第二話 新婚初夜
「―――お嬢様、もうすぐクリストファー様が見えられると思いますが、御髪はおろしたままにされますか?それとも軽く結いましょうか?」
ヴィヴィアン付きの侍女、シェルナはヴィヴィアンの髪を櫛で梳きながら抑揚のない声で問いかけた。
痩せぎすでのっぽな彼女は口調だけでなく表情も冷淡で、まるで自分は黒子ですから、ということを全身で表現しているかのようにいつも一本調子だ。その声も高くもなく低くもなく、実はよく見れば驚くほど整った顔の造形をしているのに、何もかもが印象に薄い。
婚礼を終え、新郎新婦のために王都の一角に用意された新しいクロイツ家の屋敷に戻り、ヴィヴィアンは寝支度を整えている最中だった。
「……ええ、そうね。あとで邪魔になるでしょうから、軽く結ってちょうだい」
ヴィヴィアンは自分の侍女の、ともすれば不敬にも思える素っ気ない態度を気にした風もなく、少し考えた末、落ち着いた口調で返事をした。その彼女の言葉に、ほんのわずかにシェルナは眉をひそめた。
あとで邪魔になる、というのは、この後に新婦の部屋に訪れるであろう新郎クリストファーとの初夜で、腰まで届くヴィヴィアンの艶のある亜麻色の巻き髪が、その行為の妨げになるだろうと予想してのことだ。初めての蜜夜を迎える乙女の言葉にしては嫌に現実的な回答だった。
「……わかりました」
しかし、シェルナはすぐに元の無表情に戻ると、気にした様子もなく手慣れた様子でヴィヴィアンの髪を纏め始めた。
その彼女の手つきを、ヴィヴィアンはやはり無感動な表情で鏡越しに見つめている。そして視線を自分自身にも移した。
当代一の淑女、まるで女神のようと称されるだけあって、鏡に映る自分は我ながら美しいと思う。父親譲りの美貌は年齢を重ねるごとに凄みを増していて、この結婚の日を迎えるまでにヴィヴィアンに言い寄って来た貴族の男達は、身分や既婚、未婚を問わず数知れない。
その彼女を射止めたのが、僅か15歳の成人したばかりのクリストファーだったものだから、婚約を発表した時には随分話題に上ったものだ。夜会に参加するたびに必要以上に注目を浴びてしまいすっかり辟易したのは記憶に新しい。
ヴィヴィアンは、鏡に映る能面のような自分の顔を見て、目を細めた。とても自分の侍女を笑うことは出来ない。
「……酷い顔をしているわね。とても新婚初夜の花嫁とは思えないわ」
「……お嬢様は誰よりもお美しくてらっしゃいますよ」
またしても、本当にそう思っているのか分からないほど抑揚のない声で、シェルナは呟いた。
ダンッ、とヴィヴィアンは目の前の鏡に映る自分の顔の部分を手のひらで覆い隠した。
「……でも私は、この顔が大嫌い」
お父様に、生き写しだから。
―――ヴィヴィアンの父、ヴィクトールは元は新進気鋭の主に薬を卸す貿易商だった。
約30年前、ある商人の養子として彼の死後会社と財産を相続した後、一代でその商売をみるみるうちに大きくし、当時まったく世に知られていなかった珍しい薬草やその加工品をブラン聖王国に流通させると、古くから人々を苦しめていた致死性の流行り病のいくつかを見事に治る病に変えた。その功績から、本来は得るのに20年はかかると言われる準貴族の地位をたった数年で彼は与えられた。
その劇的な経歴もさることながら、漆黒の髪、時に紅にも映る濃茶の瞳、並の女性より圧倒的に美しいどこか神秘的な相貌が、さらに人々の羨望を集めた。
その栄光は経済界のみならず、社交界にも影響を与え、彼がどんな女性を伴侶として迎えるかと周囲は噂をした。当時の一番の舞姫ではないか、もしくは舞台女優ではないか、はたまた別の大富豪の美しい娘ではないか、そう人々の予想に反して彼が妻に選んだのは、歴史だけが古くほぼ家名がつぶれかかっている落ちぶれたバートリー伯爵家の一人娘で、別段美しいという訳でもなかったグレースだった。
艶やかな亜麻色の髪、菫色の瞳。たしかにそれは多少見栄えはするかもしれない。
しかし痩せて貧相な身体、良くも悪くも印象の薄い顔、取り柄と言えば若さと、経済的な問題でほとんど社交界に顔を出していないがための世間ずれしていない心根の優しい性格くらいか。
そんな彼女と、世の女性憧れの美男子ヴィクトールが恋仲になり、ヴィクトールがバートリー伯爵家に婿に入ったことは、当時あまりにもショッキングな出来事だった。
初めは誰がどう見ても、ヴィクトールがその莫大な資金で経営難に陥っているバートリー伯爵という地位を、一人娘と結婚という形で買ったようにしか見えなかった。
しかし、バートリー夫妻は意外にも仲睦まじさを見せ、結婚してすぐに娘をもうけた。妻グレースが27歳という若さでこの世を去ると、ヴィクトールは後妻をとることもなく亡き妻を今も偲んでいるというのが人々の抱くこの夫婦への印象だ。
