第七話 手練手管
「……リス……様、……きてください」
心地良いまどろみの中で、優しく呼びかけられた気がした。
細い指先が頬に触れ、そのまま髪をそっと掻き上げられる感触がある。それと同時にふわっと何とも甘い、脳天を刺激するような香りが鼻孔をくすぐった。
「クリストファー様、起きて下さいませ……」
ああ、呼ばれている。もう朝なのか。
自分に呼びかける心地のいい声は、耳ににまろやかに滑り込む。まるでふわふわとした揺りかごの中にいるようだ。
気持ちいい……もう少し、このままでいたい。
「……もう、いけませんよ」
あ……怒らせてしまっただろうか?
少し気になって、眠気を押してほんの少し目を開ける。目の前に、亜麻色の美しい巻き髪が揺れているのが見えた。
ごめんなさい、あと、ほんの数分だけ……そう口にしたつもりが言葉になったかは分からない。
だが瞼の重さに耐えきれず、再びまどろみに意識が引っ張りこまれる。
ああ……幸せだ。このまま溶けてしまいたい。
「……はぁ、仕方のない方……」
呼びかける人物が、一つ困ったようにため息をついたのが分かった。
罪悪感に駆られ、もう一度自分の睡魔と格闘する。まくらに俯けていた顔を上げようと寝返りを打った瞬間、微かな重みとさっきの甘い香りがより強くより近くに感じられ―――。
「………そんなに無防備に可愛い姿を見せていると―――私が食べてしまいますわよ?」
首筋に軽い刺激が走ったと同時に、反射的にクリストファーは両目をバチっと開いた。
「きゃーーーーっ!!!」という悲鳴は、自分の口から出て来たものだったと思う。
勢い余って寝台から掛布団ごと転げ落ち、クリストファーは床にひっくり返った。
「ヴぃ、ヴぃ、ヴぃ、ヴィヴィアン、い、いま、僕の首を噛んだ……!?!?」
上手く回らない舌と、これまた上手く回らない頭を懸命に総動員しながら問いかけると、にっこりと艶やかに微笑む妻が目の前に立っていた。
「おはようございます、クリストファー様」
「おはようヴィヴィアン……ってそうじゃなくて!」
クリストファーはまだかすかに感触の残る首元を押さえた。ああ、あまりの衝撃にまだ体中の血液がすごい速さで全身を駆け巡っている。
「目が覚めましたでしょう?もうお仕度なさらなくては、遅刻してしまいますわ」
自分がゆでだこのように真っ赤になっているのに、いたずらを仕掛けた当の張本人は、照れる様子もなく涼しい表情だ。
「それとも……、今日は出仕されず夫婦水入らずの時間を過ごしますか?」
シュル……という微かな音を立てながら、ヴィヴィアンが自分のドレスの胸元のリボンを解いたのを見て、
「起きます!!!」
と、クリストファーは間髪入れず叫び、立ち上がった。
「―――最っ悪だ……!!!」
王宮まで向かう馬車の中でクリストファーは頭を両手で押さえ、俯いた。誰かその姿を目撃している人間がいれば、彼の周囲におどろおどろしい黒いオーラが見えたに違いない。
「またヴィヴィアンの前で醜態を晒してしまった……!!!」
今朝の妻とのやりとりを思い出して、クリストファーは思い出し赤面をする。数ヶ月前に悪友の第二王子ゼノンが泊まりに来たことで、その間ヴィヴィアンと寝室を共にした。共にしたと言っても、彼女には誓って指一本触れていないが、あの女神のように美しい女性が同じ空間で寝ていると妙に意識してしまって彼女の寝息が聞こえただけで随分ドキドキしたものだ。しかしそれ以来彼女の方はクリストファーの寝室に足を踏み入れることへの抵抗が薄れたのか、今日のように朝ヴィヴィアンがクリストファーを起こしに来るようになった。良くない方法で。
それにしても、彼女の前で自分は何故こうも情けないのだろうか。
薔薇園では迷子になっているところを目撃され、結婚式では誓い口上をど忘れし、朝が弱いこともバレてしまい……そもそも出会いから今まで、彼女には一度もカッコいいところを見せられていない。
だからと言ってヴィヴィアンが自分を馬鹿にしたりしていないことも、それどころかむしろ最近は楽しんでいる節があることも感じてはいる。でもこれではあまりにも……男として立つ瀬がない。
クリストファーとて健全な思春期男子だ。彼女の誘惑にそのまま身を委ねてしまいたいとこれまで何度葛藤したことか。
でもせめて、身長ももう少し伸びて体も逞しく、彼女に相応しい一人前の男になってから……とクリストファーは今も華奢な自分の腕を見てため息を吐いた。
「やっぱりユング殿の所に通って、少し鍛えようかな……」
豪快な騎士団長と、ゼノンの顔が思い出されクリストファーは渋面になった。
そういえば……、とクリストファーは前回ゼノンが屋敷を去る前に自分に話したことを思い出していた。
