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第二十話 深海迷宮

 

 ―――幾度肌を重ねても、君の心は深い海の底に沈められたように見ることが出来ない。視界は悪く、どれだけ自分が潜れているのか、あとどれだけ潜ればその底まで辿り着けるのかさえも分からない。


 昼間は必要以上に鋭利な言葉で、僕をわざと傷つけるかのように挑発する君。


 夜になると貝のようにその唇は閉ざされ、ただ人形のように従順に僕を受け入れる君。


 かつて、僕をからかって軽やかに笑った君。僕の傷に触れ、そっと口づけをくれた君。


 一体、本当の君はどれ?


 身体だけを無理に繋げても、その心は僕を拒絶し続けている。


 矛盾に満ちた君、嘘だらけの君。危ういバランスの君は、今にも壊れてしまいそう。


 僕達はもう傷つけあうことしかできないの?僕は君の痛みに触れることを許されないの?


 何が本当で、何が偽りなのか。巧妙に散りばめられた君の言葉遊びの裏にある真実を、僕は探し続けている。


 本当の君に辿り着くまで、僕はまた水底を求めて沈んでいく―――。




 「―――ご主人様、本日はご主人様宛と、奥様宛に2通書簡が届いております」

 「……ありがとう」


 執事から2通の手紙を受け取り、彼が部屋を出て行ったのを見届けるとクリストファーはそれに視線を落した。


 一つは、クロイツ家の所領ダンデノンで隠遁生活を送る実母エレノアからだった。


 無言でそれにペーパーナイフを通し、中を開ける。


 手紙に目を通すと、執事からでも今の息子夫婦の現状を聞いたのだろう、彼女らしい素直ではない表現で、しかし息子夫婦を心配する文面が並んでいた。


 以前、夫婦でヴィオレット商会立ち上げの前準備として商品製作に必要な素材である布地を見にダンデノンまで足を延ばしたことがあった。当時クリストファーには幼少時からの実母エレノアとの確執があり、またエレノア自身の負い目と不器用な性格からまたもすれ違いの親子関係が続くと思われた母息子を、ヴィヴィアンは少しばかり強引で風変わりなやり方でとりもったのだ。


 それ以来、エレノアはヴィヴィアンを息子の嫁としていたく気に入り、ヴィヴィアンも会社経営の傍らクリストファー抜きでも頻繁にダンデノンを訪れ実の親子以上に親密になって行ったらしい。


 母はクリストファーに対して、女心の分からない朴念仁だとか、不肖の息子だとか責めるような言葉を書き連ねつつも、早く仲直りして二人でまたダンデノンを訪ねて欲しい、と結んでいた。


 「……言葉は時に、本来とは別の意味を持つこともある。母とのことで僕はそれを学んだ……ヴィヴィアンが教えてくれた」


 自分自身、ヴィヴィアンに対して想いとは裏腹に、売り言葉に買い言葉、傷つけるような言動を繰り返している。


 あの時、ダンデノンで彼女は母とのことに自分を責めるクリストファーを慰め、心を閉ざさなかったことを尊敬すると言ってくれた。願わくば、その時のその言葉だけは、真実であってほしい……そう、目をつむった時。


 コンコン、とクリストファーの自室のドアをノックする音が聞こえた。


 「……誰?」

 「私です」

 

 クリストファーが問うと、すぐに返事があった。思わぬ人物からの回答に、クリストファーは内心驚いていた。


 自分がヴィヴィアンの部屋を訪れることはあっても、ヴィヴィアン自身が自分に近づくことはほとんどなくなっていたのに。


 「……入っていいよ。……何か用?」


 入り口の扉を開けてやり、中へと促すとヴィヴィアンは大人しく部屋へと入って来た。彼女は一人で、いつも黒子のように付き従っている侍女のシェルナも、別の従者も連れていない。


 「私宛の手紙を返してください」

 

