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第六話 嵐を呼ぶ男


 いつもは夕方になるまでは帰ってこないクリストファーが、その日は珍しく太陽がまだ高い位置にある時間に慌ただしく帰宅した。かと思うと、自室でまだクリストファーに借りたままの歴史書の続きを読んでいたヴィヴィアンの所に一直線に駆け込み、目を丸くしたヴィヴィアンが何事かと尋ねる前にその両手を自分の両手でがっしりと掴み開口一番こう言った。



 「ヴィヴィアン、今夜は僕と寝て下さい!!!」

 


 ―――は?


 と、一瞬ヴィヴィアンは思考を停止しそうになった。


 二つの青い瞳が一生懸命に自分を見ている。


 かろうじて持ち堪えた精神力で、頷いた。


 「わ、分かりました」



 ヴィヴィアンの承諾を取ったところで、クリストファーは全身を脱力させながらしゃがみ込み、安心したように大きなため息をついた。


 「よ、よかった~……断られたらどうしようかと思った。あー焦った……」


 いつになく年齢相応の若者らしい言葉遣いで独り言を繰り返すクリストファーに、ヴィヴィアンはクエスチョンマークでいっぱいになる。


 「あ、あの宜しければ訳を教えて頂いても?」

 

 いくらなんでも前後の脈絡がなさすぎる。


 今さらとは言え、クリストファーと共寝をすることに抵抗はない。とっくに覚悟はしていたことだ。しかし何が彼にそういう心境にさせたのかは知っておきたい。


 「あ、す、すみません、変な言い方になってしまって……違うんです、僕は貴女に不埒な真似をするつもりは全くありませんから!!」


 不埒な真似をするつもりはない、とはつまり、夫婦の営みが目的ではない?


 「……???ごめんなさい、それこそ意味が分からないのですが」


 ヴィヴィアンはますます困惑して、小首を傾げた。

 

 クリストファーは少し赤面して言いにくそうにこう、切り出した。



 ―――悪友が、今夜泊まりに来るんです。


 

 それは、ブラン聖王国第二王子、ゼノン・ファラ・ブランシュの突然の訪問だった。


 「いやー奥方、婚礼の時も感服したが相変わらずお美しい!!」


 ワイングラスを片手にすっかり出来上がったゼノンは、上機嫌で何度繰り返したか分からないヴィヴィアンへの賛美を再び口にした。その横では、見たことのない形相でクリストファーが睨み付けている。


 「僕の妻に酌をさせるな。ヴィヴィアンに話し掛けるな……ってゆーかヴィヴィアンを見つめるな彼女が汚される」


 ものすごい怒りのオーラを醸し出しながら、一国の王子相手にその眉間をグリグリ指で突いているクリストファーに、ヴィヴィアンは目が点になりっぱなしだ。クリストファーに、こんな攻撃的な面があるとは知らなかった。

 