―――随分男の扱いに慣れているな。まるでセイレーンのようだ。
そう、ゼノンはヴィヴィアンを評価した。
セイレーンとは、海で男を誘惑し水の中に引きずり込む蠱惑的な美女の姿をした、伝説上の妖魔のことだ。
あれは男がいるかもしれないぞ。少なくとも、お前が初めての相手じゃないだろうな。
そう言われた時、当然クリストファーは烈火のごとく怒った。ヴィヴィアンは当代一の淑女と評判の礼節を弁えた素晴らしい女性だ、僕の妻を愚弄するな!、と。
その剣幕にゼノンはすぐに素直に謝った。彼も悪気があっての言葉ではないだろう。親友を心配しての忠告だったかもしれない。
しかし、最も親しい友人からの言葉はクリストファーの胸に簡単にはとれない棘の様に残った。
年上で、あれほど魅力的な女性だ。自分と出逢う前に恋の一つや二つしていてもおかしくはない。良識的な彼女が結婚前にふしだらな関係を結んでいたとは考えられないし、考えたくもないけども。
また、彼女の心が今はまだ男女の恋愛という意味で自分に向いていないことも薄々クリストファーは気付いていた。
そもそも、自分の一目惚れから押し切った結婚だ。
実際問題、身分から言って彼女の方から断ることは難しかったはずだ。
自分の母親がそうだったように、彼女が貴族の義務として自分との結婚を受け入れてくれているのだとしたら……本当に心が通い合うまで無理強いはしたくない。
自分達はまだ若い。
愛情を積み上げていく作業を時間をかけてやっていくのに何も問題はないはずだ。
正直あと何年かかるか分からないけども……そう考えるとクリストファーは「はあぁ……」、と重いため息を一つ漏らし、窓の外の流れゆく景色を眺めた―――。
機密文書保管官の仕事は主に2つに分けられる。
国内で発行された書物、文書の検閲と分類。その中で選り分けられた重要事項や機密事項を含む書物の保管。
しかし上記以外にも王立図書館付きの職員として、一般図書の整理・管理業務や貸出業務を手伝うこともある。
それなりに上位の貴族しかなれないとは言え、政治的な力を何も持たないただの公務員である。ブラン聖王国の王宮内で数ある役職のうち、特に人気のない閑職扱いのポジションだ。
クロイツ家は王国指折りの代々この役職に任ぜられることが多い。先祖を辿れば王家と同じ血筋に繋がっているため、権力を持たせ過ぎないようにという歴代の国王の思惑もあるだろう。
野心家のクロイツ家現当主ルドルフはこの役職を嫌い、最低限定められているはずの週3日ほどの出勤すらしない。すべて自分の代理人に任せきりだ。
ルドルフだけじゃない、ほとんどの同僚の貴族らも同じように自分の部下や副官に丸投げしている。あまりにも退屈で旨味のない仕事。まだ領地経営や、会社経営をしている方が幾分ましな利益を得られるだろう。
そう、下っ端の職員に交じって貸し出しカウンターに座っているクリストファーの方が、よほど変り者なのだ。
「……クリストファーお前、今日も飽きずによくこんな退屈な場所に何時間もいれるなぁ」
「……おや、珍しい人が図書館においでですね。申し訳ありませんが、当館の図書は読書や研究の目的にしか貸し出しておりませんで、枕代わりにされると困るのですが」
クリストファーは声を掛けて来た人物が小脇に抱えている分厚い2冊の書物を見て、嫌味たっぷりに言った。
「誰が枕にするかっ!!俺だって本を読むときくらいあるわ!!」
「これは失礼。てっきり今お使いの枕の固さが合わず、本をその代わりにしようとしているのかと思いまして」
「お前ゼノンに俺を脳筋呼ばわりしたらしいな?俺が脳筋ならお前はもやしっ子だ。16にもなってなんだ、そのひょろい肩は」
「……華奢で悪かったですね……ユング殿」
見事に嫌味返しをされて、クリストファーは仏頂面になる。基本的に誰にでも愛想が良く、礼儀正しい彼がこういった態度を示すのは二人しかいない。親友である第二王子ゼノンと、剣術の師である王立騎士団、騎士団長ユング・ランカスターだ。まだ30代半ばという若さでブラン聖王国の軍のトップに立つ人物である。
「これでも今年に入って体重も身長も増えているんですよ」
「いやーまだまだうちの下の奴らに比べても小せぇぞ」
「職業軍人と比べられても」
「いいからお前も今度騎士団の強化訓練に混ざれよ。俺が鍛え直してやるぞ」
ユングはクリストファーの反論にもお構いなしにぐいぐい畳みかけて来る。
「……考えておきます」
「おお?珍しくやる気じゃねぇか。お前がこんなかびくせぇとこじゃなく、騎士団に入るなら俺が幹部候補に推薦してやるぞ?」
「転職は考えてませんよ!!ただ、少し体を鍛えようかなって」
騎士団一のガタイのいい腕で肩を掴まれ、クリストファーは堪らず叫んだ。この人に首を締められたら死んでしまう!!
