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第十七話 天使と悪魔


 ―――立ち上げからもう少しで2年近く。これまでは予想を大きく上回る売り上げ増にほとんどトップダウンでヴィヴィアンが陣頭指揮を執らざるを得なかったヴィオレット商会も、ようやく組織としての形が定まりつつあった。


 ヴィヴィアンは帰宅の馬車の中で窓の外を眺めながら、満足げに微笑んだ。


 男女や貴賤を問わず雇い入れた優秀な従業員らのそれぞれの得意分野も見極めることが出来るようになり、社内の役割分担がきちんと機能し始めたのだ。


 特に、元々はクロイツ公爵領ダンデノン出身で商家の娘であるミランダの才覚は素晴らしく、人材育成と管理には右に出るものはいない。今後ヴィヴィアンが直接指揮を執らずともその前段階で問題を拾い上げ、的確な指示を出す代表代行に彼女は打って付けだった。また、生真面目で正直者、下町の人間気質の明るい性格も信頼が置ける。


 これから先、ヴィヴィアンの見立てではそう遠くない未来、自分はヴィオレット商会の経営から身を引くことになる。だが、構想段階でクリストファーに語ったヴィオレット商会の存在意義は決して自分の【計画】に利用するためだけではない。女性を取り巻くあらゆる不条理な環境を改善したいという想いは本当だ。自分が去ってもヴィオレット商会を潰してはいけない。ミランダの起用はそのための布石だった。


 頭の回転もいいミランダは、もう既にヴィヴィアンが一人で担っていた経営業務を然るべき担当者に割り振り負担を半分以上引き受けてくれた。


 そのおかげでヴィヴィアンは来月の有識者会議に集中できる。ブラン聖王国の経済を取り仕切る中央官僚と、貴族以上の有数の企業経営者、有力者が一堂に会する場に。


 ブラン聖王国きっての成り上がり、経済界の最高の成功者と謳われる父、ヴィクトール・バートリーをたった一人の肉親である愛娘がその名誉を地にたたき落し、破滅させるのにこれ以上おあつらえ向きの舞台もないだろう。


 「ねぇお父様、あなたが私に見せた偽りの愛に則って、愛娘の手にかかるのがお好き?それとも、『愛する』娘が目の前で命を絶つ悲劇の父親の方がお好みかしら?」


 楽しそうに、ヴィヴィアンは一人囁いた。


 ドレスの胸元から脇の方に手をそっと差し入れ中に滑らせる。指先に、固く、冷たい金属の感触。


 人ひとりの命を絶つのに、仰々しい剣や斧なんて必要ない。ただ、鋭い針が一つ。それだけで十分だ―――。



 ―――自邸に戻った時、ヴィヴィアンは微かに違和感を感じた。


 停車場にすでにクリストファーの馬車が停まっている。いつもなら、もう1、2時間は帰宅が遅いはず。いまやっと定時を迎えるくらいなのに。


 どこか体調が悪いのかもしれない。シェルナには強く言い聞かせているから、彼女からクリストファーに近づくことはしないだろうけど、たまたま今日は短い時間にミランダと会うだけと思いシェルナを屋敷に残してしまっていた。彼女とクリストファーの間に何かトラブルが起こっていないといいけれど。


 何か胸騒ぎを感じてヴィヴィアンは急いで屋敷の中に入った。


 大掃除と衣替えの日と聞いていたから、屋敷の中はいつもより使用人が忙しそうに動き回っている。出迎えた執事にクリストファーのことを聞いたらヴィヴィアンの部屋で帰りを待っていると言う。


 (わざわざ私の部屋で……?)


 ますます嫌な予感がする。


 普段ならヴィヴィアン不在時に、許可もなくシェルナがクリストファーを部屋に入れさせるはずもない。


 「……シェルナ!クリストファー様が私の部屋でお待ちなんですって?」


 廊下の途中でヴィヴィアンを迎えに来たシェルナにヴィヴィアンは強い口調で問いかけた。


 「ええ。お嬢様のご帰宅を気にされておいででしたので、お部屋にお通ししました」


 ヴィヴィアンから外出用のケープを受けとりながら、いつものように臆した様子もなくシェルナは認めた。


 (何を考えているの……?)


 他の使用人の手前、ヴィヴィアンは今シェルナにその真意を問い質すことは避けた。しかし、自室に向かうヴィヴィアンにあとから付いて来るシェルナに振り返り、言った。


 「……お前は下がっていていいわ。用事があれば呼ぶから」

 

 ヴィヴィアンの厳しい口調に、シェルナは一度無表情のまま沈黙し―――ふっと口元に笑みを浮かべ一礼をした。


 

 「……承知しました。お嬢様、『何か』ございましたら、呼び鈴を鳴らして下さい」



 


 「―――クリストファー様、ただいま戻りました」


 ヴィヴィアンの居室のソファに座るクリストファーは窓側に視線を向けており、部屋に入って来たヴィヴィアンに反応を示さない。


 「……クリストファー様?」


 近づいても、微動だにしない。


 (……眠ってしまっている?)


