第二十三話 心の底
きちんとした手続きも経ず無理矢理に借りて来た軍馬で自邸までの道を疾走し、クリストファーは最短距離で屋敷まで辿り着いた。
飛び降りた馬を、入り口で見張りをしていた衛兵にそのまま託し、息を整える間もなく玄関、さらに内部へと駆け抜けていく。汗が全身から噴き出し、心臓は痛いくらい早鐘を打った。
「ご、ご主人様!?いかがされました、そんな息せき切って!?」
「ヴィヴィアンはどこだ!?!?彼女は屋敷を出たのか!!?」
とてつもない剣幕で問いかける主人に、出迎えた執事は恐怖に顔を引きつらせ、ブルブル震えながら否定した。
「いっ、いいえ、おそらく、まだ、お部屋でお休みになっているものと思われます……!!」
「そうか!!」
射殺しそうな視線が自分から外れ、執事はそのまま床にへたり込む。クリストファーはそれを気遣う余裕もなく、真っ直ぐにヴィヴィアンの部屋に向かった。
「―――っヴィヴィアン!!!」
ノックもせず駆け付けた勢いのままクリストファーは扉を開けた。
そこには―――幽鬼のような、儚げな佇まいで窓辺に立つ愛しい妻の姿があった。やせ細っているせいで、今にも消えてしまいそうに見える。
生きていた―――!それだけで、クリストファーは心臓の委縮が和らぐのを感じた。
ヴィヴィアンは虚ろな瞳のままぼんやりとしている。クリストファーが部屋に入って来たことに気付いているかすら、定かではない。
クリストファーはヴィヴィアンの反応を待たず駆け寄り、その華奢な身体を強く抱きしめた。
「ヴィヴィアン……!まだ、ここにいたんだね、良かった……!!!」
「………クリストファー様?」
不思議そうに、ヴィヴィアンは小さく問いかけた。クリストファーに強く抱きしめられ、やっと彷徨っていた意識が、現実に戻って来たのだ。
「……泣いているの?……どうして?」
クリストファーの胸に黙って体を預けたまま、ヴィヴィアンは問うた。顔は見えないのに、クリストファーが泣いていると、何故か確信があった。
「……ヴィヴィアン、君を愛してる」
「……!」
涙交じりの声で、クリストファーの声がヴィヴィアンに落ちて来た。その瞬間、ヴィヴィアンははっきりと分かるくらい身を強張らせた。
「愛してる……ヴィヴィアン」
クリストファーはもう一度、繰り返した。
「……やめて、その言葉は一番嫌いだと言ったはずよ」
ヴィヴィアンは、首を大きく振り全身で拒絶するようにクリストファーから離れようとした。クリストファーの腕はヴィヴィアンの動きを妨げるほど強くは込められておらず、予想に反してするりとヴィヴィアンの体は自由になる。
正面から見たクリストファーの顔は、ひどく真面目で、思った通りその瞳は潤んでいた。
「君が僕を嫌いでも、愛していなくても構わない……君を、守りたいんだ」
クリストファーは目を閉じて、自分の胸に手をあてた。まるで、誓いの言葉を口にするように。途端に自分の心が怯え震えるのをヴィヴィアンは感じた。
クリストファーの告白を再度強く否定するかのように、ヴィヴィアンは固い声を放った。
「守りなんて必要ないわ。私は誰の手も必要ないの。……その様子なら、ナシェルから聞いたのね?私の【計画】のことも、私がこれまでどんな罪に手を染め、これからどんな恐ろしいことを実行しようとしているかも」
「……」
クリストファーは否定しなかった。ヴィヴィアンが歩んできた道、そしてこれから選ぶ道は道理から外れている。
「……同情でさっきの言葉を言ったのなら、お門違いだわ。そんな薄っぺらい感情で、私の事を理解した気にならないで頂戴。迷惑よ」
鋭い口調でクリストファーを突き放しながら、ヴィヴィアンは冷酷に笑った。この14年間で覚えた、醜悪な笑みだ。
