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第三十一話 覚醒 


 どうしてのこのこついて来てしまったんだろう。


 夫の顔見知りだという、不審な男の言葉を信じて。


 自分がこの場に現れたことで、かえってクリストファーの足を引っ張ってしまっていることが嫌というほど分かった。

 

 それだけじゃない。自分はこれまで、本当の闘いの場面など、ほとんど見たことが無かった。


 目の前で繰り広げられる、熾烈な命の遣り取りに、ヴィヴィアンは恐れをなして竦みあがっていた。


 父親を暗殺するという仄暗い計画を胸に秘めていたとしても、結局は一介の小娘に過ぎない。殺戮の場面なんて耐えられるはずもない。


 さっきから、心臓がいやに大きく鼓動を打ち、正体不明の強い圧力が外側からも身体の内側からも彼女自身を締め上げている。


 しかも、いつからか酷い地響きや雷鳴まで鳴り響き、それが余計にヴィヴィアンの胸をざわつかせる。むくり、とヴィヴィアンではない『別の何か』が起き上がろうと内側で暴れ出している。


 ―――怖い。


 自分が自分でなくなりそうな、本能的な恐怖がヴィヴィアンを蝕んでいた。


 傍らには、つい数刻前に邪悪な騎士団長に肩を貫かれた父が蹲っている。意識があるのかも分からない。


 既に彼は多くの血をその身から流し過ぎている、今まだ命があるだけ奇跡的だった。


 ヴィヴィアンはどうすることも出来ず、ただひたすらそれ以上血が流れないように自分のドレスのスカートで父の傷口を押さえ続けていた。


 もはや手当てをしているのか、不安と心細さに父親に縋っているのかも分からない。


 

 クリストファーとゼノンの二人は、ヴィヴィアンが見る限りユングと対等に渡り合っていた。いや、対等どころではない。


 クリストファーの動きは彼が剣を振るうごとにその鋭さを増し、より確実にユングを追い詰めて行っていた。


 彼らがユングを止めてくれれば、何とかなる。


 彼を信じていれば、大丈夫。


 何故か、そうヴィヴィアンは感じ、少しずつ心に落ち着きを取り戻し始めていた時―――。


 

 「俺は負けるのが大っ嫌いでね……やれっ!!」



 というユングの鋭い声が飛んで来た。


 ぞくっ、と寒気を感じ、ヴィヴィアンは後ろを振り返った。



 そこには、死神の顔をした、剣を振り上げた一人の騎士の姿。


 

 恐怖に、息も出来ず、ヴィヴィアンは身体を強張らせた。


 

 「ヴィヴィアン―――!!!」



 硬直しているヴィヴィアンの前を遮るように、黒い影が立ち塞がった。


 

 影は死神の剣をその身に受けながら、自らも持っていた剣を突き出した。


 

 心臓を貫かれた騎士は、背中から倒れ込む。



 そして、剣撃を正面から受け止めた影は―――愛する夫は、ヴィヴィアンに振り返り、優しい青い瞳を向けた。


 

 怪我はない?、とでも尋ねるかのように。


 


 そのまま、胸から真っ赤な鮮血を放ちながら、クリストファーの体は、ヴィヴィアンの目の前で崩れ落ちた―――。




 「クリストファーっっっ―――!?!?!?いっ、いやあああああぁ!!!!」



 ヴィヴィアンは絶叫した―――。




 硬直なんてしている場合じゃない。ヴィヴィアンは必死で地面に倒れ込んだクリストファーの元へ足をもつれさせながら駆け寄った。


 胸の傷は深い。ヴィクトールの肩の比ではなく、新たな血が次から次へと溢れ出している。



 「クリストファー、いや、いや、こんなの噓、しっかりして、お願いよ……!!」


 動揺し過ぎて、何も考えられず、ヴィヴィアンは嫌、という言葉とクリストファーの名を繰り返し繰り返し呟く。


 「ヴィヴィアン……」


 クリストファーが呻くように喉の奥で愛しい妻の名を呼んだ。


 その手が、弱々しくヴィヴィアンの頬に伸ばされる。


 ヴィヴィアンは反射的にその手を取り、自分の頬に誘導する。


 「泣かないで……」


 再び、クリストファーの掠れた声が、ヴィヴィアンに語り掛ける。


 「クリストファー、こんなの嫌、私達、これからなのに、これから、ちゃんと夫婦らしくやっていけるのに、どうして」

 

