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第三十二話 悠久の孤独 


 初めての幸せを手にしたと思った。


 自分の存在が許されたような、やっと息をすることが出来たようなそんな温かさと明るい世界を教えてくれた人だった。


 まるで、それがひと時の幻であったかのように、ヴィヴィアンの手のひらからすり抜けていく。


 嘲笑うかのように。


 この身体にはもう、彼の刻んだ痕は、一つも残っていない―――。



 

 「―――……女神よ、未だ塞ぎ込んでいるのか」


 その言葉と共に、宛がわれた部屋に人の気配を感じ、薄暗かった室内に音もなくいくつかの明かりが灯るのが分かった。


 ヴィヴィアンはベッドに蹲ったまま、虚ろな瞳を入って来た人物に向けた。

 

 「……あなたは誰?……なぜ私をそんな風に呼ぶの」


 石畳の上を、カツ、カツ、と微かな靴音が鳴り響く。


 「私はお前の父親だよ、娘よ。そして古の記憶を引き継ぐ者でもある。お前が、『女神』の人格を呼び覚ましつつあるように」

 「……」


 ヴィヴィアンは返事をしなかった。


 ヴィクトールは無言でヴィヴィアンのベッドに腰掛け、その長い髪を一房すくい上げた。


 「フ……否定も肯定もせぬか。まぁ、良い。焦る必要はない。まだ世界の『浄化』は終わってはおらぬ。『扉』を閉めるのは時期尚早と言えよう」


 そう言うと、ヴィクトールは厚い擦りガラスと鉄格子に囲われた窓越しに外界に視線を向けた。そこには、黒い雲が立ち込め、不気味な稲光が縦横無尽に走っていた。


 ―――ここに連れて来られてから、もう、何日経ったのだろう。


 ヴィヴィアンはぼんやりと頭を巡らせた。


 あのブラン聖王国の『王家の庭』で起こった出来事の後、ヴィヴィアンはヴィクトールの操る不思議な力によって瞬時にこの城に連れて来られていた。


 このノワール城に。


 この城には自分と父親以外の人の気配はない。


 それもそのはずだ、30年以上前に滅びた国の廃城なのだから。


 この城に来て以来、いや正確にはユングが『禁忌の扉』をこじ開けてからヴィヴィアンは自分がそれまでと異質なものに変わってしまっていることを自覚していた。


 一度も食物を口にしていないのに、腹がすくこともなく、睡眠をとる必要性も感じない。


 汚れてボロボロになっていた身に纏うドレスも、いつの間にか原型を取り戻し、身体の穢れも小さな傷のひとつさえも消え去っている。


 『ただの人間』という存在から自分が外れてしまっていることを理解していた。傍らで無言で自分を見つめる父のように。


 窓の外からは時折凄まじい風がうねる音が聞こえて来る。それはこの城がなにも山の中腹にあるからだけではないだろう。


 風音だけではない、災厄の訪れを知らせるような地響きまで遠い方角から幾度も耳に飛び込んで来る。

 

 まるで、終末の世界。


 たった数日で、世界がこれほどまでに変貌してしまうなんて。


 『禁忌の扉』とは、それほどまでに禍々しいものだったのだ。伝説の中だけの存在ではなく。


 ……でも、もはやそれすらもどうでもいい。


 ヴィヴィアンは心の中で独り言ちた。


 もう、どうでもいい。憎み続けていた父親とたった二人、残されるくらいなら、この世界など滅びてしまえばいい。


 愛する者を失った、こんな世界など。


 ヴィヴィアンにとって、クリストファーは初めて心に明かりを灯してくれた希望の光だった。


 暗い水底から引き上げて、狭いクローゼットから見つけ出してくれて、自分の存在を肯定してくれた。


 初めて、愛される喜びを教えてくれた人。


 でも、彼は失われてしまった。


 あまりにも残酷に、情け容赦なく。


 クリストファーのことを想うと、ヴィヴィアンの胸は再び焼けつくような怒りと強い後悔の念に埋め尽くされた。


 それは自分自身への怒りだった。


 身勝手な自分の目的のために彼を騙し、無垢で純粋なその魂を何度も傷つけ、一度は黒く染め上げたあげくに深い傷を負わせ、自分のために死なせてしまった。


 彼に、詫びることも、本当の気持ちを打ち明けることすらも出来ないまま。


 ほんの少しの勇気さえ、自分が持てないせいで。


 たった一言、愛していると、せめてそれだけでも伝えられていたなら。

 

 この胸はここまで激しい灼熱の炎に変わることは無かっただろう。


 今のヴィヴィアンにとって、この世で一番呪わしいのは自分自身だった。


 こんな世界も、忌まわしい自分も何もかも消えてなくなってしまえばいい―――!!


