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第二十四話 明るい世界 


 クリストファーは高く掲げた濃紫の瓶を、ためらうことなく傾けて行く。


 小さな注ぎ口から零れ出た、薄い茶色の液体がクリストファーの口の中に吸い込まれる。

 

 ヴィヴィアンの菫の瞳が、驚きに大きく見開かれた。


 

 クリストファーの手から滑り落ちた、濃紫の瓶が、ゆっくりと床に落ち、粉々に砕け散った―――。



 その瞬間、耳をつんざくようなヴィヴィアンの悲鳴が辺りに響き渡った。


 だが、それらをはるか遠くに押しやるくらいの激しい衝動が、内側からクリストファー自身を食い破る様な獰猛さで体中を駆け巡り、暴れ出した。


 クリストファーの身体が、不自然に背中から地面に傾いて行く。



 「クリストファー!!!!」



 大きくバランスを崩し、そのまま倒れ込むクリストファーをとっさに支えようとでもするかのように、ヴィヴィアンは大きく手を伸ばした―――。






 ―――目の前で起こっていることが、信じられなかった。


 たった数分前に自分を守ると大口を叩いた男が、ヴィヴィアンから毒を取り上げた途端、自らそれを飲み干すなんて。


 たった数滴で、人の命を奪ってしまえるほどの猛毒を。


 瞬く間に全身が赤紫色に変わり、体を自ら支えることも出来ず崩れ落ち、その場に勢いよく倒れ込んだ、愚かな男。


 呼吸も出来ないのか、切れ切れに、苦しそうな唸り声が喉から漏れ出て来る。体は恐ろしい程痙攣し、時折あり得ない動きで跳ね上がる。床の上で、のたうち回る。


 口から、酸を含んだ大量の唾が吐き出される。そこには血が混じっていた。


 ヴィヴィアンはハッと鋭く息を吸い込んだ。心臓が、痛いほどに鳴り響いている。警告を鳴らしている。



 ―――死んでしまう。



 このままじゃ、あと数分ともたずに、この人の命は、この世から消えてしまう。


 もう二度と、自分を力強いその両腕で抱きしめてくれなくなる。はにかんだ笑顔も、愛していると言ったその声も、不器用な仕草で自分に触れ、熱くこの身体に痕を残した唇も、すべて失われる。



 今、この手を取らなければ、救いのために伸ばされた手を掴まなければ、二度と『ここ』から連れ出してもらえない―――!!!



  

 

 次の瞬間、ヴィヴィアンは無我夢中で倒れ込んだクリストファーの体に覆いかぶさった。


 自分が何をしているのか、何をすべきなのか考える余裕も、理性も働かなかった。ただ、本能に突き動かされるまま、自らの唇を、強く歯で噛み千切った。真っ赤な血が飛び散った。



 そしてためらうことなく、血の滴り落ちる唇をクリストファーのそれに押し付けた―――!!!



 呼吸口を塞がれ、一度反射的にクリストファーの体がもがく。無意識の抵抗でヴィヴィアンを引きはがそうと、強い力でクリストファーの爪がヴィヴィアンの背中に突き立てられた。それでも離れることを許さず全身で体重をかけて押さえ込み、ヴィヴィアンはクリストファーの唇をこじ開け、自らの血を絶えず流し込んだ。ヴィヴィアンも必死だった。自分のどこにこれほどの力があったのだろうと思うほど、鬼気迫る勢いでクリストファーの抵抗全てを抑え込んだ。


 初めは苦しそうにもがき抗っていたクリストファーの力が弱まり、背中に食い込んでいた手もヴィヴィアンの細腕を掴むのみとなった。


 両手でしっかりとクリストファーの両頬を固定し、一滴たりとも零すのは許さないと、ほんの些細な隙間さえも出来ないように密着させて。ヴィヴィアンはありったけの血をクリストファーに与えた―――。


 