 まさか、またシェルナが睡眠薬でも盛ったのだろうか。


 疑問に思いつつ、既に茜に染まっている窓の外に、ヴィヴィアンはまず部屋のランプに火を灯し、そしてカーテンを閉めた。眠っているクリストファーを起こさないよう静かに。


 振り返った瞬間、ヴィヴィアンは思わず小さく悲鳴を上げた。


 クリストファーが無言でソファから立ち上がってこちらを見ていたからだ。うす暗い室内にランプの灯に照らされたシルエットだけがいやに強調される。


 「……おかえり、ヴィヴィアン」

 「ク、クリストファー様……てっきり眠ってらっしゃるのかと……もう、びっくりしましたわ」


 いつになく神妙な表情のクリストファーに、ヴィヴィアンは胸の鼓動を早くさせながら、どうにか平静を装う。


 ヴィヴィアンの言葉に、クリストファーは口の端だけを上げてふっと笑った。


 「びっくり、か……いつも僕が驚かされてばかりだから、たまにはいいね。驚かす方も」

 「どうなさったの……何だか、今日は意地悪ですのね」


 ヴィヴィアンはぎこちない笑いを浮かべて、クリストファーの視線から無意識に自分の身体を遠ざける。おかしい、今日のクリストファーの様子はいつもと違う。


 「……意地悪?……そうだね、僕も、こんな自分は知らなかった。初めての感情だ」


 鼻を鳴らし、自嘲するような笑みを浮かべながら、クリストファーはズボンのポケットに手を入れ、ゆっくりとヴィヴィアンに歩み寄った。


 「……え?」


 そう、小さく問い返しながら、その空気に気圧されヴィヴィアンは無意識に一歩後ずさりした。だが、クリストファーの歩幅はヴィヴィアンのそれよりも大きく、二人の距離はみるみるうちに狭まって行く。


 「……君が、僕以外の誰かにその身を委ねていたかもしれないなんて、想像もしなかったよ。こんな薬が必要なくらい―――」


 ポケットから抜き取られた手は、何かを握っていた。



 「―――深い仲の相手がいるという事かな?」



 目の前に突き付けられた、濃い茶色のガラス瓶。


 「……!」


 瞬時に悟った。シェルナが、クリストファーにヴィヴィアンへの疑いの心を持たせるため、彼を部屋に招いたことを。


 「……その顔を見ると、誰かに無理やり関係を迫られた、という訳でもなさそうだね」


 クリストファーは、すっと目を細め、極めて感情の籠らない声で呟いた。理性的な態度が、よりその狂気性を醸し出している。


 「……もっともな理由があるなら聞かせてよ。僕も、愛する人が自分を裏切っているなんて思いたくない」


 クリストファーの青い瞳がヴィヴィアンを捉えた。いつもは晴れ渡る青空のような、無垢な色なのに、今日はまるで寒々しい凍った湖面のような色をしている。


 ぞくり、と背筋に寒気を覚えながらヴィヴィアンは一度小さく深呼吸をした。



 どうする―――?



 本当の目的は言えない。クリストファーに知られてはいけない。でなければ彼も同罪になってしまう。


 でも取ってつけた嘘で、誤魔化せるだろうか?今目の前にいるクリストファーは、いつもの育ちの良い柔和なお坊ちゃんの姿とは程遠い。彼の瞳を覗き込んでも、彼が何を考えているのか読み取れない。


 頭の中をめまぐるしく展開させる。……駄目だ、こんな時に限ってクリストファーの空気に呑まれ、この場を切り抜ける策を導き出せない。


 「ヴィヴィアン……?」


 息がかかるほど近くまで来たクリストファーが、優しい声で名前を呼ぶ。その右手の指先が、そっとヴィヴィアンの左頬に触れる。


 それだけで、ぞくっと全身に電気が走ったような気がした。


 その瞬間身体が硬直し、そこから一歩たりとも動けなくなった。



 「……ねぇ、教えてよ。……こんな薬がここにあるのが間違いだって。僕に君を……信じさせて」



 耳元で囁いたクリストファーの表情は、見えない。でも……その声の響きに微かに含まれた、彼の怯えと懇願するような悲しみを、ヴィヴィアンは感じ取った。



 その時ふいに、悪魔のささやきがヴィヴィアンの脳裏を掠めた。


 

 ―――今、私が背負う全ての十字架を告白し、心を曝け出せば、あなたは受け入れてくれる……?私を……救い出してくれる?この、暗闇から――――。



 一瞬頭を過ぎった、甘美な誘惑。しかしそれをヴィヴィアンは固い決意で即座に打ち消した。



 ―――出来ない。彼を、こちら側に引きずり込む訳にはいかない。例えそれが、彼の心を一度は傷つけることになっても―――失望させ、軽蔑されたとしても、泥水にまみれ、溺れて死んで行くのは自分だけでいい―――。