 最大級の憎悪の言葉をヴィヴィアンが自身に叩きつけた時、頭の奥で、それに反発する『声』がした。


 ―――駄目よ、憎しみに囚われては。


 もっと、ちゃんと目を見開いて、外を見て。


 世界にはあなたと同じように、誰かを想い涙を流す人がたくさんいる。


 誰かを守りたい、救いたいと祈る人々がいる。


 負の感情に支配されて、『私』の存在をかき消さないで。


 『私』を受け入れて、手遅れになる前に早く。


 『扉』を閉じさせて―――!



 「―――やめて、私に指図しないで!!」


 頭に響く『声』にヴィヴィアンは両手で頭を押さえ、大きく左右に振った。


 もう、こんな風にずっと、誰かの『声』が自分に呼びかけている。『扉』が開かれてから。


 その度に、ヴィヴィアンは全力で拒絶した。


 やめて、やめて、私に干渉しないで。

 

 今それを受け入れてしまえば私じゃなくなってしまいそう。


 せめて、愛する夫を想う気持ちを忘れさせないで。彼が愛すると言ってくれた私のままでこの命を終えさせて―――。


 全身を強張らせ、ギュッと目をつむったヴィヴィアンを、紅い瞳が冷たく見つめていた。


 「……ふむ」


 ヴィクトールは一度、顎に手をやり、思案したように目を細め、そして立ち上がった。


 「……娘よ、付いて来るがいい。お前に見せたいものがある」




 ヴィクトールに誘導されるまま、ヴィヴィアンは半分心をどこかに彷徨わせたまま暗く長い冷たい石畳の廊下を進んでいく。


 ふと、壁に掛けられている横長の鏡に自分達の姿が映っているのが見えた。


 虚ろな表情で映っているその女の髪は、自分が知るよりもより色素が薄く、白金に近かった。そして、その瞳は、何色とも形容のしがたい角度によって色合いを変える七色に変化していた。

 

 抗っても、否定しても、自分は否応なく変わって行っている。


 ヴィヴィアンというちっぽけな存在から、女神セレニスへと。

 

 もう、どうにでもなればいい。


 ひどく疲れ果てた心境で、ヴィヴィアンは薄く笑った。


 ヴィヴィアンはかき消えて、女神セレニスが目覚める。


 地上に蘇った女神は世界を救い、苦しむ人々を希望に導くのだろうか。


 私には、関係ないけれど―――。


 白金の髪が、名残惜しむようにふわりと舞った。


 


 「―――……ここは……?」


 ヴィヴィアンは小さく呟くように問いかけた。


 外界から閉ざされた異質なこの城の中でもこの空間はさらに何かが異なるとヴィヴィアンは感じた。しかしその違和感の原因が何なのか、ヴィヴィアンはにわかには理解できなかった。


 連れて来られた部屋は、城の最奥、おそらく城主のみが立ち入りを許される玉座の間のようだった。


 石造りの太い柱と高い天井のアーチに沿って、何か宗教画のような壁画が埋め尽くし、重厚で幻想的な空気に満ち満ちている。


 玉座のさらに奥には、一段高い祭壇のようなものがありそこに一つの棺のような金の台座が見えた。


 その台座を、この場には似つかわしくない色とりどりの花がそれを囲うように生い茂り、蔓を伸ばしている。


 「……こちらに来なさい」


 有無を言わさぬ口調で、ヴィクトールは奥の祭壇の方へと進んでいく。ヴィヴィアンは一瞬だけ躊躇った後、諦めたように後に続いた。段々近づくにつれ、ヴィヴィアンの目に入ったもの、それは―――。


 

 「…………!!!!!」



 反射的に息を呑み、背筋を凍らせ、目を瞠った。


 目に映っているものが、信じられなかった。いや、受け入れることが出来なかった。


 ここにあるはずがないもの。いや、『この世に』もう存在しているはずがないものだった。


 「………お母様……!!!」


 そう、その台座に眠るように横たわっているのは、幼き日に亡くなったはずの母、グレースだった。しかも、最後にヴィヴィアンが別れを告げたあの当時の姿のままで。


 「……どう、して……」

 

