第二十二話 存在証明
―――午前中の業務を終えても気分が晴れず、クリストファーは珍しく休憩時間中に騎士団の鍛錬場に立ち寄っていた。
あまり運動が好きでないことを公言しているクリストファーだが、鬱々とした気分が時間が経過しても解消できず、最後の手段ということで体を動かして無理やりリフレッシュすることにしたのだ。
同じように鍛錬場にいた見習い騎士らに相手をしてもらい、何度か模擬的な手合わせをした後、クリストファーは普段あまり使うことのない自分の剣を、停留場に停めている馬車の荷台に戻そうと職場のある方向とは違う道を行っていた。
午後のこの時間はほとんどの役人や騎士らが己の職務に就いているために王宮内の渡り廊下は人気がない。
業務時間に遅刻しようが勝手に欠席しようが誰も気にせず咎めもないことが、自分の機密文書保管官という職が重要でない仕事、閑職と呼ばれる所以だな、とクリストファーは苦笑いをしながら一人歩いている。すると―――。
思いもかけない人物が、前から自分に向かって歩いて来た。
ヴィヴィアンの侍女、シェルナだ。
なぜ、彼女がここに……?ヴィヴィアンにはもう自由にしていいと言い渡したのだから、クリストファーの予測ではとっくにヴィヴィアンと共に彼女も屋敷を後にしているものと思っていた。
シェルナがここにいると言う事は……まさか、ヴィヴィアンの身に何か起こったのでは……?
嫌な予感がして、クリストファーはシェルナに足早に近づいた。
「……シェルナ、何故君がここに?ヴィヴィアンも一緒なのか?」
「………」
ある程度距離が近付いても、シェルナは返事をしなかった。真正面にいるクリストファーに気付いていないとも思えないが……。
とはいえ、いつも不愛想な彼女の事。クリストファーはあまり気にせず、彼女との距離を縮めた。
だが、次第に強い違和感がクリストファーを襲った。……おかしい、いつもの無表情とは違う、このシェルナの表情は……憤怒!?
そう、直感的に悟り、ほとんど無意識的に横にクリストファーが跳躍したのと、シェルナが隠し持っていたらしい短剣を上から振り下ろしたのはほぼ同時だった。
「シェルナ……!?いきなり何をする!!」
クリストファーは叫びながら、剣を鞘から抜いた。シェルナの放つ殺気はただものじゃない。冗談や何かでは到底すまされない凄みがあった。気を抜けば―――殺られる!!
シェルナはクリストファーの問いに答えず、そのまま驚くべき素早さでクリストファーにさらに二撃、三撃と攻撃を加えようとする。それをクリストファーは剣で弾き返しながら、状況を探ろうと頭を巡らす。
この場にはいないヴィヴィアン。狂気的な空気を纏いながら、暗殺者さながらの動きで自分を襲う彼女の侍女。
侍女―――?
剣を交えながら、クリストファーはまた新たな、そしてより強烈な違和感を感じた。
―――なぜ、目の前のこの人物を、女だと決めつけていたんだろう。これほどまでに、力強い手ごたえで短剣を振るう人間を。華奢ながら、しっかりとした骨格を持ち、クリストファーとほとんど変わらぬ背丈をもつ相手を。
「シェルナ……君は、まさか……男なのか!!」
クリストファーの問いかけに、後ろに飛び退っていたシェルナが一瞬、短剣を持つ手を降ろした。そして―――。
高らかに笑った。
「ハハハハッ!……ようやく気付いたか、お坊ちゃま!!……そうだよ、俺は男だ。本当の名をナシェルという。このブランが滅ぼした小国の生き残りの奴隷さ」
そう褐色の目を細めると、首元から着ている侍女の衣装を引き裂いた。
そこには、僅かに隆起した喉仏と、しっかりとした太い鎖骨が姿を現した。
「俺は、あの女を12年間も守って来たんだ。常に傍を離れず、朝から晩まで……そう、それが例えあの女が風呂に入っている時でもね」
「……っ」
挑発するようなナシェルの発言に、クリストファーの顔にカッと血が昇った。
「お坊ちゃま、あの女の身体は良かっただろう?毎日俺が磨いてやったんだぜ、閨事を教えたのもこの俺だ」
「貴っ様……!!」
クリストファーは目が眩むような怒りを覚え、ナシェルに斬りかかる。だが、それは身軽なナシェルにいともたやすく躱されてしまう。
「何が目的だ!!お前達はどうして僕に近づいたんだ!!」
怒りに任せ、なおもクリストファーは剣を振るった。ナシェルは笑いながらそれをあしらって行く。
そのナシェルのよく訓練された動きが、かつて自分に襲い掛かった暗殺者と同じであることにクリストファーは気付いていた。
