も少なく貧しかったので、子供もある程度の労働源と考えられていた。
九歳を過ぎた俺も、そろそろ……という話になった。
姉なんかはもうバリバリ畑を耕しては空いた時間で遊び回るという、俺とは正反対に、ただただ目立って活発で元気しかないという感じだったけど。
しかし、ここで思いがけない横槍が入った。
同じ村に住む、狩人のおっさん・ベクトである。
両親は畑仕事などを手伝わせたかったみたいだが、俺は村に住んでいる狩人の下で働くことになった。
というのも、俺の影の薄さ……いや、わざといろんなものから隠れようしている俺に気づいたベクトが、その習性を見込んだからだ。
獲物に忍び寄る技術。
獲物に気取られない技術。
そういうのは狩人向きなんだそうで、ぜひ弟子に欲しいと両親を説得したのだ。
俺の意思?
俺は、滅多に食えない動物の肉が頻繁に食えそうだったから、即答で賛成したけど。狩人になりたいっつーより肉を食いたかった。動機は肉だ。
ベクトの目論見通り、俺はあっという間に狩人としての才能を開花し、弟子入りして三日目には子供用の短弓でウサギや鳥を狩っていた。
めくるめく肉祭りの始まりだった。
両親も、異常に活発な姉も、貧相な食卓にちょくちょく並ぶようになった肉に喜んだ。
もちろん俺も喜んだ。
「いやっほぉぉーーーーー!! 肉だ肉だぁーーーーー!!」
一見姉の浮かれっぷりに誰もが引くほど驚くかもしれないが、俺が一番喜んだ。誰よりも喜んだ。表に出さないだけでしっかり喜んでいた。
事件が起こったのは、弟子入りから約一年後のこと。
狩人という仕事は、危険と隣り合わせである。
「あっ」
獲物を求めて一緒に森を進んでいた、狩人ベクトが屁をこいた。それはもう盛大にこいた。近くの木で翼を休めていた小鳥が逃げるほどの爆発的な轟音だった。
まあ、生理現象だ。仕方ない。
出るものは出るってのは子供にだってわかる。
だが、考えてほしい。
大の大人と、子供の身長を。
そうだ。
直撃である。
師のあとを追っていた弟子の顔に、猛毒ガスが直撃である。
「うっ、くせっ――あっ……うわぁぁぁぁぁ!!」
退避しようと飛び退った俺の足の下には、何もなかった。
そう、逃げようとした場所に、地面がなかったのだ。
だって横は鋭角な斜面だったから。
枯れ葉の上を滑り、木々にぶつかり、転げ落ちた。それはもう派手に落ちた。
――俺の記憶はここで途切れているのだが。
後から聞いた話では、頭を打ったようで丸一日ほど意識が戻らず、生死の境をさまよったらしい。
「すまねえ! 俺の屁が殺そうとしてすまねえ!」
師匠である狩人ベクトには泣いて謝られた。
俺は、「あれは俺の失敗だ」と答えた。
横が斜面になっていたのは知っていた。そういうところを、師匠を追って足音を殺して歩いていた。
唐突に、この世に解き放たれた轟音と毒ガスが顔面を襲って、思わずそっちに逃げてしまった、俺の失敗だ。
だが。
俺の本心としては、屁をこいたことより、屁の直撃と臭さを謝ってほしかった。
いや、臭いは本人にもどうにもならないかもしれない。
だが、とにかく直撃は絶対にわざとだ。故意だ。ベクトはそういうオヤジだ。子供をからかうのが好きなおっさんだ。だから絶対に俺の顔面を狙っての攻撃だったに違いない。
いい歳した大人が泣くほど謝っている姿を見て、そんな本心は言えなかったけど。
こうして、俺の事件が終わった。
――ただ一つだけ問題が残ってしまった。
頭をぶつけたせいだろうか。
それとも、その時に目を傷つけたのか。
この事件から、俺は、少しだけ目が悪くなった。
近くの物はちゃんと見えるが、遠くの物は、前より見えない。前は見えていたものがぼんやりとしか見えなくなったのだ。
まあ、大した問題じゃないから、別にいいけど。
俺、アルバト村の狩人見習いエイルは、十五歳となり、選定の日を迎える。
そして「メガネ」という、よくわからない「素質」を得た。
よくはわからないが、単純に考えると、だ。
屁で死にかけた事件から目が悪くなった俺には、どこまでもありがたい力である、かもしれないということだ。
都会には「メガネ」という視力矯正機があり、貧しい村の貧しい家の貧しい子供には、都会への道のりと同じくらい遠い代物だった。
もしそれが、読んで字のごとくそのまま「メガネ」のことだとしたら。
「……メガネ?」
選定の水晶から手を放し、触れていた手を眺め、呟く。
すると――
身体の中から力がごっそり抜けた、と同時に、手のひらには不思議なモノが生まれていた。
――感覚でわかる。
――今ごっそり抜けた力が、これに宿っている。
そういえば、旅の商人が、これにそっくりなものを顔に着けているのを見たことがある。面倒だったから何かは聞かなかったが。
だが、あれがきっと、「メガネ」だったのだろう。
だとすると、俺の手に生まれた「これ」の使い方は――
「……おっ」
耳に掛ける二本のツル。
両目のすぐ前に設置された透き通ったガラス。
そして、ガラス越に見えるのは、明るい世界だ。
これまでぼんやりと曇っていた景色が、世界が、ガラスを通して鮮明に見える。
「ぶ、物理召喚だと……!?」
「え!? これ物理召喚か!? メガネだろ!?」
兵士たちが戸惑い、それが村に伝播する。
メガネ、メガネ、と、誰もが疑問符を浮かべて戸惑っている。
明るくくっきりはっきり見える周囲を見ながら、納得する。
そうか、俺は「メガネを作り出すことができる素養」があったのか。
…………
なんだそれ。
なんの意味があるんだ。
まあ、俺に「メガネ」は必要だから、歓迎はするけど。
物理召喚。
「魔術の素養」を必要とする、魔術の一種だ。文字通り物質的な何かを生み出す、作り出す力である。
選定の儀式で言えば、当たりだ。
物理召喚は「魔術の素質」であるから。
ただ、問題は、物理召喚できる物が「メガネ」という、使い道があまりにも限られているという物、という点だ。
兵士たちも、村長も、村の人たちも。
たとえば「小さなナイフ」だとか、単純に「火を出せる」とかなら、普通に湧いたと思う。
この何もないど田舎に魔術師の卵が生まれたと、素直に歓迎できただろう。姉・ホルンの時のように。
だが、「メガネ」である。
俺の「素養」は「メガネ」である。
もっと具体的に言うと、メガネを生み出す魔術師の誕生である。
戸惑うのも無理はないと思う。
たぶん、単純に喜んでいるのは、「メガネ」を必要としていた俺だけなんだろう。
微妙な力?
とんでもない。
俺には何よりも欲していたものだ。
一見冷静に見えるかもしれないが、俺は近年なかったほど、とんでもなく喜んでいた。初めてウサギを狩った時くらい喜んでいた。自分で仕留めたウサギを食ってうまかった時と同じくらい感動もしていた。本当にしていた。
これさえあれば、中距離から長距離でも、獲物を狙えるようになる。
もう、はっきり見える距離まで獲物に近づかなくてもよくなる。
今までより、狩りは効率化される。
――村は微妙な空気で、喜んでいいのかしょぼい魔術師の誕生と笑いのネタにしていいものか、戸惑いの霧は晴れなかったようだけど。
でも、俺は喜んでいた。
傍から見ると、そうは見えなかったかもしれないけど。