第三十話 禁忌の扉
クリストファーが振り返った先には、いつの間にここまで辿り着いていたのか、クリストファーとゼノンの剣の師でありブラン聖王国の騎士を束ねる騎士団長ユング・ランカスターの姿と、愛する妻ヴィヴィアンが立っていた。
ヴィヴィアンは父親の惨状に、顔色を失くし、絶句している。
クリストファーは戦慄した。
彼女を、安全な場所に残して来たはずなのに。
「ユング団長!?なぜここに!?なぜヴィヴィアンを連れて来たのです!?!?」
クリストファーは驚きと怒りのあまり、鋭い口調で詰問した。
ユングの登場に、クリストファーはすべての黒幕が彼であると直感で理解した。いくらルキウスが乱心したとしても、指揮系統の異なる騎士団まで即時に動かすことは不可能だからだ。
しかし、クリストファーの剣幕にもユングは全く動じる様子もなく、口の端をにやり、と上げた。
「……なに、野郎ばっかりというのも味気ねぇだろ?こういうのは、綺麗どころがいてより絵になるってもんだ」
「ふざけるな!!」
おどけた騎士団長に、クリストファーは激しい怒りを叩きつけた。
「ヴィヴィアン、僕の傍に!君は僕が守る!!」
クリストファーはヴィヴィアンに手を差し伸べ、自分の方に逃げて来るように示した。ヴィヴィアンは一瞬動揺した後、すぐにクリストファーの方に頷き駆け寄ろうとする。が―――。
「おっと、独り占めは良くないんじゃないか?女神のご加護は皆に等しく与えられるべきだろう」
と、ユングがその大きな体でヴィヴィアンの行く手を阻んだ。
「何をするの、どきなさい!!」
「団長、一体何を考えている!?ヴィヴィアンに何をするつもりだ!!!」
怒りが限界を突破したクリストファーが、ついに自分の剣を抜いた。ユングはその様子に楽しそうに目を細めた。
「……いいな、お前のその目。俺は一度、本気のお前とやり合ってみたかったんだよ。だがまだだ、まだ舞台は整っちゃいない。最後の仕上げと行こうかね!!」
そう言うと、ユングは自らの大剣を抜き放った。そして、何を思ったかルキウスにその猟奇的な視線を向けた。
「ユング……、貴様、俺を謀ったのか!!ヴィクトールの血を流しても、扉はびくとも反応しないではないか!!」
ルキウスの問いかけに、ユングは嘲笑うように鼻を鳴らした。
「すいませんねぇ、王子。嘘は言っちゃいねぇ。ただ、情報が一つ足りなかっただけだよ。扉は『アゼル』、『セレニス』、そして『ルカ』の血で開くってな!!!」
そう言うと目にも留まらぬ速さでルキウスに間合いを詰めると、その胴体を大剣で一刀両断した―――!
勢いよく、その血が噴き出し、地面に飛び散った。すでにヴィクトールの血で赤く染まっていた、石造りの床に。
その次の瞬間、目に見えないとてつもない重力がその場に満ち、床から柱に描かれている文様に眩い光が走った―――!!
地面が大きく鳴り響き、揺れた。
「ヴィヴィアン!!」
クリストファーはありったけの声でヴィヴィアンを呼び、手を伸ばした。
ヴィヴィアンは必死に駆け寄り、その手を取った。
いよいよ大きくなった光が、辺り一面を覆い隠し、世界は一瞬その姿を消した。
「……愚か者が……再び、禁忌に手を出しおって……」
ゆっくりと集束していく光の中、低い、しかしそれだけで地上を揺るがすほどの存在感のある声が響いた。
「ヴィクトール殿!?」
クリストファーは目を剥いた。
彼が目にしたのは、今だ手枷に両手を縛られ、自由を奪われつつも絶対的な凄みをその血よりも紅い瞳に宿らせながら顔を上げた、ヴィクトールの姿だった。
彼の乱れた髪は、まるで蛇のようにひとりでに宙をうねり、その色が根元から漆黒から白銀へと変わっていく。
「まずはお前が目覚めたか、アゼルよ。元々ヴィクトールという人間の中にすでに潜んでいたんだろう。だからヴィクトールは『扉』を開かずとも、封印されているはずのお前の力、『未来予知』と『魔眼』を使えた。稀代の商売人ヴィクトールのからくりは、こんなところにあったと言う訳だ」
様相を変えたヴィクトールの姿を興味深そうに見やりながら、ユングは自らの大剣についたルキウスの血を払った。
「貴様の狙いは何だ……『弟』の子孫でも、ましてや『我』の血族でもなかろう。ただ人である貴様が、なぜ地上の混乱を望む……?」
ヴィクトールは、いや『アゼル』は問いかけながら、ゆっくりと立ち上がる。それに合わせて、鉄の手枷、足枷がパキン、と音を立てて割れ、その場に力なく落ちる。
「おっと、お喋りは後だ。形勢が悪くなる前にやることやらせてもらうぜ―――!!」
そう言うと、ユングは、今だ光を放っている床の文様の中心、『3つの血』が溜まっている場所に、大剣を叩きつけ、割った―――。
その瞬間、とてつもない地響きが地上を襲った!
