第八話 会社設立
「―――会社を興したい?……それは……また随分唐突なお話ですね……」
いつものように、サロンで夕食後のお茶を嗜むタイミングを見計らって、ヴィヴィアンは切り出した。全く想定外の妻の申し出に、大抵の話題を笑顔で聞いてくれるクリストファーとは言え、驚きを隠せなかったようだ。
女性の地位の低いこのブラン聖王国では、基本的に女性単独で新たな会社を設立することは出来ない。そもそも、学問すら制限されている女性が、自らビジネスをするという発想すら一般的に考えられていないのである。そういった意味では、このヴィヴィアンの申し出はかなり突飛かつ非常識なものだった。
面食らっているクリストファーだが、しかし興味は引かれているのか、いつになく真剣な鋭い眼差しでヴィヴィアンの次の発言を待っている。
「ええ……実は、随分前から考えて、学んではいたのです。現在お父様の会社も含め、この国にある企業の取り扱うものは贅沢品や男性向けの嗜好品が多くて、女性が必要としているものを商材にしている会社は少ないように思います」
ヴィヴィアンは思い切って切り出した。ここがかねてからの【計画】の最初の関門だ。
「女性に必要なもの?」
「ええ。単刀直入に言えば女性のための衛生用品です」
「えっ………えいせいようひん……!?」
一度あっけにとられたように、ぽかんと口を開けた後、ボッと瞬間的に火が付いたようにクリストファーの顔が赤くなった。
「ご覧下さい」
そう言うと、ヴィヴィアンはシェルナに用意させていた布包みを受け取り、おもむろにテーブルに広げた。
巻かれていた布の上に、いくつもの小さな布片が広がった。広げられたそれらを見て、クリストファーが目を大きく見開いた。
「今実際に世の女性達が使っている生理用のあて布ですわ。これが私が使っている物、こちらが貴族階級の女性が使っている平均的な品質の物、そして被支配階級の女性達が使っているものです。ああ、直接中に詰めるものを使う女性もいますわね」
「っっっ!?!?!?」
一つ一つを指さしながらヴィヴィアンは説明する。通常なら絶対に男性の目には触れないそれらを広げられ、クリストファーは石のように固まった。だがヴィヴィアンはおかまいなしに説明を続けた。
「ほら、よくご覧になって。使っている布も、その縫製もばらばらで品質も大きく差がありますでしょう?貴族も含め、ほとんどの家庭でこれらは独自に作成しています。当然ですわ、売っている場所がないんですもの。ほとんどの女性が、元は別の目的に使われていた古布を自分で縫って使っているんです。ですが!」
ばん、とテーブルを両手で叩き、テーブルを挟んで向かいのソファに座っているクリストファーにヴィヴィアンはずい、と顔を近付けた。反射的にクリストファーの背がしゃんっ、と伸びた。
「ご存じですか?こういった使い古しの不衛生な布を使っていることで、多くの女性が感染症や生理不順、生理時の不快感に悩まされていることを」
「は!?……あ、あの……!……ええ!?」
クリストファーはすっかりヴィヴィアンの気迫に呑まれて、言葉を失っている。
「時にそれは命を落とす危険性すらあるのに、世の女性達は選択の余地なくこれらを使い続けているんですわ。なぜなら、女性のそういった生理的な話をすることはこの国ではタブーですもの。どこにも専用の商品は売っていない、生理用品を作るための新しい清潔な布を買うことすらままならない。それに、品質が確保されていないものは女性のためのものだけじゃありません。新生児のためのお洋服やおくるみもそうです。今までそういったものも、生理用品同様、各家庭に判断が委ねられて来ましたわ。私はそういった暗黙のうちに無視されている重大な問題を改善したいのです!」
あまりのことにクリストファーは相変わらずぽかん、と大口を開けたままだ。ヴィヴィアンはここが正念場、とばかりにクリストファーの隣に回り込み、顔をさらに彼に近付け、見つめる瞳に力を込めた。
「それを公爵家に嫁いだ私が率先して発信していくことで、当たり前にタブー視されていた女性の生理に対しての世の中の認識は、少しずつでも変わるはずですわ!私の名前で会社を興し、清潔で品質の安定した衛生用品を製作し、流通させて行きたいのです!」
「な、なるほど……で、でもそれならお父上が我が国でも屈指の大商会を経営されているのですから、お父上に商品として扱って頂ければいいのでは……?」
