第五話 建国神話
「……おや、ヴィヴィアン、そういったデザインのドレスを着るのは珍しいですね?」
いつも通りに夕方7時前に帰宅したクリストファーは、クロイツ家のシェフが腕を振るったご馳走の並ぶテーブルの、斜め向かいに座るヴィヴィアンが普段あまり身につけない首元の締まったドレスを着ているのを見て、首を傾げた。
一瞬、クリストファーのその言葉にヴィヴィアンは動きを止めた後、にっこりと微笑んだ。
「あら、お気に召しませんか?季節の変わり目に風邪をひいては嫌なので、喉を保護しようと思いましたの」
「ああ、そうでしたか。いえ、僕はそういうデザインもいいと思います。と、というか貴女は何を着ても美しいですよ」
何気なしに口にした疑問が、ヴィヴィアンの癪に障ったんではないかと、クリストファーは慌てて弁明した。正直、生家の母や姉とも疎遠で、ヴィヴィアンの前に女性と交際経験がある訳でもないクリストファーに女物のファッションの良し悪しなんて分かるはずも無い。余計なことを言ったかと気を揉み、思わず口を押えた。
そのクリストファーの様子に、ヴィヴィアンは思わずクスクス笑ってしまう。こんなに考えていることがそのまま顔に現れる人間も珍しい。権謀術数の渦巻く貴族社会に身を置くならなおさら。
「……ふふ、大丈夫ですよ。嬉しいですわ」
ヴィヴィアンが怒っていないようだと悟ると、クリストファーは明らかにホッとした様子でまた目の前の食事を口に運び始めた。そして一口食べるごとに、何とも嬉しそうな表情をする。
(いつも、本当に幸せそうな顔をするのね……)
クリストファーのその表情を眺めながら、ヴィヴィアンは心の中で呟いた。
確かに結婚して自分達夫婦がこの屋敷に引っ越して来た時に新しく雇い入れたシェフはなかなかいい腕前で、彼の作った料理はどれも美味しい。それにはヴィヴィアンも全く異論はない。でも国内屈指の名家出身のクリストファーのことだ、実家でも散々最高レベルの美食が並んでいたに違いないのに。
(食べるのが好きなのかしら?それにしてはあまり太ってもないけど……まぁ、成長期ですものね)
いい食べっぷりに思わずヴィヴィアンはクリストファーをしげしげと見つめてしまう。その熱烈な視線に気付いてか、クリストファーはやや顔を赤くし、手の甲で口元を隠した。
「……あの、僕の顔に何かついてますか?」
「……いいえ?」
「……テーブルマナーにどこかおかしいところでもあるんでしょうか」
「……いえ、とても綺麗なお手遣いだと思いますわ」
「……では、どうしてそんなにじっと見つめるんです?」
恥ずかしそうに小さな声で尋ねる姿が、何だか可愛いなとヴィヴィアンは思った。美少年は見ていて飽きない。
「クリストファー様がお食事されている姿を見るのが楽しくて」
えっ、と狼狽えたクリストファーが思わず持っていたフォークとナイフを落してしまい、金属が床に当たる音が響いた。
うわっと声を上げてクリストファーがそれを慌てて取り上げようとするより、控えていた召使が駆け付けるよりも早く、ヴィヴィアンが予備のカトラリーをクリストファーに手渡しした。
「あ、ありがとうございます」
「……いえ」
ヴィヴィアンからカトラリーを受けとりながら、クリストファーは恥ずかしそうに頬を掻いた。
「……すみません、僕、浮かれてますよね」
「浮かれている……?まぁ、どうしてですの?」
純粋にクリストファーの言っている意味が分からず、ヴィヴィアンは小首を傾げた。
「……これまで結婚前や、婚礼の時に何度か父には会われているので、想像がつくと思いますが、僕の両親は仲が良くありません。父も母も自分のことにしか関心がなく、姉も早々に結婚して家を出ています。僕はヴィヴィアンと結婚するまで、家族と食卓を共にしたことがないんです。もちろん、親せきを交えて公的な席での会食などはありますが、家族的なつながりが全くない家で育ちました」
クリストファーが語りだした真面目な内容に、ヴィヴィアンはすっと表情を引き締めた。
思い当たる節はあった。すでに実母がこの世を去っているヴィヴィアンはともかく、まだ健在であるはずのクリストファーの母が長男の婚礼にも顔を出さなかったことに、疑問を抱かなかったわけではない。
「だから、ヴィヴィアンが一緒に食事をしてくれたり、僕が帰宅した時にちゃんと出迎えてくれることが嬉しくて……」
「……そうでしたの」
