前へ次へ
35/36

最終話 誓いの言葉 


 信じられない想いだった。


 いや、正確には信じたい、でも、それがぬか喜びだった時の失望や落胆が大きいために、にわかに信じることは出来なかった。


 ヴィヴィアンは、逸る心臓を押さえ、震える体でゆっくりと恐る恐る振り返った。


 そして次の瞬間、小さく叫び、口元を両手で押さえながらその場に崩れ落ちた。


 そこには、片時も忘れることの出来なかった最愛の者の姿があった。


 


 「……待たせたね、ヴィヴィアン」


 何よりも安心する優しい声。その存在を、早く確かめたい。なのに、涙で視界が歪んでその表情を捉えることが出来ない。


 「……っ……ふっ……うっ……とに……?ほんとに……あなたなの……?」


 嗚咽を漏らしながら、ヴィヴィアンは宙を彷徨わせるように両手を伸ばした。


 ああ、駄目だ、堪え切れず次から次へと溢れ来る涙が、邪魔をする。やはりその姿を確かめることが出来ない。


 そう、ヴィヴィアンが不安に口元を歪めた時、しっかりと手を握り返す感触があった。


 「そうだよ、僕だ。迎えに来たよ、ヴィヴィアン」


 片手は、ヴィヴィアンの右手をしっかりと握り、もう一方の手の指で、彼女の涙を拭いながら、クリストファーは微笑んだ。


 やっと、その顔が見えた。


 「クリストファーっ……!!」


 全身の力が抜け、ヴィヴィアンは引き寄せられるままその胸に飛び込んだ。


 「遅くなってごめん」


 そう、耳元でささやく声は間違いなく愛する夫のものだ。頬を寄せた胸元からは、確かな心音も聞こえた。クロイツ家の自分の部屋で聞いたあの音と同じ。


 「……っおそい、わよっ……!また、私をこんなに泣かせて、不安にさせてっ……!!」


 まともに考えられる状態じゃない頭は、想いとは裏腹な言葉を口にしてしまう。クリストファーが微かに苦笑いする声が聞こえた。


 違う、そうじゃない。


 言いたいことはそうじゃない。


 伝えたい言葉は、こんな可愛くない憎まれ口じゃないのに。


 子供のようにしゃくり上げる自分自身をコントロール出来ない。


 ヴィヴィアンは自分自身に腹が立って、それがまたもどかしくて癇癪を起してしまう。


 結局出来ることはクリストファーに思い切りしがみついて、泣きじゃくるだけだった。


 「……ごめん、もう、大丈夫だから」

 

 しがみ付いて来たヴィヴィアンの頭を優しく抱き寄せ、クリストファーはその頭にキスを落とした。


 ヴィヴィアンはみっともなく泣く自分を恥じながらも、まるで新鮮な空気を求めるように、顔を上げ、クリストファーに唇を寄せた。頭へのキスじゃ足りない。もっと、確かな温もりが欲しい。


 熱烈な愛撫に応えるように、クリストファーはヴィヴィアンの頬を片手で支えるように包み込み、何度も彼女の唇に自分のそれを深く重ね合わせた。


 口づけを交わすごとに、ヴィヴィアンは愛する人の存在をしっかりと確かめることが出来て、次第に落ち着きを取り戻していく。最後にクリストファーがヴィヴィアンの目元にもキスを落し、その涙を拭い去ってくれて、やっとヴィヴィアンは深く息を吐いた。


 「……無事でいてくれて嬉しい。あなたをずっと待っていたの」

 

 いつになく素直な気持ちを告げたヴィヴィアンに、クリストファーは少し眩しそうにその青い瞳を細めてはにかんだ。


 「……君が僕のために泣いてくれたから」

 「……え?」

 「君の涙が僕を救ってくれたんだ。深い傷を負ったこの胸に、君の涙が沁み込んで僕の命を繋ぎ留めた。それが僕に教えてくれたんだ、愛する人を残したまま寝てる場合じゃないってね」


 おどけるように笑ったクリストファーに、ヴィヴィアンは目をパチパチ、と瞬く。


 「君の言う通り、僕達はまだまだこれからなんだから。僕は僕の夢をまだ半分しか叶えられてない。愛する妻と、可愛い息子と娘が一人以上、白い大型犬も飼って家族みんなでピクニックするんだ」