幾分頭が回って来たのか、クリストファーは口ごもりながらも、尤もな意見を口にした。クリストファーの言葉に、ヴィヴィアンは思い切り悲しみを湛えた表情で、俯いた。
「……父は、昔ながらの頭の固い人間ですから女の私が商売に興味を示したり、口を挟んだりすることは許さないでしょう。ですから、クリストファー様にお願いしているのです。……無理を言っていることは、重々承知の上です、でも、信頼できる夫のあなたにしかこんなこと相談できませんもの……どうか、設立のためにクリストファー様のお名前を貸して頂きたいのです。最初の設立金は、私の持参金で賄います。なるべく商品は一般にも流通するように価格を抑え、身分に関係なく販売して行くつもりです。それに、利益を出すことが第一の目的ではありませんので、必要以上に利益が出るようなら、それを救護院や孤児院に寄付したいと考えています。私はただ、この国の女性達が、安心して生活し子育てが出来るような環境を整えたいのです。……いつか……」
そこまで一気に捲し立て、あえてヴィヴィアンは言葉を切った。そしてうっすらと頬を染め、恥ずかしそうに睫毛を伏せ、
「……いつか、私もクリストファー様とのお子を授かるのですし……」
と言葉を繋げた。
ヴィヴィアンはクリストファーの反応を待った。
ここで彼の口から一般的な貴族の男と同じように、女が会社を経営するなんて非常識だ、女物の生理的な商品を扱うなんて恥知らずだ、などという意見が出るようなら残念ながら夫選びは半分失敗したも同然だ。また新たなアプローチを考えなければならない。下手をしたら夫選びからやり直す必要もあるかもしれない、とヴィヴィアンは冷静に分析した。
しばし、無言の時間が続いた。
そして―――。
「……あ、あなたの信念は分かりました、ヴィヴィアン。ぼ、僕は商売のことは何一つ分かりませんが、慈善活動の一環としての会社設立なら、良いと思います。どうぞ、僕の名義でも、僕の所有財産でも好きに使って下さい」
という、クリストファーの動揺しながらも、しっかりと決意を秘めた声が沈黙を破った。
「クリストファー様!!」
ヴィヴィアンがクリストファーに改めて視線を向けると、彼は手の甲で口元を押さえ、俯いていた。その顔は耳まで赤く、照れている。どうやら、将来の子供の話が効いたようだ。
「ああ……嬉しい……ありがとうございます、クリストファー様!」
ヴィヴィアンは会心の微笑みを作り、クリストファーの胸に飛び込んだ。「わっ」と短い悲鳴を上げて、クリストファーはヴィヴィアンを抱き留める。だがその表情は満更でもない様子だ。
恐々とした様子ながらも、クリストファーはまるで壊れ物を扱うかのように大事そうにヴィヴィアンの背に両腕を回した。耳をあてたその胸から、彼の速い鼓動が伝わって来る。
クリストファーの腕に抱かれながら、ヴィヴィアンはふっと口元に笑みを結んだ。
来るはずもない将来の話をした自分に、何とも言えない可笑しさが込み上げた。
ああ―――なんて、罪深い。ずる賢く性悪な女なのだろう。
こんな自分は早く地獄に落ちてしまえ。
―――クロイツ家に嫁いで半年余り、ヴィヴィアンは初めて自分が生まれ育ったバートリー家の屋敷に里帰りしていた。
バートリー家の使用人達は皆お嬢様の急な帰宅を驚いていた。ヴィヴィアンもまるで突然思いつき、訪問したのだという風に装っていた。
実はこのタイミングを見計らったのには訳があった。
父、ヴィクトールは以前から数ヶ月に一度の割合で1週間から10日ほど屋敷を留守にする時期がある。その周期を長年注意深く観察していたヴィヴィアンは、今のこの時期がそのタイミングであることを熟知していたのだ。
今回の訪問の目的は主に2つ。
新会社設立のための参考にするため、父ヴィクトールの経営するクリムゾン商会の帳簿や取引録を参照すること。そして、その過去のあらを見つけることだ。
「……やっぱり普通の取引履歴しかここには置いていないわね……」
保管されている年度別に綴じられた取引録をパラパラめくりながら、ヴィヴィアンは呟いた。
幼少時に読んでいた童話の本を探したい、という適当な名目をつけて執事に書斎の鍵を借りてヴィヴィアンはシェルナと二人、バートリー家の書斎に籠っていた。
会社経営のための知識や、経理書類の読み方はかねてからベンジャミンに指南を受けていた。そのために会社設立に必要な書類も一通りそろえ、すでにクリストファーと共同名義で申請を上げている。数日内で問題なく承認される算段だ。