照れたように笑ったクリストファーが、何故だか眩しく思えてヴィヴィアンは数回瞬きをした。
自分と実父ヴィクトールの間にある感情も空虚なものだ。だが、母が死んだ後もヴィヴィアンはその父とほとんどの食卓を共にしていた。それがヴィヴィアンにとって当然の家族の在り様だったし、いくらヴィクトールを憎く思っても、その気持ちを悟られないように表面上は普通の娘を演じる必要もあった。
ヴィヴィアンにとっては、ごく当たり前にしていた、夫婦で食事をするということ。そんな些細なことがクリストファーにとっては、この上なく幸せを感じることだったのだ。
ちく、とヴィヴィアンの胸にとげが刺さったような痛みが走った。
……駄目よ、罪悪感なんていちいち感じていては。
彼を選んだのは父への復讐に利用するため。情に絆されているようじゃ、永遠に目的を遂げることなんて出来ない。
利用価値があるかないか。自分にとって夫なんて、それ以上でもそれ以下でもない。
じわりと広がる苦い想いを、ヴィヴィアンは無理やりに意識の奥に押し込んだ。
―――夕食後、クリストファーはいつも職場から借りて来た大量の本をコーヒーを飲みながら読むのが日課だった。
元々本の虫を自称するほど、彼は無類の読書家であり、そのジャンルは多岐に渡る。政治、経済、社会学、医学、生物学、薬学……活字そのものが好きで、知識が増えることがとにかく楽しいらしい。貴族社会において一応成人として扱われるものの、15歳というまだ未成熟な年頃の割に、確かに彼は非常に博識だった。王立図書館に勤めているのは彼にとってまさに僥倖だったことだろう。
一度本を読み始めてしまうとクリストファーはそれに集中してしまう。ヴィヴィアンも最初の2時間ほどはサロンにそのまま留まって刺繍をしたりお茶を嗜んだりと付き合ってみるものの、クリストファーも気にしていないようでいつも適当なところで自室に戻っていた。
幼少の頃の話など聞かされたせいだろうか。この日は、何故かすぐにその場を去ることに後ろめたさを感じて、ヴィヴィアンはクリストファーが持ち帰った本のタワーを何気なく覗き込んだ。
今日彼が持ち帰ったのは、いくつかの学術書と、建国神話にまつわる本のようだ。そう言えば、歴史学が特に好きだと聞いたことがある。
「貸し出しはあと2週間の期限があるので、貴女が興味があるのなら好きなのを読んでも大丈夫ですよ」
読書に没頭していると思っていたクリストファーがふいに声を掛けて来て、ヴィヴィアンは少しびっくりした。
「……まあ、宜しいんですの?」
「ええ、もちろん。もし貴女が希望するなら、図書館の利用申請も出しておきますよ」
ことも無さげにクリストファーが頷いたので、ヴィヴィアンは二度びっくりした。
男性優位のこの国では女性の学問の機会はかなり限定され、女性が勉強することはおろか、本を読むことすら好まない貴族男性は多い。女性が学んで眉をひそめられないとしたら、最低限の一般教養と読み書き、あとは音楽、詩、美術、ダンスくらいか。専門書を読む事など以ての外だ。
だからそういった先入観のないクリストファーはかなり稀有な存在と思えた。ヴィヴィアンは一般の貴族の子女に比べて随分恵まれていた方だが、ヴィクトールですらヴィヴィアンに学問をつけさせることには消極的だった。
「……今日持っている中では……そうだな、この歴史の本なら物語仕立てになっていて、少しは読みやすいと思いますよ」
「……で、では、この建国神話に関する歴史書をお借りしても?」
「もちろん。……まぁ、学術書を気取っていますが、その本もたぶんにフィクションが含まれてますよ。何せ1000年も前の話だし歴史なんて勝者が都合よく塗り替えるのが常ですからね」
そう言うと、クリストファーはまたさっきまで読んでいた哲学書に目を落とし始めた。ソファに座って集中して読書をしている彼の横顔を見下ろすと、頬にかかるサラサラの金髪の隙間から澄んだ青い瞳と長い睫毛が覗いていた。
ヴィヴィアンはギュッと歴史書を胸に抱いた。
正直、嬉しい気持ちを否定出来なかった。クリストファーは女性を軽視して、口説き落したい時だけ都合の良い甘言だけを並べる世間の貴族男性とは違う。もちろん、冷酷非情な父ヴィクトールとも全然違う。
(……私を、自分と変わらない一人の人間として扱ってくれているんだわ)
……どうしよう、この人に抱きついて、その頬に口づけたいと思うのは一時の気の迷いなのだろうか?
