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第四話 堕胎薬


 その日ヴィヴィアンは父のかつてのビジネスパートナーであり、古くからの友人ベンジャミン・マクレガーの邸宅を訪ねていた。


 かねてからベンジャミンに依頼をしていた〝ある物″が届いたと、連絡が来たのだ。


 約10年前に父とベンジャミンが業務提携を解消してからしばらくはヴィヴィアンとベンジャミンの交流も絶えていた。しかし、数年前に社交デビューしたヴィヴィアンと、父と同じく商売の成功で準貴族の地位を手にしていたベンジャミンはある夜会で再会し、以降付き合いを再開していた。


 もちろん、ヴィヴィアンが彼と接触を始めたのは自分の【計画】に使えると計算してのことだ。


 「ベンジャミンのおじ様、お久しぶりですわ」


 ベンジャミンの邸宅のサロンに通され、そこに館の主の姿を認めるとヴィヴィアンは優雅に淑女の礼をした。


 「おお!ヴィヴィアン、君が結婚する前に会って以来かな?人妻になって、ますます美しくなった」

 「嫌ですわ。何も変わっていません」


 ヴィヴィアンがまだ体を起こす前に、ベンジャミンはヴィヴィアンに飛びつきその腰に手を回した。さりげなく距離を取ってそれを回避しながら、ヴィヴィアンはベンジャミンの手を自分の手で掴みガードする。


 ベンジャミンは父ヴィクトールと同年代の40半ばの中年男だ。しかし、見た目は真逆と言って良く、若々しい容姿を保っているヴィクトールに対し痩せぎすのせいか年齢の割に顔の皺が深く、はやくも頭髪にも白髪が混じっている。神経質そうな口ひげと、常に何かを企んでいそうな下がった目尻が特徴だ。


 「……それで、おじ様。〝例の物″が手に入ったとお手紙にはありましたけど……」

 

 あまり長居したくないヴィヴィアンは早速本題を切り出す。


 「おお、そうだったねヴィヴィアン。おい、あれを持て。……さぁ、ヴィヴィアンまずは寛いで」


 サロンのカウチに座るよう促され従うと、膝が密着するほどの距離でベンジャミンも腰を掛けて来た。供として連れて来たシェルナがカウチのすぐ傍にやはり黒子のように控え、極めて冷たい視線でベンジャミンを見つめている。


 ベンジャミンの指示で、マクレガー家の執事と思われる男がガラス製の宝石箱のようなものを白い手袋ごしに恭しく扱いながら運んで来た。


 カウチの前のテーブルに置かれたそれの小さな錠を外し、ベンジャミンはその蓋を開けた。


 内側は上等なベルベッドが敷き詰められ、いくつか仕切られている中に美しい装飾のガラス瓶が入っていた。


 「私のとっておきのコレクションだよ。全部法律上販売を認められていない秘薬ばかりだ。元々の入手経路はヴィクトールが握っていたからね、あいつ、一体どこにそんなコネを持っていたのやら……とにかくこれだけ集めるのは本当に大変だった。ごらん、どれも入れ物からして美しいだろう。全てそれぞれの薬品に合わせて特注で作られた入れ物だ」

 「素敵ですわ。それで……おじ様、例の物は……」

 

 放っておくとすぐに話が脱線して、長々と自慢話やコレクションについての蘊蓄うんちくを聞かされそうで、相槌もそこそこにヴィヴィアンは先を促す。


 「これだよ、ヴィヴィアン」


 そう言って、ベンジャミンが取り出したのは、まるで一見ハチミツのようなとろりとした金色の液体の入った手のひらサイズの瓶だった。表面にその原料となる植物だろうか、花の彫刻がある。しかしその造形はブラン聖王国で一般的にみられる花とは異なっている。