つまり、ヴィヴィアンは過去に一度クリストファーを亡き者にしようとしていたということだ。
激しい動揺、怒り、悲しみ、失望が再びクリストファーの胸を占拠する。
だがそれでやすやすと命をくれてやるほど、クリストファーも甘くはない。
クリストファーと激しい剣戟を繰り広げながら、ナシェルは息一つ切らさずに、鼻で笑った。
「お前なんて何の価値もないさ。お嬢様が利用するのに丁度良かった、ただそれだけだ。彼女もそう言っていただろう?聞いていなかったのか?」
「……何だとっ!?」
ナシェルは短剣を頭の上で構えながら、不敵に笑った。
「あの女の目的はただ一つ。父親との心中さ。母親を死に追いやった父親に復讐をすることだけがあの女の生存理由だ。会社設立も、今回の有識者会議への参加も全てヴィクトールを社会的に抹殺するための布石だ。あの女は父親の地位も名誉も奪ったうえで自ら実の父親を手にかけ、そのまま自分も死ぬつもりだったんだよ!!それがあの女の描いた筋書きだ。お前はそのための役者の一人に選ばれただけだ。だが、もうすでにお前の役目は終わっている……だから退場してもらう!!」
そう叫んで襲い掛かって来たナシェルの攻撃を受け止めながら、クリストファーは先程を大きく上回る動揺を抑え切れなかった。
ヴィヴィアンの生きる目的―――それが、母の仇として、父親と相打ちすることだけだったなんて。そんな悲しい、生存理由があるだろうか?
そしてその目的にもう利用価値がなくなったから、彼女は自分を殺そうと、自分の配下を差し向けたと言うのか!?
いや、そんなことより、何故そんな狂った環境から、誰も彼女を救おうとしない!?
様々な想いがクリストファーを駆け巡った。
「僕が彼女にとって道具の一つでしかなかったなら、お前の役割は何だ!?彼女が自ら死に向かっていると知っていて、何故止めない!!」
短剣を再び弾き返し、クリストファーはあらん限りの声で叫んだ。怒りが頂点に達していて、まるで自分の血が沸騰しているような感覚さえ感じられた。
「止める……だと?まっぴらごめんだね、俺もヴィクトールの奴を破滅させてやりたいんでね!!」
「……!?どういうことだ!!」
ナシェルの目には、明らかに激しい憎悪が宿っていた。それは彼がクリストファーに向ける殺気と同じか、それ以上だった。
おもむろに、ナシェルは短剣を握っていない方の手を、クリストファーに伸ばした。その動きは予測できないほど素早く、クリストファーはそのまま空いている方の腕を取られた。
「………何をするっ!?!?」
クリストファーは戦慄した。
ナシェルが掴んだ自分の手首は、無理やりにナシェルの股間に押し付けられた。―――そこには、あるはずのものが無かった。
「……分かるか?俺は、とっくの昔に、奴の……ヴィクトールのせいで『男』じゃなくなっているんだよ。奴が俺を、それ専用の奴隷として売るつもりだったからな!!」
「―――!!!」
クリストファーは絶句した。
高貴な家に生まれ育ち、汚れた世界からは程遠い保護された環境で育ったクリストファーには想像すら出来ない衝撃の事実だった。
クリストファーの反応にいささか満足したのか、ナシェルは乱暴にクリストファーの腕を放り出した。
「男としての尊厳を失い、生きる希望を失った俺は抵抗し、奴を殺そうとあらん限りに暴れに暴れた。奴は手に負えず俺を始末しようとした。その俺の命を拾ったのがあのお嬢様だよ。父親に奴隷の俺をくれと、たった10歳の小娘が言ったんだ。俺を自分の下僕にしたいとな。父親はそれを受け入れた、そして俺に首輪をつけて娘にくれてやったんだよ。ペット同然にな!!」
「………!!!」
あまりの衝撃に吐き気すら催した。
「……どうだい?がっかりしたかい?それがお前が好きだ愛しているだなどと誉めそやしたあの女の本性なのさ。あの女は俺に自分の【計画】に協力させる見返りとして、自分は誰も愛さないと誓った。俺はもう男として機能しない。あの女も一生自分は誰のものにもならず、誰の子供も産まないと言った。だから俺はあいつに忠誠を誓ったのさ。互いにヴィクトールをこの世から葬り去るためだけに生きようと。それが俺達のこのくそったれな人生の終着点だと……!!だから止めるなんてまっぴらごめんだね!!俺もあの女も破滅こそが本望だ!!!」
ナシェルの告白に、クリストファーは蒼白になった。
破滅こそが、真の目的―――。救いなど、求めてもいない―――?