 声は、しゃがれて、かろうじて言葉になった。


 凍り付いたヴィヴィアンは、その場から進むことも、後ずさることも出来なくなった。


 ヴィクトールはそのヴィヴィアンの様子に薄く笑みを浮かべ、構わずに台座の傍らまで歩いて行った。


 「……フ、驚いたか。……懐かしいだろう?14年前に亡くなったはずのお前の母親だ。……正確には死んではいない……生きているとも言い難いが」


 上体を屈め、ヴィクトールは眠るグレースの顔に自分のそれを近付けると、愛おしそうに亜麻色の髪を一房すくい、口づけた。


 「……これは、いったい、どういうこと……お父様……?」


 震える声でヴィヴィアンは尋ねた。くらりと酷い眩暈を覚えた。


 こんなことは現実にはあり得ない。


 どうして14年前に死んだはずの母が、当時の姿のまま横たわっているのだ。


 「……お前も感じているだろう、ここは、閉ざす『扉』の在る場所だ。外界とは違う時間軸が流れ、この空間では老いることも、肉体が腐り落ちることも無い。……14年前、こと切れる直前のグレースに私は自らの『血』を与え、辛うじて仮死状態に保つことに成功した。そしてかりそめの葬儀を終えた後、彼女をこの場所に連れて来たのだ。ここに居続ける間、グレースは目覚めずとも死ぬことも無い」


 ヴィヴィアンはゾッと背筋を凍らせた。


 ただただ恐ろしかった。父の異常なまでの母への妄執が。


 それは憎しみなのか、それとも……。


 「……お父様の目的は何?14年前、お母様が毒を飲んだ時にお母様になぜあんな言葉を発したの」

 「……あんな言葉?」


 訝しむ父親に、ヴィヴィアンは声を張り上げた。


 「とぼけないで!!あなたは死にゆくお母様を締め上げて、裏切り者、と詰ったわ!『何のためにお前を選んだと思っている、お前には娘を産ませてやったのに』と非道い言葉まで吐いて!!」


 叩きつけた言葉と共に、ヴィヴィアンの中に長年蓄積していた父親への憤怒、憎悪の感情が再び蘇って来た。そうだ、父へのこの恨みを糧にこの14年間を生きて来たのだ。


 ヴィヴィアンの言葉に、ヴィクトールは僅かに眉を寄せ、ふっと力なく笑った。


 「……やはりお前はあの場面を見ていたのだな。そして私をそれほどまでに憎んでいたのか。……当然だ、私は良い父親にはなり得なかった」

 「しおらしい演技はやめて!!今さら父親面なんてしないで!!」


 ヴィヴィアンは力の限り父親を睨み付け、糾弾した。


 「……お前の言う通り、私は自らの目的のためにグレースを妻に選んだ。そしてこの身に流れるアゼルと女神セレニスの血を受け継ぐ子を、グレースだけに産ませることを許した。ブラン王家をいつか我が血で染め変えるために。娘のお前が王家にも近いクロイツ公爵家に嫁ぎ、その子が王家に再び嫁ぐ。さすれば時間はかかるが、もはやノワールの血も途絶えることも無い」

 「ノワールの……血……?」


 ヴィヴィアンは戸惑った。


 「……そうだ。ノワール共和国がブランの手によって滅ぼされた時、同胞、血縁者のほとんどを失った私にこの身に流れる『アゼル』の血が呼びかけて来た。この血を絶やしてはいけないと、そしてノワールの民の無念を晴らせと。それからの私はブランへの恨みによって生かされていた。生きて、出来得る限りブランを混乱させてやろう、そして我が血を何としても残してやると。この血を隠し残すには王家が最も確実だ。しかし奴隷上がりの身では直接ブラン王家に近づくことは出来ない。そこに、グレースが現れたのだ」


 淡々と、どこか遠くを見つめながらヴィクトールは語った。


 「没落目前の貴族の娘なら、誰でも良かったと言う訳ね……」


 ハ、とヴィヴィアンは鼻で笑おうとして、出来なかった。そうだ、それはかつて自分自身がクリストファーにしたことと同じだ。


 「……そうだ……初めは、騙しやすい、世間知らずで頭の弱い女だと思っていた。私の語る偽りだらけの愛の言葉を純粋に喜び、素直な愛情を私に返した。臆面もなく、私に語ったのだ。知ったような口で、『あなたの孤独はもう終わった。私がこれから、いつまでも傍にいる』と」