と、同時に、ひどい船酔いにも似た圧力があらゆる方位から自分を締め付けて来るのをクリストファーは感じた。
「……っ!?何だ……っ!?」
見ると、傍らで、ヴィヴィアンも血の気を失くして蹲っている。その姿がクリストファーより、よほど辛そうだ。
「アゼル、ルカ、セレニスの血が反応してるんだ!封印が解かれたから……!」
ゼノンも酷い揺れに体勢を崩しながら叫んだ。
クリストファーの中で、何か異質なもの、まるでそこだけ自分であるのに自分ではないようなおかしな感覚が生まれて来ていた。それは、自分の意志とは関係なく今にも暴れ出しそうな衝動。
しかし、クリストファーはその衝動をかろうじて自分の中に押し止めながら、愛する妻へ手を差し伸べ、どうにかその身を支えようとする。ヴィヴィアンも弱々しくもクリストファーに向けて手を伸ばす、その視線がクリストファーごしに遠くを見つめ、大きく見開かれた。
「お父様っ……!!」
ユングの大剣が、ヴィクトールの左肩を大きく貫いていた。
だがそれも、咄嗟に機転を利かしたゼノンが揺れる地面に足を取られながらも何とか体当たりを食らわし、軌道を逸らしたおかげで急所を外し、一命を取り留めている状況だった。
「クリストファー!!ヴィヴィアン嬢を連れて逃げろっ!!俺が時間を稼ぐ間に!!」
ゼノンは剣を抜きながら、クリストファーに叫んだ。
「そうは行かないっ!!僕も戦う!!」
クリストファーは大きく首を振った。ゼノンの腕では、王国一の腕前を誇るユングにやられてしまうのは目に見えていた。親友を見殺しには出来ないし、義理の父親も助けなければならない。
それに、この一連の出来事を、尊敬する剣の師が裏で操っていたことも、クリストファーにとって、決して見過ごすことの出来ない事実だった。
「ユング団長、あなたの思い通りにはさせない!!」
クリストファーは叫び、重い体をひきずり剣を構えユングに襲い掛かった。
「面白れぇ!!そう来なくっちゃな!!」
ユングは高らかに笑って、ヴィクトールから大剣を抜きゼノンを蹴り飛ばしてクリストファーの攻撃を迎え撃った。
鋼鉄同士がぶつかり合う、激しい金属音が一回、二回、三回、と何度も響き渡る。
『扉』が開いたことで、『ルカ』の血の影響を受けているクリストファーに対し、ユングは何のハンデもない本来の動きで、クリストファー、ゼノン二人の攻撃を難なくいなしている。
「クリストファー、お前はほんと末恐ろしい奴だよ!!碌な訓練もせず、しかも『血』の影響で動きを制限されておきながら俺と対等に渡り合えるんだからなぁ!!ほんとどれだけの才能を隠し持っていやがったんだよ。文官にしとくには惜しすぎるぜ!!」
「あなたは僕に本気を出させるためだけにこんな愚かなことをしたのか!?!?」
ユングの攻撃を打ち返しながら、クリストファーは叫んだ。
「もちろんそれだけじゃないぜ?俺はすっかり平和ボケしちまったこの国に退屈してたんだよ。騎士団長とは名ばかりで、毎日しょうもねえ小競り合いと、くだらねぇ犯罪の取り締まりくらいしかやることねぇ。とっくに戦争を吹っ掛ける相手もいなくなっちまって、何のための剣の腕だよ。乱世に生まれれば俺は覇王にだってなれる!!だから俺は考えたんだよ、争いを内側から生み出してやればいいってな!!」
「何だって……!?」
クリストファーは言葉を失った。
そんな、個人の独善的な願望で、この世の禁忌を侵したのか。
『扉』が開かれたおかげでさっきから何度も地響きが鳴り、突風が吹き荒れ、空を厚い雲が覆い不気味な稲光が天を駆け巡っている。
明らかに地上に異変が起こっている。天変地異の前触れであるかのような、背筋を凍らせる、強い違和感。
「ふざけるな!!そんな理由で、この国の平和を脅かさせるものか!!僕が絶対に阻止する!!」
怒りに呼応するように、クリストファーをさっきから蝕んでいる謎の圧力を、強い意志が押しのけていくのが感じられた。それにつれて、驚くほど体も軽くなり、剣先も鋭さを増していく。
激しい剣戟の末、クリストファーはユングをじりじりと追い詰めていく。
ユングの背後にはゼノンが立ち塞がり、逃げ場はない。
「団長、ここまでだ……!!」
「それはどうかな?俺は負けるのが大っ嫌いでね……やれっ!!」
―――嫌な予感がした。
クリストファーは、考えるより先に動き出していた。
背後には、さっきから自らも圧力に耐えながらも、ヴィクトールに寄り添い、クリストファー達の戦いを心配そうに見つめていた妻の姿。
彼女の背後から、腰を抜かし遠巻きに事態を見つめていたユングの部下が、上長の命令に反射的にヴィヴィアンへと襲い掛かった。
迎え撃つには間に合わない。
「ヴィヴィアン―――!!!」
クリストファーは、無我夢中でその間に身を投げ出した―――!
「クリストファーっっっ―――!?!?!?いっ、いやあああああぁ!!!!」
ヴィヴィアンの悲鳴が、辺りに響き渡った―――。