前へ次へ
20/36

第十九話 仮面と本性 



 翌朝、ベッドで素肌にかけ布を纏ったまま虚空を眺めているヴィヴィアンを見つけた時、シェルナは持っていた陶器の水差しを床に叩きつけた。


 「あの男……!!!殺してやる……!!!!」


 褐色の瞳が憎悪で燃え上り、ぎりり、と奥歯を噛みしめている。


 「シェルナ」


 激しい怒りを露わにしてそのまま部屋を飛び出しかねないシェルナを、ヴィヴィアンは静かに感情の籠らない声で呼び止めた。


 「……早くドレスを出してもらえるかしら。今日は面倒だから髪は梳くだけで軽くまとめて、結わなくていいわ。ああ、喉が渇いたから、果実水だけ先にちょうだい」


 薄布で体の前を隠しただけの状態で起き上がったヴィヴィアンは、まるでいつも通りの朝のようにシェルナに朝の支度を命じた。


 シェルナが顔色を変えた。


 「……お嬢様!!!なぜっ、なぜ私を呼ばなかったのです!!呼び鈴を鳴らして頂けさえすれば、私は飛んで来たのに!!あんな奴に指一本だって触れさせなかったのに!!!」

 「……別に、大したことではないわ。お前を呼ぶ理由もない」


 シェルナの激情に反して、ヴィヴィアンは極めて冷淡に言い放った。気だるげに両膝を立て、そこに身体を丸めて無関心に虚空を見つめている。


 まるで、普段とは逆の立場だ。


 「お嬢様!!」


 シェルナは足早に主人のベッドに近づく。


 すると逆にヴィヴィアンはベッドから抜け出し裸足のまま床を歩いてクローゼットを開け、自ら服を選び始めた。


 完全にシェルナの呼び掛けを受け流している。


 そのヴィヴィアンの後ろ姿に、シェルナはなおも訴えかけた。


 「あの男の本性がお嬢様にもこれで分ったでしょう!?あいつは聖人君子なんかじゃない、薄汚い欲にまみれた下衆野郎だってことが……!!あの男をこれ以上生かしておく理由もないはず、お嬢様の【計画】はほぼ終盤、もはやあいつからの援助も後ろ盾も必要ない!!」


 いつになく興奮し、声を張り上げるシェルナにヴィヴィアンは背中を向けたまま冷たく言った。


 「……静かにして頂戴。お前の言う通り、【計画】はいよいよ大詰めだわ。ここで失敗をするわけにはいかない、まだクリストファー様には生きて役立ってもらわなくちゃ。そのためのちょっとした『ご機嫌取り』くらいどうってことないわ」

 「……!!!」


 暗に、クリストファーに手を出すな、と命じたヴィヴィアンにシェルナはわなわなと震えた。


 「……そうまでして奴に肩入れを……!?」

 

 無駄のない動きで身体を清潔な布で清め、手早くドレスを身に着けたヴィヴィアンはシェルナに振り返った。そして長い亜麻色の髪を肩で払う。

 

 「……くどいわ。同じことを何度も言わせないで。それよりも、早く私の髪を梳いて整えてちょうだい。仮にも未来の公爵夫人が朝寝坊なんてもの笑いの種だわ」

 

 あくまで冷徹に言い放ったヴィヴィアンの顔には支配者の高慢さがにじみ出ていた。その菫の瞳は、真っ直ぐにシェルナに注がれ、そこには動揺も、迷いの色もない。


 ―――どれだけの時間、そうやって見つめ合っただろうか。


 折れたのは、従順な侍女の方だった。


 「……っく……!」


 シェルナは悔しそうに一度ぎりっと歯を食いしばった後、目を閉じた。しかし次に目を開けた時は、すでにその顔から表情という表情が消え、いつもの能面に変わった。褐色の瞳も、いつものガラス玉に変貌する。


 そして、片膝を着き、恭しく手に取ったヴィヴィアンの手の甲に口づけた。

 

 「……かしこまりました。我が君」



 ―――朝食の席は、まるで葬式でも行われているかのように重く、陰鬱な空気に満ちていた。


 共に食事をしている主人夫婦が、一言も言葉を交わさない。これまで喧嘩らしい喧嘩をしたこともなく、仲睦まじいと信じていた彼らの変わり様に、控えていた使用人達は一様に困惑するばかりだった。


 カチャカチャと、銀食器が鳴り響く音だけが空間を満たしている。



 「……身体は、痛みませんか?」


 先に食事を終えたクリストファーが、何か歯切れの悪い口調で、不愛想に問いかけた。ヴィヴィアンは表情一つ動かさず、即座に答えた。


 「……いいえ。別に、どうということはありません。あれくらい、貴族に生まれた女なら誰でも我慢できますわ」

 「……!!」


 かあっとクリストファーの顔に血が上った。自分の方に顔を向けないヴィヴィアンとは視線すら合わない。


 「君は……!……くっ……!!」


 何かを言いかけ、結局はクリストファーは口を閉ざし、ヴィヴィアンから顔を背けた。使用人達はそのピリピリした空気に皆動揺を隠せない。


 ヴィヴィアンはちら、と横目でクリストファーを一瞥し、冷たく鼻で笑った。


 「何ですの?言いたいことがあるなら、はっきりと仰って」

 「君は、自分の身体をそんな風に軽んじるのか!どうして嫌なら嫌だと言わない?僕の事なんて好きでもなんでもないんだろう!?子供も欲しくないと言ったじゃないか!!それならどうしてもっと抵抗しなかったんだ!!僕は、君に……!!!」