「絶対に表には出せない裏帳簿がどこかにあるはずよ……少なくとも10年前までは確かにお父様は人身売買に手を染めていたのだから……ね?シェルナ?」
「……そうですね」
ヴィヴィアンと同じようにクリムゾン商会の取引録に目を通していたシェルナが抑揚のない声で返事を返した。
ヴィクトールの現在の名声を上げた要素として、持ち前の類稀な美貌と亡き伯爵令嬢であった妻グレースとのロマンス、平民から貴族に上り詰めたサクセスストーリーと、枚挙にいとまがないが、なんといってもその卓越した経営者としての手腕・実績がある。特にたった一代でブラン聖王国の有数の大企業に会社を育て上げ、その商う薬によっていくつかの不治の病を治る病に変えた功績は大きい。
また、愛娘がクロイツ公爵家と縁を結んだことから、歴史ある有力貴族らの信頼も得たのか最近は中央官僚らともパイプが出来ていると噂されている。
丹念にページに目を通しながら、ヴィヴィアンは新ためて自分の【計画】を頭の中でおさらいし始めた。
ヴィヴィアンの【計画】―――それは、自分自身が商売人として名を上げ、経済界で発言権を有するようになった後に、過去のヴィクトールの不正を暴露することだ。
彼の今の地位は、彼が商売人として成功していたからだ。しかし、それがあらゆる欺瞞と虚構によって形作られていたのが発覚したら―――?彼の名声は―――失墜する。
それだけじゃない、彼が過去に手を染めて来た悪事の数々が知られれば、公的に重い刑罰を与えられることになるだろう。最悪の場合、極刑だ。
社交界、経済界、政界どの社会においても、間違いなくヴィクトールは抹殺される。そして、その破滅宣告を下すのが―――たった一人の肉親からであれば。
ヴィヴィアンはふっと皮肉な笑みを漏らした。
頭の切れるヴィクトールと言えど、想像もしていないに違いない。妻の死後男手一つで育てて来た愛娘が、死神に変わることなど。
「―――っ!?ッゴホッ……ゲホッゴホッ」
ふいに咽たヴィヴィアンは、手にした帳簿を床に落としてしまった。
「!?お嬢様!?」
「……っう、ゴホッ……ホッ……平気よ、ちょっと埃が鼻に入っただけだわ」
驚いて駆け寄って来たシェルナに、ヴィヴィアンは何でもないと首を振った。
「お嬢様……それだけじゃないでしょう、最近、『薬』を増やし過ぎているのではありませんか?」
「……そんなことはないわ。十分に希釈しているもの」
「お嬢様」
ヴィヴィアンを支えるように両腕をその細い腰に添えたシェルナは、正面からヴィヴィアンを覗き込んだ。切れ長の褐色の瞳が鋭く射抜く。
「……そもそも、2種類の薬を常飲すること自体、身体によくないに決まっています。せめてどちらかだけにするとか……」
「……平気よ」
鋭い矢のような視線から顔を背け、ヴィヴィアンは改めて机に体を預けるような形でシェルナから離れた。
自分の支えを拒否した主人に、シェルナは小さく舌打ちをした。
「……別に、貴女が堕胎薬なぞ飲まなくても、男の方を『不能』にする薬を盛ればいいのです」
「……っ……シェルナ!?」
自分に忠実な侍女の口から吐き出された不穏な言葉に、ヴィヴィアンは目を見開き、シェルナに視線をやった。シェルナの顔はいつになく剣呑な空気をはらんでいた。
「ベンジャミンに依頼しましょう。そういう薬だって彼なら手に入れられるはずでしょう」
「……」
ヴィヴィアンは黙したまま、シェルナに背を向け、身を屈めた。
「駄目よ」
床に落ちた取引録を拾いながら、断固とした声音で言った。
「……シェルナ、忘れないで。私の獲物はお父様ただ一人。……クリストファー様は悪い女に騙された、哀れな迷える子羊なの」
「お嬢様……分かりました」
ため息交じりに返事を返したシェルナは、それ以上は反論することなく主人の叱責を素直に受け入れたようだ。
シェルナが大人しくなったことを認め、パンパンと落とした冊子についた表面の埃を払いながら、ヴィヴィアンは何とはなしに目線を少し奥の方に向けた。そこには角の壁沿いに本棚がぴったりと置かれている。
「……?」
「……お嬢様?」
ヴィヴィアンが訝し気に小首を傾げたのを見逃さず、シェルナもヴィヴィアンの目線を追った。
「……ねぇ、そこ、変じゃない?わずかだけど、床板に引きずったような跡があるわ、まるで車輪が通ったような……」
そう問いかけながら、ヴィヴィアンは生まれ育ったこの屋敷の間取りを頭の中で描き始めた。書斎があるのは、1階の北東の角。たしか、2階の同じ位置にある音楽室はもっと広かったはず……?
