第二十六話 呪縛
夜分に突然前触れもなく訪ねて来た息子夫婦に、ダンデノンの居城の主であるクリストファーの母エレノアは驚いた。しかし、何か事情があることをすぐに察し、二人を温かく迎え入れた。
エレノアは使用人にすぐに命じ、二人のための夜食を用意させすぐに湯殿に湯を張らせた。そして、事情は明日聞くからと早く休むように二人を促した。
「……お義母様には心配をかけてしまったわね」
湯あみまで済ませ人心地ついたヴィヴィアンが、ベッドに腰を落ち着けて息を吐いた。
「……いいんだよ。あの人はきっと、母親らしいことが出来て喜んでいるはずさ」
「……ふふふ」
寝仕度のためにランプの明かりの数を減らしながら答えたクリストファーに、ヴィヴィアンは思わず小さく笑った。
「……何?」
急に吹きだしたヴィヴィアンに、クリストファーは変な顔をした。
「……いいえ。クリストファーも親心が分かるくらい大人になったのね」
「……馬鹿にしてるだろ。もう僕も18を超えたんだからそりゃあ大人になるさ」
拗ねたように鼻を鳴らしたクリストファーに、ヴィヴィアンはさらにくすくす笑う。
もういいけど、と諦めたクリストファーはヴィヴィアンと逆側のベッドの端に回り、腰掛けた。
すると、いつの間にか近付いて来たヴィヴィアンが、後ろからクリストファーの背中にくっ付いて来る。両手をクリストファーの胸の前で交差させ、甘えるように頭をクリストファーの背中に擦り付ける。
「……どうしたの?今度は君の方が子供みたいだよ」
「……」
クリストファーが笑って振り返ろうとすると、それをヴィヴィアンは嫌がるようにますます背中にぴったりと寄り添った。
「……ヴィヴィアン?」
「……私ね、お母様が亡くなって以来、自分がどうしてこの世にいるのか分からなくなったの。愛のない両親の間に生まれた自分は望まれない存在なんだって、自分を否定して生き続けて来たの」
小さな声で語り始めたヴィヴィアンに、クリストファーは動きを止めた。
ただ、黙って自分の胸に回された細い手に、自分のそれを重ねた。
「……母は、父にも毒を盛って、無理心中をしようとしたの。でも私を連れて行こうとはしなかった。それが、母は私の事は必要ないっていう答えだと思ってしまったの。死にゆく母に、父は裏切り者と罵って、激しい怒りをぶつけて締め上げてた。その光景が、息も出来ないくらい怖くて……声を押し殺して、クローゼットの中で隠れていたの。これは悪い夢だって言い聞かせて」
でも、とヴィヴィアンは続けた。
「あの時は意味は分からなかったけど、父は、確かに母を一度助けようとしたの。自分の手首を切って、その血を母に飲ませようとしたのよ。父がしようとしたことが私があなたにしたことと同じ意味があるなら、父は母を死なせたくなかったのよ。それが、愛のためか、保身のためか、野心のためかは、分からないけど……」
ヴィヴィアンの手は細かく震えていた。彼女が泣いていることは、背中に伝わる感触で分かった。
「ヴィヴィアン……それは、お義父上にしか答えられないことだ。でも、少なくとも、君は直接彼に尋ねるべきだ。憶測で、愛の重さなんて測れない」
クリストファーはヴィヴィアンの手を自分から一度剥がし、今度こそ彼女に向き直った。予想通り、涙で頬を濡らした彼女が口元を歪めて耐えるように目を瞑っていた。
「……恐れないで。もう君には僕がいる。この先どんなことがあっても、それだけは忘れないで」
「……クリストファー……」
夫の名前を呼ぶヴィヴィアンの声は震えていた。
「……私、あなたをずっと騙していたのに……」
「……それはもういいよ。僕達はお互いを傷つけあった、そしてお互いを許したんだ。過去の過ちを変えることは出来ないけれど、これからは二人で未来を見て行きたいんだ」
クリストファーの言葉に、ヴィヴィアンは小さく頷きその目の端に溜まっていた涙がまた一筋零れた。
ヴィヴィアンの涙をクリストファーは親指で優しく弾くとそのまま頬に指の腹をすべらせ、ヴィヴィアンの唇に触れた。
「……もう、ほとんど傷がふさがってる……やっぱり、君には神秘の力があるみたいだね」
「……子供の頃から、不思議には思っていたの。やけどをしてもその日の内には痕は消えているし、風邪を引いた時の風邪薬も効きが悪くて……でも自分が人と違う身体を持っているなんて、思いもしなかった」
「……誰だって、人と違うところはあるさ。僕にとって君は、誰よりもわがままで、誰よりも気分屋で、誰よりも……」
甘い言葉を並べるかと思ったのに、予想に反して自分への文句を言い始めたクリストファーにヴィヴィアンはびっくりして涙も引っ込んでしまう。
「何よ、それ……!もうい」
「……誰よりも、可愛い」
「!!!」
途端に、ヴィヴィアンの顔が火を吹いたかのように赤くなった。
「も、もう!!どこでそんな意地悪な言い回しを覚えて来たの!?昔は私がキスしようとしただけでそっちが恥ずかしがっていたくせに!!」
「意地悪な奥さんに鍛えられたからかな?」
「……もう!!!」