 紅い瞳を見開き、そう虚空を見つめながら呟いたヴィクトールは突然、グレースの上半身を抱き上げ、自分の方に寄せた。


 「私を裏切ることは許さぬ……!だからその身と魂をもってそれを全うしてもらう……!!」


 まるで血を吐くような声音だと、ヴィヴィアンは思った。


 自分が知るよりも、さらに深い孤独と絶望、苦悩がヴィクトールをずっと支配して来たのだと、ヴィヴィアンはこの時初めて悟った。


 信じられない思いで、呟いた。


 「……お母様を……愛していたと言うの……?」

 「……」


 ヴィクトールは答えなかった。


 しかし、その苦悶の表情が、何よりも物語っていた。


 ヴィヴィアンは思い知った。悲しい程に、自分達は似た者同士だった。


 自己を呪い、孤独に怯え、愛に飢え、その愛のためにまた自らを滅びに導いて行く。


 この、悲しみの連鎖。


 「……お母様を、永久にこの牢獄に閉じ込める気なの?魂の安息も与えぬまま、自分の手元に縛り付ける気なの、お父様……?」

 「これは私とグレース、夫婦二人の問題だ……!いくら娘とは言え、口を挟むことは許さぬ……!!」


 ヴィヴィアンの声に、初めてヴィクトールは怒りを滲ませた。その、グレースの肩を抱く手にさらに力が込められた。


 「ふざけないで!!!」


 ヴィクトールの怒りに反射するように、ヴィヴィアンも感情を爆発させた。


 「ただ一度、愛していると言えば良かっただけだわ!!お父様自身の言葉で、お母様を安心させてあげれば良かったのよ!!何が一番大切で、何を失いたくなかったのか、ほんの少しの勇気をお父様が持てなかったせいで、家族はバラバラになったんだわ!!!!」


 大声で、泣きながらありったけの想いをヴィヴィアンは叩きつけた。


 そうだ、ノワールの血を残すためとか、復讐のため、なんてどうでも良かったのだ。


 ただ、目の前の幸せを認めて、それを守ることに、父が全力を向けていたなら―――!


 そしたら、母は今も、自分達に少女のようなはにかんだ笑顔を向けてくれていただろう。物言わぬ人形と化さずに。


 「二度と目覚めることのないお母様にいくら呼び掛けても無駄だわ、永遠にお父様はお母様から返事をもらうことは出来ない。全部自業自得よ、最後に一人、取り残されたって、孤独に、打ち震えたって……!私も、あなたも、本当に応えて欲しい人を喪ってしまったんだから………!!!」


 ヴィヴィアンの言葉に、ヴィクトールの顔色が変わった。その目は不気味に見開かれ、ヴィヴィアンに憎々し気に向けられた。


 「何を言う……グレースはここにいる。まだこうして、触れればその存在を感じることが出来る。微かだが、脈も熱も感じることが出来る。お前にもさぞ寂しい想いをさせたのだろう、この地で、親子三人再びやり直せば良い……!!」


 ヴィクトールはそう言うと、眠れるグレースの顔にその頬を寄せた。


 ヴィヴィアンはその姿に、これ以上ない悲しみを覚えた。


 「……なら、私も同じように、物言わぬ人形としてずっと傍に留め置いたらいいわ!!!それで自分の愚かさを思い知ればいいのよ!!!この世界でたった一人きり、思う存分孤独を味わえばいいわ!!!」


 そう、言い放ったヴィヴィアンは、自らの意識をあえて手放そうとした。


 分かっていた。


 『女神』の強大な人格を解放すれば、寄る辺のないちっぽけな人間としての『ヴィヴィアン』の精神など、あとかたもなく消し去られてしまう。


 でも、もうヴィヴィアンにとっても意味が無いのだ。『自分』だけが残っていても。


 愛する人がいなければ。



 その時―――。




 「―――それは、僕が困るよ。僕は子供みたいに泣いたり笑ったりする君の方が好きだから。夫婦喧嘩も、一人じゃ出来ないし」


 という、どこかその場にそぐわない、落ち着いているが少しいたずら心も含んだ穏やかな声が、ヴィヴィアンの耳に飛び込んで来た。


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