第二十五話 神話の真相
しばらく無言で抱きしめ合っていた二人の耳に、遠慮がちに扉をノックする音が聞こえた。
「……奥様、ご主人様、こちらにいらっしゃいますか?」
聞こえて来た執事の声にハッとして一度お互いの顔を見合わせる二人。
クリストファーがよく見ると、ヴィヴィアンはまだアンダーウェアであるシュミーズドレスの上にショールを羽織っているだけだった。とてもじゃないが、異性の使用人の前に出れる姿じゃない。ヴィヴィアンもさすがにまずい格好だと思ったらしく、慌てた様子でショールで体を隠した。
「二人ともいるが、扉は開けないでくれ。用件があればこのまま聞く」
幾分落ち着いているクリストファーが、ヴィヴィアンに大丈夫だ、というように首を振って執事に命令した。
「……は。それが、ご主人様のお耳にまず入れたいことなのですが……」
困惑したような執事の声に、もう一度二人は視線を交わす。だが、クリストファーは瞬時に判断を下した。
「僕達夫婦の間に隠さなければならないことなど何もない。いいからそのまま話せ」
「……は。……では。第二王子、ゼノン殿下からの早馬の伝達が来まして、奥様のお父上ヴィクトール・バートリー殿が逮捕され王宮の地下牢に捕らえられたとのことです」
「……!!」
クリストファーとヴィヴィアン、二人の息を呑む音が同時にした。
ヴィヴィアンの菫の瞳が、明らかに動揺するのをクリストファーは見抜いた。ヴィヴィアンの顔色は心なしか青ざめている。
「逮捕されたとは罪状は何だ。逮捕を命じたのは、騎士団長ユング殿か?」
「……は、それが、今のところ罪状は分かっていないらしく、ただそれをお命じになったのは、第一王子ルキウス殿下だと……ゼノン殿下はクリストファー様や奥様への影響を心配し、まだ王宮でも一部の人間しか知らない情報をいち早くお知らせ下さったようです」
執事の話し方から察するに、本当にそれ以上の情報は現時点ではないということだろう。
クリストファーは震えるヴィヴィアンの背をさすり、大丈夫だ、と呟いた。
「分かった。これから僕達は事の真相がはっきりするまでダンデノンに身を寄せる。日が暮れ始める前に発つから皆にそれを伝えて準備に取り掛かってくれ」
冷静に指示を出したクリストファーは、ヴィヴィアンと一緒に立ち上がると、ヴィヴィアンにまず服装を整えるよう促した。
そうして自分も旅の用意をするためヴィヴィアンの部屋を出ようとして、ヴィヴィアンに上衣の裾を引っ張られた。
「クリストファー様!私を今すぐ離縁して下さい、あなたに迷惑をかけたくありません」
「……ヴィヴィアン?」
「父の逮捕は、ナシェルが一枚噛んでいるに違いないわ。私達はお父様の過去の不正取引や奴隷売買の証拠を掴んでいるもの。きっとあの子が証拠の一部を持って行ったんだわ。私の事がなくても個人的にあの子はお父様を恨んでいるから。これからきっと父の多くの罪が明らかになるわ、そうなったらバートリー家は取り潰しを免れない。私との結婚で縁を結んでいるクロイツ家にも悪影響が出てしまう、だから……!」
必死に言い縋るヴィヴィアンに、クリストファーは正面から向き直った。
「……君のお父上は、実は前々から麻薬売買の疑いでも容疑が掛けられている。だからナシェルが関係しているかは実際は分からない」
「……!それなら余計だわ。元々目をつけられていたなら徹底的に身辺を洗われるはず。どちらにしてもあなたに迷惑がかかる。ダンデノンに行く前に、離縁状を書いてそれを教会に提出して下さい」
青い顔でそう訴えるヴィヴィアンに、クリストファーはむっとした表情をした。
「ヴィヴィアン、今さっき僕は君を守るって言ったばかりだよね?それで毒を飲んだ僕を嘘つき呼ばわりしたくせに、今度は僕に離縁して下さいって、それはないんじゃないの?」
「……そ、それは……もう、ふざけている場合じゃないでしょう!!私はこれでも真剣にあなたのことを心配して……!」
「僕だって至って真剣だ。いいかい、ヴィヴィアン。僕はどんなことがあっても夫として君を守り抜く。これは僕の生涯の誓いだ。例え君の頼みでもそれは違えない」
