前へ次へ
22/36

第二十一話 救難信号


 

 ―――まるで少しずつ心と体がバラバラになって行くみたい。

 

 ……頭では分かっているわ。


 シェルナの言う通り、クリストファーのことは切り捨てるべきよ。自分のためではなく、彼自身のために。


 こんな卑しく邪悪な目的のために、これ以上未来ある青年を巻き込んでいいはずがない。


 私達を結ぶ糸は絡み合ってもつれて、日を追うごとにお互いの身動きをとれなくして行く。きっぱりと、断ち切ってしまうべき、なのに。


 ……どうしてなの。


 心では決して受け入れてはいけないと思うのに、身体は拒むことが出来ない。


 この歪んだ関係に執着しているのはあなた?……それとも私?


 混沌とした精神は、さらに汚濁に呑まれて行く。


 この期に及んで、私は彼に何を望んでいるのだろう。どうして、彼の手を払いのけることが出来ないの。


 どうして、彼を失いたくないと思ってしまうのだろう。


 この繋がりは、私をさらに深い水底に沈める足枷となるのか……それとも地上へと引き上げる命綱になるのか。


 分からないまま、今日も心を閉ざしたふりで、身体だけ温かな熱に委ねる―――。





 ―――もう、どれだけ答えの出ない堂々巡りのやり取りを、自分達は重ねて来たのだろう、とクリストファーは行為が終わった後、心の中で呟いた。


 言葉も交わさず、身体だけを重ねたところで、彼女に近づけた実感は一つも無かった。


 むしろ終わった後の苦い感覚は日を追うごとに強まり、熱が冷めるのと同じ速さで募って行く罪悪感に、その場に留まることすら憚られる。


 ちらり、と後ろに横たわった妻の裸の背中に視線をやった。この2週間で彼女の食は細り、身体は驚くほど痩せてしまった。元々それほど太ってもいなかったのに、肉が落ちたせいでその曲線はより強調され、クリストファーの劣情は彼の思いに反していたずらに刺激された。


 強い自己嫌悪がクリストファーを襲う。それは同時に見えない不安をも引き起こす。


 ヴィヴィアンの気持ちが分からない。


 彼女が何を考えているのか分からないのは、何も彼女が背を向けているからだけじゃない。この時間、彼女はただの物言わぬ美しい人形と化す。


 それをクリストファーは心を暴かれることへの彼女の全力の拒絶なのだと、だんだん理解し始めていた。


 彼女の心に触れられないならば、この行為は無意味だ。再び耐えがたいほどの空虚さがクリストファーを襲う。


 彼女自身はこの歪な関係を、どう思っているのだろう。



 「ヴィヴィアン……僕が憎い?」



 返事を期待せず、問いかけた。



 「……いいえ」



 思いがけなく、返事があった。ヴィヴィアンは振り返らない。


 無駄だと思いつつも、もう一度問いかけた。



 「……じゃあ、僕を愛している?」



 答えなど、聞かずとも分かっている。



 「…………いいえ」



 さっきよりも長い時間をかけて、それでも返事は返って来た。


 予想通りに。



 クリストファーは、乾いたため息を吐いた。



 「……君は、虚しくないのか。好きでもない男に、いいように身体を弄ばれて」

 「……」



 今度は返事はなかった。


 それが、イエスなのか、ノーなのか、考えるのは意味のないことだと思った。分かり切ったことだ。ヴィヴィアンは喜んでこんな扱いを受け入れている訳じゃない。他に選択肢がないのだ。


 今のこの状態はクリストファー自身のヴィヴィアンへの執着であり、彼女を手元に留めておきたいというエゴから生まれているものだ。


 失望と共にクリストファーは一つ、深く息を吐いた。



 「もう、いいよ……君の好きにしたらいい。君が欲しいのはこれだけだろう?」


 クリストファーは皮肉に口元を歪め、ベッドの下に落ちている自分の下衣のポケットから、例の招待状を取り出し、ベッドを迂回してヴィヴィアン側の脇のナイトテーブルに置いた。