 後ろでいつものように黒子のごとく控えているシェルナは、意外にも彼女のツボにはまったらしく珍しく頬をぴくぴくさせ笑いを堪えている。


 ゼノンが到着して、すでに宴会は2時間が経過していた。


 酒にあまり強い方ではなさそうなゼノンは、ワインを一本開けるとすっかり出来上がっている。


 「ヴィヴィアン、こんな酔っぱらいにいつまでも君が付き合う必要はありません。どうぞ、先に部屋に戻っていて下さい」

 「は、え、あの、でも」


 ヴィヴィアンがどう返答すべきか迷っていると、ゼノンと自分の間を遮るように立っているクリストファーの肩に後ろから覆いかぶさるような形でゼノンが寄りかかって来た。


 「つれないなークリスぅ、俺達ユング団長の下で同じ釜の飯を食った仲だろう?しかも先にこんなべっぴんと結婚しやがって!!」

 「だから僕の妻をその卑猥な目で見るな」

 「暴力反対!」

 「むしろいっぺん死んで来い」

 「きゃー横暴だわ!」

 「あーもう、ほんとめんどくさい!ヴィヴィアン、本当に、もう戻って結構ですから!!」


 ヴィヴィアンの目の前で、二人はどつき漫才のようなことを繰り返している。


 なんでこんなことになっているのか。


 事の顛末はこうだ。


 今日の朝、いつも通り職場に出勤したクリストファーのもとに、ゼノンからの使者がやって来て、こう告げた。



 『また第一王子ルキウス様の発作が始まったので、ほとぼりが冷めるまでクリストファー様の屋敷に滞在させて頂きたいとのことです』



 ブラン聖王国には王位継承者が二人いる。


 第一王子ルキウスと第二王子ゼノン。


 ゼノンが早々に王位継承権の放棄を表明しているので、一応この国において王位継承争いというものは存在しないことになっている。


 だが、この第一王子が自己中心的かつ猜疑心の塊でその上、学問においても武芸においても秀でたところがない。どう控えめに見ても第二王子ゼノンの方が優れているのである。


 そう言ったことから当人らの意向はさておいて、臣下達の間には密かに第一王子派と第二王子派の派閥が存在している。


 そして一定の周期で疑心暗鬼に駆られたルキウスがゼノンを亡き者にしようと騒ぎを起こす、ということが今や通例行事の様になっていた。そしてその度にゼノンは親友であるクリストファーのところに避難して来るのである。


 別に逃げ込む先は他にもあるはずだが、曲がりなりにも名門中の名門クロイツ家の敷地に踏み込み大きな政治問題を起こすほどはルキウス王子も阿呆ではない。今のところ王室内のお家騒動で収めているのは、そう言ったゼノンの計算もあってのことである。


 では何故クリストファーがそれほど今回は神経を尖らせているかと言うと。


 ゼノンは無類の女好きの遊び人で有名なのだ。


 まだ特定の婚約者がいないことをいいことに王宮勤めの女官はもちろん、夜会に顔を出せば人妻相手にアバンチュールを繰り広げる。とにかく節操がない。


 正直真面目なクリストファーはゼノンのこういった面をまったく理解出来ない。しかし、この女癖を除けばなかなかどうして彼とは気が合うのだ。だから友人関係を続けていられる。


 とは言え、節操のないゼノンが愛妻ヴィヴィアンにまで魔の手を伸ばしてこないか、全く信頼を置けない。下手したら闇夜に迷ったとか見え透いた嘘を吐いて就寝している彼女の寝室に忍び込むかもしれない。


 そう言った経緯で、ゼノンが滞在する間、ヴィヴィアンに自分の部屋で寝て欲しいと頼み込むに至った訳である。




 「……別に、夫婦なのですから不埒な真似をなさっても宜しいのですよ?」


 クリストファーの部屋で寝台に腰掛けたヴィヴィアンは、いたずら心が抑え切れず、笑いを噛み殺しながらクリストファーに声を掛けた。


 「いえ、お構いなく!僕は今日読めていない本を読んでからそのままソファで寝ますから!」


 別で用意してもらった毛布とクッションをソファの端に持ち込みながら、クリストファーは間髪入れず返事を返した。


 「あ!僕は明かりはこのテーブルのランプ一つで十分ですから、あとは消しましょうか!!」


 やや声を上ずらせながらクリストファーはソファから立ち上がり、部屋の明かりを消そうとする。その動きはぎこちなく、右足と右手が同時に出るほどだ。


 おかしな挙動を繰り返すクリストファーに、ヴィヴィアンはまた笑いを噛み殺しながら、クリストファーのいるソファまで歩み寄り制止する。


 「いえ、まだ大丈夫ですわ。……せっかくだから、もう少しお話ししましょう?」


 そう言ってクリストファーの手をヴィヴィアンが取ると、クリストファーは、あ、う、は、はい、などとごにょごにょ呟いた。


 薄い夜着を着ているヴィヴィアンから目線をそらしつつ、ヴィヴィアンをソファに座らせ、少し間をあけて自分も再びソファに腰を落とすクリストファー。


 「今日はクリストファー様のいつもと違う面が見れて、新鮮でしたわ」

 「……ゼノン王子とのことでしょう?すみません、あの方はいつもあの調子で周囲を引っ掻き回すんです」

 