 開口一番、菫色の瞳に強い光を宿しヴィヴィアンはクリストファーに告げた。


 「……手紙?……ああ、これか」


 クリストファーは手に持っていたもう一通の手紙に視線を向けた。


 「……これは別に君宛じゃない。ヴィオレット商会の代表者宛だ。今の代表は僕だから、これは僕宛だ」

 「馬鹿なことを仰らないで!それは私がヴィオレットの経営をしたことを評価されて招待頂いた有識者会議の招待状ですわ!」


 いつになくむきになってヴィヴィアンは険しい表情を作り、手紙へと手を伸ばす。


 その表情は近頃よくクリストファーの神経を逆なでする時の、どこか作り物めいた小賢しい顔とは違い、本当に苛立っているようだった。


 へえ、とクリストファーは興味をそそられた。


 ヴィヴィアンが珍しく本気で怒っている。


 「だから君のじゃないって。会議には僕が出席する」

 「か、え、し、て、く、だ、さ、い!!」


 クリストファーは見せつけるように、今ではもうかなりの身長差があるのを利用して手紙を持つ手を高く上に伸ばす。ヴィヴィアンは顔を赤らめて背伸びをしながらそれを掴もうとする。子供のようないたちごっこを繰り返した後、ヴィヴィアンがあまりにも体を上へ伸ばしたせいでバランスを失い、クリストファーの方へ倒れ込んだ。


 「……っきゃっ!」


 小さく悲鳴を上げて身体を傾けて来た妻を、クリストファーは広い胸で難なく受け止める。そのまま彼女の背中に両腕を回した。邪魔になる手紙はズボンを留めるために巻いている布の奥に押し込んだ。


 「……まだ日も明るいけど、ベッドに行くかい?たまには僕の部屋でするのもいいね」

 「……っ、な、何を言ってらっしゃるの!?」


 耳元で囁いたクリストファーに、ヴィヴィアンは不意を突かれたのか顔をさらに赤らめてクリストファーを睨み付けた。照れたようなその表情も、クリストファーにとって新鮮だった。


 「それより、手紙をどこへやりましたの!?馬鹿なことを言ってないで、早く出して下さい!!」


 その彼女の抗議を無視してクリストファーは身体を屈め、ヴィヴィアンの顔を覗き込む。頬に手をあてその表情をまじまじと眺めた。


 「……さぁ?自分で探してごらん。僕を裸にして、この身を探ればいい」

 「ふざけないでっ……」


 間近で見つめられ、ヴィヴィアンは思わず顔を背けた。近頃は毎日のようにクリストファーと応酬を重ねているが、ここまで余裕をなくしたのは初めてだった。


 やはりクリストファーが自分宛の手紙を、しかもよりによって有識者会議の招待状を没収したと執事から聞いた瞬間頭に血が上り、ろくな策も無く乗り込んで来たのは間違いだった。


 予想以上にクリストファーにやり込められ、いつもと全く逆の立場になってしまっている。準備を怠った自分の身の守りは手薄で、クリストファーの言葉一つ一つに馬鹿みたいにそのまま反応してしまう。これではまるで生娘のようではないか。


 どうして今更、彼との情事を恥ずかしく感じる必要があるのだろう。日が明るいせいだろうか。それとも……いつになく彼の青い瞳が好奇心に輝いているせいだろうか。


 今身体を重ねれば、ありのままの自分を暴き出されてしまいそうで、怖かった。


 「ヴィヴィアン」

 「なに……んっ、んんん……!」


 呼びかけられ、ヴィヴィアンが半分キレ気味に返事をすると、言葉を遮るように口づけられた。唇を割って入って来た舌が、甘い。


 脳天が溶けてしまいそうな快感に、ヴィヴィアンの体の力が抜ける。抵抗する余裕も無かった。


 「……ちょっと調べものがあるから、今日は図書館に行って来るよ。話し合いの続きは今夜しよう、お互いに何も纏わずにね」


 再び、甘い声音が耳朶を打った。ぞわっと背中に何とも言えない官能の波が走り、肌が震えた。


 いつにない意地悪な微笑を浮かべたクリストファーの顔にぼうっとしてしまったヴィヴィアンはそのまま立ち尽くし、扉が閉まる音がするまで彼が出て行ったことにすら気付けなかった。


 その夜、ヴィヴィアンはいつも以上に意地になってクリストファーの前で口を閉ざした。



 


  ―――『愛』なんて一番嫌いな言葉。



 そう吐き捨てた、彼女の顔が忘れられない。


 口元を歪め、胸を押さえまるでそれが呪いの言葉であるかのように表現した彼女の瞳だけが救いを求めているように見えたのは、ただの自分の驕りだろうか。


 何が彼女に、あれほどの激情を掻き立てたのだろう。そして、その怒りややるせなさ、憎しみの矛先は本当に自分だったのだろうか……?