 


 ヴィヴィアンは、胸の前に引寄せていた手をギュッと握りしめる。



 ―――そうだ、地獄に道連れにするのは『クリストファー』じゃない。



 ヴィヴィアンの菫の瞳の焦点が、定まった。



 「……ふっ……ふふふ、どうしましたの、その薬がそんなに珍しい?」


 ヴィヴィアンは口元に手をやって、零れるように笑い声を上げた。ハッとした様子でクリストファーの体がヴィヴィアンから少し離れた。


 その様子に、ヴィヴィアンはさらに勢いづいた。


 「別に驚くほどのものでもないでしょう?みんな使っているものですわ。……ああ、あなたのお父様はそれを使うより、お母様を言いくるめる方を選んだんでしたっけね」

 「ヴィヴィアン、何を……!」


 ヴィヴィアンは挑発するように、クリストファーの顔を真下から覗き込んだ。


 「そうそう、どうして私がそれを持っているか、でしたわよね。結論から言うと、使わずに済みましたわ。理由はお分かりでしょう?純情でねんねな旦那様は妻に指一本触れられないようなお子様でしたもの、好都合でしたわ。私、子供なんて産んでいる暇ないもの」

 

 クリストファーの目が、信じられないものを見るように大きく見開かれる。怒りと羞恥で、その耳まで朱に染まっていく。


 「私、子供が大嫌いですの。ぞっとしますわ、あんなおぞましいものが自分の腹に宿るかもしれないなんて。よく皆耐えられますわね」


 嘘と本音を織り交ぜて、それをさらに醜く誇張してヴィヴィアンは大仰に演技を続ける。


 「……ならっ……なんで僕との結婚を……!」


 ギリリっと食いしばった歯から、絞り出すようにクリストファーは問いかける。



 「……僕は、君と……温かな家庭を…‥作りたいと」



 声が、弱々しくなっていく。クリストファーの激しい動揺が、声だけでなく表情にも如実に表れていた。



 ―――なぜ、僕の求婚を受け入れた。―――なぜ、僕を結婚相手に選んだんだ。



 クリストファーの言わんとする言葉を、正面から受け止めてヴィヴィアンは、ハ、と不敵に笑った。


 「……決まっているでしょう?女の私に、会社をプレゼントしてくれるほどの十分な権力と財力をお持ちだったからですわ」


 ヴィヴィアンの言葉は、この上なく残酷に、クリストファーの胸に突き刺さった。



 「…………!……それ、だけ……?……僕を……好きでも……愛してもいないのか」



 クリストファーの顔が失望の色に染まった。クリストファーは自分の中で、何かがはっきりと断ち切れる音を聞いた。


 瓶を握るクリストファーの手が、込められた力の強さに震えた。



 あと、一押しだけでいい。それで、彼の自分への信頼は粉々に砕け散る。


 ヴィヴィアンは直感的にそう悟った。


 だが次の言葉を言うのには、さしものヴィヴィアンも少し勇気が必要だった。それは、ヴィヴィアン自身の心まで揺さぶる、呪いの言葉。




 「『愛』なんて……この世で一番嫌いな言葉だわ」




 ―――ガシャンッ、と大きな音を立てて、茶色い瓶は床に砕け散り、中の液体を四方に飛ばした。



 その音がなんなのか認識するよりも前に、ヴィヴィアンは強い力に腕を引っ張られ、その次の瞬間、背中に激しい衝撃を受けた。


 条件反射的に起き上がったヴィヴィアンの上体に、大きな影が落ちた。ギシッという鈍い音がして、そこでようやく今自分が座っているのが自分のベッドの上で、覆いかぶさるように同じくベッドの上に両膝を着いているクリストファーに投げ飛ばされてここにいるのだと気付いた。


 クリストファーの表情は、逆光になってヴィヴィアンからは見えない。


 そっとクリストファーの左手の指の裏側が、またヴィヴィアンの頬に触れた。


 さっきよりも比べ物にならないほどの電流が体中を走ったように感じ、ヴィヴィアンはおののいた。


 まるで、肉食獣に捉えられた被食動物にでもなったような、本能的な生き物としての恐怖―――。



 「クリストファー様……何を、なさるの……?」


 ヴィヴィアンの、か細い声が、震えるように響いた。



 その声に応えるように一瞬ランプの灯がゆらめいて、クリストファーの顔を照らした。


 「……何を、だって?」


 彼は微笑んでいた。でも、その瞳には狂気の炎が宿って見えた。彼の手がヴィヴィアンの頬を滑り、紅い唇を親指でなぞった。さも、愛おしそうに。



 

 「……決まっているでしょう。夫婦として、ごく当たり前のことをするんですよ」




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