 ヴィヴィアンが寒くないように用意していた毛布を彼女の肩にかけてやりながら、クリストファーはいささかうんざりしたような声を出した。


 「随分仲良しなんですのね」

 「同じ学問と剣術の師に習ったんですよ僕達は。歳も近いこともあって昔からあんな感じで付き合いが続いてまして……本当はもう少し身分を弁えた接し方をしなければならないのですが、彼自身それを嫌うのでもう最近はいちいち畏まるのを諦めました」

 「くすくす……楽しそうで、いいと思います。私はそんな親しい友人がいませんから羨ましいですわ」


 年齢相応の友人関係を育むクリストファーにヴィヴィアンは素直にそう感想を漏らした。自分も母の死がなければ、普通の伯爵令嬢として他の貴族令嬢と親睦を深め、お茶会などを楽しんでいたのだろうか。


 そうしたら、年頃の娘らしく恋愛話に花を咲かせて、男性貴族の誘いにも純情に心ときめかせていたのかもしれない。


 ―――たらればの人生なんて思い描いても意味はないけれども。

 

 「……今日は何の本を読んでらっしゃるの?」


 ヴィヴィアンがテーブルの上にある本に視線を向けると、ヴィヴィアンが突然話題を変えたことにも気にした風もなくああ、と頷いた。


 「それも歴史書です。今あなたにお貸ししているのが、オーソドックスな通説を論じているのに対し、この本はまた全く視点からの歴史の解釈なんです」

 「……まぁ、どんな?」


 クリストファーはテーブルから本を取り上げると、ペラペラとめくった。


 「神話の中で、禁忌の扉を開いたのは、双子の兄アゼルとなっていたでしょう?この新説では、扉を開いたのは弟のルカになっている。しかも、女神はアゼルを追放したんではなく、ルカを見限りアゼルと少数の人々と共に新世界に移動したことになっている」

 「……まぁ、まったく逆なんですのね」


 全く異なる解釈を耳にして、ヴィヴィアンは目を丸くする。


 ある程度フィクションが入っているとしても、史実はそこまで現実とかけ離れることは出来ないはずだ。ここまで話の食い違いがでるだろうか。


 「……そうですね、でもこの本の信ぴょう性は低いはずです。もし女神がアゼルに付いて行ったというなら、ルカの下に残る人々はもっと少なく、新世界は不毛な辺境の地ではなくもっと恵み豊かな土地になるはずだ。……それに何と言っても、ここはルカの興した国ですからね。この本は異端扱い、厳重管理された通常は持ち出し不可の禁書ですよ」

 「まぁ、そんな物を持ち帰って来て、大丈夫ですの?」

 

 ヴィヴィアンが眉を潜めると、クリストファーはきまり悪そうに後頭部を掻いた。


 「そ、それは職務上の特権と言う事で……一応、僕の職員証で貸出許可は頂いているんですよ」


 と、クリストファーは首にいつも下げている機密文書保管官の職員証に彼自身の紋章が刻まれたプレートを見せた。


 けっこう無理やり借りてきたようだ。


 とはいえ、クリストファーが単純に知識欲から借りて来ているのは明らかで、彼が自国に弓引くような危険思想の持ち主でないことは明らかなため許可されたのだろう。


 「独自の視点で、この国では悪役になりがちなアゼルの方に焦点が当たっているのが僕は興味深いと思いますがね。……あっ、でもこの話はあまりみだりに人には話しちゃ駄目ですよ!一般的にはやはり禁忌を侵したのはアゼルという説が定説ですからね!!」


 そう捲し立てた後、クリストファーは興奮して喋りっぱなしだったためかゲホゲホと咳込んだ。


 ヴィヴィアンは慌ててそのクリストファーの背中をさすり、寝室の用意を整えた後シェルナが淹れてくれたお茶の入ったカップをクリストファーに差し出した。


 クリストファーはそれを一気に飲み干し、カップと本をテーブルに戻し、また数回咳込んだ後―――


 ―――ガクッと、突然力が抜けたようにソファに倒れ込んだ。


 「!?!?!?」


 急に昏倒したクリストファーにヴィヴィアンはギョッとなる。


 「ク、クリストファー様!?」

 