 混乱するヴィヴィアンは、上手く言葉を紡ぐことが出来ない。


 「ヴィヴィアン……そうだ、僕達、これからなんだ。これから、もっと君に触れて、君を愛して、君を……幸せにするって……それが、僕の生きる意味だから……」

 「……そうよ……こんなんじゃ、全然足りないわ。私と、温かい家庭を作るんでしょ?私、まだ何一つ叶えられてないわ。あなたにっ……何も、返せてないっ……」



 ヴィヴィアンの瞳から大粒の涙がいくつも零れた。


 「だからっ……お願い、私を置いて、逝かないでっ……!!!」


 涙が弾け、それはクリストファーの胸元に飛び散った。傷口に、染み込むように。


 

 ゴフッ、とクリストファーが咳込んだ。


 彼の口から大量の血が溢れ、口の端から地面に落ちた。



 「……ヴィ……ヴィアン……」



 ヴィヴィアンの頬に添えられていた手が、力を失いだらんと下がった。


 すうっと、ヴィヴィアンの大好きな、澄んだ青空のような瞳が閉じられ―――。



 「クリストファー!!!!!」


 

 

 頭が真っ白になり、ヴィヴィアンは混乱のまま、夫の名前を声があらん限りに叫んだ。


 返事がない。


 血の気のない、蒼白なクリストファーの顔に震えながらヴィヴィアンは手を伸ばす、しかし―――。



 「―――泣くな、『女神』よ。矮小な人間のために、お前がその神聖な涙を流してやる必要はない」



 ヴィヴィアンの呼びかけに『応えた』のは、思いもよらぬ人物だった。


 低い声音と共に、ヴィヴィアンと彼女の前に横たわるクリストファーの上に影が落ちて来た。


 反射的にヴィヴィアンは、顔を背後に向けた。



 血のように紅い瞳、月よりも清廉な白銀の光を放つ長い髪。


 

 冷たい笑みを浮かべた、ヴィクトールの姿がそこにはあった。


 

 「この世は汚れている。一度『浄化』せねばならぬ……その上で、新たな『楽園』を興そうぞ、我が女神よ」

 

 

 ヴィクトールはそう口元に微笑を浮かべ、ヴィヴィアンに手を差し伸べた。


 「お父様……?一体、何を、仰っているの?私は、あなたの娘よ……女神ではないわ」


 

 ヴィヴィアンは答えながら、目の前が暗くなって行く気がした。恐ろしい予感が、体中を駆け巡り、警告を鳴らしている。


 

 「まだ、『覚醒』まではしておらぬか……まぁ、良い。まずは、我らに楯突いた愚かな罪人どもに、神の裁きを」



 そう、ヴィクトールは冷酷に言い放つと、右手を高く掲げた。


 

 その、次の瞬間、とてつもない雷が地上に轟音と共に落ちて来て、ゼノンと鍔迫り合いを繰り広げていたユングを脳天から貫いた。



 ジュッという微かな音と共に、悲鳴さえも上げさせる間もなく、肉の焦げるような匂いを残し、その身体は一瞬で『燃え』た。


 

 「―――!!!」


 

 あまりの衝撃に、ヴィヴィアンは声も出せず硬直した。



 人ならざる者の、絶対的な力。


 まさに、審判ともいうべき、極めて破壊的で強烈な奇跡。


 ヴィクトールは、いや、父親の姿をした『何者か』はヴィヴィアンに微笑みかけた。それは、ヴィヴィアンが幼い頃に大好きだった父の笑顔で。



 「それでは我が女神よ、行こうではないか。天の玉座に」


 


 ヴィヴィアンの腕を問答無用で掴み、その身体を引き上げるヴィクトール。


 ヴィヴィアンの身体が、クリストファーから引き離される。


 とっさにヴィヴィアンは夫へ手を伸ばした。しかし、その手が彼に触れる前に、彼の姿は、いや、とりまく『世界』は、掻き消えた―――。




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