(みんなあの外面の良さに騙されているわ……)
ヴィヴィアンはそう、心の中で呟いた。
間違いなく、父は自分の野心のために母を『買った』のだ。
生前、母グレースが父の不貞を見つけそれを責めた時、商売人としての清廉なイメージを保ちたかったのだろう、彼は母を表向き病に伏せているとして屋敷に閉じ込め、一切社交界に連れて行くことは無くなった。
世間知らずで人見知りの激しい性格であった母は、個人的に頼れる相手は誰もおらず、父の思惑通りにいとも簡単に日陰の存在となってしまった。
しだいに精神的に不安定になっていった母は、まだ幼いヴィヴィアンに恨みつらみを聞かせた。
幼いヴィヴィアンの目の前で幸せな家庭は音を立てて崩れて行った。そして、その極めつけが、母の壮絶な死だった。
(私は父を、絶対に許さない……。偽りの愛でお母様をたぶらかし、私をこの世に取り残した、あの男を……)
―――コンコン、と控えめなノックが響いた。
ハッと、現実に引き戻されたようにヴィヴィアンは瞬きをした。
「……ヴィヴィアン、クリストファーです。入っても宜しいでしょうか?」
若々しい、ともすれば幼いとも言える少年の澄んだ声が、これまたノック音と同じように遠慮がちに聞こえて来た。
ヴィヴィアンは、さっと鏡越しに自分の姿を一瞥する。純白の夜着は、清楚ながらどこか艶めかしく初夜の花嫁に相応しい上質なものだった。結い上げた髪も、彼女の上品さを損なわずゆったりと片側に垂らされている。
大丈夫、準備に抜かりはない。
「ええ、クリストファー様。どうぞお入りになって下さい」
ヴィヴィアンの返事と共に、シェルナが音もなくヴィヴィアンの寝室の入り口に歩み寄り、恭しく扉を開けた。
「失礼します、ヴィヴィアン」
「いらっしゃいませ、クリストファー様」
お辞儀をして出迎えたヴィヴィアンに、入って来た少年は少し気恥ずかしそうに笑った。薄衣を纏うヴィヴィアンの姿に、視線をどこに向けたらいいか困っている様子だった。シェルナは少年が入って来たのを見届けると、音もなく室外に出て行き扉を閉めた。
この日、婚儀を上げ神の御前で夫婦の誓いを交わした新郎、クリストファーもまた上質な絹のシャツにズボンだけの部屋着姿だった。これまで互いに礼装を着用した姿しか見たことが無かったため、その寛いだ格好の彼は年齢相応かそれよりもやや幼い印象さえ与えた。
「本日はお疲れ様で御座いました」
ヴィヴィアンがそうクリストファーを労わるように優しく微笑むと、彼はうっと何とも情けない表情を浮かべた。
「……今日は、あなたに恥をかかせてしまいました」
消え入りそうな声で肩を落としたクリストファーに、一瞬ヴィヴィアンはきょとん、とし、それからああ、と苦笑いを浮かべた。
―――大聖堂の祭壇で、誓いの言葉を口にする場面でのことだ。
司祭に促されても、クリストファーは一向に誓いの口上を述べる様子がない。ヴィヴィアンが心配してちらりと横目で盗み見ると、顔を真っ赤にしたクリストファーが固まって立っていた。どうやら、緊張のあまり誓いの決まり口上が頭から抜けてしまったようだ。
女神セレニスの御名において、ブランに生きる民の一人として神に仕え、国に仕え、聖なる血脈を絶やさぬことを誓います。夫婦、共に苦しみを分かち合い、真実の愛を持っていついかなる時も困難に共に立ち向かうことを誓います。
ヴィヴィアンはこっそりと、正しい口上をクリストファーに伝えようとした、が。
『めっ、女神セレニスの御名において、私クリストファー・クロイツは、ヴィヴィアンを生涯の妻とし、いついかなる時も命をかけて愛し守り、幸せにすることを誓いますっっ』
それよりも大きく声を裏返しながら、クリストファーが宣誓した。
完全なアドリブ、創作の口上だ。
形式と異なる言葉を述べたクリストファーに、立会人である来賓らはざわめき始める。クスクスと忍び笑いを零す者まで現れた。
横のクリストファーが、羞恥のためにさらに真っ赤な顔になって行くのが傍目にも分かった。
『……女神セレニスの御名において、私、ヴィヴィアン・バートリーは、クリストファーを生涯の夫とし、いついかなる時も命をかけて愛し支え、幸せにすることを誓います』
落ち着いたヴィヴィアンの声音に、今度は聖堂はしん、と静まり返った。
クリストファーが、あっけにとられたような表情で、ヴィヴィアンを見つめた。ヴィヴィアンはふふ、と口の端だけを上げて軽く微笑んだ―――。
―――たしかに、夫婦で大恥をかくことになってしまったし、あの後クリストファーの父ルドルフは公爵家の家名に泥を塗ったとカンカンに怒っていた。
だが、あの時クリストファーの口から出て来た言葉は、決して形だけではない彼の本心から出て来たものだ。彼の誠実な人柄がよく表れているようで、好ましささえあった。