夕食の時と同様、ヴィヴィアンは胸に浮かんで来た想いをもう一度無理やり沈めて誤魔化した。コントロールできない感情は、【計画】を狂わせる恐れがある。
私は彼を利用するだけ。彼は私に幻想を見ているだけ。
全てが終われば、最後に残るのは偽りの後の空虚さだけだ。
【建国神話(始まりの章より抜粋)】
約1000年前、この地上は女神セレニスに護られた楽園であった。女神は人々と共に在り、そこには病も苦しみも欺瞞もなかった。
かつての人々は、女神の祝福により自然と調和する不思議な力を持っていた。風を操り気候を温暖に保ち、雨を降らせ作物を成長させる。夜になり闇に世界が覆われれば、太陽の代わりの火を灯し、土は新たな命を生んだ。
そして、楽園がある優れた双子のリーダーを迎えた時、世界は繁栄を極めた。
銀色の髪、紅の瞳の兄アゼル。金色の髪、空色の瞳の弟ルカ。
彼らには未来を見通す力があった。二人は人々の良き道しるべとなり、尊敬と信頼を集めた。しかし彼らは、自分達のことだけは視ることが出来なかった。
ある日、兄アゼルは封印されし禁忌の扉を開けてしまった。そこには疑いの心、妬む心、悲しみ、疫病、あらゆる不幸が詰まっていた。
そして、アゼルは女神セレニスの寵愛を独り占めしたいがために、弟ルカを傷つけた。
アゼルが開いた禁忌の扉から不幸の種は瞬く間に地上に広がり、根付き、芽吹いた。
女神は罪を犯したアゼルを楽園から追放した。アゼルと、彼をまだ慕うほんのわずかな人々は楽園を離れ、辺境の地で細々と暮らした。
残されたルカは、誠実な人々をまとめ、楽園の跡地に国を興した。そして人々に望まれて、王となった。
しかし、広がった不幸の種が根を張るのを止めることは、女神にも王にも不可能だった。
いつしか女神は人々の前に姿を見せなくなった。
王の導きだけが、人々の頼りだった。
―――これが歴史の始まり、そしてブラン聖王国の建国秘話である。
歴史書の概説を読み終えて、ヴィヴィアンはかつて母が読み聞かせてくれたおとぎ話が、似た内容だったと思い出した。歴史を学問として学ぶことの出来ない貴族の子女は、子供向けの昔話の中でそれを学ぶのだ。しかし、母がおとぎ話を読み聞かせてくれた時、まだ当時は夫婦仲も悪くなる前だったはずだが、いつになく父が厳しい口調でくだらない作り話を娘に聞かせるな、と怒っていたのを思い出した。
あの時、何が父の癇に障ってしまったのだろう。歴史を女が学んだことだろうか。それとも……。
そういえば、とヴィヴィアンは記憶を探った。
神話の双子の兄、アゼルが流れ着いた辺境とは、実は馬で数日で行けるくらいのそれほど遠くない場所の事ではなかったか。聞いた話では山の中腹にあり標高が高く、寒暖の差が激しい。作物が育ちにくい代わりに、薬効の高い固有の植物が数多く自生しているという。
そこには30数年前まで、一つの国があった。アゼルが共に漂流した人々と肩を寄せ合い建国した、ノワール共和国という国が。