本棚が置かれている古い木の床板にうっすらと筋がある。それはちょうど並行に2本、本棚がある場所からその横に本棚の横幅の半分ほど伸びている。丁度、人ひとり通り抜け出来るような。
「シェルナ、ちょっとこの本棚を押してみて頂戴」
「わかりました」
ヴィヴィアンが命じると、後ろに控えていたシェルナは一瞬の間もおかず本棚に進みよりその木枠に手を掛けた。ヴィヴィアンも同じように反対側の端に回り、引いてみた。
ギッ……ギィーッ……
微かな音を立てて、本棚は横にスライドした。やはり予想通り、底板に滑車が付けられていたようだ。
「やっぱり……狙い通りね」
改めて本棚の奥に隠れていた壁を見て、ヴィヴィアンは頷いた。
一見、それは一枚の壁のように見えた。しかし、よく見ると、長方形の継ぎ目がある。それは人ひとり通り抜け出来るほどの隙間とぴったり重なる。
ヴィヴィアンはその部分を軽く押してみた。すると、大した力も加えていないのに、まるで油でもさされているかのように、その壁はくるりと回り、隠されていた続き部屋の存在をヴィヴィアンに示した。
「隠し書庫……!」
中に入ると、そこには窓もなく、本棚が3つほど入るだけであとは簡易のテーブルとイスが一つずつあるだけの小さな空間であった。
「……なるほどね。使用人の目にも触れない、こんな空間があったなんて……猜疑心の強いお父様らしいわ」
初めは父ヴィクトールの使用する彼の主寝室にあるかと思ったが、裏取引の帳簿はここにあるに違いない。
「それにしても……」
ヴィヴィアンは中にある本棚に並べられている書物の数々を眺めながら両腕を軽く組んだ。
「……どうしてこんなに、ノワール共和国関連の本が置いてあるのかしら……」
3つある本棚のうち2つに並んでいる本の多くが、約30年前に滅んだノワール共和国に関する文献だった。かつてのノワール共和国で生きていた人々の文化、気候、自生する植物についての調査書、そのどれもが随分前に発行されたもののようだ。
その中でも、とりわけ古びた茶色く着色した冊子をみつけ、ヴィヴィアンは破かないよう注意深くそれに触れた。
普通の紙よりも厚く、ざらざらとした感触。意外に丈夫そうだ。
それは数枚の紙片を麻紐で綴じただけのもので、本とすら呼べない代物だった。そこに書かれている文字はだいぶ掠れており、薄暗い隠し書庫では読み取ることが出来ない。
「……お嬢様、ありました!」
シェルナのトーンを最大まで落とした、それでいて鋭い声に、ヴィヴィアンはハッとして咄嗟にその紙片を胸元のドレスの隙間部分に深く押し込んだ。
「特別保護生物の商取引の記録、麻薬の流通経路……それに、奴隷貿易の記録」
シェルナの言葉にヴィヴィアンは頷き、本棚を覗き込んだ。
シェルナの言葉通り、二重になっていた書棚の奥に、厳重な様子で収められている表紙が無地の本が並んでいた。それを手に取るとブラン聖王国では固く禁じられている違法商取引の数々が記録されていた。
「奴隷貿易の記録は……10年前が最後のようですが、それ以外は結構最近の記録もありますね」
「……やったわ。これは動かぬ証拠ね。早速写し取って……」
「……シッ」
ヴィヴィアンが特殊なインクで写本を作成しようとした時、シェルナの手が目に留まらぬ速さでヴィヴィアンの口元に当てられた。
「……馬車の車輪の音が遠くにします……旦那様が戻って来られたようですね」
低く掠れた声で囁かれたシェルナの言葉に、ヴィヴィアンは目を大きく見開き、深呼吸をした。