 「……それって、あなたの希望ばかりじゃない」

 「うん、だから、今度は君の夢を聞かせてよ」

 

 呆れてあっけに取られたヴィヴィアンに、クリストファーは一つウインクをすると茶目っ気たっぷりにヴィヴィアンの頬をくすぐった。


 「……もう!……私の夢は、あなたの夢を叶えることだわ……!」


 赤面して口を尖らせたヴィヴィアンに、クリストファーはまた嬉しそうにはにかんだ。


 「じゃあ、二人の夢のために、世界を救おう」



 

 「―――お待たせしてすみません。彼女と『扉』を閉めて、家に帰ります」


 ヴィヴィアンにも手を貸しながらクリストファーは立ち上がり、遠巻きに二人を見守っていたヴィクトールに視線を向けた。


 若い娘夫婦の愁嘆場に、ヴィクトールはいささか呆れたような表情だった。


 「世界を救う?こんな愚か者の蔓延る世界をかね?まだ『浄化』は終わってはおらぬ。至らぬ『弟』でも、それなりに情けをかけてやり、捨て置いていれば図に乗り我と我が妻が築いた聖域を汚し、我が血族を滅びに追いやった。それでは飽き足らず、再び『禁忌の扉』に手を出すこの世界は穢れに満ちている、一度全てを破壊しつくし新たな世界を創造してしまう方がよほど効率が良い。そうは思わぬか?」


 この言葉は、ヴィクトールだけではなく、彼の中の『アゼル』からも発せられた言葉だった。


 アゼルは純粋に、今の地上の在り様を嘆いているのだ。


 クリストファーは厳しいその言葉に、すっと表情を引き締めた。


 「確かに、『扉』を閉めて1000年経った今でも僕達は未熟で争いは絶えない。人は騙し合い、足を引っ張り合い、時には殺し合う」

 「それは1000年前、お前が『禁忌の扉』を開く前にはあり得なかった状態だ。分かるだろう、ルカよ」

 

 ヴィクトールの、いや、アゼルの紅い瞳がクリストファーに刺すように注がれる。


 「確かに、無垢なままなら、人々は変化のない永遠の幸せを享受出来ていたんでしょう。それがルカの罪であることは、疑いようもありません。でも僕はやっぱり人々が好きなんです。1000年前と変わらずに。確かに僕らは、迷い、悩み、間違いを犯し、時に互いに傷つけあうけど、それと同時に間違いを認め、やり直し、より良い道を探って行くこともできる。そんな強さを人間は持っていると、僕は信じてる」


 クリストファーは歴史を好み、これまで数えきれないほどの歴史書を読み、学んで来た。それは1000年の間、人々が歩んできた道そのものだ。


 「……お父様、間違わない人間なんていないわ。それは、『扉』があるかどうかなんて、関係ないのよ。誰もが、誰かに愛されたくて、誰かを愛したくて、でもそのやり方に時に戸惑うからだわ。私のように、そしてあなたのように。でも、何度も失敗してももう一度歩み寄ることが出来る、この命が続く限り。お父様、そうでしょう?」


 クリストファーに支えられるようにして立っていたヴィヴィアンは、一歩踏み出し、父親に訴えかける。


 愛する者が傍にいてくれる。それだけで、何倍にも強くなれる。


 「……お前は、私を赦すと言うのか、お前から母親を奪った私を」

 「……もう、憎しみ合うのは嫌なの。それは私だけの願いじゃないわ」


 ヴィヴィアンの瞳が七色に煌めいた。その身体が、清廉な光を放ち始める。


 「どんなに愚かしくても、愛するのを止められないのよ。願っているのは変化のない無の世界じゃない。試行錯誤しながらもお互いに影響し合って、よりよい未来を探って行くそういう可能性のある世界の方がいいもの……!!」