「……でも……!」
なおも言い募るヴィヴィアンの口に、クリストファーは人差し指を当て栓をした。
「もういいから。とにかくお義父上のためにこれから僕なりに色々調査に動くつもりだ。逮捕を命じたのがあのルキウス殿下だと言うのも気になるし、もしかしたら正当な逮捕じゃないかもしれない。ただ僕が思い切り動くためには、君には安全な場所にいてもらわなきゃ」
「どんな罪状でも、父はすでに数々の悪事に手を染めた極悪人です。仮にまともな裁判にかけられず処刑されても文句は言えないわ。あなたが私達親子を庇う必要なんてない」
クリストファーの指を外し、むきになってヴィヴィアンは詰め寄った。だがもはや動じるクリストファーではなかった。
「……本当に?」
「……え?」
クリストファーの見透かすような視線に、一瞬ヴィヴィアンは気圧された。
「……本当に、このままお義父上とちゃんと話し合えないまま……仲違いしたまま永遠に会えなくなってしまっていいの?君自身本当にお義父上の事情を理解してると言えるのかい?何かそこに思い違いや、君が知らなかった真実があるかもしれないと思わない?」
「……」
クリストファーが指摘したことは、ヴィヴィアンにとって耳が痛いことだった。
そうだ、クリストファーの言う通りこれまでヴィヴィアンはただの一度も父に母の死の真相について問いただしたことは無い。あの時、どうして死にゆく母に父が自らの手首を切って血を飲ませようとしたのかも。その行為が何を意味するのかも、自らの血でもってクリストファーの命を救った今のヴィヴィアンなら、違って見えて来る。
(もしかしたら、私達親子の間にも、誤解やお互いに隠していることがあると言うの……?)
苦しそうに黙ったヴィヴィアンをクリストファーはもう一度抱きしめた。
「……ね?強がりは君の悪い癖だ。本当の願いはちゃんと口に出して言わなきゃ。君はもう一度お義父上と話し合いたい。それは、お義父上が生きていなくちゃ出来ないことだ。僕が絶対にその機会を作るから、君は君の夫をもう少し素直に頼りにすべきだよ」
「……クリストファー様」
ためらいがちに自分の背に回されたヴィヴィアンの手に、クリストファーは愛おしさを募らせた。
「……それに、僕に様付も敬語もいらない。もう嫌って言うほどお互いの素も、醜い部分も見せあった僕達だ。これからは何の遠慮も必要ない」
温かい腕の中でじっと聞いていたヴィヴィアンは、最後のクリストファーの言葉に目を丸くする。そして底意地の悪い笑顔を見せているクリストファーに、顔を赤くして思いっきり不機嫌な顔を見せた。
「……もう!分かったわ、クリストファー」
そして、もう一度クリストファーの胸に勢いよく頭を埋めた。
「頼りにしてるわ……旦那様」
クリストファーは笑って、その頭を撫でた。
「僕にお任せを、奥方様」
―――ヴィヴィアンの部屋を出る時クリストファーは、彼女が何かの瓶を火の入った暖炉に投げ入れたのを見た。熱と衝撃に割れた瓶からはハチミツのようなとろりとした液体が流れ出て、火に溶けながら燃えて行く。不思議に思ったクリストファーがヴィヴィアンの顔を見ると、ヴィヴィアンは照れくさそうに「もう、必要のないものだから」と笑った。
―――夕暮れに差し掛かり、うっすらと薄暗くなって来た街道を、馬車はいつもより早いスピードで疾走していた。
手早く荷物をまとめ、素晴らしい連携を見せた使用人達のおかげで何とか日が傾く前に屋敷を出ることが出来た二人は約半分の行程まで来ていた。
「……そうだ、ヴィヴィアン。君は自分のルーツがノワール共和国にあることを知っていた?」
クリストファーは思い出したように、ヴィヴィアンに切り出した。
クリストファーの言葉に、ヴィヴィアンは面食らったように目を瞬かせた。
「なぜクリストファーがそれを知っているの?私自身、最近まで知らなかったことなのに」
「知っていたんだね」
「……ええ、だいぶ前にお父様の隠し書庫を見つけて、そこにノワール共和国にまつわる本が多かったことと、お父様の古くからの知り合いだったベンジャミンがお父様がノワールから売られて来た奴隷だったって言ってたことがあって、それで調べていたの。……でも、クリストファーはどこから?」