だから、自分の声は彼女には届かず、自分の手は彼女の体を掴むことも出来ず、彼女が深い泥沼に沈んでいくのを、ただ見ていることしか出来ないというのか―――?
彼女自身が、それを、望んでいるから。
―――嘘だ。
クリストファーは心の中で、はっきりと断言した。
そんなの、認める訳にはいかない。彼女が最初からただただ茨の道だけを求めているなんて。
そんな十字架だけを背負って、人生の半分以上を自分自身を否定しながら生きて来ただなんて。
その時、クリストファーの脳裏に、ヴィクトールがかつて言っていたことが強烈に思い出された。
―――母親が自ら毒を飲み、壮絶な死を遂げた同じ場所の、クローゼットの中で彼女は眠りこけていた―――。
いくら、8歳の子供とは言え、自分の母がこと切れる断末魔の声にも気付かず、目が覚めないなんてことがあるだろうか……?
本当は、恐怖のあまり、声も出せず、その場から動くことも出来なかったのではないか……?
彼女の心は、その暗い空間に、今も置き去りにされているんじゃないのか………!?!?
『……お願い。『ここ』から出して。私を外まで連れ出して』
昨夜、ヴィヴィアンに本当の望みとは何かと問うた。
クリストファーは小さく唾を飲み込んだ。
―――その意味が、やっと理解かった。
彼女は、救いを求めていない訳じゃない。―――誰も気づかなかっただけだ。彼女自身すらも。
クリストファーは思い切り剣を横に薙ぎ払った。
恐るべき速さと、膂力で繰り出されたそれは、ナシェルの持つ短剣を弾き、遠くへと飛ばした。
「―――答えろ。ヴィヴィアンは『どこ』にいる?」
あまりの強い衝撃を受け、痺れる腕を思わず押さえたナシェルは、クリストファーの底光りのする瞳に、一瞬動きを止めた。
「……ハ。今さら何をする気だ?言っただろう?最終的にあの女は誰の助けも必要としちゃいない。お呼びじゃないんだよ俺もお前も!!!」
狂ったように叫んだナシェルの破れた襟を、クリストファーは力任せに締め上げ、正面から睨み付けた。
「それがどうした!!!僕は彼女の声を聞いた!!か細い声で、『ここ』から出してと言った!!!聞こえたのが僕だけなら、理由なんてそれで十分だ!!!!」
呼ばれたのが、自分かどうかなんて関係ない。気付いたのが自分だった、それだけでいい。
ここで彼女に手を伸ばすことが出来ないなら、それこそ『生きる価値』もない―――!!!
「言え!!ヴィヴィアンはどこだ!!!」
「……くっうっ……今頃、この世にいないかも知れないぜ……?」
ナシェルは首を締めあげられながら、皮肉な笑いに口を歪めた。
「何だと!?それはどういうことだ!!!ヴィヴィアンに何をした!?!?!?」
「……何もっ……しちゃいない、あの女が自分で毒を含もうとしただけだ。母親の死以来、あの女は母親が死んだ同じ毒をお守り代わりに持っていやがるのさ。精神的に危なくなった時、あの女はそれを飲むことで正気を保っていたんだよ……!!」
「―――!!!」
クリストファーは確信した。―――やはり、ヴィヴィアンは母親の死の現場をその目で見ていたのだ。
乱暴にナシェルの体を放り捨て、クリストファーは一目散に騎士団専用の厩舎に走った。
一刻も早く、君の下へ―――。