すっかりへそを曲げてしまったヴィヴィアンに、クリストファーはおかしくなって、目尻を下げた。
「ほっとけないよ、君のこと」
そう言って、自分の頭をくしゃくしゃと撫でたクリストファーに、ヴィヴィアンはくすぐったい想いと、何とも言えない幸福感を覚えた。
まるで年齢差が逆転してしまったよう。
母の死をきっかけに、ずっと自分に暗示をかけて生きて来たヴィヴィアンの精神は、未発達の部分と、必要以上に老成した部分のあるアンバランスなものだ。
その自分をクリストファーはありのまま受け入れ、愛すると言ってくれた。
絶望を抱えながら生きて来た自分にとって、それは奇跡のようなこと。
この幸福の味は、ヴィヴィアンにとってまったく未知の感覚だった。
クリストファーは、もう明日になれば王都へトンボ帰りをしてしまう。ヴィヴィアンに約束したように、ヴィクトールの状況を探りに行くためだ。
第一王子ルキウスが何を考えているかは分からない。でも、クリストファーの話しぶりから、自分の意のままにするためには手段を選ばない人物だということは分かった。
クリストファーにも、何か危険が及ぶかもしれない。
「……ちゃんと、私達もう一度会えるわよね?」
不安を吐露するように、ヴィヴィアンは問いかけた。
「……心配いらない。約束する……僕は、君の騎士だから」
クリストファーは、力強く頷いた。
ヴィヴィアンは、恥じらうように、睫毛を伏せた。しかし、何かを決意したようにキュッとクリストファーのシャツを握りしめ、彼の顔を見つめた。
「……なら、私に触れて。……この身体に、あなたの存在を嫌ってほど刻み付けて」
クリストファーは僅かに驚いたように目を瞠り、やがて全てを理解したように、ヴィヴィアンの前髪をかきあげ、頬に手を添えるとそのまま覆いかぶさった。
―――まるで、初めて触れ合うかのような気恥ずかしさをヴィヴィアンは覚えた。
彼の前で素肌を晒すことに、今さらながら心配になった。彼の瞳に映る自分は美しいだろうか、どこか不格好なところはないだろうか、とこれまで考えたこともない感情が芽生えた。それは、【計画】に利用するために彼の気を引くためではない、一人の乙女として恋しい男性にありのままの自分を見せることへの羞恥であり、彼に少しでもよく見られたいという女心だ。
クリストファーの手が、滑るようにヴィヴィアンの夜着の内側に入って来る。
あっ、とヴィヴィアンは声を上げた。
自分でも驚くほど、素直に反応してしまった。恥ずかしさに顔がますます赤くなる。まだ軽く触れられただけなのに、息が上がる。
嬉しい。
彼に、触れられることが、この上なく。
女として求められることが。
もっと、私に触れて。
ヴィヴィアンが切なくクリストファーに視線を送ると、すべてお見通しと言わんばかりに思いやりに満ち溢れた青い瞳が細められ、優しいキスが落とされた。
互いの舌を絡み合わせ、幾度も唇を重ね合わせる。
キスの合間に、互いの名をどちらともなく囁く。
クリストファーの身体の重さを感じ、ヴィヴィアンはその首に両腕を回した。
クリストファーの唇が、ヴィヴィアンのそれから、首、鎖骨、胸元へと下がって行く。ヴィヴィアンはクリストファーの後頭部を撫で、その柔らかな髪の感触で遊ぶ。
クリストファーが赤く痕を残していく度に、耐えられずヴィヴィアンは甘い声を漏らす。
潤んだ瞳で、それでも必死にクリストファーの動きを視線で追う。
目に、焼き付けるように。
五感で、クリストファーのすべてを感じようと、研ぎ澄ます。
もっと、刻み付けて。
簡単に消えてしまわないように、強く。
私が、あなたのものだという証を。
もう、この心が彷徨わないように、ちゃんと碇を下ろしていて。
あなたから与えられる痛みは、生きている実感を私に与えてくれる。
あなたからもたらされる快感は、私にこれから生きる意味を教えてくれる。
だからどうか、もう二度と私を離さないで。
―――かつてないほどの熱情で睦み合った後、まだけだるい甘さの残る身体を持て余しながら、ヴィヴィアンは隣で穏やかな寝息を繰り返すクリストファーの顔をまじまじと眺めた。
端正な寝顔を見つめるだけで、苦しいくらいドキドキした。
自分がこんなに素敵な男性の妻であり、彼の腕に抱かれたという事実に何とも言えない照れくささを感じた。下腹部の奥がまだ歓喜に疼いている。
初めて出会った時は、こんな気持ちになるなんて想像もしなかった。
出逢ったばかりの時は、彼は天使みたいに可愛い顔をしたただの青くさい少年だった。すぐに顔を赤くするし、肝心な場面でいつも失敗するし、正直とても頼りない存在だと思った。
それなのに……今のこの精悍な顔つきはどうだろう。
逞しい胸板も、広い背中も、力強い腕も。全てが、ヴィヴィアンに安心感をもたらしてくれる。
狂おしい程に、自分が自分であることへの喜びを与えてくれる。
「クリストファー……」
―――愛してる、そう言いたかった。
それなのに、何故かその言葉だけは声にならなかった。
どうしても、最後のところで臆してしまった。
だってそれは、あまりにも意味のある重い言葉。
魂を縛る鎖のようなもの。