 ―――一度も離れることがないまま、どれくらいの時間が経っただろう。


 やがて、痛みに痙攣を繰り返していたクリストファーのその身から、少しずつ力が抜けていくのが分かった。ヴィヴィアンの腕を掴んでいた手も、離れていった。


 それでもヴィヴィアンは体勢を変えなかった。クリストファーの力が弱まったのが毒の影響からか、或いは彼自身の意識が遠のいたことによるのか、分からなかったからだ。


 あまりの恐怖に、クリストファーから離れることなんて、出来なかった。心臓はヴィヴィアンの胸を突き破ってしまいそうなほど激しく早鐘を打っている。




 お願い、死なないで、死なないで。私を置いて、逝かないで。


 守ると言ったじゃない。私を外に連れ出してくれるって、愛してるって、言ったばかりじゃない……!


 あなたの方が、嘘つきにならないで……!!




 知らず知らずのうちに溢れだした涙が、両頬を伝って、次々と零れた。


 全身全霊で、ヴィヴィアンは祈った。



 すると―――。



 そっと、その涙を優しく拭う感触がして、ヴィヴィアンは固く閉じていた目を恐る恐る開いた。滲んだ視界の奥のすぐ近くに、優しい色をした青い光が見えた。


 全身の緊張が解けるように、ヴィヴィアンはようやく唇を離した。



 「……随分、熱烈なキスだったね、ヴィヴィアン」


 何度か浅い呼吸を繰り返した後、クリストファーはどこかおかしそうに話しかけた。その顔色はいつの間にか元の色に戻っていた。



 生きている―――!!



 そう、クリストファーの無事を確信した瞬間、安堵、驚き、喜び、戸惑い、怒り、何とも言えない複雑な感情がヴィヴィアンの胸に一気に込み上げて来た。


 「………っ……馬鹿ッ!!!なんてことをしてくれたの!?自分が何をしたか分かってるの!?あなた、死ぬところだったのよ!?本当に、冗談じゃなく死んでもおかしくない量を飲んだのよ!?私を守ると豪語しておきながら自殺するなんて、一体何を考えてるの!?!?」


 両手でクリストファーの襟元を引っ張り上げ、鼻と鼻がぶつかり合いそうなくらいの距離で、ヴィヴィアンは大声で叫んだ。そのあまりの迫力に、クリストファーは反射的に顔をしかめる。


 「……うん、本当に死ぬと思うくらい、苦しかった」


 つい数秒前まで死の淵にいたとは思えない、どこか呑気なクリストファーの物言いに、「はぁ!?」とヴィヴィアンはこれ以上ないくらいに目を吊り上げ、クリストファーの襟元を締め上げたままその両手をぐわんぐわんと揺さぶった。


 「苦しかった、じゃないわよ!!まさか中身が何か分かっていないのに飲んだんじゃないでしょうねっ!?!?!?」

 「そ、そんなことは……!ヴィ、ヴィヴィアン……ちょ、やめて、また気持ち悪く……おえっ」

 

 吐き気を催し、今度は顔色が青ざめて来るクリストファーのその様子と対照的に顔を真っ赤にし、今度はキィーッと地団太を踏むヴィヴィアン。


 「~~~っっっ!!!本当に馬鹿馬鹿馬鹿!!!大嘘つき!!!いっそいっぺん死んでしまえ!!!」

 「……ヴィヴィアン、すごい、口が悪くなってるけど」

 「うるさいっ!!!ほ、ほんとに……死んじゃうと思ったじゃない~~~っっっうっ、うう~~~っっっ」


 クリストファーを口汚く罵り叱り飛ばしたかと思ったら、今度は同じ口で火がついたようにヴィヴィアンは泣きじゃくり始めた。


 クリストファーは上に乗っかているヴィヴィアンを落とさないよう、慎重に自分の身体とヴィヴィアンの身体を支えながら上体を起こした。するとヴィヴィアンはクリストファーの首にしがみ付く様に抱き着き、やはり大声で馬鹿馬鹿馬鹿と悪態を吐きながら大泣きした。