 ヴィヴィアンはその瓶を受け取り、目線の高さまで掲げて神妙な表情で見つめた。


 「……どれくらい飲めばいいんですの?どれくらいの期間効くのです?」

 「ほんのティースプーンひとさじ、それを毎日一度飲めばいい」

 「……それで、子供は出来なくなるのですね?」

 「飲み続けている間はね」


 ヴィヴィアンがベンジャミンに依頼をしたのは、堕胎薬の入手だった。


 「希少な薬だけあって、なかなか優秀なものだよ。結婚前に君に譲ったものは、違法には違いないが一般的に出回っている強制的な堕胎を促すものだ。よく失敗した貴族共が愛人に使うね。効果は確かだが母体への影響も大きく多用すれば、命も落としかねない。それに対してこの薬は、毎日ちょっとずつ飲むだけで、その間妊娠をしない体の状態を保ってくれる。体への影響もなくはないが、その時点で服用さえやめれば問題ない。言わば避妊薬だな」

 「避妊薬……それこそ望む効果ですわ。多少の副作用なんて気にしません」


 ヴィヴィアンはうっとりとその薬を眺めた。


 ヴィヴィアンは絶対に子供を身籠りたくなかった。


 自分の血を分けた、いやもっと正確に言うと憎んで止まない父親の血を残したくなかった。自分や父親にそっくりな顔をした子供がこの腹から産まれるのかと思うと心底ゾッとした。


 今のところ、クリストファーの謎のこだわりで自分達夫婦は清い関係のままだ。こういった薬は不要にも思える。しかし、クリストファーの判断基準がヴィヴィアンにはいまいち分かっていないこと、将来的に彼の心を掴む手段として夫婦の営みは外せないだろうと考えれば、早めに入手しておくに越したことは無いとヴィヴィアンは考えていた。


 そしてこれはクリストファーのためでもあった。


 ブラン聖王国では男側からは離婚を申し出ることが出来る。


 いつか、ヴィヴィアンが自分の本懐を遂げた時、または自分の正体がクリストファーに知れた時、彼は自分を見限ることが出来る。トカゲのしっぽ切りのように。


 だが、心根の優しい彼の性格を鑑みれば、自分との間に子供がいると、その子供のために彼のその選択肢を奪うことにもなりかねない。何事も用心してし過ぎることはない。


 ヴィヴィアンがほんの数秒、考えに耽っていると、何か粘着質な動きをする感触が太ももに感じられた。


 「……前にも言ったが、お代はいらないよ。ヴィヴィアン。その代わりに……」

 「……私はまだ夫と床を共にしておりません」


 ヴィヴィアンはさっとベンジャミンの手を払いのけ、冷淡に言った。


 「なんだって!もう結婚してだいぶ経つじゃないか!そんなことはないだろう」

 「事実ですわ。夫は、私のことをとても大事にしてくれているのです。彼はお互いの気持ちが真に通じ合い整うまでは、私とはそういう関係を持たないと言っているのです。ですから、私はそれまで純潔を守らなくてはなりません」


 ヴィヴィアンが冷たい視線を送ると、ベンジャミンはがっくりと項垂れた。


 この男は以前から何かにつけ、ヴィヴィアンの体を欲していたのだ。しかし、ヴィヴィアンがクリストファーと実質的な初夜を供にするまでは、彼女に手を出すことは叶わない。花嫁が清い身ではないと知られたら最後、貴族社会では純潔を保たなかった花嫁と間男は己の命でもってその罪を贖わなければならない。いくら争いを好まない穏やかな性格で有名でも、妻が不貞を働いたと知ればクリストファーとて黙ってはいないだろう。そして公爵家嫡男のクリストファーが本気を出せば、高々準貴族でしかないベンジャミンなど完全に社会的地位も財産も、そしてその命さえも抹殺されうることを彼も重々承知しているのだ。


 正直、ヴィヴィアンは自分の貞操にさほどこだわりはない。しかしそれが有効な武器の一つであることも知っている。とは言えこんな低俗な輩に安売りするつもりもないのだ。


 

 ―――用事は済んだ。


 ヴィヴィアンがさっさとこの面会を切り上げようとした時、ふとまだガラスケースに収納されている薬瓶の中に、既視感を覚える品があることに気付いた。


 「……おじ様、この、細い瓶は?」


 ヴィヴィアンは、尋ねる自分の声が僅かに震えたのを自覚した。


 ヴィヴィアンの視線が注がれる先を見て、ベンジャミンは何かを思い出したのか、爬虫類を連想させる実にいやらしい笑みを浮かべた。


 「……ああ、これか」

 