「ところで、ゼノンから聞いたぞお前まだ嫁さんと寝てないんだって?相変わらず回りくどいっつーか、うじうじてるっつーか、本当めんどくせぇ坊ちゃんだなぁお前は!」
力は緩められたものの、こんどは頭のてっぺんをわしわしと乱暴に撫でられた。
「……うるさいですよ」
話がヴィヴィアンのことに飛んで、クリストファーはさらに不機嫌な表情になる。
「お前の嫁さんえらいべっぴんだよなぁ……式で見て仰天したわ。おい、今度俺にも紹介し」
「嫌です」
「そんな食い気味に。何も取って食おうなんざ思っちゃいねーって!」
「絶対いやです。30代後半にもなって結婚もせずフラフラしている人に僕の妻は紹介できません」
「俺はまだ35だっつーの!結婚するかしないかは人の勝手だろ!モテる男は簡単に身を固めねーんだよ!」
「結婚を墓場だなんて考えている人とは相容れません。とにかく僕の妻は紹介しません」
いつになく頑なに言い張るクリストファーに、ユングはばつが悪そうに頭に手をやった。
「……そんなに結婚がいいもんかねぇ」
クリストファーは一度コホン、を咳ばらいをし居住まいを正した。これ以上ヴィヴィアンの話題を続けたくない。
「……にしても、本当に団長が図書館に来るなんて珍しいですね。何か調べものですか?」
「ああ……ちょっと過去の捜査記録なんかをな」
「……捜査記録?」
不穏な響きに、クリストファーは思わず眉をひそめた。
「……お前、ちょっと席外せるか?別の場所で話したい」
ユングが親指を立てて外を指し示した。クリストファーは普段の彼には似つかわしくない鋭い瞳で無言で頷いた。
「―――……近頃第一王子派のやつらの動きがおかしいんだよ」
王立図書館の中庭の外れ、丁度死角になる位置に移動した後、ユングはそう切り出した。
「……おかしいとは?」
「どうも変な薬をキメてる奴らがちらほらいそうなんだよな」
「変な薬……つまり、麻薬と言う事ですか?」
息を潜めて問いかけたクリストファーに、ユングは神妙な表情で頷いた。
「連中がてめぇの判断で手を出したのかもしれねぇ、だが、揃いも揃って第一王子派っていうのが気になる。どいつも第一王子が王位についた時の官僚候補だ。第一王子の失脚を狙った第二王子派の息がかかっているかもしれん。ゼノン自身が裏で糸を引いているとは思わねぇし思いたくねぇけどな」
王位継承権第二位のゼノンが継承権放棄を表明していることは周知の事実だ。そのために表向きは継承権争いは存在しないことになっている。しかし実態は有力貴族らが二手に分かれ利権争いが続いている。
「彼は相変わらず道楽王子のスタンスを貫いていますし、国をいたずらに混乱させるつもりはないでしょうけどね」
「あいつが思わなくても、あいつを支持する貴族らがゼノンを擁立したいんだろ。俺も立場上中立を守っちゃいるが、個人的にはゼノンの方が優れていると思っている」
「ゼノン王子の言い分では、頭が馬鹿でも周りがしっかりしていれば国は上手く回るもんだ、だそうですよ」
「だからそれを逆手に取りたい奴がいる可能性を否定出来ないんだよな……入手経路の特定をせねばならん」
なるほど、とクリストファーは頷いた。騎士団は国の警察機能も担っている。そしてユングはその全部隊を統帥する指揮官だ。
「まぁ、だからもしかしたらお前の頭脳も借りる可能性もあるかもしれないってことで」
「分かりました。過去の麻薬、毒薬関係の記録に僕も改めて目を通しておくことにします」
「頼むわ」
やれやれ、と大きく伸びをした後、ユングは整えられた顎髭を撫でた。
「それにしてもせっかくゼノンが争い回避のために道化を演じてるってのになぁ……ままならないもんだよな」
「……そうですね。官僚同士の権力争いなんてしていないで、もっと他の所に注意を向けるべきだと思いますが。貴族以下の被支配階級には今も貧困に苦しむ人々は多い。他民族の難民の問題もあるし、疫病も頻繁に流各地で流行している」
「30年前に我が国が滅ぼしたノワールや他の小国の民のことだよな」
ブラン聖王国はこの一帯では最も大きな国だが、他にも国は存在する。今の王になって大きな戦争はなくなったが、30年以上前、先代の王が治めていた時代は他国との衝突も多く、いくつかの周辺国をブランが制圧し滅亡させた歴史があった。
「聖人が興した国にしては、この国は争いが絶えないよなぁ。王家も過去に何度、血族同士で対立したよ?1000年前はこの地が争いのない楽園だったなんて信じられないよな」
ユングはしみじみと漏らした。
―――その日、図書館が所蔵する薬物に関する書物に遅くまで目を通していたクリストファーは帰宅がいつもより少し遅くなった。律義に夕食を摂らずに彼の帰りを待っていた妻は、予想もしない『お願い』をした。
会社を興したい、と。