 小さく息を呑む声が聞こえた。



 クリストファーはベッドの端に腰を下ろし、静かに寝乱れたヴィヴィアンの亜麻色の髪を撫でた。


 「……最後に教えてよ。君が、本当は何を望んでいるのか。……まだ僕が君に出来ることはある?」



 ヴィヴィアンの瞳は焦点を結ばず、どこか遠くを眺めているようだった。クリストファーは根気強く、彼女の反応を待った。



 やがて、か細い声が返って来た。




 「……お願い。『ここ』から出して。私を外まで連れ出して」




 弱々しい懇願に、クリストファーは目を瞠った。その瞳が一瞬迷い、揺れた。


 もう一度ヴィヴィアンの柔らかい髪を梳き、クリストファーは静かに目を閉じた。その眉が苦悶に歪んだ。



 「………分かった。……君は、もう自由だ。……いつでもここを出て行っていい」



 震えを押し殺した低い声でそうクリストファーは告げると、立ち上がり服を身に着けた。そして、扉を開ける前に、一度立ち止まり、深く息を吸った。



 「……さよなら、ヴィヴィアン」



 もう、僕が君のために出来ることが、君の手を離してあげることだけなら。それしか君が楽になれないなら……張り裂けそうな想いをクリストファーは無理やりに押し込めた。


 そのままドアの取っ手を掴み、部屋を出た。


 ついに最後までクリストファーはヴィヴィアンの顔を見ることは無かった。だから気づかなかった。



 彼女が両手で口元を押さえ声を押し殺し、流れ落ちる涙に睫毛を濡らしていることなど。




 ―――『ここ』は狭くて暗くて、怖い。


 夢と現実の境目で、ずっと息を潜めて口を押えているの。


 だって、かくれんぼはまだ続いているから。


 声を出したら、黒い悪魔がやって来ちゃう。そうして私に囁くの。全部間違いだった、って。


 お前には何の価値もない、産まれた意味なんてないって。お前のことなんか、誰も愛してなかったんだって。


 目を閉じても、耳を塞いでも、恐ろしい影がじわりじわりと忍び寄って来るのが分かる。


 もう、身が竦んで自分で立ち上がることも出来ない。


 ……ねぇ、私はあとどれだけ、こうやって隠れていればいい?


 もういいよ、って誰がいつ言ってくれるの?


 早くこのゲームを終わらせたいの。


 お願い、私を迎えに来て、悪魔に心を食いつくされてしまう前に。


 ねぇ、誰か、私を見つけて。『絶望ここ』から連れ出して―――。




 その日、クリストファーは朝食も摂らず朝早く出仕した。その際に、その場にいた執事や侍女らにこう、告げた。


 ヴィヴィアンの外出禁止命令を解除する。今後、彼女がどこへ行こうと誰も行先を訪ねなくていいし、止めてもいけない、と。


 実質的な離縁宣言にそれはとれた。


 それを耳にしたシェルナはヴィヴィアンの寝室を訪れ、彼女の傍らのナイトテーブルに有識者会議の招待状が置かれていることを発見し、いつになく表情を明るくさせた。


 「……お嬢様、ついにやりましたね!屈辱に耐えた甲斐はありました。早速準備をしてここを出ましょう。とりあえずの滞在先ならベンジャミンに用意させればいい、さぁ、お早く」


 テキパキとヴィヴィアンの衣装や装飾品を荷物にまとめていくシェルナ。


 ヴィヴィアンは相変わらず魂の抜けたような様子で、ベッドに横たわったままだ。その瞳は焦点を結ばず、虚空を見つめていた。


 いつになく無反応のヴィヴィアンに、シェルナはちっと舌打ちした。昨夜のクリストファーの狼藉はいつにも増して凶悪なものだったに違いない。だが、それをヴィヴィアンが耐えたおかげで彼女はついに勝利を勝ち取ったのだ。


 あとは残りの【計画】を実行に移すだけ。自分達が長年温めて来た悲願が、もうすぐ現実のものとなる。


 「さ、お嬢様手伝いますから、お召し替えを」


 上等なリネンで織られたシュミーズドレスまで身に着けたヴィヴィアンの髪を、シェルナは丁寧に梳かした後片側にゆるりとまとめた。そして次に脇のテーブルに用意していたコルセットへ意識を移した時、ふっとヴィヴィアンが頼りない足取りで自らの化粧台に歩いて行くのが見えた。


 鏡でも見るのだろうか?そこまで気に留めず、シェルナは再びコルセットに手を伸ばす。その時、ガタッという音がした。


 「!?……おっ、お嬢様!?」


 シェルナは戦慄した。


 ヴィヴィアンが濃紫の小さな瓶を手にし、まるで今にもその蓋を開けて中身を煽ろうとしていたからだ。


 「おやめくださいっ!!」


 夢中でヴィヴィアンに飛び掛かり、それを止めた。シェルナに押され、強く肩をぶつけながら倒れ込んだヴィヴィアンは、瓶を取り上げようとしたシェルナに抵抗し、身体でその瓶を隠すように蹲った。


 「お嬢様っ……何故です!!何故今、そんなことをっ……!!」


 床にうつ伏せ、背中を小刻みに震わせながらヴィヴィアンはむせび泣いた。


 「……ごめんなさい……」


 か細い声で呟いたヴィヴィアンに、シェルナはさらに褐色の双眸を見開き、表情を強張らせた。


 「何故ですっ……あと一歩、あと一歩ではありませんかっ!!ようやくという時になって、あんな男にどうしてそうまでお心を乱されるのです!?あの男の役目は完全に終わった!!あとは切り捨てるだけでしょう!!」

 「……っ」


 ヴィヴィアンは嗚咽を漏らし、答えない。


 「……まさか、本当にあの男に懸想しているとでも言うのですか?だから、そうまでして、この場を離れるつもりはないと言うのですか!?」

 「……違う……!【計画】は、実行するわ。でも、今だけ……今だけお願い、一人にして頂戴。こんな顔は誰にも見られたくない……お前にも」


 いやいやと駄々をこねるように、ヴィヴィアンは床の上で大きく首を振り、そしてその顔を隠すようにまた床に伏せた。


 「……私、でも……?」


 シェルナは呆然と呟いた。



 「………クリストファー様………」



 ほとんど、聞き取れるか聞き取れないかの、小さな声。


 だが、シェルナの耳は決してそれを聞き逃さなかった。


 それは、シェルナも見たことのない、主人がただ一人の『女』になった姿だった。恋しい男を想って、無様に泣き崩れている。



 シェルナにとって、それは、完全な『裏切り』を意味した。

 

 褐色の瞳が、これまでになく失望と軽蔑に染まる。


 シェルナはそれ以上、ものを言わず音もなくその場を去った。床に突っ伏している主人を残して―――。



前へ次へ目次