「良く分かったでしょう?私は最低な女なの。目的のためなら手段も選ばないわ。この身体を道具として使うことも厭わない。あなたは私を力で支配したつもりだったのでしょうけど、私にとってはそれすらも【計画】通りだったのよ。でももうあなたの役割は終わり。いらないの、あなたのことはもう。あなただけじゃない、誰も私には必要ないわ」
ヴィヴィアンは出窓に腰掛け足を組むと、薄く微笑みながら菫色の瞳を細めた。
「お疲れ様。あとはあなたは好きにしたらいいわ。離縁するのもしないのもあなたの勝手よ。……ああ、でも父親殺しの重罪人が身内にいたら、一族に迷惑がかかるだろうから、有識者会議の前に離縁するのをお勧めするわ。そしたら少なくともあなたの名誉は保たれるわね。そうそう、温かい家庭を今度こそ作れるように頑張って」
迷惑。役割は終わり。もう、お前などいらない。
残酷な言葉で、はっきりとした拒絶を繰り返すヴィヴィアンに、クリストファーは何も言えなかった。
―――いや、違う。ヴィヴィアンの言葉一つ一つ、表情の動き全てをつぶさに見守って分析していたのだ。
何が彼女の本当の言葉で、そこにどんな意味が隠されているのか。
「……誰の手も必要ないなんて、嘘だ」
クリストファーは、断固とした声で、突きつけた。
「……何ですって?」
ヴィヴィアンが、クリストファーの思いがけない反応に、眉根を寄せた。
「僕のことがいらないなんて、嘘だ」
もう一度、クリストファーは言った。その目は、真剣そのものだった。
ヴィヴィアンは思わずカッと顔を赤らめた。
「変な言いがかりはよして頂戴。あなたに私の何がわかっ―――」
「―――だって、ずっと怯えてるじゃないか。そうやって、『お守り』の毒を肌身離さず握りしめて。いつでも逃げられるように」
クリストファーの双眸は、ヴィヴィアンが胸元で強く握りしめている小瓶に注がれていた。
その瞬間、ヴィヴィアンの表情がはっきりと険しいものに変わった。
「か、勝手な憶測で物事を言わないで頂戴!」
「―――なら、僕にそれを渡してくれ。君が本当に平気だと言うのなら、僕の手が必要ないと言うなら」
クリストファーは、ヴィヴィアンに一歩踏み出し、その手を彼女へと真っ直ぐ差し出した。
「………!!」
ヴィヴィアンの表情に、一瞬動揺が走った。それこそが彼女が『演技』をしている証だとクリストファーは確信を強めた。
クリストファーの青い瞳が、さらに強い光でヴィヴィアンに注がれる。
「……ヴィヴィアン、さあ」
ヴィヴィアンはごくり、と大きく唾を飲み込んだ。その肩はいつしか細かく震えていた。
「怖がらなくていい、僕は『ここ』だ。ヴィヴィアン、さあ……!」
クリストファーはさらに強い口調で迫った。
その手のひらは、力一杯ヴィヴィアンに向けて開かれている。
抗えない。
それはまるで、水底からみた空の色。
どこまでも澄んだ、青い光に囚われる―――。
「―――……わ、分かったわよ!」
カッと顔を羞恥に染め、ヴィヴィアンは叫んだ。そして、一瞬躊躇った後、クリストファーの手のひらに、その小瓶を載せた。
ヴィヴィアンの菫の瞳が、不安の色を浮かべてクリストファーを見つめる。
小瓶を受け取り、クリストファーはふっとヴィヴィアンに微笑んだ。まるで、いい子だ、と呼びかけるかのように。
―――君が隠した君自身を見つけるために、僕も同じ痛みを得よう。言葉で理解し合えないなら、この身を持って体験すればいい。君の抱える苦しみを知れば知るほど、きっと僕は本当の君に近づける。今から迎えに行くよ。君の心の底まで―――。
心の中でそう、クリストファーは呟き、ヴィヴィアンが見守る前で、その小瓶を開け中の液体を迷わず口へと注ぎ込んだ―――。