クリストファーは一瞬、言うのを躊躇うも、もう隠し事はなしだ、と思い切って以前ヴィクトール自身に招かれてヴィヴィアンのいない時にバートリー家を訪れたことがあると告げた。
「君には言ってなかったけど、以前お屋敷に招かれたことがあるんだ。その時、お義父上は自分でノワール共和国に縁があると仰ってた。それが気になって僕の方でも調べていたら、お義父上が一度自分の名前を変えられていることを知ったんだ」
「……え?お父様が自分の名前を?」
ヴィヴィアンは再び驚いて目を瞬かせた。クリストファーは一度大きく頷いた。
「……僕の調査と、推測が正しければ、お義父上の本当の名はアルヴィス・ノワ。……ノワール共和国の最後の元首の息子だ」
「……!そしたら、お父様と私は、神話のアゼルの末裔ということになるのね……だから、その特徴が強いからお父様は髪色を銀から黒に染められていたんだわ」
「やはり……!記録では、アルヴィスは銀髪に紅い目になっていた。それなら同一人物でまず間違いなさそうだな」
クリストファーは、考え込むように顎に手をかけて呟いた。
「……あ!」
クリストファーとの会話の中で、ヴィヴィアンはある大事なことを忘れていたことを思い出した。そして、すぐに脇に置いていた自らの旅行カバンを探った。
「……ヴィヴィアン?」
「クリストファー、これを見て頂戴。これも、お父様の隠し書庫にあった紙よ。すごく古いものみたいで、私には読めなかったけど、建国神話について書かれているみたい」
ヴィヴィアンが取り出したその古びた羊皮紙を受け取り、クリストファーは目を瞠った。そして慌てて車内用のランプを引き寄せ、注意深くその紙を眺めた。
「ヴィヴィアン……これは、古セレニアル語で書かれている!文法と……この紙質からして……ひょっとしたら神話の時代に限りなく近い頃に著された、原典にあたるものの一部かもしれない!!」
そう叫ぶと、クリストファーは入念な様子でそれを読み始めた。
そうして読み解くうちに、恐るべき記述がされていることが明らかになった。
~~~古文書による記述~~~
禁忌の扉は、二つの入り口に繋がっている。
それは神秘の扉。開けた場所からは閉じることは出来ぬ。
その扉は人の目には隠されていた。
唯一それを見つけられたのが、双子の弟ルカだった。彼は、すべてを見通す『眼』を持っていたから。
弟はある日、悪い誘惑に駆られてその扉を開けた。途端に天地の均衡は崩れ、地は割れ水は枯れ、光は失われ風が荒れ狂った。
しかし、人々の非難は弟ではなく、兄アゼルに集中した。何故なら、自らの罪に恐れをなした弟が、兄にその責任を転嫁したからだ。
しかし狡猾で人々に深く愛されていた弟の巧妙な嘘を、人々は疑いもなく信じた。女神セレニスさえも。
兄は自分を信じてくれた僅かな人々と共に扉を閉めに、困難な道を行った。やがて自らの間違いに気づいた女神も兄に手を差し伸べた。
女神と兄は力を合わせ、禁忌の扉を閉じることが出来た。
女神は兄と恋に落ち、二人は夫婦となり子を成した。
二人は正直な人々と小さな共同体を作った。
弟は残された土地に人々と国を興した。
多くの国民に囲まれながらも、真実の愛を得られず弟は孤独な王となった。
それが、ブランとノワール、二つの国の始まりの物語である―――。
古文書を解読し終えた二人は、しばし呆然と言葉を失った。
「……アゼルと、女神が夫婦に……?」
ヴィヴィアンは実感が無いまま呟いた。クリストファーも、信じられないものを見る思いだった。
もし、これが史実だというのなら、ヴィヴィアンは、アゼルの末裔というだけでなく、女神セレニスの血をも引くと言う事に他ならない。
だが、それならば、クリストファーの体を蝕んでいた猛毒をヴィヴィアンの血が解毒した神秘の力を持つことも理由付けができる。
クリストファーは、ハッと息を呑んだ。
「……まずいぞ、これは……もし、これが本当なら……ヴィクトール殿に罪を問うと言う事は、神に弓引くも同じと言う事じゃないか……!!!」