 罪の意識に、その後の言葉は声にならなかった。


 自分でも支離滅裂な、おかしいことを言っている自覚はクリストファーにもあった。昨夜彼女に乱暴を働いたのは、自分自身に他ならない。今さら良心の呵責なんて感じたって自分の罪が消える訳でもないことは分かっていた。

 

 バンと両手でテーブルを叩いて立ち上がったクリストファーに、ヴィヴィアンはまた一瞬だけちらりと視線を向けたあと、小さく笑いを零した。


 「何がおかしい!?」

 「……相変わらずお子様ですのね、クリストファー様。ええ、私は自分の子供など欲しくありません。でも女にとって、生きるためには男に媚びることも、時には望まぬ子供を成すことだって仕方がないことですわ。他のご婦人方も……あなたのお母様もそうやって今の安定を保ってるでしょう?」


 事も無げにあしらったヴィヴィアンに、クリストファーはカッと肩を怒らせた。


 「何だって……!?母を愚弄するのか!!」

 「あら、良かったですわね。お母様への愛情を思い出せましたのね。以前は庇うほどの親密さも、交流もなかったくせに」

 「………!……もういい!!」



 ―――一切、話し合いにもならない。


 

 ナフキンをテーブルに叩きつけたクリストファーはそのまま席を立とうとし、ハッと何か思い出したように振り返った。


 おかしい。何かが引っかかる。


 ヴィヴィアンはどうしてここまでクリストファーの神経をわざと逆なでするような言葉を並べるのだろう。


 生きるために男に媚びる必要があると言うなら、もっと他にやりようもあるはずなのに。


 昨日だって、あんな直球にクリストファーを刺激する言葉を選ばなくても、いくらでも言いくるめられたはずなのに。



 冷徹な表情を自分に向けるヴィヴィアンと、後ろで控える弱り切った使用人達の顔を見回すと、クリストファーの中でまた昨日と同じあの冷酷でどす黒い感情が湧き出でて来た。


 

 ―――その、澄ました顔を崩してやりたい。



 クリストファーは青い双眸をすっと細めると、軽く息を吸った。


 「……皆よく聞け、今日から僕の許可なしにヴィヴィアンの外出を禁じる。彼女が一日何をして過ごしていたか、僕につぶさに報告するように」

 「……なんですって?私を閉じ込めるおつもり?」


 一瞬、ヴィヴィアンの顔に動揺が走った。その表情に、さらにクリストファーの加虐性は刺激された。まるで自分が別の人間になったかのように、クリストファーの中で躊躇いや迷いが振り切れて行く。


 もっと、もっとヴィヴィアンの感情が露わになる瞬間が見たい。


 「……生きるために僕の情けが必要だと言ったね?……いいよ、ヴィヴィアン。僕に離縁する気はない。でも君を野放しにしておけない、会社の経営権も僕に譲ってもらう。……大丈夫、君は以前のようにただ貴族の妻として出しゃばらず、大人しくしてくれていればいい。何か欲しいものがあれば何でも僕が買い与えて上げる。難しいことじゃない、少しの不自由を我慢するだけだよ。貞淑な貴婦人はむやみに外に出歩いたりしないものだからね」


 尊大な態度で、何かを試すようにクリストファーはヴィヴィアンに言い放った。その場の空気はさらに張り詰めて行く。


 「ご、ご主人様……いくら喧嘩されているとはいえ、それはあんまりでは……」


 控えていた執事が、見かねて口を挟む。


 クリストファーが有無を言わさぬ態度でぎろりと睨み付けると、ひっと執事が小さく悲鳴を上げた。


 「僕達夫婦のことに、口を出さないでもらおう。これはこの屋敷の主人としての命令だ」

 「……は、はい。……わかりました」


 気付けば、その場にいる使用人全員の顔が青ざめていた。


 自分達の愛すべき主人の、強権的で、支配的な側面を誰もが初めて目にしたのだ。そこにはいつもの柔和で立場に関係なく誰に対しても礼儀正しく接する彼の面影は微塵もなかった。


 「女を愛玩動物か何かだと、思ってらっしゃるの?結局あなたも外の男達と変わらないのですね」


 いつの間に余裕を取り戻したのか、皮肉たっぷりにヴィヴィアンは告げ、不遜な笑みを浮かべた。


 クリストファーはそれには答えずヴィヴィアンの真横まで歩み寄り、その顎に手を掛け自分の方に向かせた。


 その美しい顔は既に隅々まで隙の無い仮面で覆われ、クリストファーの望むような人間らしい感情は一切見られなかった。


 「……本当に、君は憎らしい程綺麗だ。……いつかゼノンが言ってたな、君は男を惑わすセイレーンのようだって……彼は正しかったわけだ。君の美しさの前に男達は誰もがそうとは気づかぬうちに、水底まで引きずり込まれてしまう。僕も君の愛を乞う、哀れな男の一人だったと言う訳だ。……でも僕は君を離さない。僕は君の夫で、君は僕の妻だ。逆らうことは許さない」

 

 君は僕のものだ、そう最後に呟くと、そのまま無理矢理に口づけた。ヴィヴィアンは無表情だった。


 「……今夜も君の部屋に行くよ。準備をしておくように」

 「……お待ちしておりますわ。旦那様」



しばらくは重苦しいエピソードが続きますが、どうか希望を捨てずにお付き合い頂ければ幸いです。

前へ次へ目次