 日を追うごとに強まる彼女への違和感。時々過剰に攻撃的になり、まるでクリストファーに自分を嫌うように仕向けているようにさえ見えるヴィヴィアン。それでいて急に口を閉ざし、自らを無にすることでまるでクリストファーの存在も、自己防衛さえも投げ出してしまうヴィヴィアン。あまりにもそのふり幅が大きすぎて、そのアンバランスさにクリストファーは困惑していた。


 彼女にどう接するのが正しいのか、どうやったら彼女が心を開いてくれるのか、皆目見当がつかない。


 今のやり方が良くないことは分かっている。彼女の行動の自由を制限し、尊厳を奪い、暴力で支配している。そんな自分を心底軽蔑するし、嫌悪する。それなのに、相反して夜になると彼女を求めてしまう自分をクリストファーは責めた。


 だが、その一方で以前のようにただ大切にしていると伝えたところで、彼女の心に響かないことも理解していた。


 今の彼女の、いや、最初から一連の不可解な行動の、発生源を知らなければ彼女と本当の意味で交流を図ることなどできやしない。


 やり方が分からないなら、手あたり次第当たってみるだけ。


 そう、ある意味で吹っ切れたクリストファーは出来る限り彼女を取り巻く環境を調べてみることにした。本当なら存命の彼女の唯一の肉親、義父ヴィクトールに相談してみるのも一つかと思ったが、夫婦仲が上手くいっていないことを彼に伝えることが憚られ、またヴィヴィアン自身がどこか父親を敬遠しているような気がしていたためクリストファーはまずはバートリー家にまつわる歴史から調べることにした。


 ヴィヴィアンの心の闇が自分と出逢うよりもずっと前から形成されているなら、生家での彼女の経験が影響しているのはまず間違いない。


 ヴィヴィアンの母、グレースは、ヴィヴィアンが僅か8歳の時に急な心臓発作で亡くなったとされている。しかし、以前ヴィクトールに招かれバートリー家に一人足を運んだ時、クリストファーは驚くべき事実をヴィクトールの口から告げられた。


 グレースは本当は心臓発作ではなく、自ら毒を含んで死んだと言う。


 そして、ヴィクトールによると、もしかしたら幼きヴィヴィアンはその瞬間を目撃していたかもしれないのだ。


 不思議とヴィヴィアンからは、亡くなった母のことも、今も経済界で活躍している父親ヴィクトールのことも話題に上ることはほとんどなかった。それこそが、彼女の触れられたくない過去に他ならないのでは?彼女が持つ心の傷に繋がっているのではないか?


 だが、亡きグレースは周囲との交流が極端に少なかったのか、彼女について触れられた記録はほとんど見つけられなかった。


 藁をもつかむ思いで、クリストファーは少しでも関連のありそうなことは何でも調べることにした。母のことが分からないのなら、父親のルーツを調べてみよう。


 バートリー家の歴史を皮切りに、ヴィクトールが養子に入っていた豪商レンブラント・オーガスのことまで調べを進めていく。


 ついには家系図や血縁録だけでなく、出生記録死亡記録、養子縁組契約書、あらゆる記録をクリストファーは辿って行く。


 そして、ある気になる情報まで辿り着いた。


 ヴィクトールは養父レンブラント・オーガスとヴィクトールが17歳の時に養子縁組をしている。その翌年、レンブラントは突然死している。死因としては睡眠薬の過剰摂取となっているが、真偽は定かではない。彼の遺産と商号を引き継いだヴィクトールはすぐにその商会名を今のクリムゾン商会に変えその後の成功は広く知られている。


 ところで、レンブラントにはもう一人、養子がいた。その名をアルヴィスと言う。記録によると、14歳のその少年が養子縁組されてから3年後の17歳でその消息は途切れている。くしくもその少年の記録が途切れたタイミングとヴィクトールが養子に入るのがほぼ同じ時期にあたる。もう一つ気になる情報として、アルヴィスは表向き養子として迎え入れられたものの、本当は違法な奴隷売買でレンブラントが自らの少年愛の性癖のために銀髪・紅瞳の美しい少年を買ったという記述が、当時のゴシップ記事にあった。


 ヴィクトールが養子に迎えられた後、一体この少年はどこに消えてしまったのか。この少年の死亡記録は見つからない。


 そしてさらに決定的な証拠をクリストファーは掴んだ。


 改名記録だ。


 アルヴィス・ノワという17歳の少年が、ヴィクトール・オーガスと改名したという履歴が残っていた。


 「……ん?アルヴィス……アルヴィス・ノワ。どこかで、聞いたことある名だな……」


 呟いて、クリストファーは自分が導き出した答えに愕然とした。


 文書を持つ手が震えた。


 「……なんてことだ。アルヴィス・ノワは今は亡きノワール共和国の最後の元首の長男の名前じゃないか……!!」



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