「……式のことは、気になさらないで下さい。シンプルで、私は好きでしたわ」
「……そう言って頂けると助かります……」
再び縮こまったクリストファーに、ヴィヴィアンはつい、声に出して笑ってしまった。さっきまでの気鬱もいつの間にか消えていた。
そして、ヴィヴィアンは僅かにキュッと口元を引き締めた。
……さあ、本番はむしろこれからだわ。
心の中で呟いた。
自分の【計画】のために、この無垢で純情な少年を完全に自分の虜にしてしまわないといけない。
もし、これから自分が普通の公爵夫人と違う行動をとったとしてもそれを疑問に思ったり、異議を唱えたりしないように。自分の言葉に、上手に惑わされてしまうように。
だが間違っても、彼を『こちら側』に引き込んではいけない。
いたいけで憐れなこの少年は、あくまで年上の悪い女に騙され、操り人形のように踊らされるのだ。
筋書きは既に出来上がっている。
ヴィヴィアンは、艶やかに微笑んでクリストファーの目の前まで歩み寄りそっと頬に指を添えた。
「……クリストファー様、お疲れでしょう?もうお休みになりますか?」
ほとんど背丈が変わらないために、二人の顔の距離は互いの息が感じられる程に近い。
見る見るうちにまたクリストファーの頬に熱がともるのが分かった。
「……ヴィヴィアン」
クリストファーの口からため息交じりのかすれた声が漏れた。何だか泣きそうな響きも感じられた。
クリストファーは自分の頬に添えられたヴィヴィアンの手を自分の両手で包み込み、一度神妙な様子で目を閉じた。
そしてゆっくりとヴィヴィアンの手を引いて、彼女を奥のベッドまで誘導する。ヴィヴィアンは彼の歩調に合わせて大人しく付いて行った。
クリストファーに促されるままヴィヴィアンはベッドの端に腰を落とした。キシッとかすかにスプリングが軋む音がした。
心配そうな表情をしたクリストファーの顔が間近に迫って来る。
頬に手のひらの微かな温もりを感じ、ヴィヴィアンは瞳を閉じた。甘やかな夜の始まりの合図が、唇に落とされると思ったからだ。
しかし、ヴィヴィアンの予想に反して柔らかな感触を受けたのは額だった。
「……?」
ヴィヴィアンは思わず目を開けた。そこには相変わらず顔を赤くしたままの少年が、さも愛おしそうに自分を見つめていた。
「……クリストファー様?」
「……お疲れでしょうから、今宵はこれで」
「……え?」
ヴィヴィアンはそのクリストファーの言葉に耳を疑い、彼の顔をじっと見つめた。少年の表情は真剣そのものだった。こんな場面で冗談を言うタイプではないことも分かっている。
自分は何か粗相をしてしまったのだろうか?それとも、彼を誘惑するには魅力が足らなかった?
不安そうな表情に見えたのだろうか、少年はヴィヴィアンの視線にしまったとばかりに慌てふためいた。
「あ……!ち、違うんです!その、僕達はまだ若いですし、これから何十年も生涯を共にするのですから、焦る必要はないと思うのです。二人の気持ちが本当の意味で寄り添い合うまで。僕達のペースでゆっくり、少しずつ夫婦らしくなっていけたら……」
ヴィヴィアンは数秒、夫の顔をまじまじと見つめ、彼の言葉の意味を慎重にかみ砕いた。
真摯な曇りのない瞳が自分を見つめ返している。
……彼の言う通りだ、とヴィヴィアンは判断した。
焦る必要はない。
必ずしも、今夜の内に結ばれなければ、何かが終わる訳でもない。
そうだ。ヴィヴィアンの目的は夫の心を自分に繋ぎ留められていればよく、夫婦の営みはあくまでその手段の一つでしかない。
彼自身がそれで満足だというなら、それで構わないだろう。
そう、数秒で結論付けると、ヴィヴィアンはすっと従順な妻の顔ではにかみながら頷いた。
「……はい、分かりました」
ヴィヴィアンの落ち着いた声音に、明らかにクリストファーはホッとした表情を浮かべた。
「……ヴィヴィアン。愛しています……あなたを、ずっと大切にします」
そう言ったクリストファーの顔はどこか神々しささえあり、そのやや神妙な面持ちのまま、遠慮がちにヴィヴィアンを抱きしめた。ヴィヴィアンはその表情を眩しく感じながらも、素直に体を預けた。彼から迷いなく発せられた、愛しているという言葉は、なぜかヴィヴィアンの胸にちくりとかすかな痛みを覚えさせた。
ふわっと自分を包み込んだ彼の両腕は、思いがけない程優しく、じわりと何か感じたことのない感覚がヴィヴィアンの胸に広がる。
その感覚に耐え切れず、ヴィヴィアンの可憐な睫毛が僅かに伏せられた。
「……ありがとうございます、クリストファー様」
キュッとクリストファーの背に自分も手を回し、自問自答した。
私は、この少年の前で非情になりきれるだろうか。きちんと彼を傷つけて、突き放すことが出来るだろうか、と―――。