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第十八話 苦い後味 


 ―――全てが終わった時、激しい怒りと嫉妬、劣情と高揚は潮が引くように彼方へ消え、残ったのは後味の悪い強烈な無力感と虚しさだけだった。




 クリストファーの眼下には、ついさっきまで組み敷いていた妻が、無言で今も生まれたままの姿で横たわっており、そのいつもは綺麗にまとめられている亜麻色の髪が、乱れてシーツの波に広がっている。


 荒い息の漏れる自らの口元を乱暴に拭うと、こめかみから首筋まで汗が伝い、髪が湿った肌に張り付いているのが分かった。


 全身から力が抜けるように、膝立ちの姿勢からヴィヴィアンの傍らに腰を落とす。無言で横目に視線をやるも、横たわったままの裸の背中は身じろぎ一つしない。


 最後まで、彼女は一切抵抗をしなかった。


 彼女から乱暴に剥ぎ取ったドレスの内側に、鋭い大ぶりの針のようなものが縫い付けられているのが見えた。そんなものを普段彼女が身に帯びていたこともクリストファーは知らなかった。


 それを使って、クリストファーから身を守ろうとすれば出来たはずだ。それか、ベッドの脇にある呼び鈴で助けを呼ぶことだって。


 だが、直前までの攻撃的なやり取りに反して、一度その素肌に触れられた後のヴィヴィアンは、ただただクリストファーに従順だった。裸身を隠すでもなく、逃れようと身体をよじるでもなく、ベッドのフレームやシーツをきつく握りしめ、ただじっと耐えていた。声を押し殺し、涙一つさえ見せることなく。


 ―――抵抗しても無駄だと、諦めていたのだろうか。


 最中には、そんなことも考える余裕が無い程クリストファーは気が昂っており、本能のまま彼女に想いの丈をぶつけた。


 もし彼女が泣いて嫌がったとして、果たして自分がそれで正気に戻れていたかどうかは、はっきり言って分からない。


 ただ無我夢中で激情に任せて彼女を蹂躙し、暴力的に奪い尽くした。


 その結果、ヴィヴィアンは今はまるでぜんまいが切れた精巧な人形のように微動だにせず、無表情に体を丸めている。


 その左手首は、クリストファーが強く押さえつけた指の手形が残っていた。そしてその白い肢体のあちこちにも、自分がつけた独占欲の紅い痕が花びらのように散らばっている。


 首筋から、腹部くらいまで視線で追った後、罪の意識にクリストファーは目を背けた。



 それでも、彼女に詫びる気持ちには到底なれなかった。


 彼女が自分を利用し、最初から偽りの結婚生活をしていたことは紛れもない事実だ。


 ドロドロとした想いを抱えながら無言でヴィヴィアンにかけ布をかぶせてやり、床に散らばった自分の服を拾った。汗が冷えて、急激に体温が下がるのを感じた。


 下衣を掃き、ベッドの端に腰掛けると、余計に冷静になり、現実を思い知らされた―――自分が、一体何を彼女にしたのかを。

 


 ―――思い描いていたのは、こんな未来じゃなかった。



 大切に積み上げて来た綺麗なもの、守りたかった大事なものを自分の手で粉々に壊してしまった。いや、本当は初めからそんなもの存在もしていなかった。


 馬鹿な夢を見ていただけ。都合のいい幻想を抱いていただけ。


 結局、自分も大嫌いな父親と同じだった。


 利己的で、自分の欲望の前に平然と他者を踏みにじる様な、そんな人間だったのだ。


 温かい家庭なんて作れるはずも無かった。愛した人が隠していた思惑も読み取ることが出来ず、彼女が自分の理想と違ったことを知った瞬間、怒りに我を失って暴力で支配した。


 そこには、常日頃謳っていた聞こえのいいお互いへの思いやりも、歩み寄る努力も存在しえなかった。


 全て、無意味だった。ただの一人芝居でしかなかった。見る者からしたらさぞ愚かしく、滑稽だったことだろう。


 

 次々と浮かんでは消える自責と自嘲の想いに、クリストファーは笑った。いや、笑おうとして、出来なかった。


 代わりに浮かんで来たのは涙だった。堪える間もなく、溢れ、頬を伝った涙は、膝の上に置いていた手の甲の上にも落ちた。


 その瞬間、カッとなったクリストファーは拳を思い切り自分の腿に叩きつけた。


 既に麻痺してしまったのか、手も、腿も痛みを感じなかった。ただ唯一、張り裂けそうに痛むのは心だけだ。


 この手は何もつかめず、手のひらには何も残らない。


 再び無言のまま、今度はシャツを羽織り、クリストファーはそのままヴィヴィアンの部屋を後にした。後ろは振り返らなかった。






 


 ―――全てが終わった時、ヴィヴィアンはまるで心と体を繋ぐ回路が切れてしまったかのように、自分自身の感覚が遠く感じられた。全身に気だるさを感じるのに、指の先にすら力がまったく入らない。



 最初から最後まで、ヴィヴィアンは自分という存在をなるべく奥深くに隠すことに意識を集中していた。身体は初めての痛みを感じていたはずなのに、すべてが麻痺してしまったかのように実感がない。