 そう呟き、ガラスケースの中から、濃い紫色の細長い小瓶を取り出した。そして、その蓋を取ると、ヴィヴィアンの鼻先に瓶の口を向けた。ふわっとバニラのような甘い香りが鼻孔をくすぐった。


 「甘い、良い匂いだろう?香油の様に思うかもしれんが、これは香りの華やかさからは想像もつかない猛毒だぞ。たった2、3滴、それが体内に入るだけであっという間に血管がやられ数十分で死に至る。特効薬もない。ほんの僅かでこの効き目だからな、茶に混ぜても味も変わらない。ただ甘い香りが足されるだけだ」


 愉快そうにつらつらと説明を並べるベンジャミンを尻目に、ヴィヴィアンはその小瓶を凝視していた。


 ―――母が亡くなる、数日前。


 母の鏡台に並べられた化粧品の数々を眺めるのが好きだった、少しおませな少女だったヴィヴィアンは、その日も母の目を盗んで母のおしろいやら口紅を使って遊んでいた。その中に、見慣れない紫色の瓶があったのだ。


 いつも母が好むのは薄いピンク色やベージュのケースのものばかりで、その紫は不自然に目立った。


 『なんだろう、これ……香水かしら?』


 不思議に思ったヴィヴィアンはその瓶をあけ、香りを嗅いだ。


 『わぁ、甘い香り……!お菓子に使うのかしら?それともやっぱり香水なのかしら?』


 鼻を刺激した何とも芳しい香りにヴィヴィアンは思わずうっとりと目を輝かせ、1滴それを出してみよう、と瓶を傾けようとした。


 『ヴィヴィアン!!!何をしているの!!!』


 初めて聞く、鋭い声だった。


 ヴィヴィアンがおいたをすると、普通の母親と同じく説教をすることは珍しくない母だ。また、この数年は精神的に不安定で父に対して金切り声で怒鳴り散らす場面を目にすることも度々あった。だが、今の声はそれよりももっと厳しい、まるで声一つで時間さえ凍り付かせてしまえるような絶対的な響きがあった。


 結果、竦みあがったヴィヴィアンは瞬間的にその蓋を閉じた。


 母グレースは足早にヴィヴィアンに近づくと、乱暴な仕草でそれを取り上げ、ヴィヴィアンに自分の部屋から出て行くように叱りつけた。その剣幕にヴィヴィアンは泣きながら謝り、もう決して母のいない時にその鏡台を荒らさないと誓った。


 するとグレースは我に返り、厳しく叱ってごめんね、と涙ぐみながらヴィヴィアンを強く抱きしめてくれたのだ。


 ……そうだ。あれが、グレースがヴィヴィアンを正面から抱きしめてくれた最後の抱擁だった。そしてその数日後のある暖かな日、ヴィヴィアンがクローゼットに隠れていて、父と母がヴィヴィアンの存在に気付かないまま午後のお茶を共にしていた時。母が自ら淹れた特別なローズティー。たしか、父に渡す前に二人の茶に香りづけの香油を入れていた。その、瓶の色は―――。



 「……おじさま、この薬を私に譲って頂くことは出来ませんか?」


 ヴィヴィアンは、抑揚のない声で尋ねた。


 「うん……?ヴィヴィアン、これに興味があるのかい?君はいけない毒花だね」


 何に使うのか、とはベンジャミンは尋ねなかった。どこか楽しそうな、ニタリとした笑みを浮かべた。


 「譲ってもいいが、これは私のコレクションの中でも、特別高価なものだ。……分かるよね?」


 いやらしい笑みを湛えたままのベンジャミンの手が、ヴィヴィアンのドレスの前身ごろに伸ばされた。ベンジャミンが匂いを嗅ぐような仕草でヴィヴィアンの首筋に顔を近づける。次の瞬間、音もたてずシェルナがヴィヴィアンの側に歩み寄ろうとするのを、ヴィヴィアンは視線だけで制止した。


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