 愛娘の言葉に、ヴィクトールはふっと寂しそうに微笑んだ。そして、再びグレースの眠る台座に歩み寄り、片膝を着いた。


 「……そうだな。愛する者を、ただ悠久の静寂に閉じ込めても、もう、その瞳に自分が映ることも、声を聞くことも出来ない。そこにあるのは、ただの虚無と孤独だけだ」


 乾いた声が、疲れ果てたその心を反映していた。


 「過ちを犯したのは、私も同じだ……もう、グレースを解放してやろう」

 「……お父様、お母様もお父様をとても愛していたと思うわ。だから、間違ったやり方だったけど、お母様もお父様を縛り付けようとしたのよ。死と言う永遠に。お願い……もう、お母様を安心させてあげて」


 ヴィヴィアンは涙を堪えながら、父に告げた。


 気付いていた。彼もすでに、グレースと同じくらい死の淵にいることを。


 『王家の庭』で受けた傷は深く、彼がこの悠久の空間でしか長く命を繋げないことを。


 ヴィヴィアンは、父に呼びかけた。


 「『扉』と一緒に、この地の時空のゆがみも正すわ。過去の亡霊も、その力も、もう必要ないのよ」


 決意を胸に、ヴィヴィアンははっきりと両目を見開いた。


 『女神』の力を解放し、『禁忌の扉』をその力ごと封印する。人々の歩みに、女神の導きはもはや不要だ。


 「……そうか。では、あの世でグレースに詫びよう。許してもらえるかは分からんがな」


 ヴィクトールは愛おしそうに、グレースの手に自分の手を重ねた。


 「……許してくれるわ、きっと。きっかけさえあれば」

 

 ヴィヴィアンは小さく頷いた。


 ふ、と微かに微笑んだヴィクトールはグレースの手を握ったままヴィヴィアンに顔を向けた。


 「……ヴィヴィアン、お前には寂しい想いをさせた……すまなかった」


 そう、頭を下げた父に、ヴィヴィアンは胸を詰まらせた。


 やがて、首を振り、言った。


 「……言葉が足りなかったのは、私も同じよ。私は、お父様似だから……見た目も、性格も。……だから、私の事も許して、本当は大好きだったのよ、お父様の事……」


 ヴィクトールの瞳にはかつて見たことの無い程の慈愛が込められていた。


 「その言葉だけで、父親冥利に尽きるな」


 ヴィヴィアンも父に微笑みを返し、そして隣でずっと父娘のやり取りを見守っていたクリストファーに振り向いた。


 その澄んだ青い瞳に、自分の姿が映っていた。


 「クリストファー……私を捕まえていて。私が、また、あなたのところに戻って来れるように。あなたの胸が、私の帰る場所なんだって、思い知らせて」


 確信があった。クリストファーの存在をしっかりと感じることが出来れば、自分は自分を見失うことは無い。それは、『女神』の強大な精神にさえ絶対に負けない。


 彼を愛する想いが、自分をこの世界に繋ぎ留める、『碇』となると。


 「……仰せのままに、愛する人」


 クリストファーはいたずらっ子のように微笑むと、ヴィヴィアンを後ろから抱きしめた。


 広くしっかりとした温もりを背中に感じながら、ヴィヴィアンは前に回されたクリストファーの両手に重ねるように、自分の腹部に手を当てた。


 じわり、と温かさが広がる。


 もう、何も怖くない。


 クリストファーが、ヴィヴィアンの首元にそっと顔を寄せる。


 そして囁いた。


 「女神セレニスの御名において、私クリストファー・クロイツは、ヴィヴィアンを生涯の妻とし、いついかなる時も命をかけて愛し守り、幸せにすることを誓います」


 ヴィヴィアンの耳に、この上なく心地良い声が響いて、何とも言えない幸せな気持ちが胸を満たした。


 なんて贅沢な、くすぐったい気持ち。


 応えるように、ヴィヴィアンも口にした。


 「女神セレニスの御名において、私、ヴィヴィアン・クロイツは、クリストファーを生涯の夫とし、いついかなる時も命をかけて愛し支え、幸せにすることを誓います」


 力を解放する、一瞬前、ヴィヴィアンはしっかりとした声で、呟いた。


 

 「愛してるわ、クリストファー……」


 

 世界が、癒しの光に包まれる―――。


前へ次へ目次