 抵抗は、しようと思えば出来たはずだった。助けも呼ぼうと思えば呼べた。クリストファーは強引にことを進めたけれど、決してヴィヴィアンを殴ったり、刃物を突き付けたりと暴力で屈服させた訳ではない。


 強いて上げるなら、最初にベッドに放り投げられた時に強く握られた左手首くらいだろうか。


 刃物というなら、自分の方が凶器を隠し持っていた。もちろんそれはクリストファーへ向けるために持っていたのではないが、いつも護身用に身に帯びていたものだ。


 クリストファーはこの身体からドレスを取り去る時に、それに気づいたはずだ。でも何も言わなかった。


 彼の瞳は欲望と怒りにくらんでいた。でも、それ以上にその表情は苦しそうだった。次第に息が上がり、気が昂って行くにつれてこの身に触れる彼の肌も熱を帯びたように熱くなっていった。


 自分が彼にしたことを思えば、その業火にこの身が焼き尽くされても構わないと思った。



 まだ正常に動かない頭で、ヴィヴィアンはどうして、と自分に問いかけた。


 どうして自分はこの人を選んでしまったんだろう。いつか、こうやって傷つけるのを分かっていたのに。


 犠牲にしてしまうには、彼は優しすぎた。


 熱く荒い吐息が肌にかかる度、彼の唇が肌を這い強く吸う度に悲痛な想いまで刻まれて行くようで、ヴィヴィアンはより自分の感覚を無にするよう、自意識をきつく縛り上げねばならなかった。彼から伝わる熱情も、触れられる快感も自分なんかが得てはいけないものだ。


 愛おしい、なんて、感じてはいけない感情だ。


 心なんて、とっくに死んだはず。


 それなのに、たった一度、ヴィヴィアンの固い決意が揺らぎそうになった瞬間があった。


 ヴィヴィアンの手を自分の手で引き寄せたクリストファーが、繋いだ手の甲にそっと口づけを落した時だけはヴィヴィアンの胸は千々に乱れそうになった。


 汗ばんだ彼の、熱っぽい視線がヴィヴィアンに注がれていた。その光に、いまだにどこかヴィヴィアンを気遣う色が残されていた。


 こんなに、酷い裏切りを知った後でさえ。


 そのことが、ヴィヴィアンの胸をいっそう締め付けた。


 ……どうして、この人はこんな時まで優しいのだろう。


 まるで、宝物のように自分のことを扱ってくれるのだろう。


 もっと、いっそのこと乱暴に痛めつけてくれた方が、この胸はずっと楽なのに。


 

 行為の間、彼は何度も熱に浮かされたように掠れた声でヴィヴィアンの名前を呼んだ。呼び掛けに応えられない、それが悲しかった。


 繋がりが解かれたあと、彼はもうヴィヴィアンの顔を見なかった。すうっと夢から醒めて行くように彼の瞳から欲望の熱が消えていく、それが切なかった。


 

 このまま、全ての感覚が曖昧になったまま、深海の貝のように冷たく静かに沈んでいければいいのに、そうぼんやりとヴィヴィアンは思った。



 その時、乾いた音を立てて、素肌にかけ布が覆いかぶさるのにヴィヴィアンは気付き、その感触で引寄せられたように体の感覚と精神が再び結びついた。クリストファーがかけてくれたそのかけ布をヴィヴィアンはその代わりのように掻き抱いた。


 途端に下腹部に鈍い痛みが走った。


 ふと気づくと、下衣を身に着けたクリストファーが、ベッドの端に腰掛けていた。


 その裸の広い背中に、もう彼が出会った頃のあどけない少年ではなくなっていることに今さらながら気付いた。そうだ自分を抱きしめたあの腕も、包み込んだ胸板も驚くほど力強かったと思い出した。さっきまで狂おしいほどの熱さが伝わって来ていたのに、今は薄い布に触れた箇所はひんやりしている。


 上半身を起こしてそっとかけ布の下の下腹部をみると、あたりに紅い染みが白いシーツの上に散っていた。


 これまで多くの男が欲しがった自分の純潔。これにどれほどの価値があったのだろうかと、ヴィヴィアンは自虐的に嗤った。


 その時、かすかに鼻をすするような音が聞こえた。


 僅かに驚いてヴィヴィアンが再び視線をクリストファーの背中に戻した時、まるで自分自身を責めるかのように、彼は拳を振り上げ、自らの腿に乱暴に振り下ろしていた。


 俯いた彼の肩は細かく震え、忍び泣いていることが分かった。


 その光景は、今まで見た何よりもヴィヴィアンの胸を鋭く抉った。苦い想いが全身に広がる。



 ぴく、とヴィヴィアンの指先が一瞬反応した。


 声をかけたい、でも、声をかけることは許されない。今さらこんな自分が、彼に何を言えることがあるのか。切なさに喉の奥が締め付けられた。



 この胸の痛みは、罪の証。



 浅ましい想いを抱く自分を、ヴィヴィアンは自ら戒める。


 結局クリストファーはそのまま、ヴィヴィアンに声をかけることも、振り返ることもなくシャツを羽織り、部屋を出て行った。


 その寂しい背中を見送りながら、ヴィヴィアンは自らの頬にも熱いものが伝っていることに気付いた。母の死以降、一度も流していない、無意識の涙だった。



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