 慌てて覗き込むと、クリストファーは無垢な表情で、小さな寝息をたてて眠り込んでいた。


 ヴィヴィアンは目を皿のようにしてどこか異常がないかクリストファーの平和な寝顔を眺め、


 「これって……シェルナ……あの子、一服盛ったわね」


 と、迷わず呼び鈴を鳴らし忠実な侍女を呼びつけた。



 「―――お嬢様が違う枕でよく眠れなかったらいけないと、いつもの量をお休みの前のお茶に足しただけですよ」


 そう、やって来た侍女は悪びれもせずしれっと答えた。


 「……あのね、私が寝る直前には水分をほとんど摂らないのはお前も良く知っているでしょう。クリストファー様を狙ったのはバレバレなのよ。こんなすぐに眠りこけてしまうなんておかしいじゃない、いったいどれだけ盛ったの!」

 「いつもお嬢様が服用されるのと同じ量です。……クリストファー様が薬に耐性がなさすぎるだけでは?」


 シェルナはあくまで謝る気はないらしい。


 ヴィヴィアンはめまいと頭痛を覚え、こめかみを揉みほぐした。


 「はあ……もういいわ。それより、クリストファー様をベッドに運ぶのをあなたも手伝ってちょうだい」

 「ソファで寝ると仰っていたのなら、このままでいいのでは?」

 「シェルナ!!」


 いい加減ヴィヴィアンがしびれを切らしているのを感じ取ると、シェルナはいつもの仏頂面のまま、指示通りにクリストファーを抱え、ベッドまで乱暴に引きずった。クリストファーの引きずられた足が、ガンガンと家具の角にぶつかるのも気にも留めずに。


 何とか掛布団を被せるまで、シェルナに手伝わせながらやり終えると、ヴィヴィアンはシェルナに下がるように命じた。


 「……。お嬢様、もしクリストファー様が無体なことをなさるようなことがあれば、呼んで下さい。すぐに駆け付けますから」

 「……シェルナ、変な気は回さなくていいわ。クリストファー様は私の旦那様なのよ?」

 「……そうですが」

 「……彼を誘惑するのも【計画】の筋書きのうちよ」


 少し強い口調でヴィヴィアンが言うと、シェルナは一瞬黙り込み、ふっと睫毛を伏せた。そして、一礼をして部屋の明かりを消し出て行った。


 (過保護すぎる下僕を持つのも考えものね……)


 シェルナの出て行った扉を見つめ、ヴィヴィアンはやれやれ、と一つため息を吐いた。


 それにしてもちょっと最近のシェルナの態度は頂けない。主人として召使教育の徹底をしなければ。


 「……さて」


 ヴィヴィアンは自分も眠りに入ろうと、クリストファーの眠るベッドの掛布団へと身を滑らせる。クリストファーはヴィヴィアンの気配に起きる様子もなく、「んん……」と鼻を鳴らし、むにゃむにゃと何事かを呟いた。はっきり言って、男女の艶事には程遠い空気である。


 当初の【計画】では、とっくにクリストファーは自分に身も心も骨抜きになっているはずだった。だが、良く分からない彼の信条から未だに自分達夫婦は清い関係を保っている。


 ヴィヴィアンは一つだけ残された、ベッドの横のナイトテーブルにあるランプに照らされた夫の健やかな寝顔を覗き込む。


 まだ15歳のあどけない少年の無防備な寝顔。相変わらず天使のような可愛らしい顔立ちをしている。


 「……ふふ」


 小さく笑って柔らかな前髪を掻き上げた。明日の朝起きた時に自分がすぐ隣で寝ていたら、この純情な夫はどういう反応を見せるだろうか。密かな好奇心が、ヴィヴィアンをわくわくさせた。


 「おやすみなさい、クリストファー様」


 そしていつも彼が自分にするように、露わになったその額にそっとキスを落とした。



 ―――翌朝、互いに息がかかるほどの距離で身を寄せ合って眠っていたことに気付いたクリストファーは、ヴィヴィアンの予想通り真っ赤になって飛び上がり、半分泣きそうな表情で、僕、何もしてませんよね?と、すまし顔で笑いを堪えている妻に繰り返し聞いた。その姿を見てヴィヴィアンは自分よりよほどクリストファーの方が乙女だな、と心の中で感想を漏らした。



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