 「……ごめんね、ヴィヴィアン」


 さすがに申し訳なくなって、クリストファーは素直に謝った。


 ヴィヴィアンは相変わらず泣きじゃくっている。


 そのヴィヴィアンの背中をポンポンと撫でながら、クリストファーはまるで本当に8歳の子供をあやしているような感覚になった。


 仮面も強がりも何もかも剥がれ落ちた、完全な素の状態の彼女だ。


 やっと本当のヴィヴィアンの心の底まで辿り着いたと思った。そして、ようやく二人とも暗い深い水の底から抜け出して呼吸をすることが出来た、そんな心境だ。


 ふーっと息をゆっくり吐きだして、呼吸を整えたクリストファーは改めてヴィヴィアンに視線を向ける。


 「ヴィヴィアン?」


 呼びかけると盛大にへそを曲げたヴィヴィアンに無視された。それでいて、クリストファーが様子を窺って一度体をヴィヴィアンから離そうとすると、今度はヴィヴィアンの腕にますます力が入り、むきになってしがみ付いて来る。


 嬉しいけど、ちょっと苦しい。少し力を緩めてもらえないと、今度は窒息の危機だ。


 「……ヴィヴィアン、どうか泣き止んで。僕はもう大丈夫だから。もう二度と、君を不安にさせない。僕はここにいる、君の傍にいる」

 「……信じられない。守るって言ったばかりなのに、毒を飲むなんて。理解出来ない、馬鹿、非常識」

 「……君に常識を問われたくないけど。さんざん人のことを手玉に取っておいて」

 「今私をいじめて泣かせているのはクリストファーじゃない」

 「……だからごめんって」


 まるですっかり癇癪を起した子供のようなヴィヴィアンの態度。


 苦笑いをしながら、クリストファーはヴィヴィアンに詫びた。すると、今度は返事は来ずその代わりに首に巻き付いていた腕の力が少し抜けて、おずおずと恥ずかしそうな表情をしたヴィヴィアンがやっとその顔を見せてくれた。


 その仕草や表情がどうしようもなく愛おしく、クリストファーはふっと微笑んだ。


 またヴィヴィアンの口がへの字になった。


 クリストファーはヴィヴィアンのまだ血のにじむ下唇にそっと親指で触れた。


 「……痛そう」

 「……別に、平気よ」


 少し落ち着きを取り戻したのか、ヴィヴィアンが視線を逸らしてぶっきらぼうに告げた。


 「どうして僕に血を……?」

 「……分からない。何故だか分からないけど、私の血を飲ませれば、あなたは助かるって直感で思ったの。……おかしなことだけど、私の血が、薬になると思ったのよ。……あなたに……死んでほしくなかったの」


 そう説明している内に、また感情が溢れたのかヴィヴィアンの瞳から涙が浮き上がった。


 「泣かないで……ありがとう、君のお陰だよ。僕は生きてる。ほら……ね?」


 ヴィヴィアンの手を取り、自らの左胸に当てさせ、その心音を伝えるクリストファー。


 神経を研ぎ澄まして、確かめるように両目を閉じ、その音に意識を集中させるヴィヴィアン。


 「……ほんとだ。ちゃんと、心臓が動いてる」

 

 そう言うとヴィヴィアンは泣きながら笑った。


 「嘘じゃないのね」


 そしてもう一度クリストファーの胸に、今度は全身を預けた。


 クリストファーはあらん限りの優しさで、それを受け止めた。



 ようやく、暗いクローゼットの中から明るい世界に出られた。もう大丈夫、ここなら安心。そう、呟いてヴィヴィアンは瞳を閉じた―――。


やっと二人の想いが通じ合いましたー……!ここまで二人を見守って下さりありがとうございます!とはいえ、まだお話は続くので、もう少々お付き合い頂ければ幸いです。


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